蒼森ミネが、先に仕掛けてきた。
合図など、なかった。
予備動作も、躊躇も、ためらいもない。
次の瞬間、彼女の姿は視界から消え――上だ、と直感が叫ぶ。
まるで射出された弾丸のような跳躍。
いや、弾丸ですら、ここまで直線的で暴力的な上昇はしない。
人間がしていい動きではない。
筋力だとか、鍛錬だとか、そういう次元を踏み越えているようにも見える。
盾を前面に押し出したまま、蒼森ミネは空を割り、影となって私の上に落ちてくる。
隕石だ。
比喩でも何でもなく、本当にそう見えた。
私は反射的に後方へ跳んだ。
バックステップ。
踵が地面を蹴る感触と同時に、背中のアンツィオ20mmライフルを引き下ろす。
重い。とっさの展開は少々苦しいな。
照準を合わせる暇はない。
感覚で、引き金を引く。
――轟音。
20×102mm弾が放たれ、空気が破裂する。
着地したばかりの蒼森ミネの足元で、土と石畳が粉砕され、土煙が爆ぜた。
至近距離。
直撃ではなくとも、衝撃波だけで普通の生徒なら吹き飛び、ダウンくらいは取れる。
いくら蒼森ミネといえど、無事で済むはずがない。
……はず、だった。
土煙の向こうで、鈍い金属音が響いた。
衝撃を受け止める、重く低い音。
盾だ。
蒼森ミネは、完全にそれを予測していたかのように、盾を前に構え、弾を受け止めていた。
衝撃に耐えきれず、数歩後方へと押し出されはしたものの――立っている。
倒れていない。
崩れてすらいない。
「……えー……嘘でしょ……?」
思わず、声が漏れた。
「美甘ネルなら、今のでダウン取れてたんですけど……」
ぼやきにも似た独り言。
比較対象として名前を出すのもどうかとは思うが、事実だ。
俊敏さと瞬間火力が売りの美甘ネル。
ミレニアム最強格の一角。
その彼女なら、今の一撃で確実に体勢を崩していたはずだ。
実際、過去に私の弾丸を受け止めた時はダウンしていた。
もちろん、蒼森ミネと美甘ネルを同列に並べるのは、お門違いだ。
売りが違う。
方向性が違う。
だが、それにしても――。
盾を見た。
傷が、ない。
焦げ跡すら、見当たらない。
並の防具なら、ひびが入る。
下手をすれば、粉砕されている威力だ。
私が知らないだけで、キヴォトスでは銃だけでなく、盾や装備品も、持つ生徒の神秘や資質によって性能が変化するのだろうか。
それとも、単純にあの盾が異常なのか。
……まあ、いい。
「少なくとも、正面からは通らないか」
私は小さく息を吐いた。
それだけでも、十分な情報だ。
「この威力……ただのスナイパーライフルではありませんね」
土煙の向こうから、蒼森ミネの声がした。
落ち着いている。
「舐めてかかると、痛い目を見そうです」
盾越しに、こちらの脅威度を測っている。
一撃で、判断を修正してくる。
さっきまでは、多少なりとも私を“下”に見ていた。
だから、真正面からの跳躍攻撃という、力押しの選択をした。
だが、今は違う。
警戒された。
それは、肌でわかる。
――だから、次は慎重に来る。
そう思った、次の瞬間だった。
蒼森ミネは、盾を前に構えたまま、正面から突っ込んできた。
一直線。
迷いのない突進。
「……は?」
思考が、一瞬だけ遅れた。
いや、考える必要はない。
反射で動く。
私は正面に、もう一発撃ち込んだ。
――轟。
衝撃が盾に直撃し、蒼森ミネの体が、ぴたりと止まる。
「ぐっ……!」
腕に伝わる反動が大きいのか、ほんの一瞬、動きが止まった。
盾を支える腕が、わずかに震えている。
いける――そう思った。
だが、それは錯覚だった。
次の瞬間、彼女は再び踏み出してきた。
止まらない。
止められない。
「何度やっても、結果は同じですよ!」
私は叫ぶように言い、盾めがけて再び引き金を引こうとする。
だが、その直前。
蒼森ミネは、足を踏ん張った。
大地を、踏み抜くように。
そして――跳んだ。
上だ。
「し、しま――」
言い切る前に、影が落ちる。
上空から、盾が振り下ろされる。
シールドバッシュ。
防御用の装備を、純粋な鈍器として使う、暴力的な一撃。
私は回避できなかった。
盾と地面に挟まれ、動きが封じられる。
肺から空気が、強制的に押し出された。
――重い。
凄まじい力。
純粋な筋力と体重、そして落下エネルギーの塊。
単純な腕力だけなら、私を上回っているかもしれない。
いや、上回っている。
昨日までの私なら――ここで終わっていた。
押しつぶされたことによる酸欠。
それで済めば、まだマシな方だ。
だが。
今は、違う。
「……っ!」
私は、歯を食いしばり、義肢へと意識を集中させる。
義肢に、血液を吸われる感覚がする。
次の瞬間。
両肩、両肘から、ジェット噴射のような爆音が弾けた。
血液を燃料とする推進力が、一気に解放される。
私と蒼森ミネをまとめて、上へ。
「なっ――!」
予想外の挙動。
蒼森ミネの体が、わずかに浮いた。
その一瞬の隙で、圧力が抜ける。
私は体をひねり、盾の縁から滑り出るようにして解放された。
空中で体勢を立て直し、地面に着地する。
あばらが折れていたのか、胸からミキミキと再生音がした。
実戦で初めて使った義肢のブースト。
正直、内臓への負担や、急激な血液消費による酸欠を覚悟していた。
だが、問題はない。
想定以上に、安定している。
「……便利」
小さく、そう呟いた。
私はスカートについた砂を、手で払い落とす。
呼吸を整え、アンツィオを構え直す。
視線の先で、蒼森ミネも体勢を立て直していた。
盾を構え、ショットガンを握り直す。
互いに、距離を取ったまま。
予想以上に、戦いづらい。
私は息を整えながら、アンツィオ20mmライフルの重みを肩で受け直した。
銃身の先は蒼森ミネに向いているが、引き金にかけた指は動かない。撃てばいい、という単純な話ではないことを、もう十分に思い知らされていた。
キヴォトスには、蒼森ミネのような完全接近戦特化の生徒は、そう多くない。
いや、正確に言えば――ほとんどいない。
銃が主体のこの街で、盾を構えて真正面から突っ込んでくる。
それも、躊躇もなく、迷いもなく、まるで「それが最適解である」と最初から知っているかのように。
異常だ。
戦術的にも、思想的にも。
私は接近戦寄りではあるが、それはあくまで「中距離から近距離」までの話だ。
銃を主体とした立ち回りの中で、相手の間合いを崩し、急所を突く――そういう戦い方しかしてきていない。
密着戦。
体と体がぶつかり、息遣いすら届く距離での戦闘は、経験が浅い。
対応方法なんて、教科書には載っていない。
そもそも、載せる必要がないと判断されてきた戦い方なのだ。
「……はあ……」
思わず、ため息が漏れた。
「こんなことなら、家に置いてある刀を持ってくればよかった」
独り言のように呟く。
ついこの間、ミレニアムで購入した不壊刀。
あれがあれば、密着戦でも多少は分があったかもしれない。
だが、現実は非情だ。
今、私の手にあるのはスナイパーライフル。
接近戦では、ただの重い鉄の塊になりかねない代物。
腕力は、向こうが上。
機動力は、ほぼ同等。
防御力は、圧倒的に向こう。
残っているのは――技量と判断力だけ。
「……向こうの攻撃を避けながら、一発……」
私は頭の中で、何度もシミュレーションを回す。
盾の隙間。
跳躍の頂点。
着地の一瞬。
だが、どれも確実性に欠ける。
蒼森ミネは、実戦経験が豊富すぎる。
私の脅威度をすでに理解し、さっきまでのような単純な突撃はやめている。
盾を構え、重心を低く保ち、こちらの出方を窺っている。
動かない。
焦らない。
……勝てないな。
最初から、薄々わかっていたことだ。
真正面からやり合えば、私が不利になる。
ならば――。
思考が、自然と逃走へと切り替わる。
逃げられるかどうか。
条件次第では、可能だ。
なりふり構わず、再生能力を前提にした強行突破なら、たぶん逃げ切れる。
だが、ここはトリニティの敷地内。
昼休みの時間帯で、生徒の目が多い。
再生能力の濫用は、避けたい。
目撃されるリスクが高すぎる。
義肢のブーストを全開にして逃げるか?
理論上は可能だが、まだ完全に使いこなせてはいない。
加速に失敗すれば、建物に激突する可能性もある。
下手をすれば、壁を貫通する。
……それでも。
私は覚悟を決めかけていた。
その時だった。
「――そこで、何をやっているのですか?」
横から、低く、よく通る声がかかった。
私と蒼森ミネは、ほぼ同時にそちらを向く。
視界に入ったのは、一人の生徒。
正義実現委員会の制服。
羽川ハスミ。
以前、スイーツ店でちらりと見かけたことがある。
だが、その時は、ここまでじっくりと見る余裕はなかった。
今、改めて目にすると――。
「……でか……」
思わず、心の声が漏れる。
身長は、おそらく180センチ近い。
女子生徒としては異例の高さだ。
そして、それに見合う体格。
羽、胸、尻――すべてが大きい。
肉付きは良いが、脂肪が少し見える。
体重も、おそらく90キロ前後。
それでいて、姿勢は崩れていない。
「……本物だな……」
思わず、そんな感想が浮かぶ。
おそらく、先ほどの戦闘音を聞きつけて駆けつけてきたのだろう。
周囲を見回しても、他の委員の姿は見当たらない。
蒼森ミネが、一歩前に出た。
「この方を、救護しているのです」
落ち着いた、しかし有無を言わせぬ口調。
それに対し、私は即座に口を開いた。
「蒼森ミネに、襲われています」
間髪入れず、事実だけを述べる。
羽川ハスミは、私と蒼森ミネを交互に見て、少しだけ眉をひそめた。
状況を、頭の中で整理しているのがわかる。
「……一応、確認します」
彼女は私に視線を向けた。
「あなたは、何か悪事を働きましたか?
あるいは、怪我をしている、病気を患っている、といったことは?」
「いいえ。何も」
即答する。
羽川ハスミは、「でしょうね」という顔をした。
疑う素振りすらない。
「……大方、状況は理解しました」
そう言って、一歩前に出る。
「助太刀します」
その言葉と同時に、蒼森ミネへと銃口を向けた。
「……助かります」
私は短く礼を言い、同じく銃口を向ける。
三者の視線が、交錯する。
「く……なぜ、わからないのですか!」
蒼森ミネの声が、苛立ちを帯びた。
「羽川ハスミさん!
その子から発せられる、この……ドス黒い気質が!」
必死だ。
説得しようとしている。
羽川ハスミは、一瞬だけ私の方を見た。
だが、当然のように、何も感じ取れなかったのだろう。
すぐに、蒼森ミネへと向き直る。
「……申し訳ありませんが、私には確認できません」
淡々とした声。
「正義実現委員会として、無実の生徒への一方的な武力行使は看過できません」
その言葉を聞いた瞬間、私は理解した。
―優位は、こちらにある。
羽川ハスミがここにいる以上、正義実現委員会の増援が来るのは時間の問題だ。
そうなれば、蒼森ミネも強硬手段は取りづらくなる。
……だったら。
「……今だな」
私は、誰にも聞こえない声で呟いた。
硬直した場。
三者が、それぞれに銃口を向け合い、動けない一瞬。
私は、後ろ向きに体を捻る。
そして――。
義肢のブースターを、一気に起動した。
コハク過去編 17
家に着くなり、私は靴も揃えないまま玄関を抜け、真っ直ぐに奥へと向かった。
「……まずは、風呂だな」
そう呟くと、コピー体の方を振り返る。
相変わらず無表情のまま、玄関に立ち尽くしていた。血で濡れた髪と耳、しっぽが床にぽたり、ぽたりと赤黒い雫を落としている。
このまま家の中を歩かせるのは、さすがに気が引けた。
「一旦、風呂に入るぞ。……いや、入れる、か」
コピー体は、短く頷いた。
「了解しました」
その声は、状況にそぐわないほど淡々としていて、逆に現実感を削いでいく。
黒服さんはというと、すでにタブレットを手にしていた。
「私は少し、壊れた機械の補充と被害の確認をしてきます。時間はかかりませんから、ゆっくりやってください」
「はい。……ありがとうございます」
そう言って黒服さんが奥へ消えるのを見送り、私はコピー体を脱衣所へと連れていった。
脱衣所の照明が点くと、白い壁と床に、血の赤がやけに目立つ。
まるで異物のように、場違いな色。
「……服、脱がすぞ」
そう言って、私はまずコピー体の服に手をかけた。
引っ張ると、布はほとんど抵抗もなく裂け、ボロ切れのように剥がれ落ちる。もともと限界だったのだろう。
床に落ちた衣服は、もはや服というより、血を吸った雑巾に近かった。
「……」
コピー体は、視線を伏せたまま、されるがままだ。
私も、自分の服を脱ぎ、丁寧に畳んで隅に置いた。
こういうところは、妙に冷静だった。多分、ここで雑になったら、精神的に一気に崩れてしまいそうだったからだ。
黒服さんの家の風呂場は、思っていたよりもずっと広かった。
洗い場は余裕があり、二人――いや、一人と一体が並んで立っても、圧迫感はない。
浴槽も大きく、湯気がゆっくりと天井へ昇っている。
「……そこ、座って。動かなくていい」
「了解しました」
コピー体は、言われた通り洗い場に腰を下ろした。
私はシャワーを手に取り、まずは体についた血を流し始める。
ざあ、とお湯がかかる。
しかし、思ったほど簡単には落ちない。
血はすでに乾き、毛や皮膚に固着している部分が多い。赤黒く変色し、ぬめりすら感じる。
「……うわ、全然落ちないな……」
指で擦ってみても、表面が少し薄くなるだけだ。
「血って……どうやったら落ちるんだ……」
独り言のように呟きながら、私は石鹸を手に取った。
とりあえず、体を洗うものなら何とかなるだろう――そんな、雑な判断。
泡立てて、コピー体の腕、肩、背中へと伸ばす。
白い泡が、すぐに赤く染まる。
「あ……これは、いけるな」
石鹸は思いのほか効果があった。
乾いていた血も、泡と一緒に少しずつ剥がれ落ち、排水溝へ流れていく。
だが、問題は髪だった。
頭部、耳、そしてしっぽ。
毛に絡みついた血は、しつこく、なかなか離れない。
「……くそ、手強いな……」
シャワーで流しても、指で梳いても、赤みが残る。
埒が明かないと思い、私は一度手を止めた。
「……ちょっと待ってろ」
コピー体は何も言わず、目を閉じたまま頷いた。
私は脱衣所に置いていたスマホを手に取り、急いで検索をかける。
「血 落とし方……」
画面をスクロールして、すぐに目に入った文字に、私は思わず顔をしかめた。
『血液汚れにはお湯は厳禁。タンパク質が固まり、落ちにくくなります』
「……あちゃー……」
完全に、やってしまっていた。
「先に調べとくべきだった……」
私の血がついたときは、すぐ再生して流れてしまうから問題にならなかった。
だが、こうして時間が経ち、乾燥した血には、話が別らしい。
「……まあ、やっちゃったもんは仕方ないか……」
さらに読み進める。
『セスキ炭酸ソーダ水が有効』
「……セスキ……?」
聞いたことはあるが、どこに置いてあるかは知らない。
「……無理だな」
その下に、別の文。
『食器用洗剤でも代用可能』
「……それだ」
私はスマホを置き、一旦体を軽く拭いて服を着た。
キッチンへ向かい、食器用洗剤を手に取る。
――まさか、こんな使い方をする日が来るとは。
再び風呂場へ戻る。
「湯船に入って」
「了解しました」
コピー体を浴槽へ誘導し、湯船の中に座らせる。
私は服を肩までめくり、食器用洗剤を手に取った。
「……ペット洗うみたいだな……」
自分でも、乾いた笑いが出る。
洗剤を髪に垂らすと、驚くほど泡立った。
泡は一気に広がり、浴槽はまるで泡風呂のようになる。
「……おお、すご……」
指で丁寧に、毛の根元まで洗っていく。
すんなりとはいかないが、確実に血は落ちていった。
赤が薄れ、やがて白い毛並みが姿を現す。
「……あ」
思わず、声が漏れた。
「……こんなに白かったんだな……」
コピー体の髪も、耳も、しっぽも、本来はこんなにも白かったのか
真っ赤に染まった髪や毛並みは、私と同じ白だとわかってはいても強烈だった。
洗っている間、コピー体は一切動かない。
目を閉じ、表情も変えず、完全に身を委ねている。
「……」
私は、泡だらけの手を止め、しばらくその顔を見つめた。
私を助けるために。
命令一つで、ここまで血に塗れ、扉を叩き壊し、手足を切り捨てながら殴り続けた存在。
それなのに、今目の前にいるのは、感情の欠片も見せない、マネキンのような存在。
必死に戦う姿が、どうしても想像できなかった。
それでも――
この白い毛の下には、確かに“私を守ろうとした痕跡”が残っている。
私は、再び指を動かし、黙々と泡を洗い流し続けた。