アニマン掲示板とかWikiの情報しかない状態で今まで書いていましたが、流石にストーリーを理趣した方がいいなと思った次第です。
小鳥遊ホシノは、ほんの一瞬だけ立ち止まったあと、まるで意を決したようにこちらへ歩いてきた。
歩幅はいつもより少し狭く、靴音も妙に控えめだ。昼食をコンビニかどこかで済ませたのだろう、右手には小さなビニール袋を提げている。中身が軽いのか、揺れ方がやけに頼りない。
「や……やあ」
声は、思っていたよりも近くで聞こえた。
「こんなところで会うなんて、奇遇だね」
口元だけで作ったような笑顔。頬が引きつっていて、目は落ち着きなく泳いでいる。逃げ場を探すようでもあり、同時に、何かに縋りつこうとするようでもあった。
――ああ、やっぱり。
わかっているのだろう。
私が、彼女と関わりたくないと思っていることを。
それでも話しかけてきたということは、少なくとも今日は、逃げるつもりはないのだろう。
「そうですね。確かに奇遇です」
私は声の調子を崩さないように注意しながら、形式ばった返事を返した。距離を詰めすぎず、かといって拒絶もしない、無難なライン。
「今日は、どうしてここに?」
「んー……」
ホシノは一瞬、視線を上に向けてから、へらりと笑った。
「借金の返済のためにねー。お金になりそうな依頼、探してるんだ」
うへへ、と、いつもの調子で笑う。
けれどその笑いは、どこか空虚だった。音だけが浮いていて、感情が伴っていない。
「そうですか……」
私は彼女の顔から目を離さずに言った。
「大変ですね。借金返済も」
高校生活の大半を、借金の返済に費やす。
それがどれほど重いことか、想像に難くない。
それでも彼女は、三年間、学校を変えず、逃げ出さず、ここまで来ている。そこには、皮肉抜きで敬意を抱かざるを得なかった。
……ただ。
「――」
違和感が、確実にあった。
覇気がない。
以前感じた、あの奇妙なほどの芯の強さが、見当たらない。
小鳥遊ホシノは、普段は飄々としているが、いざという時には腹を括れる人間だ。あのアビドスをまとめているのは、伊達ではない。
なのに今は、全体的に輪郭がぼやけている。存在そのものが、少し薄くなったような。
それに――
「……」
目を凝らすと、以前よりも少し痩せているように見えた。
制服の上からでもわかるほど、肩周りが華奢だ。
数日で人はそう簡単に変わらない。頭ではわかっている。
それでも、前に会った時とは、確実に何かが違った。
思い詰めているのか。
それとも――食費を削っている?
「……なんか」
私は、あえて軽い調子で切り出した。
「数日前に会った時より、痩せました?」
「うへ?」
ホシノは間の抜けた声を出し、自分のお腹に視線を落とした。
「そうかなー?ちゃんと食べてるけど……」
そう言って、ぽんぽんと腹部を撫でる。その仕草が、どこか確認するようで、無意識の防御反応にも見えた。
「でも最近さー、なんか消化不良なのかな?お腹の調子が悪くって。風邪でも引いたのかなー?」
風邪。
その言葉を聞いた瞬間、私は小さく息を吐いた。
違う。
どう見ても、風邪ではない。
鼻水もない。声も掠れていない。発熱特有の倦怠感も見えない。
それなのに、体調が悪いのは明らかだった。
虚ろな目。
荒れた肌。
そして――
目元に、うっすらと残る違和感。
よく見ると、くまをメイクで無理やり隠した跡がある。色味が合っていない。光の当たり方で、わずかに浮いて見える。
「……」
寝不足だ。
それも、一晩や二晩ではない。
「最近」
私は静かに言った。
「あんまり寝てないでしょう?」
「うへー……」
ホシノは頭を掻きながら、苦笑した。
「わかっちゃうかー。そうだね、最近どうにも寝つきが悪くってさー」
寝つきが悪い。
その言葉を、私はそのまま受け取れなかった。
違う。
これは――“寝ていない”。
彼女の態度は、明らかにおかしい。
視線は頻繁に揺れ、会話の合間に、何度も私の顔色を窺っている。
「寝つきが悪い、というより」
私は一歩も近づかずに、言葉だけを重くした。
「寝てないでしょう。じゃないと、そんなに挙動不審になったり、くまができたりしない」
ホシノの笑顔が、固まる。
「痩せてるのも、そのせいです。いや……痩せてるというより、やつれてます」
「……え」
声が、かすれた。
図星を突かれた時の、あの反応。
驚きと恐怖が混ざったような、言葉を失う表情。
「なん……で……」
顔色が、一気に悪くなる。青ざめ、呼吸が浅くなる。
今にも過呼吸を起こしそうなほどだ。
「どうして、わかって……」
私は、淡々と答えた。
「人間観察は得意なんです」
わざと、感情を乗せずに。
「特段、好きというわけでもないですが。私は研究者ですから」
研究者は、観察する。
異変を見逃さない。それが仕事だ。
「……そう」
ホシノは、小さく頷いた。
視線を落とし、ビニール袋を持つ手に力が入る。袋が、くしゃりと音を立てた。
彼女は、何も言わない。
ただ、俯いたまま、しばらく動かなかった。
オフィス街の雑踏が、遠くで流れている。
昼下がりの光が、二人の間に長い影を落としていた。
私は、それ以上踏み込むことも、背を向けることもせず、ただそこに立っていた。
この沈黙が、彼女にとって何を意味するのか――
それを、急いで決める必要はなかった。
空気は張り詰めているが、まだ壊れてはいない。
私は、ただ、彼女の次の言葉を待っていた。
十数秒。
時計で測れば、ほんのわずかな時間なのだろう。
だが、その沈黙はやけに重く、オフィス街の喧騒を背景に、妙な存在感を持って横たわっていた。
小鳥遊ホシノは、何も言わない。
先ほどまで落ち着きなく揺れていた視線も、今は地面の一点に縫い留められたまま、瞬きすら忘れたように固まっている。
ビニール袋を持つ手は、いつの間にかぎゅっと握り締められ、薄いプラスチックがかすかに歪んで音を立てていた。
……ならば。
こちらが、言うべきことを言ってしまおう。
私は、小さく息を吸い、感情を整えることもせず、そのまま言葉を投げた。
「あなたは」
ホシノの視線が、微かに揺れる。
「私が、あなたを拒絶してから。何を思いましたか?」
その言葉は、刃物のように鋭くもなく、かといって柔らかくもなかった。
ただ、真正面から心臓を指差すような、逃げ道を与えない問いだった。
ホシノは、はっとしたように顔を上げた。
「……え」
思いがけない質問だったのだろう。
目が大きく見開かれ、口がわずかに開いたまま、言葉を探すように彷徨っている。
私は、間を与えずに続ける。
「拒絶されて、悲しかったのはそうでしょう」
声は静かだ。淡々としている。
だが、内容は一切、手加減していない。
「でも、それだけじゃなかったはずです」
ホシノの喉が、小さく鳴った。
「拒絶された理由を、私のわがままだとか、私の気分だとか、そういうものではなく――」
一歩も動かず、言葉だけを前に進める。
「自分の無力さのせいだとか。自分が足りない人間だからだとか。そういう風に、受け取ったんじゃありませんか?」
ホシノは、何も言わない。
ただ、その表情が、少しずつ、崩れていく。
「もしかすると」
私は、視線を逸らさずに続けた。
「自分を見つめ直しでもしましたか?」
一瞬、彼女の肩が跳ねた。
「自分の上っ面の正義感とか。頼り甲斐のある先輩、という虚像とか」
言葉を選んでいるようで、選んでいない。
知っていることを、そのまま並べているだけだ。
「そういうものに嫌気がさして。自己嫌悪にでも、陥りましたか?」
その瞬間。
小鳥遊ホシノの顔に、はっきりとした感情が浮かんだ。
恐怖。
そして、困惑。
それは、外敵に向けるものではない。
自分の内側を、突然照らされたときの、あの反応だ。
「あたり、ですか」
私は、ほんの少しだけ、声を落とした。
「意外ですか?私が、あなたをここまで理解しているのが」
ホシノは、しばらく口を開けたまま、言葉を失っていた。
やがて、力なく息を吐き出し、ぽつりと呟く。
「……そうだね」
声は、掠れている。
「正直、驚いてる」
目を伏せたまま、続けた。
「アビドスのみんなには……バレなかったのに」
その言葉に、私は小さく頷いた。
「そりゃあ、そうでしょうね」
否定も肯定もせず、事実として。
「アビドスの皆さんは、あなたの表面しか知らない」
一瞬、言葉を区切る。
「……いえ。少し違いますね」
私は、言い直した。
「別に、あなたがアビドスの皆さんに芝居を打っている、と言いたいわけじゃないんです」
ホシノの背中が、わずかに緊張する。
「ただ、彼女たちは、あなたの深層心理を知らない」
淡々と、整理するように。
「あなたが、何に思い詰めているのか。私に対して、何を思っているのか」
「それを、正確に知らない」
だから。
「違和感に、気づかないんです」
ホシノの指先が、僅かに震えた。
「でも私は、違う」
私は、静かに言った。
「あなたの心層を知っている。少なくとも、あなた自身が気づかない部分まで」
だから。
「わずかな違和感でも、気づく。その違いです」
「……そう、か」
ホシノは、かろうじてそう返した。
「確かに……そうかもね」
その声には、力がなかった。
私は、内心で息を詰める。
――この人。
普段、どうやって生活しているんだ?
目の前にいるのは、ただ疲れている生徒ではない。
自殺一歩手前の人間と、会話している感覚に近かった。
私が寝不足を指摘したあたりから、彼女の態度は明らかに変わった。
最初に持っていたであろう“覚悟”が、綺麗に消えている。
おそらく。
罵倒される覚悟。
拒絶され、突き放され、責められる覚悟。
そういうものを抱えて、話しかけてきたのだろう。
被害妄想――
いや、「自分が他者に被害を与えている」という妄想が、異常なほど強い人間だ。
あり得る。
十分すぎるほど。
それなのに、私から出てきたのは、体調不良の指摘だった。
拍子抜け、だろうか。
……違う。
罵詈雑言なら、耐えられた。
しかし、自分の深層心理を正確に言い当てられるのは、耐えられない。
それは、罪悪感を増幅させる。
そして同時に――
私が、すべて理解した上で、彼女を拒絶したという事実を、突きつけることになる。
……調子が狂う。
私は、落ち込ませたくて、こんな話をしているわけじゃない。
小さく咳払いをして、ホシノの顔を見る。
「……いいですか」
声に、わずかに苛立ちが滲んだ。
「あなたは、自己罪悪感が強すぎる」
ホシノの肩が、びくりと震える。
「頼れる先輩を演じてきたから、ですか?」
言葉が、止まらない。
「自分のために人助けして、何が悪いんですか?」
問いかけるようで、問いではない。
「誰が、被害を受けました?」
「誰が、あなたを悪いと言いましたか?」
「……誰にも、言われていないでしょう」
ホシノは、唇を噛み締めている。
「なのに」
私は、少し強く言った。
「勝手に自分を悪者だって決めつけて。自己嫌悪に陥って。やつれて」
一拍置いて。
「……バカじゃないですか?」
空気が、張り詰める。
「言ったでしょう」
私は、視線を逸らさなかった。
「私は、あなたを尊敬している」
ホシノの目が、揺れる。
「あなたの、あり方を尊敬している、と」
それは、嘘ではない。
「借金返済という、途方もない道を歩んでいるから、だけじゃない」
言葉を選ばずに続ける。
「偽善だろうと、なんだろうと。他人に善を振り撒く、そのあり方も含めてです」
「やらない善より、やる偽善」
はっきりと。
「あなたは、決して悪い人間じゃない」
――多少、苛立ちがあったのだと思う。
もともと小鳥遊ホシノは、黒服さんが気にかけている生徒、というだけの認識だった。
私も、軽い興味で観察し始めただけだ。
高校一年生。
アビドスに入学。
その時点で、全校生徒は、彼女を含めて二人。
それでも、必死に学校を守っていた。
チンピラや輩を、その戦闘力で薙ぎ払い。
各校から最要注意人物として認識され。
『暁のホルス』
そう呼ばれるまでになった。
――そして。
その年、もう一人の生徒が失踪した。
死亡したものと、見なされている。
そこから、小鳥遊ホシノは変わった。
冷たく、一匹狼で、どこか幼さのあった性格は。
穏やかで、飄々としている仮面に塗り替えられた。
失った誰かの影を、追っているのだろう。
それから二年、三年。
借金を返し続け、今に至る。
その途中で提示された、カイザーと黒服さんからの誘い。
『社員になる代わりに、借金の半分を帳消しにする』
それを。
「自分がいなくなれば、アビドスはアビドスではなくなる」
「先輩が守ってきた学校を、私が守る」
そう言って、跳ね除けた。
――そんな小鳥遊ホシノが。
私の憧れですらあった、小鳥遊ホシノが。
いざ関わってみれば、この有様だ。
覇気も、覚悟も、強い意志も、感じられない。
優しくて。
単純で。
幼さすら残るほど、純粋で。
そして。
この上なく、卑屈だ。
頼れる先輩という皮を被り、
他人の面影を追いながら、人助けをする。
それが。
どうしようもなく、悲しくて。
どうしようもなく、腹立たしかった。
だから、あんな攻めるような口調になったのかもしれない。
だから。
あんな、慰めるような言葉を、吐いたのかもしれない。
私は、小鳥遊ホシノを見つめたまま、何も言わずに立っていた。
それ以上、何かをするつもりもなく。
何かを決めるつもりもなく。
ただ、その場に残る感情だけが、静かに、重く、沈殿していた。
コハク過去編 20
あの後、黒服さんはコピー体を連れて、どこかへ行ってしまった。
本当に、唐突だった。
「少し、調べたいことがありましてね」
そう言いながら、コピー体の肩に手を置き、まるで研究機材の一部でも扱うかのように自然な動作で連れていった。コピー体は特に抵抗も疑問も示さず、ただ指示された通りに立ち上がり、私に一度だけ視線を向けた。
その視線には、感情らしいものは見当たらなかった。
けれど、不思議と冷たくもなかった。
扉が閉まる直前、黒服さんはふと思い出したように振り返り、テーブルの上に封筒を置いた。
「これで、何か食べてください」
いくらだろうか?2、3000円ほどか?
「では、また後ほど」
それだけ言って、二人は去っていった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
しん、と部屋が静まり返る。
私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
リビングには、さっきまで確かにあった人の気配が、きれいさっぱり消えている。
時計を見る。
――午後七時。
思ったよりも、時間が経っていた。
「……」
その瞬間、ぐう、と腹が鳴った。
自分でも驚くほど、はっきりした音だった。
「……あ」
ようやく、身体が現実を思い出したらしい。
お昼は、確かにたくさん食べた。
コメダで、あれこれ頼んで、甘いものまでしっかり胃に収めたはずだ。
それなのに。
「……すっからかんだ」
自分の腹をさすりながら、ぽつりと呟く。
身体も、頭も、全部使い切った感覚があった。
エネルギーというエネルギーを、今日という一日に持っていかれた気分だ。
ソファに腰を下ろし、深く背もたれにもたれかかる。
天井を見上げると、白い照明が、ただそこにあった。
思えば。
本当に、色々あった一日だった。
腕に神秘を込めて、切断したら。
切断した腕が再生して、コピー体ができて。
街中で、不気味な男に絡まれたと思ったら。
まさかの共同研究を持ちかけられて。
了承したら、いつの間にか契約を結ばれていて。
研究所に連れて行かれて。
身体を測定されて。
実験されて。
挙句の果てに、自分が暴走して。
気づいたら、ロボットの残骸に囲まれて目を覚まして。
コピー体からは、神だの、恐怖だの、生徒のラベルだの。
世界の裏側みたいな話を聞かされて。
「……重すぎるだろ」
誰に向けるでもなく、そう呟いた。
十二歳の一日に詰め込む内容じゃない。
身体の奥が、じんわりと重い。
頭の奥が、じわじわと痺れている。
「疲れた……」
素直に、そう思った。
「疲れたんだ……今日は……」
誰に許可を取るでもなく、そう結論づける。
今日は、もう十分だ。
よくやった。
頑張った。
だから。
「……このお金は、遠慮せずに使おう」
テーブルの上の封筒を手に取り、中身を確認する。
一万円札が一枚。
ぴん、と張った紙の感触が、妙に現実的だった。
普段なら。
自分へのご褒美といえば、回転寿司。
ちょっといいラーメン。
たまに、デザートを追加するくらい。
それで十分だった。
でも今日は。
「……もっと、いいところに行っても、いいよな」
独り言が、自然と出る。
今日は、安い満足じゃ足りない。
ちゃんと、心と身体が落ち着く場所がいい。
「ご褒美……」
ふと、思い浮かぶ。
「和食が、いいな」
昼は洋食だった。
油も多かったし、味も強かった。
今欲しいのは、もっと静かなものだ。
「和食……」
頭の中で、選択肢が浮かぶ。
すき焼き。
寿司。
しゃぶしゃぶ。
どれも悪くない。
けれど。
「……いや」
私は、軽く首を振った。
せっかくの一万円だ。
中途半端な贅沢じゃ、もったいない。
「行こう……懐石料理」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が、少しだけ温かくなった。
懐石料理。
一度だけ、食べたことがある。
まだ私が十歳だった頃。
初等部の修学旅行で、百鬼夜行連合学院を訪れた時だ。
格式ばった和風の建物。
静かな廊下。
畳の匂い。
少しずつ運ばれてくる料理。
派手ではない。
けれど、一品一品が、丁寧で、優しかった。
周りの子たちは文句を言っていた。
「野菜ばっかり」
「出てくるの遅い」
「味が薄い」
でも、私は。
「……幸せだったな」
ガツンとした味だけが、美味しさじゃない。
そう教えられた、あの感覚。
今でも、はっきり覚えている。
一万円あれば。
きっと、食べられる。
「よし……」
私は立ち上がり、スマホを手に取った。
予約なしで入れる懐石料理屋。
この時間帯なら、探せばあるはずだ。
画面をスクロールしながら、静かに息を整える。
今日は、もう、これ以上考えない。
研究も。
神秘も。
恐怖も。
今は、ただ。
「行くか……懐石料理」
私はそう呟き、玄関へ向かった。
夜の空気は、少し冷えているだろう。
でも、それでいい。
今日は、静かに、美味しいものを食べて、終わりにしよう。
私は、スマホをポケットに入れ、扉を開けて外へ出た。
ーーー
店は、少し遠くにしかなかった。
スマホの地図アプリを見ながら、私はその距離を確認して、思わず小さく息を吐いた。
徒歩で三十分以上。
夜の時間帯で、しかも今日は一日中、神秘だの恐怖だのと脳みそを酷使してきた身だ。
正直、楽ではない。
「……まあ、そりゃそうだよな」
独り言のように呟きながら、歩き出す。
予約なしで入れる懐石料理屋など、そうそう都合よく近場にあるわけがない。
むしろ、選択肢が一つでも見つかっただけで幸運だ。
街灯の光が、アスファルトに淡い影を落とす。
夜風が、昼間にこもった熱をようやく連れ去ってくれる。
歩くたびに、今日一日の出来事が、頭の奥でゆっくりと反芻される。
だが、今はそれを深掘りしない。
考えないと決めたのだ。
ただ、歩く。
ただ、店へ向かう。
しばらくして、目的地に近づくにつれ、周囲の雰囲気が少しずつ変わっていくのを感じた。
繁華街の喧騒から外れ、住宅街と商業施設の境目のような、静かな通り。
派手な看板も、呼び込みの声もない。
その一角に、ひっそりと佇む店があった。
『四季』
控えめな書体で記された看板。
過剰な装飾はなく、照明も落ち着いている。
「あ……ここか」
一瞬、通り過ぎそうになったほど、主張のない外観だった。
だが、不思議と目は自然と引き寄せられる。
ネットで見た情報を思い出す。
評価は星四・四。
五が最大評価であることを考えれば、かなり高い。
比較的リーズナブルな部類の懐石料理屋。
農家、漁業組合、畜産会社と直接契約し、素材を低コストで仕入れることで、価格以上の品を提供している。
――らしい。
半信半疑ではあるが、だからこそ期待もある。
私は、軽く身なりを整え、店の引き戸に手をかけた。
静かに、引く。
カラリ、という控えめな音。
中は、思っていたよりも明るかった。
「いらっしゃいませ」
柔らかい声が、すぐに聞こえる。
私は一歩中に入り、軽く会釈をした。
「一名です」
それだけ伝えると、店員さんはにこやかに頷いた。
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
すぐさま、奥の方へ案内される。
――早い。
予約なしで来たのだから、もう少し待たされるかと思っていたが、そうでもないらしい。
廊下を進みながら、さりげなく店内を観察する。
懐石料理屋、と聞いて想像していたような、仰々しさはない。
着物姿の仲居さんが並んでいるわけでもない。
店員さんの服装も、ごく普通の落ち着いた洋服だ。
「……思ってたのと違うな」
いい意味で、だ。
気負わせない。
格式ばった空気で、背筋を強制的に伸ばされる感じもない。
通された部屋は、和室ではなかった。
畳ではなく、フローリングに近い床。
だが、色合いや調度品は和風で、まるで和風ホテルの一室のようだ。
テーブルと椅子。
照明は柔らかく、落ち着いている。
「こちらのお席でございます」
私は礼を言い、椅子に腰を下ろした。
「……ふう」
小さく息を吐く。
肩の力が、少し抜けた。
これなら、緊張せずに食事ができそうだ。
メニューを渡され、私は迷うことなく注文を決める。
「旬彩懐石、『瑞(みず)』をお願いします」
値段は、九千二百円。
一万円札一枚で、ほぼぴったりだ。
「かしこまりました」
店員さんは、お品書きを私の前に置き、
「先付の到着まで、少々お時間をいただきます」
そう言って、静かに下がっていった。
「……まあ、そうだよな」
予約なしで来たのだ。
時間がかかるのは、織り込み済み。
私は、背もたれに軽く身体を預け、お品書きに目を落とした。
―――――
一 先付 白胡麻豆腐 蟹身添え
二 前菜 季節の八寸
三 椀物 金目鯛葛打ち 清汁仕立て
四 造り 本鮪・真鯛・甘海老
五 焼物 鰆西京焼き 筍添え
六 強肴 黒毛和牛低温炙り
七 煮物 若筍と蕗の含め煮
八 食事 桜海老と生姜の炊き込みご飯
九 止椀 赤出汁
十 水物 抹茶わらび餅 季節果物
―――――
「……おお」
思わず、声が漏れる。
知らない言葉もあるが、それが逆に楽しい。
白胡麻豆腐。
八寸。
葛打ち。
強肴。
なんの料理かわからないが、一つひとつがきちんと意味を持って並んでいる感じがする。
「九千二百円で、これ……?」
懐石料理の相場を詳しく知っているわけではないが、それでも、安いのではないかと思ってしまう。
少なくとも、「値段なり」ではない。
値段以上のものを、出そうとしている。
そんな気配が、品書きから伝わってくる。
私は、ゆっくりと息を吸った。
期待が、静かに胸の内で膨らんでいく。
「……これは、当たりかもしれないな」
そう呟きながら、私はお品書きを閉じ、静かに待つことにした。
先付が運ばれてくる、その時を。
『憧れは、理解から最も遠い感情だよ』
コハクは、ホシノと出会う前。書類上でしか小鳥遊ホシノを知らない時、憧れを抱いていました。
絶望的な借金があっても、先輩が死んでも、一人でも、悪い大人に唆されそうになっても、耐えて耐えて耐えていました。
そして、後輩を支え、アビドスの柱としてあり続けている。それに、何かを追い求めるものとして関心し、憧れていました。
しかし、いざ会ってみると、会うたびに何かに怯えている、偽善と自己嫌悪の塊みたいな人物だった。
初対面で、落胆したでしょう。
2回目の会合で、面倒くさくなったでしょう。
アビドス襲撃時に、また改めて惚れ直したのです。
それでも、それでも、と食い下がってくる姿勢に、泥臭くってもこの人は芯が一本通っていると。偽善でも善だと。
そう思っていた矢先の今回ですから、結構キレてるんじゃないでしょうか?
次回!コハク過去編食リポ回、長くなります。読み飛ばしていいです