小鳥遊ホシノは、ほんの一瞬だけ視線を落とし、それからもう一度、恐る恐るこちらを見上げた。
「……慰めて……くれたのかな……?」
その声は、思っていたよりもずっと小さく、頼りなく響いた。
けれど、その目は、戸惑いと同時に、確かな安堵を宿している。まるで、長いあいだ張り詰めていた糸が、今まさに緩もうとしているかのようだった。
「そんなふうに思ってくれてるなんて……意外だねー」
小鳥遊ホシノは、照れ隠しのように頭を掻いた。指先が髪の根元を引っ掻き、わずかに乱れた前髪が揺れる。
「私はてっきりさ、もっと冷たく突き放されたのかと思ってたよ。『面倒くさい』『関わるな』って、そう言われても仕方ないって、覚悟してたからさ」
「……呆れた部分が、なかったわけじゃないです」
私は、正直にそう答えた。
嘘をつく意味はなかったし、ここで取り繕うほど、もう器用でもなかった。
「でも、それ以上に……なんというか……見ていられなかった」
言葉を選びながら、吐き出す。
責めたいわけではなかった。ただ、目を逸らすことができなかっただけだ。
「私、そんなにやつれてる?」
小鳥遊ホシノは、冗談めかした調子でそう言いながら、自分の頬を軽くつまんだ。けれど、その動きはどこかぎこちなく、笑顔も無理に作ったものだと、はっきりわかる。
「……別人みたいです」
私は、目を逸らさずに言った。
「覇気がない。以前のあなたなら、こんなふうに立ち話なんてしなかった。今のあなたなら……正直に言って、私でも勝てそうだと思えるくらいに」
「うへー……それは、さすがにショックだなあ」
そう言いながらも、小鳥遊ホシノは否定しなかった。
むしろ、苦笑いを浮かべて肩をすくめる。
「実際、そうかもね。最近、体も心も言うこと聞いてくれなくてさ」
「……というか」
私は、一歩踏み込む。
「もう、私に攻撃できないでしょう?あなた」
その言葉に、小鳥遊ホシノは一瞬きょとんとした顔をした。それから、少し考えるように視線を上へ向け、やがて小さく息を吐いた。
「うーん……どうだろ。今ここで、って話なら……たぶん無理だね」
その声音は、情けないほど穏やかで、戦闘の気配など微塵も感じさせなかった。
「本気でやれって言われても…気が引けちゃう気がする」
諦観と一緒に、ほんの少しだけ肩の力が抜けたような、そんな空気が混じっている。
「……気分は、少しは楽になりましたか?」
私は、改めて小鳥遊ホシノの顔を観察した。
青ざめていた血色は、わずかだが戻ってきている。目の焦点も、先ほどよりは定まっている。
「うん。だいぶね」
小鳥遊ホシノは、はっきりと頷いた。
「ありがとう。正直……誰かに、こんなふうに言われたの、久しぶりだったから」
……ひとまず、最悪の状態は脱した、か。
少なくとも、今すぐどこかに担ぎ込む必要があるほどではない。
精神が崩壊寸前、という段階は越えたように見える。
ならば――
私は、もう用済みだ。
そう判断するのが、合理的だった。
今この瞬間、私はアビドスと敵対していない。
黒服さんからも、カイザーからも、特別な指示は出ていない。
アビドス側も、少なくとも表向きには、私を敵視していない。
……それでも。
それとは別の問題が、確実に存在していた。
――情が、移りそうだ。
いや、正確には、もう移り始めている。
この程度の関わりなら、まだいい。
小鳥遊ホシノがこの先どうなろうと、私の精神へのダメージは、軽微で済む。
しかし、これ以上近づけば――
「友人」と呼べる距離にまで踏み込んでしまえば――
それは、致命的になる。
小鳥遊ホシノは、私を気にかけている。
そして、私も……小鳥遊ホシノという人間を、好ましく思ってしまっている。
人として、性格として、あり方として。
たぶん、私たちは相性がいい。
だからこそ、まずい。
一緒にいると、ほんのわずかだが、安心感を覚えてしまう。
気を抜けば、この空気に身を委ねてしまいそうになる。
――まずい。
「小鳥遊ホシノが、アビドスの生徒でなければ」
そんな思考が、頭をよぎる。
――まずい。
先ほど私は、平然とこう言った。
『もう私に攻撃できないでしょう?あなた』
だが、それはブーメランだ。
今の私もまた、小鳥遊ホシノを攻撃したくない。
けれど――それは許されない。
アビドスは、カイザーPMCと敵対している。
小鳥遊ホシノは、黒服さんに狙われている。
そして私は、その両方に所属している。
矛盾した立場。
逃げ場のない現実。
これ以上、関わってはいけない。
「……そろそろ、私は行きますね」
私は、そう言って、静かに踵を返した。
「――コハクちゃん」
小鳥遊ホシノの声が、背中越しに届いた。
振り返らなかった。
振り返れば、きっと、余計なものまで見てしまうとわかっていたからだ。
それでも、その声は不思議なほどまっすぐで、耳の奥に残った。
「私、本気であなたを助けるから」
決意のこもった声だった。
先ほどまでの、どこか頼りなく、揺らいでいた調子ではない。
「あなたも……諦めないで」
その一言で、彼女がどれほどの覚悟を固めたのかが、嫌というほど伝わってきた。
小鳥遊ホシノは、私に何かを押しつけようとしているわけではない。
ただ、自分がそうすると決めた――それだけなのだ。
私は、立ち止まらなかった。
背中に向けて何か返すこともせず、ただ歩き続けた。
やがて、靴底がアスファルトを叩く音が、互いに遠ざかっていく。
その音が完全に溶け合わなくなった頃、私は小さく息を吐いた。
「……まだ私が、黒服さんに騙されたと思ってるのか」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
違う。
私は、騙されてなどいない。
選んだのだ。
理解した上で、納得した上で、今の場所に立っている。
それでも、彼女はそう思いたいのだろう。
そうでなければ、私を助ける理由が揺らいでしまうから。
――それでいい。
そう思うことにした。
―――
帰宅。
エレベーターの静かな駆動音とともに、ビルの上層へと運ばれる。
昼間のオフィス街の喧騒とは打って変わって、夜の廊下はひどく静かだった。
部屋のドアを開けると、空気が変わる。
無機質で、少しだけ油と金属の匂いが混じった、見慣れた空間。
靴を脱いだ瞬間、腹の奥がぐうと鳴った。
「……夕飯時か」
時計を見ると、ちょうどいい時間帯だ。
買いに行く気力はない。今日は色々ありすぎた。
私は端末を操作し、適当に宅配を頼む。
栄養だのバランスだのは二の次だ。とにかく胃に入ればいい。
届いた食事を、ほとんど無言で平らげる。
味は、よく覚えていない。
何を食べたのかも、良く覚えていない。
ただ、薄切りの柔らかい牛肉肉と、柔らかい玉ねぎ、粒のたった米、それらを包んだ醤油と香り高い鰹出汁、醤油の角を丸める、卵のまろやかさの感覚だけが残った。
私にしては珍しい、栄養補給と空腹感と視覚と嗅覚と味覚を満たすだけの食事。
食べ終わった頃、玄関の方から電子音がした。
黒服さんが帰宅したのだろう。
少しして、足音。
「おかえりなさい」
「ただいま帰りました」
私は、コンタクトレンズを外し、ケースに収めて黒服さんに手渡す。
「これ、今日の分です」
「預かります」
そのまま私は風呂へ向かった。
湯気の立ち上る浴室で、ようやく肩の力が抜ける。
湯に浸かると、昼間の出来事が、遅れて身体に重くのしかかってきた。
小鳥遊ホシノの顔。
あの声。
あの決意。
湯の中で目を閉じ、深く息を吐く。
――考えるな。
今は、休め。
そう自分に言い聞かせ、十分ほどして風呂を出た。
髪を適当に乾かし、部屋着に着替えてリビングへ戻ると、黒服さんが待っていた。
コンタクトに記録された映像を、すでに確認し終えたのだろう。
静かな声で、問いかけられる。
「あなたは……小鳥遊ホシノをどう思いますか?」
核心を突く質問だった。
私は少し考えてから、正直に答えた。
「多少、親しみを覚えてきました。……割とまずいです」
「そうですか」
黒服さんは、それ以上追及せず、淡々と続ける。
「では、私が……小鳥遊ホシノを殺してほしいと言ったら、どうします?」
一瞬たりとも、迷わなかった。
「小鳥遊ホシノに関係なく、私は殺しはしません」
それは、信条というより、もはや前提条件だ。
「そうでしたね……」
黒服さんは、納得したように頷く。
「では、アビドスを壊してほしいと言ったら?」
「アビドスを壊す……ですか」
私は、その言葉を一度噛み砕いた。
「それは、別にどうってことなくできますね。可能かどうかは別として」
「ほう?それはどうして?」
「アビドスは、小鳥遊ホシノにとっての宝物であり……同時に、鎖です」
私は、淡々と説明する。
「アビドスがある限り、小鳥遊ホシノは守り続ける。何があっても。そのせいで、彼女は青春のすべてを捧げてきた。毎日毎日、借金返済。休む間もなくバイトと依頼。正直……おいたわしくて、見ていられません」
「なるほど……」
黒服さんは、顎に手を当てる。
「つまり、アビドスを壊すことは、ある意味……小鳥遊ホシノを解放する行為だと?」
「一理はあります」
私は肩をすくめた。
「まあ、学校を失った小鳥遊ホシノが、どうなるかはわかりませんが。
精神崩壊する可能性も、十分にあります」
「……クク」
黒服さんは、小さく笑った。かっこよかった。
それからしばらく、他愛もない雑談を交わし、私は自室へ戻った。
ベッドに横になり、天井を見上げる。
静かだ。
睡魔が、ゆっくりと意識を侵食し始める。
その直前、ふと、思い出す。
「……そういえば、特異現象捜査部に呼び出しを食らってたんだっけ」
三日以内に来い、と言われていた。
今日を含めて考えると、明日が期限だ。
行かないという選択肢はない。
出なければ、何をされるかわかったものではない。
「……明日は」
そこで、もう一つ思い出す。
クロノスの取材。
確か、明日だったはずだ。
「……まあ、クロノスには午後まで待ってもらえばいいか」
担当者は一日中いると言っていた。
問題はない。
そう自分に言い聞かせながら、私は目を閉じた。
意識が、ゆっくりと闇に沈んでいく。
その直前まで、私の脳裏にあったのは――
背中越しに投げかけられた、あの一言だった。
「本気で、助けるから」
……余計なお世話だ。
そう思いながら、私は眠りについた。
コハク過去編 21
意外にも、待たされたという感覚が生まれる前に、最初の料理が運ばれてきた。
足音はほとんどしなかった。
気配だけが、すっと近づいてきて、気づけば目の前に器が置かれている。
「お待たせいたしました。先付でございます」
店員さんが下がったあと、私は改めて、その小さな器を見下ろした。
先付
白胡麻豆腐 蟹身添え
「……豆腐?」
第一印象は、それだった。
確かに豆腐の形はしている。
だが、いつも見慣れているあの白くて四角いものとは、どこか違う。
色が、白すぎない。
例えるなら、削りたての木肌のような、ほんのり温かみのある白。
表面には艶があり、光を柔らかく反射している。
恐る恐る、箸を伸ばしてつついてみる。
ぷるり、と揺れた。
ただ揺れるだけでなく、中心がわずかに沈み、すぐに戻る。
弾力があるのに、固くはない。
「……変な感じ」
豆腐というより、ゼリーに近いようで、でもそれとも違う。
箸で少しすくい上げると、形を保ったまま持ち上がる。
崩れない。
口に運ぶ。
ひんやりとしていて、
舌に触れた瞬間、すべすべとした感触が広がる。
噛もうとした、その時にはもう、口の中から消えていた。
溶けた。
飲み込む前に、ほどけた。
そして、遅れて味が来る。
胡麻の香り。
香ばしいのに、主張しすぎない。
甘い。
でも、お菓子みたいな甘さではない。
砂糖の甘さではなく、素材そのものが持つ、丸みのある甘み。
ねっとりとしているのに、重くない。
濃いのに、喉に残らない。
上に添えられている蟹身を一緒に口に含む。
蟹の繊維が、胡麻豆腐のなめらかさの中にほどけて、
一気に旨みが押し寄せる。
「……おいしい」
胡麻の甘みと、蟹の塩気と旨み。
それがぶつかるのではなく、重なり合っている。
感覚としては、ものすごく高級な茶碗蒸しを食べているような感じだ。
でも、卵の重さはなく、もっと澄んでいる。
「最初から、ちゃんとわかる味でよかった……」
いきなり理解不能なものが出てきたら、どうしようかと思っていた。
だが、これは違う。
知らないのに、安心できる味。
そのことに、少しだけ肩の力が抜けた。
器を空にした頃、再び気配が近づく。
前菜
季節の八寸
今度は、小さな料理がいくつも並んだ盆が運ばれてきた。
思わず、目を見開く。
色が、きれいだ。
緑、黄色、茶色、白。
小さな器や葉、陶器の皿が、計算された配置で並んでいる。
正直に言えば、先付がすでに一品だったので、
「前菜って、もう始まってなかった?」
という疑問が、頭をよぎる。
でも、たぶん、これはそういうものなのだ。
私の知らないルールがある。
どれから食べるべきなのか、少し迷う。
一番無難そうなものから、手を伸ばす。
菜の花のお浸し。
口に入れた瞬間、
きゅっと、ほろ苦さが広がる。
「……にが」
思わず眉が動いたが、不快ではない。
嫌な苦さではなく、
春先の草をかじったような、生命感のある苦さ。
噛むと、出汁の味がじわっと染み出してくる。
苦さを、包み込むように。
「……春だな」
何となく、そう思った。
次に、蛍烏賊。
正直、見た目で一瞬ひるむ。
小さいとはいえ、形ははっきりしている。
だが、意を決して口に入れる。
「……あ、甘い」
想像していたより、ずっと甘い。
酢味噌がしっかり効いていて、最初は酸味が来るが、
噛むほどに、蛍烏賊そのものの旨みが広がってくる。
口の中で、味が変化していく。
さっきまで酸っぱかったはずなのに、
いつの間にか、ほのかな甘さが残っている。
「……不思議」
鰻のお寿司は、一口サイズ。
口に入れた瞬間、
「あ、鰻だ」とはっきりわかる。
脂の旨み。
甘辛いタレの香り。
小さいのに、ちゃんと鰻を食べた満足感がある。
「……これ、もっと食べたいな」
そう思ってしまって、少しだけ残念になる。
だが、すぐに思い直す。
たぶん、これでいいのだ。
少ないからこそ、印象が強く残る。
空豆は、ほくほくとしていて、甘い。
食べ慣れているはずの味なのに、どこか新鮮だ。
塩加減が絶妙で、豆の香りがしっかり立っている。
すべてを食べ終えたとき、
ふと、不思議な感覚に気づいた。
「……お腹はまだ空いてるのに、ちゃんと食べた感じがする」
量は多くない。
むしろ、かなり少ない。
なのに、満足感だけが、確かに積み重なっている。
椀物
金目鯛葛打ち 清汁仕立て
次に運ばれてきた椀からは、
蓋を開ける前から、出汁の香りが立ち上っていた。
鼻を抜ける、やさしい匂い。
魚の生臭さではない。
昆布と、何か海のものが合わさった、澄んだ香り。
静かに蓋を取る。
ふわり、と湯気が立ち上がる。
中には、金目鯛。
澄んだ汁の中に、淡い赤が浮かんでいる。
まずは、汁を一口。
「……薄い?」
一瞬、そう思いかけて、
すぐにその考えを引っ込めた。
遅れて、味が来る。
醤油のような、はっきりした輪郭はない。
だが、口の奥で、じわじわと旨みが広がっていく。
金目鯛、昆布、飛び魚。
それぞれの出汁が、何層にも重なっている。
ガツンと来るわけではない。
静かすぎるわけでもない。
「……静かに、うまい」
そんな言葉が浮かぶ。
金目鯛の身を、箸で持ち上げる。
ほろり、とほどけそうなのに、崩れない。
口に入れると、
ふっくらとして、弾力がある。
煮込まれているのに、煮崩れしていない。
身の繊維が、まだ生きている感じがする。
「……新鮮だ」
まるで、さっきまで海を泳いでいたかのような、瑞々しさ。
肝のほろ苦さ。
皮の甘さ。
目の周りの、コラーゲンの旨み。
塩味は控えめで、素材の味が前に出ている。
「……大人の味だな」
思わず、そう思う。
静かに、丁寧に、味わう。
一口一口が、体の奥に沈んでいくようだった。
私は、箸を置き、椀を持ち上げて、最後の一滴まで飲み干した。
――静かに、美味しい。
そう感じながら、次の料理を待つ
造り
本鮪・真鯛・甘海老
次に運ばれてきた皿を見た瞬間、
思わず、目が覚めるような感覚があった。
色が、鮮やかだ。
それまでの料理は、どれも控えめで、淡く、静かな色合いだった。
白、薄緑、透き通るような琥珀色。
それに比べて、目の前の造りは、はっきりしている。
赤。
白。
そして、ほのかに透ける桃色。
繊細な料理が続いたあとだからこそ、その色彩はひどく派手に見えた。
知らず、息をつく。
ここで、少し安心したのだと思う。
刺身は、知っている。
何度も食べたことがある。
味の想像もつく。
未知のものばかりが続く中で、
「分かる料理」が出てくることが、こんなにも心を落ち着かせるとは思わなかった。
醤油皿に、ほんの少しだけ醤油を垂らす。
わさびも、ちょこんと添える。
まずは、真鯛。
箸で持ち上げると、身がきゅっと締まっているのが分かる。
表面が、微かに光を反射している。
口に入れる。
噛んだ瞬間、
コリッ、という確かな歯応え。
噛みしめるほどに、
淡い甘みが広がっていく。
それは、いつも食べている刺身とは少し違う。
どこか、ホタテを思わせるような、丸みのある甘さ。
「新鮮だから、かな……」
理由は分からないが、
魚の身そのものが、静かに主張してくる。
次に、本鮪。
箸で持つと、しっとりとしている。
赤身と脂の境目が、なめらかだ。
口に入れた瞬間、
じわっと、脂が広がる。
舌の上で、溶けた。
驚くほど、さらりとしている。
脂はある。
でも、しつこくない。
回転寿司で食べるマグロと、部位そのものに大差はないはずだ。
なのに、なぜか、格段に美味しく感じる。
臭みがなく、
口の中に残らない。
最後に、甘海老。
これだけは、口に入れた瞬間、はっきりと驚いた。
「……甘い」
思わず、目を瞬かせるほどの甘さ。
真鯛も甘かった。
だが、それとは質が違う。
舌に乗せた瞬間から、はっきりと分かる、強い甘み。
それでいて、だらしない甘さではない。
微かな塩味があって、全体を引き締めている。
噛むほどに、旨みが増していく。
一瞬、マグロや真鯛の味を忘れそうになるほど、印象が強い。
「……刺身って、新鮮なほど甘いんだな」
そんなことを、今さらのように思う。
ここまで計算されていると、
もはや「切っただけ」とは言えない。
考え抜かれた料理だ。
皿を空にしたとき、
ふと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「ああ、好きなやつだ」
そう思える料理が、
ちゃんと、この流れの中に組み込まれている。
それが、なんだか嬉しかった。
焼物
鰆西京焼き 筍添え
次に運ばれてきたのは、焼き魚。
湯気とともに、香ばしい香りが立ち上る。
鰆は、普段からよく口にする魚だ。
焼き魚としても、煮魚としても、なじみがある。
皮目には、こんがりと焼き色がついている。
塩が、たっぷりとまぶされているのが分かる。
箸を入れると、
身が、ほろっと崩れた。
力を入れたわけでもない。
ただ、触れただけだ。
口に運ぶ。
身はふっくらとしている。
それでいて、だらけていない。
味噌の甘さが、じんわりと広がる。
だが、いつもご飯に乗せて食べる、西京焼きの甘さとは違う。
甘いのに、重くない。
後に残らない。
筍を一緒に口に入れる。
シャキッ、という音が、自分の中で分かるほど、はっきりとした歯応え。
「……音がする」
そう思った瞬間、少し可笑しくなる。
静かな部屋で、
自分が噛む音だけが、やけに鮮明だ。
「焼き魚って、こんなに静かにおいしいんだ」
ふと、そんな感想が浮かぶ。
普段食べている焼き魚と、
何がどう違うのかと聞かれたら、上手く説明できない。
だが、味わいは、明らかに違う。
一口ごとに、
丁寧に扱われてきたことが伝わってくる。
強肴
黒毛和牛低温炙り
皿に盛られたそれを見て、
一瞬、ローストビーフを連想する。
赤みが残っている。
火が通っているのか、少し不安になる見た目だ。
だが、ここまで来て、疑う理由もない。
上には、山椒が振られている。
ステーキとも、すき焼きとも違う佇まい。
箸で持ち上げると、
抵抗がほとんどない。
口に入れる。
「……」
言葉が、出なかった。
柔らかい。
噛んだと思った次の瞬間、
もう、なくなっている。
油の多い部位ではないはずだ。
それなのに、異様なほど柔らかい。
筋繊維が、ほどけるというより、
溶けていく。
脂っこくない。
だが、確かに、肉の味がする。
山椒の香りが、ふわっと鼻に抜ける。
それが、ほんの少しだけ、大人っぽい。
「……初めて食べる味だな」
そう思いながら、
ゆっくりと、もう一口、箸を伸ばす。
静かな部屋で、
私はただ、食べることに集中していた。
煮物
若筍と蕗の含め煮
次に運ばれてきた皿を見て、
正直に言えば、少しだけ拍子抜けした。
見た目は、とても地味だ。
派手な色はない。
艶も控えめで、
皿の上にあるのは、若筍と蕗だけ。
さっきまでの料理――
刺身の鮮やかさ、
焼き魚の香ばしさ、
肉の力強さ――
それらと比べると、あまりにも静かで、主張がない。
「……これが、煮物か」
そんな感想が、心の中に浮かぶ。
箸を入れる。
若筍は、見た目よりもずっと柔らかい。
でも、芯はちゃんと残っていて、
箸先に、わずかな抵抗が伝わる。
口に入れると、
だしの味が、すっと広がった。
思わず、小さく息を漏らす。
醤油でまとめられた、しっかりとしたえんみ。
でも、ちゃんと、だしの味がする。
昆布と、鰹。
それ以外にも、何かが重なっている気がする。
金目鯛とは違い、
主張の強い出汁が全体に回っていて、満足感が高い。
蕗を噛むと、
ほろ苦さが、遅れてやってくる。
それが、不思議と嫌ではない。
むしろ、
さっきまでの料理で少し高ぶっていた舌を、
ゆっくりと落ち着かせてくれる。
「……静かだな」
味が、静か。
それは、薄いという意味ではない。
騒がない、という意味だ。
混ざり合って、それぞれの主著が特出しない。
ただ、そこにある。
「こういうのが、懐石なんだろうな」
理由はうまく説明できないが、
なんとなく、そう思った。
派手な料理ばかりでは、
きっと、最後まで食べきれない。
この一皿があるから、
流れが、ちゃんと終わりに向かっていく。
そんな気がした。
食事
桜海老と生姜の炊き込みご飯
ごはんが運ばれてきた瞬間、
胸の奥が、少しだけ緩んだ。
自分でも、はっきり分かるほど、安心する。
白い器の中に、炊き込みご飯。
淡い桜色の桜海老が、ところどころに混ざっている。
蓋を開けると、
生姜の香りが、ふわっと立ち上る。
それだけで、もう美味しそうだ。
一口、口に入れる。
「……うん」
生姜の香りが、先に来る。
でも、辛すぎない。
ご飯は、しっとりしていて、
一粒一粒が、ちゃんと立っている。
桜海老の旨みが、じんわりと広がる。
さっぱりしているのに、
物足りなさはない。
「お腹、いっぱいのはずなのにな」
そう思いながらも、
箸は、止まらない。
不思議だ。
さっきまで、
もう十分食べたはずなのに、
このご飯は、普通に入ってくる。
重くない。
押し付けがましくない。
「……ちょうどいい」
量も、味も、温度も。
ちゃんと、終わりに向けて、
体も、心も、整えられていく。
止椀・水物
赤出汁/抹茶わらび餅 季節果物
赤出汁が運ばれてきたとき、
私は、自然とそう思った。
「あ、終わりだな」
誰かに言われたわけでもない。
でも、分かる。
椀を手に取ると、
ほっとする温かさが伝わってくる。
一口、飲む。
味噌のコクが、
すっと体に染みる。
派手ではない。
でも、ちゃんと「締め」だと分かる味。
今日食べたものが、
すべて、ここに収束していく感じがする。
最後に運ばれてきたのは、水物。
抹茶わらび餅と、季節の果物。
わらび餅は、
箸で持ち上げると、ぷるっと揺れる。
口に入れると、
ひんやりして、
なめらかで、
すぐに溶ける。
抹茶の苦さが、
あとから、静かにやってくる。
強くはない。
でも、はっきり残る。
「……苦いな」
でも、その苦さが、
なぜか、印象に残る。
甘いだけで終わらせない。
最後に、少しだけ、引っかかりを残す。
それが、
今日という一日と、
どこか似ている気がした。
器が下げられ、
部屋に、また静けさが戻る。
お腹は、満たされている。
体も、心も、落ち着いている。
「……おいしかったな」
小さく、そう思う。
懐石料理は、
派手なご褒美ではなかった。
でも、確かに、
今日の終わりに、ちょうどよかった。
ーーー
支払いを済ませ、店を出た。
玄関の引き戸が静かに閉まると、
店の中にあった柔らかな空気が、すっと背中から切り離される。
外は、もう夜だった。
街灯の光は白く、
昼間よりも道の輪郭がはっきりして見える。
時計を見ると、
食事を始めてから、まだ一時間も経っていなかった。
「……一時間、か」
もっと長く座っていた気がしていた。
二時間、あるいは三時間くらい。
時間の感覚が、少しだけずれている。
でも、体は正直だ。
満たされていて、
どこも痛くなくて、
妙に落ち着いている。
なんだか、不思議な気分だった。
長い夢を見て、
ようやく目が覚めた直後のような。
夢の内容は、はっきり覚えているのに、
現実に戻っていいのか、
まだ少し迷っているような、あの感覚。
あるいは――
誰かに別れを告げて、
ゆっくり歩き出したあとのような気分。
振り返れば、
そこに何か大切なものがあった気がするのに、
もう戻る理由はなくて、
前に進むしかない。
そんな感覚。
夜風が、頬を撫でる。
冷たいほどではないが、
さっきまでの料理の温度を、
少しずつ体から引き剥がしていく。
私は、歩き出す。
足音が、アスファルトに小さく響く。
お腹はいっぱいで、
頭も静かで、
今日一日の出来事が、少し遠くに感じられる。
黒服さんの家へと続く道を、
ただ、黙って歩く。
さっきまで味わっていた、
だしの香りも、
抹茶の苦さも、
もう口の中には残っていない。
それでも、
確かに、食べたという記憶だけは残っている。
「……帰ろう」
小さく、そう呟いて、
私は夜の中を進んでいった。
一万字超えてんだけどー!
長えって!流石に!
っていうかお前何回食リポ回するきだよ!もう読者飽きてるって!
くどいくらい出汁について語りやがって!茶碗蒸しといいラーメンといい、お前出汁好きだろ!
透けてるって著者の好み!読者もう
「あーはいはい、出汁出汁。繊細な味わいなんだろ?わかったって」
てなってるから!
中学生こんなに出汁好きじゃねえよ!って思ってるから!