ミレニアムの秘密の研究室   作:まったり愛好家

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今回、コハク過去編なしです。

しかし、安心してください。次回、コハク過去編特別編です。

一話丸々使って、神秘についての深掘りをします。

そして、なぜコハクとホシノでこうも黒服の態度が違うのか、その理由も明かされますので乞うご期待。


第六十七話 放って置けない 

家のドアを開けた瞬間、鼻腔に微かに残るコーヒーの香りで、私は異変に気づいた。

 

――誰か、いる。

 

靴を脱ぎ、廊下を進む。

リビングの照明はついていて、テレビは消えている。

だが、ソファの向こうから、確かに人の気配がした。

 

リビングに足を踏み入れた、その瞬間。

 

「やっと帰ってきたか」

 

低く、よく通る声。

聞き慣れすぎている声だった。

 

視線を向けると、案の定、そこにはカイザーウェポンズの社長がいた。

我が物顔でソファに深く腰を下ろし、片肘を掛け、まるで自分の部屋であるかのようにくつろいでいる。

 

テーブルの上には、私の知らないマグカップ。

どうやら勝手にコーヒーまで淹れたらしい。

 

「……勝手に入らないでくださいよ」

 

そう言いながらも、声に本気の咎める調子はない。

正直、もう慣れてしまった。

 

社長は私を一瞥すると、口の端を僅かに吊り上げた。

 

「細かいことを言うな。鍵は前から知っている」

 

「それを言い出したら、不法侵入なんですけど」

 

「カイザーグループの顧問兼出資対象の住居だ。問題ない」

 

いつもの理屈だ。

私はため息をつき、肩からバッグを下ろして床に置くと、向かいの椅子に腰掛けた。

 

疲労が、どっと身体に押し寄せる。

背中の痛みが、椅子に触れた瞬間に主張してきた。

 

「……それで?」

 

足を組み替えながら、私が促す。

 

社長は、私をじっと見据えた。

 

「クロノスから連絡があっただろう。取材はいつだ?」

 

やはり、その件か。

 

「明日です」

 

即答する。

社長は、ふむ、と小さく頷いた。

 

「明日か。ならばちょうどいい」

 

カップを持ち上げ、一口啜る。

 

「取材のことで、伝えることがある」

 

その言い方に、私は少しだけ背筋を伸ばした。

 

「なんです?」

 

社長は、カップをテーブルに置き、指を組む。

 

「お前は、剣先ツルギのデータを集めるために決闘をする」

 

静かだが、断定的な口調。

 

「表向きは、正義実現委員会の治安維持力の確認のため。ここまではいい」

 

私は黙って頷く。

それは、すでに私自身が想定している筋書きだ。

 

「しかしな」

 

社長の視線が、鋭くなる。

 

「決闘の後は、どうするつもりだ?」

 

一瞬、考えた。

そして、正直に答える。

 

「……あとですか? 勝とうが負けようが、その場から去りますけど」

 

その言葉に、社長は小さく鼻で笑った。

 

「それじゃいけない」

 

きっぱりと、切り捨てる。

 

「いいか? 決闘はおそらくテレビ中継される。そんな中で、お前がさっさとその場を去れば――」

 

社長は、指を一本立てる。

 

「勝っても負けても、お前の評判は落ちる」

 

私は、思わず眉を寄せた。

 

「……そうなりますか?」

 

「なる」

 

即答だった。

 

「『文句だけ言って、勝手に暴れて帰った生徒』という印象が残る。そうなれば、今後は動きにくかろう」

 

その言葉に、私はようやく気づく。

 

確かに。

データを取ることばかり考えて、その“後”を何も想定していなかった。

 

「……確かに。考えてませんでした」

 

素直に認めると、社長は満足そうに頷いた。

 

「そこでだ」

 

社長は、わずかに身を乗り出す。

 

「お前に、解決策を用意してきた」

 

「ほう?」

 

私は椅子の背に背中を預け、腕を組んだ。

 

「聞きましょう」

 

社長は、ゆっくりと言葉を選ぶように話し始める。

 

「文句だけ言うから、印象が悪くなるのだ」

 

淡々とした指摘。

 

「文句を言い、その後で解決策を提示すれば、印象は逆に良くなる」

 

社長は、私を見据えたまま続ける。

 

「お前が正義実現委員会に、治安維持力向上の解決策を提示してやればいい」

 

「……解決策、ですか」

 

私は視線を宙に泳がせた。

 

「正義実現委員会の内部事情なんて、正直そこまで詳しくないですけど……何かありますかね?」

 

その問いに、社長は薄く笑った。

 

「そこで、我々の会社の出番だ」

 

その一言で、私は察した。

 

「我が社で生産しているモジュールの数々。その使用を、正義実現委員会に提案しろ」

 

私は思わず、苦笑する。

 

「あー……確かに」

 

頭の中に、製品リストが浮かぶ。

 

「小型ジェットパック、立体起動ブーツ、戦術補助モジュール……色々生産してますもんね」

 

社長は満足げに頷いた。

 

「提案としては、不自然ではないだろう?」

 

「ええ。治安維持力向上のため、って名目なら」

 

私は、指先で顎を軽く叩く。

 

「我が社の広告にもなるし」

 

社長は、淡々と、しかし確実に続ける。

 

「正義実現委員会という、名の売れた組織に我が社の商品が広まれば、儲け物だ」

 

「……なるほど」

 

私は、完全に納得していた。

 

「カイザーグループからクロノスに圧力をかけて、今回の企画を作らせた以上、クロノス側も納得のいく理由付けですね」

 

社長は、満足そうに笑った。

 

「それでいきましょう」

 

「よし、決まりだ」

 

社長は立ち上がり、上着を整える。

 

「では、私は失礼する」

 

「え?」

 

思わず声が出た。

 

「もう行くんですか?」

 

「当たり前だ」

 

社長は肩をすくめる。

 

「私はこう見えて忙しいんでな」

 

玄関へ向かいながら、振り返る。

 

「今度、飯にでも連れて行ってやるから、我慢しろ」

 

「……わかりましたよ」

 

私は小さくため息をついた。

 

「では、また」

 

「ああ、また」

 

そう言って、社長はドアを開け、何事もなかったかのように帰って行った。

 

リビングには、再び静寂が戻る。

 

本当に、あれだけのために家にまで来たのだろうか。

 

リビングに残った、まだ温もりのある空気を感じながら、私はふとそんなことを考えた。

テーブルの上には、社長が使っていたマグカップ。中身はすでに空で、縁にはわずかにコーヒーの跡が残っている。

 

――そうなのだろう。

 

私は小さく息を吐く。

あの人は、そういう人だ。

 

思い立ったら行動する。

用件が済めば、あっさりと去る。

 

嵐のようで、気さくで、面倒見がいい。

こちらが困っていれば、理由も聞かずに手を差し伸べる。

 

その一方で――。

 

酷く、非人道的だ。

 

実験となれば、相手が誰であろうと一切の容赦がない。

それが部下であっても、取引相手であっても、そして――私であっても。

 

何度か、思い出したくもない実験をさせられたことがある。

再生能力が追いつかないのではないか、という仮説の検証。

 

血液量。

損傷速度。

神秘の消耗と回復の限界。

 

理論上は「問題ない」とされている領域を、わざわざ実地で踏み越えてくる。

そのたびに、私は生きていることを再確認させられた。

 

コピー体に関して言えば、なおさらだ。

一番壊しているのは、間違いなくあの人だ。

 

「ここまで壊しても、まだ再生するか。面白いな」

 

そんなことを、まるで新しい玩具を試すような口調で言う。

その姿を思い出すと、今でも背中の奥が少しだけ冷える。

 

もう少し――ほんのもう少しでいい。

まともな倫理観と、安全意識を持ってくれれば。

 

そうすれば、私は手放しで尊敬できるのだが。

 

……まあ。

 

カイザーの上層部なんてものは、総じてそんなものか。

 

私はそう結論づけると、気持ちを切り替えるように立ち上がり、自分の部屋へと向かった。

 

ドアを閉め、室内の照明をつける。

見慣れた光景が広がる。

 

白衣を脱ぎ、ハンガーにかける。

ネクタイを緩め、外し、机の端に置いた。

肩から銃を下ろし、専用のスタンドに戻す。

 

金属が触れ合う、乾いた音。

 

時計を見ると、まだ三時を少し過ぎたあたりだった。

黒服さんが帰ってくるには、まだ早い。

 

腹も、減っていない。

何かを食べたいという欲求もない。

 

「……トリニティから、直接帰らなければよかったな」

 

ぽつりと、独り言が零れた。

 

ミレニアムに寄っていれば。

そうすれば、ゲーム開発部のモモイたちと、少しは遊べたかもしれない。

 

騒がしくて、くだらなくて、でも妙に楽しい時間。

ああいうのも、嫌いではない。

 

だが、もう遅い。

 

「仕方ないか」

 

私は肩をすくめた。

 

「……暇つぶしに、散歩でもするかな」

 

そう決めると、再び上着を羽織り、部屋を出る。

エレベーターに乗り込み、静かに下降していく感覚に身を任せた。

 

ビルを出ると、外の空気は思ったよりも賑やかだった。

 

オフィス街。

時間帯のせいか、意外と人通りが多い。

 

スーツ姿の大人たちが、あちこちで立ち話をしている。

通り過ぎるたびに、断片的な会話が耳に入る。

 

「株がどうの」

「円高がなんだ」

「来期の予算が――」

 

どれも、難しい話ばかりだ。

そして、そのほとんどが金に関する話。

 

「……まあ、オフィス街だし」

 

私は心の中でそう呟き、聞き流しながら歩を進める。

 

すると――。

 

その雑音の中で、一際勢いのある声が耳に引っかかった。

 

「なんとですね!この株を、今買うと――確実に儲けることができるんです!」

 

声が、やけに通る。

必要以上に明るく、必要以上に自信に満ちている。

 

私は、足を止めかけた。

 

「ここだけの話ですよ?この会社、今はまだ小規模ですが、今後、需要が大きく高まりましてですね」

 

饒舌な口調。

身振り手振りも大きい。

 

「株価が高騰することは、ほぼ間違いありません!なので、今だけ!この株を買う機会は、今だけしかないんです!」

 

――ああ。

 

典型的だ。

 

私は一瞬、ため息をつきそうになるのをこらえた。

 

典型的な、詐欺。

それも、かなりわかりやすい部類。

 

いつもなら、気にせず通り過ぎる場面だ。

こういう手合いは、いくらでもいる。

 

だが。

 

私は、話を聞いている相手の顔を見た瞬間、足を止めてしまった。

 

「なるほどー。確かに、必ず儲かるなら……買うしかないわね」

 

その声は、明るく、屈託がない。

 

黒見セリカだった。

 

目を輝かせ、まるで新しい玩具を前にした子供のように、詐欺師の話を聞いている。

疑う様子は、微塵もない。

 

「……あちゃあ」

 

思わず、額に手を当てる。

 

純粋そうな目。

何も疑っていない表情。

 

それは、彼女の長所でもあり――こういう場面では、致命的な弱点でもある。

 

「これは流石に……」

 

私は、小さく首を振った。

 

「止めたほうがいい、か」

 

そう呟くと、私は方向を変え、その二人に向かって歩いて行った。

 

「こんにちは。何やら――面白そうな話をしていますね?」

 

私は、できるだけ柔らかく、けれど距離を詰めすぎない声色でそう言った。

詐欺師と黒見セリカ、その二人の間に、自然と割り込むような位置取り。

 

口元には、軽い笑み。

敵意も、疑念も、表には出さない。

 

声をかけられた瞬間、詐欺師の肩がほんのわずかに跳ねたのが見えた。

だが、すぐに営業用の笑顔を貼り付け直す。

 

「あ、コハクちゃん」

 

セリカが私に気づき、目を瞬かせた。

少し気まずそうで、それでもどこか嬉しそうな、複雑な表情。

 

「こんなところで会うなんて……なんというか……奇遇ね」

 

声のトーンが、ほんの少しだけ上がる。

安心した、という感情が滲んでいるのが、はっきりとわかった。

 

――ああ。

 

これはもう、かなり話を聞いてしまっている。

 

「お二人はお知り合いですか?」

 

詐欺師が、状況を把握しきれないまま口を挟んでくる。

その声はやけに明るく、やけに軽い。

 

「それでしたら、ちょうどいい!」

 

彼はそう言って、勢いよく話を続けた。

 

「あなたにも教えてあげましょう。今、最も“熱い”儲け話を!」

 

そう言いながら、手にしていたタブレットをこちらに向ける。

画面には、色とりどりのグラフと、もっともらしい表。

 

一見すると、それなりに整っている。

だが――。

 

(……はいはい)

 

私は内心で、静かにため息をついた。

 

見たこともない企業名。

聞いたこともないロゴ。

 

調べれば一瞬で終わる程度の、弱小企業の株だ。

 

「この会社はですね、今はまだ小規模ですが……」

 

案の定だ。

 

彼は、セリカに向けて話していた時と、まったく同じ調子で語り始めた。

言葉選びも、抑揚も、ほとんど変わらない。

 

「今後、この分野の需要が急激に高まり……」

「市場の流れを見れば、ほぼ間違いなく……」

「専門家の間でも、そうなるだろうと言われておりまして……」

 

〜だろう。

〜と思われる。

〜になるはず。

 

どれも、確定していない。

根拠も曖昧。

 

それを、さも確定事項のように、流れるように並べ立てる。

 

あまりに教科書通りで、逆に笑えてくるほどだ。

 

「最高の儲け話ね!」

 

セリカは、詐欺師の言葉を一言も疑わず、さらに目を輝かせている。

胸の前で手を組み、期待に満ちた視線をタブレットに注ぐ。

 

……これは、危ない。

 

本気でそう思った。

 

ここまで来ると、いつか本当に取り返しのつかない詐欺に遭いそうだ。

しかも、笑顔で。

 

「それ、本気で言ってます?」

 

私は、ため息混じりに言った。

 

視線を、セリカへと向ける。

呆れを隠そうともせず、はっきりと。

 

「……え?」

 

セリカが、きょとんとした顔でこちらを見る。

 

「わからないんですか?」

 

私は、静かに続けた。

 

「これ、詐欺ですよ。しかも、かなりありがちなタイプ」

 

「え……詐欺?」

 

言葉を反芻するように、セリカが瞬きを繰り返す。

 

「そんなはずは……」

 

困惑した視線が、私と詐欺師の間を行き来する。

 

「詐欺とは、ひどいですね」

 

そこで、詐欺師が割って入った。

 

眉を下げ、困ったような表情を作る。

あからさまな芝居。

 

「私はただ、セリカさんに幸せになってほしいと思って、この話を持ちかけただけなんですが」

 

――はい、アウト。

 

私は心の中で即断した。

 

「そもそも」

 

私は、疑うような眼差しを向けながら。

 

「なんの会社なんですか?この会社」

 

「えっと……」

 

男は、言葉に詰まる。

 

「便利な日用品の会社です……」

 

「たとえば?」

 

私は一歩踏み出し、距離を詰めた。

 

「どういったものを売ってるんです?ホームページ、見せてください」

 

「それは……」

 

男は、タブレットを操作し始めた。

だが、指先は明らかに迷っている。

 

スクロール。

タップ。

またスクロール。

 

何も出てこない。

 

「……あー」

 

数秒後、男は顔を上げた。

 

「すいません。急ぎの用ができましたので……ここらで失礼します」

 

そう言うや否や、踵を返し、早足で去っていく。

 

振り返ることもなく。

言い訳もなく。

 

「……」

 

私は、その背中を無言で見送った。

 

本当に、何も用意していなかったらしい。

 

今どき、あそこまで計画性のない詐欺は珍しい。

 

こういうのは普通、ホームページやら偽の顧客情報やらをあらかじめ作っておくもんだ。それでもって、一回か2回成功体験を味合わせてから詐欺にかける。それが普通。

 

今ないみたいに、少し詰めたでけでボロが出る詐欺師というのは絶滅危惧種に近いだろう。

 

実際私は、ホームページを見て詐欺かどうかを判断する気でいた。まさかホームページすらないとは…

 

それに引っかかりかけていたセリカも、正直かなり危うい。

 

「今ので、わかったでしょう」

 

私は、セリカに向き直った。

 

「詐欺ですよ。ああいう輩は」

 

少しだけ、声を低くする。

 

「学校の借金、返すんでしょう?」

 

セリカの肩が、びくっと揺れた。

 

「こんなところで、詐欺に引っかかってる暇なんてないはずです」

 

呆れを込めて、そう言った。

 

「あ……えっと……」

 

セリカは、視線を泳がせ、やがて顔を赤らめた。

 

「……私も、そう思う……」

 

完全に、やってしまった、という表情。

 

「今回は、たまたま私がそばを通ったからよかっただけです」

 

私は、きっぱりと言った。

 

「今度からは、ああいう輩の話は聞かないように」

 

それだけ言って、私は踵を返した。

 

これ以上、ここに留まる理由はない。

 

「え?」

 

背後から、セリカの声。

 

「行っちゃうの?」

 

少し驚いたような、少し寂しそうな声。

 

「ええ」

 

私は、振り返らずに答えた。

 

「別に、あなたに用があって出歩いてるわけじゃないので」

 

「……そ、そうだろうけど……」

 

セリカが、言いよどむ気配。

 

「えっと……これだけ、言わせて」

 

彼女は、一度深呼吸してから。

 

「助けてくれて……ありがとう」

 

その言葉は、ひどく真っ直ぐだった。

 

畏まっていて、純粋で、無垢で。

こちらの心に、すっと染み込んでくるような感謝。

 

……ずるい。

 

私は、ほんの少しだけ足を止めた。

 

「どういたしまして」

 

小さく、そう言って、その場を去った。

 

胸の奥に、微かな熱が残る。

 

少し、恥ずかしくて。

それでも、悪くない気分だった。

 

それはそれとして――暇だ。

 

心の底から、そう思った。

 

オフィス街の歩道を、特に目的もなく歩きながら、私は小さく息を吐いた。

ビルの谷間を抜ける風は乾いていて、制服の裾をほんの少し揺らすだけ。

耳に入ってくるのは、電話口で声を張るサラリーマンの声や、忙しなく行き交う靴音ばかりで、心を引っかけるものが何一つない。

 

「……何をしようか」

 

独り言は、自然と口から零れ落ちた。

 

これといって、面白いものがない。

さすがオフィス街だ。

甘い匂いも、油の匂いも、焼き菓子の匂いすらしない。

 

かといって、別の自治区に足を延ばすほど、時間が余っているわけでもない。

電車に乗るには中途半端、かといって帰るには早すぎる。

 

「暇つぶし、ねぇ……」

 

こういう時は、家に帰って格ゲーでもやっていればいいのだろう。

ミレニアム製のアーケードスティックは調子がいいし、コンボの練習も溜まっている。

 

だが――どうにも、気分じゃない。

 

最近、運動不足だ(※コハク基準)。

銃を担いで戦場を走り回るのと、日常的に身体を動かすのは別物だ。

 

「……ウォーキング、という名目で歩き回るか」

 

そんなことを考えながら、歩調をほんの少しだけ早めた、その時だった。

 

視界の端に、見覚えのある輪郭が映る。

 

桜色に近い髪色。

眠たげな目元。

どこか気の抜けた、独特の雰囲気。

 

――小鳥遊ホシノ。

 

「……は?」

 

思わず、声が出そうになるのを、ぎりぎりで飲み込んだ。

 

なんで、ここにいる。

 

どうして、よりにもよって。

 

アビドスの生徒が、なぜオフィス街を歩いているのか。

一瞬そう思ったが、すぐに考えを改める。

 

……いや、別に不思議でもない。

 

アビドスは、借金地獄だ。

返済のための金は、バイトをしているだけでは、到底追いつかない。

 

こういう場所に来て、何かしらの依頼を探さなければ、利子さえ払えないのだろう。

そう考えれば、むしろ自然だ。

 

「……普段、こうやって歩き回ってないから、気づかなかっただけか」

 

私は、歩きながらそう結論づけた。

 

そして――。

 

「……小鳥遊ホシノ、か」

 

口には出さず、心の中で呟く。

 

結論は、一つ。

 

――スルーだ。

 

顔を合わせれば、確実に面倒なことになる。

 

何せ、向こうは私を「助けよう」としている。

ゲマトリアから。

 

冷静に考えて、おかしな話だ。

ゲマトリアに所属している私を、ゲマトリアから助けようとするなど。

 

だが、向こうは本気だ。

 

小鳥遊ホシノは、私のことを「好奇心旺盛で、危ない組織に騙されている生徒」だと信じて疑っていない。

それを前提に、すべての言動が組み立てられている。

 

……めんどくさい。

 

泥臭くて、一生懸命で、善意の塊みたいな人間だというのは、よくわかっている。

だが、私の現状とは、絶望的に相性が悪い。

 

私は、そっと足を止めた。

 

気づかれないように、自然な動きで方向転換しようとする。

回れ右して、何事もなかったかのように立ち去る。

 

――そのつもりだった。

 

だが。

 

遅かった。

 

かつて、キヴォトスにおいて「右に出る者なし」とさえ言われた戦闘技術を持つ存在。

戦場で生き延びてきた経験が、嫌でも身につけさせた感覚。

 

気配。

気質。

視線の違和感。

 

それらに対する感度は、並ではない。

 

小鳥遊ホシノの視線が、こちらを捉えた。

 

一瞬。

 

ほんの一瞬だけ、目が合った。

 

その瞬間、彼女の表情が、はっきりと曇る。

 

「……あ」

 

小さく開かれた口。

額に、うっすらと浮かぶ冷や汗。

 

……ああ、やっぱり。

 

前回の別れ際のことが、頭をよぎる。

 

『私はそろそろ失礼します。

 追ってくるなら――この釘を、頭に打ち込みます』

 

我ながら、物騒な言い方だった。

だが、あれくらい言わなければ、彼女は引かなかった。

 

それでもなお、完全には諦めていなかったらしい。

 

ついこの間、黒見セリカから聞いた話を思い出す。

小鳥遊ホシノは、今でも私を助けるつもりでいる。

それどころか、アビドスの五人全員が、そのつもりらしい。

 

「……勘弁してくれ」

 

本音が、胸の奥で転がる。

 

関わらなければいい。

そう思っていた。

 

だから、距離を取っていた。

だから、姿を見せないようにしていた。

 

まさか、こんな場所で出会うとは。

 

完全に、予想外だ。

 

「……逃げるか?」

 

一瞬、そう考える。

 

だが、すぐに否定した。

 

逃げたところで、誤解が深まるだけだ。

また「何かから追われている」「無理をしている」と思われるだけ。

 

それは、最悪の選択だ。

 

私は、足を止めたまま、ゆっくりと息を整えた。

 

――ここは、一度、向き合うべきだ。

 

話し合って、誤解を解く。

私に関する関心を、薄める。

 

それしかない。

 

私は、そう結論づけた。

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