ミレニアムの秘密の研究室   作:まったり愛好家

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第七十一話 制約と契約と疑念 コハク過去変あり

部屋に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。

 

温度が下がったわけでも、照明が暗くなったわけでもない。ただ、密度が違う。

音が吸われ、呼吸の音すら目立つような、妙に張り詰めた空間。

 

その中心――

まるで最初からそこに“設えられていた”かのように、声が落ちてきた。

 

「随分と遅かったのですね。てっきり、呼び出した日にすぐ来るものとおもていましたが……」

 

淡々としているのに、どこか芝居がかった抑揚。

耳に残る、やけに整った声だった。

 

「……まさか、ギリギリの三日目に来るとは。まあ、いいです。私は別に忙しい身ではありませんので」

 

視線を向けると、部屋の中央。

そこに、明星ヒマリがいた。

 

特注だと一目で分かる白い車椅子。金属というより陶器に近い光沢を放ち、床の反射と溶け合って境界が曖昧になっている。

車椅子に座る彼女の姿は、ひどく静かで、それでいて異様な存在感を放っていた。

 

色素の薄い、長く整えられた髪。

透けるように白い肌。光をほとんど反射しない、白に近い瞳。

服もまた白を基調としたもので、装飾は控えめなのに、どこか儀式用の衣のようにも見える。

 

弱々しい。

壊れてしまいそうだ。

 

そう感じるはずなのに――目を逸らせなかった。

 

まるで、菊の花が人の形を得たかのような。

清廉で、静謐で、それでいて毒を含んだ佇まい。

 

写真では何度も見てきたはずの人物だった。

ミレニアムの中枢。天才。象徴。

だが、実際に相対すると、神秘的という言葉すら軽く感じる。

 

彼女の周囲には、圧があった。

怒気でも威圧でもない。

“高位の人物”が持つ、決断と責任を積み重ねてきた者特有の、動かしがたい落ち着き。

 

気づけば、肩に力が入っていた。

 

「はあ……まあ、いいです」

 

明星ヒマリは、ほんのわずかに息を吐き、肩を落とすような仕草をした。

 

「別に忙しい身というわけでもありませんし。怒ってもいませんよ」

 

そう言いながら、こちらをじっと見つめる。

 

「どうぞ、座ってください」

 

その言葉が終わるより早く、目の前に椅子が現れる。

 

私は一瞬だけ躊躇い、それからゆっくりと椅子に腰を下ろした。

背もたれに体重を預けることはできず、浅く、いつでも立てる姿勢のまま。

 

視線は自然と明星ヒマリの顔色を探る。

 

怒っている様子は、ない。

微笑んでさえいる。

 

けれど、それが安心材料になるかといえば――否。

 

笑顔の奥で、私を逃がさない視線が、確かにあった。

まるで、選択肢が最初から用意されていないかのような。

 

……どこかで、見た目だ。

 

そう思って、すぐに思い当たる。

小鳥遊ホシノ。

 

あの、柔らかくて、掴みどころがなくて、

それでいてどこか芯のある目。

 

「……今回私は、どの要件で呼び出されたのでしょうか?」

 

私は口を開いた。

できるだけ平静を装って。

 

「どの要件、ですか」

 

明星ヒマリは、わずかに首を傾げた。

 

「心当たり自体はあるようで、何よりです」

 

くすり、と小さく笑う。

 

「ですが、そう警戒しなくてもいいんですよ?私は別に、あなたの行いを責めようとしてここに呼び出したわけではありません」

 

車椅子が、静かに音もなく動く。

床を滑るように、ほんの数十センチ。

 

「ただ、確認を取りたかっただけです。ですから……呼んだまで、ですね」

 

その言い方が、妙に引っかかった。

“確認”。

すでに答えを知っている人間の使う言葉だ。

 

「……この映像を、見てください」

 

明星ヒマリが指先をわずかに動かすと、空間が歪む。

 

次の瞬間、私の目の前にホログラム映像が展開された。

 

映っているのは、ミレニアムの構内。

朝の光。歩道。行き交う生徒。

 

そして――

その中を歩く、私。

 

いや。

正確には、私と、私と全く同じ姿をした生徒。

 

二人並んで、何事もないように歩いている。

 

「この映像は、おとといの朝」

 

明星ヒマリの声が、背後から重なる。

 

「ミレニアムの防犯カメラが捉えたものです。あなたと……あなたにそっくりな生徒が並んで歩いていますね」

 

映像の中の“もう一人”は、表情も歩幅も癖も、私と同じだった。

鏡写しではない。完全な一致。

 

「この方、調べてみたのですが……」

 

明星ヒマリは、淡々と続ける。

 

「ミレニアムに、こんな生徒はいません。過去の記録にも存在しない。いえ――」

 

少しだけ、間を置いて。

 

「過去、現在を合わせても。キヴォトスには、こんな生徒はいないんですよ」

 

背筋に、冷たいものが走った。

 

「……この生徒。一体、何者なのか」

 

明星ヒマリの白い瞳が、こちらを射抜く。

 

「説明してもらっても、いいですか?」

 

……ああ、最悪だ。

 

よりにもよって、コピー体。

しかも、映像という決定的な証拠付き。

 

明星ヒマリの性格は、詳しくは知らない。

 

ただ、映像を見ただけで、

キヴォトス全域の過去データまで洗うような真似は、普通はしない。

 

ということは――

それをするだけの“異常”を、すでに見つけている。

 

下手な嘘は、即座に切られる。

かといって、全部を話せばどうなるかも分からない。

 

……どうする。

 

一瞬の逡巡の末、私は口を開いた。

 

「ええっと……この生徒は、最新のアンドロイドで……」

 

言い終わる前に、明星ヒマリの眉が、ほんのわずかに動いた。

 

「ほう?」

 

楽しげですらある声。

 

「アンドロイド、ですか。生体反応があり、脳波があり、有機物だけで構成された?」

 

「……え?」

 

「ふふ」

 

明星ヒマリは、笑った。

 

「騙せると思いましたか?残念ながら……」

 

車椅子が、再びわずかに動く。

 

「私は、あなたが思っているよりも、この生徒について調べているのですよ」

 

その声は、優しい。

だが、逃げ道を一つずつ塞いでいく調子。

 

「あなたとこの生徒が学校から帰る前に、生体反応や脳波を遠隔で調べる電波を照射しました」

 

……そこまで。

 

「ロボットの類でないことは、すでに確認済みです。この生徒は、正真正銘、人間」

 

一拍。

 

「しかも……あなたと“そっくり”なのではなく」

 

白い瞳が、細められる。

 

「全く同じ体を持った存在」

 

頭の中が、真っ白になった。

 

……全部、バレてる。

 

ここまで、完璧に。

 

ああ、これ。

もしかして――

いや、もしかしなくても。

 

ものすごく、まずい。

 

「……わかった上で、呼び出してたんですね」

 

自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。

 

「ちなみに」

 

私は、明星ヒマリを正面から見返す。

 

「明星ヒマリさんは……この生徒を、何者だと思いますか?」

 

開き直るしかない。

 

墓穴?

上等だ。

 

どうせ、もう足元は崩れているのだから。

 

「ああ……開き直りましたか」

 

明星ヒマリは小さく息を吐き、指先で車椅子の肘掛けをなぞった。

 

「そうですね。クローン――その類ではないかと、私は考えています。もしくは非人道人間。どちらにせよ、社会的な意味で“まともな人間”とは言えない存在でしょう」

 

その言葉には断定があったが、糾弾の色はない。ただ分類するような、冷静すぎる声音だった。

 

「……結構近いですね」

 

私は肩をすくめる。

 

「詳しいところまでは言えませんが、クローンのようなものだと認識してもらって構いません」

 

明星ヒマリは、ほんの一瞬だけ視線を細めた。

 

「ほう……認めましたか」

 

車椅子がわずかに音を立てて止まる。

 

「人間のクローンがこの世界でどういう扱いを受けているか。ミレニアムに在学している人間なら、知らないはずはありませんが――それについて、あなたはどう思っているのですか?」

 

「それについては……」

 

私は一度言葉を探すように、天井へと視線を逃がした。

 

「言い方はいささか奇妙になりますが、世界の側が間違っている。私はそう考えています」

 

「世界が、ですか」

 

明星ヒマリは微笑んだまま、首をかしげる。

 

「ずいぶんと大きく出ましたね。私は妄言に付き合う気はありませんよ?」

 

「妄言でないと保証はできません」

 

私は正直に答えた。

 

「ただ、今の世界の状況を踏まえれば……一考の余地はあると思います」

 

しばしの沈黙。

明星ヒマリはホログラムを消し、私へと正面から向き直った。

 

「……でしたら、聞きましょう」

 

「まず、現在の世界にはロボットの市民が数多く存在しています」

 

私はゆっくりと言葉を選びながら話し始める。

 

「彼らは人権を持ち、家族を持ち、社会の一員として生活している。ロボット差別や違法パーツといった問題はありますが、それでもロボ市民という存在は、すでに私たちの日常の一部です」

 

「ええ、そうですね」

 

明星ヒマリは短く頷いた。

 

「しかし、人間と同じように扱われるロボ市民には、人間と決定的に異なる点があります」

 

私は指を一本立てる。

 

「見た目でも、思想でもない。ロボ市民は“製造されて生まれてくる”存在です。工場で、決まった工程を経て、決まった部品と設計で作られる」

 

「それの何が問題なのですか?」

 

明星ヒマリの声は、あくまで冷静だった。

 

「人間と違うからといって、それが即座に問題になるとは思えませんが」

 

「ええ、その通りです」

 

私は素直に頷く。

 

「ロボ市民の成り立ちそのものに、問題はありません。ですが、そこから別の問題が生じます」

 

少しだけ間を置く。

 

「人間のクローンは、自己同一性の崩壊や失敗時のリスク、倫理的な懸念を理由に、世界条例で長年禁止されてきました。しかし、その条例が制定された当時には、ロボットの市民など存在していなかった」

 

私は視線を明星ヒマリに戻す。

 

「人間と同じように笑い、悩み、社会を生きる存在が、“製造される”時代ではなかったんです」

 

「……ですが、今は違う」

 

私は続ける。

 

「限りなく人間に近いロボットが、隣人として存在する時代です。そんな時代に、“ロボットは認めるが、人間は作ってはいけない”という線引きは、不自然だとは思いませんか」

 

小さく、息を吐く。

 

「ロボットはよくて、人間はだめ。正直、馬鹿馬鹿しい」

 

明星ヒマリは黙って聞いていた。

 

「ロボットに心があると言い張るのなら」

 

私は静かに、結論を置く。

 

「同じように心を持った人間も、同様に扱うべきです」

 

言葉は、それ以上広がることなく、部屋の中に静かに落ちた。

 

「なるほど……」

 

明星ヒマリは、ゆっくりと息を吐いた。

その吐息は白くはならないが、室内の空気がわずかに冷えたような錯覚を覚える。

 

「確かに、あなたの言うクローン観については理解しました。思想としては、です」

 

車椅子の背にもたれ、細い指を組む。

 

「ですが、仮にあなたの言葉が正しかろうと、あるいは世界の認識が遅れていようと――禁止されているものは、禁止されています」

 

視線が、真っ直ぐこちらに突き刺さる。

 

「条約とはそういうものです。破っていい条約など存在しない。あなたは、それを破った。そこに例外はありません」

 

静かな断罪。

声を荒げることもなく、感情を乗せることもなく、ただ事実を並べる調子。

 

「世間の認識が古臭い、という点には同意しますよ。クローン問題が時代遅れなのも事実でしょう」

 

明星ヒマリは、肩をすくめるように微笑んだ。

 

「ですが、それと条約違反は別問題です。どれほど理屈を積み上げても、破っていい理由にはならない」

 

「それについてですが」

 

私は、あえて被せるように口を開いた。

 

「私は“クローンのようなもの”と言っただけです。厳密には、クローンではありません」

 

明星ヒマリの眉が、ほんのわずかに動く。

 

「条約に触れているかどうかも……正直、怪しいラインだと思います」

 

「……では、なんだというのです?」

 

ため息混じりに問われる。

 

「人造人間ですか?」

 

その言葉の裏には、うんざりとした響きがあった。

また面倒な分類が増える、という諦観。

 

「そうですね」

 

私は少し考える素振りを見せてから、問いを返した。

 

「明星ヒマリさん。プラナリアをご存知ですか?」

 

「プラナリア?」

 

明星ヒマリは一瞬だけ首を傾げる。

 

「あの、うねうねとした半透明の扁形動物ですね。再生能力が異常に高い……生物学の基礎で出てきます。もちろん知っていますが、それが何か?」

 

「彼らが行う自己増殖」

 

私は淡々と言葉を続けた。

 

「切断されても、個体が増えるあの現象。あれは――クローンなのでしょうか?」

 

その瞬間だった。

明星ヒマリの顔から、血の気が引いたのがはっきりとわかった。

 

「……待ってください」

 

声の調子が変わる。

先ほどまでの余裕が、音を立てて崩れた。

 

「あなた……一体、何をしたのですか?」

 

車椅子の肘掛けを、強く握りしめている。

 

「まさか……自己増殖の類を、人間で?」

 

真剣な表情。

冗談として受け取る余地は、微塵もなかった。

 

「どうなのでしょうか」

 

私は、あえて曖昧に答えた。

 

「正直に言えば、私自身、自分の行いに対する正式な呼び名を知りません」

 

肩をすくめる。

 

「ただ……まあ。だいたい、想像通りだと思いますよ?」

 

「……何をしたのかと、聞いているのです」

 

明星ヒマリの声は低く、硬い。

 

同時に、彼女の指が操作基盤の上を素早く走った。

 

次の瞬間。

 

ガチャリ、と鈍い音。

 

私の背後で、入ってきた扉がロックされる。

 

閉じ込められた、という事実を、音が明確に告げていた。

 

「……物騒ですね」

 

私は、振り返って扉を一瞥する。

 

予想外ではあったが、不思議と心は落ち着いていた。

むしろ、これで遠慮なく話せる、という妙な安堵すらある。

 

「何をしたのか、ですか」

 

私は少し首を傾げる。

 

「説明が、なかなか難しいんですよね……うーん」

 

「私が納得するまで、ここからは出られませんよ?」

 

明星ヒマリは、即座に言い切った。

 

「早めに話すことをお勧めします」

 

「あー……わかりました」

 

私は両手を軽く上げる。

 

「ただし、一つ条件があります」

 

明星ヒマリが、警戒するように目を細めた。

 

「条件、ですか?」

 

「はい。明星ヒマリさん」

 

私は、はっきりと彼女の名を呼ぶ。

 

「この方法を、私はおおっぴらに話すわけにはいきません。他言無用――守れますか?」

 

「他言無用、ですか」

 

明星ヒマリは、口元に笑みを浮かべる。

 

「どうでしょうね。私はおしゃべりが好きなので、誰かに話してしまうかもしれません」

 

「……嘘でも、口が硬いと言っておけばいいじゃないですか」

 

小さくため息をつく。

 

「まあ、いいです。確実な方法を取りますので」

 

私は一歩、彼女に近づいた。

 

「私の手に触れてください」

 

「……手に?」

 

明星ヒマリの眉が跳ねる。

 

「毒か何かですか?」

 

「違いますよ」

 

私は首を横に振る。

 

「握手です。私と」

 

彼女の目を、正面から見る。

 

「『明星ヒマリは、真田利コハクの秘密を他人に話さない』と言いながら、握手する。それが条件です」

 

「……拒めば?」

 

「こちらとしても、武力行使に出ます」

 

我ながら、あまりにも場違いな言い草だった。

 

「面倒臭いことを言いますね……」

 

明星ヒマリは深くため息をついた。

 

「ですが、握手くらいなら構いません」

 

車椅子を少し前に出し、白い手を差し出す。

 

「では、どうぞ」

 

「私の手を握って、さっきの言葉を復唱してください」

 

「はいはい……」

 

明星ヒマリは、半ば呆れたように言いながら、私の手を取った。

 

「明星ヒマリは、真田利コハクの秘密を他人に話さない……これで、何が――」

 

その瞬間。

 

私たちの掌が、淡い緑色の光を放った。

 

「――っ!?」

 

明星ヒマリが目を見開く。

 

「これは……何をしたのですか!?」

 

動揺を隠しきれない声。

 

私は、静かに手を離した。

 

「契約です」

 

「……契約?」

 

「私と、あなたとの」

 

私は淡々と説明する。

 

「私があなたに秘密を話す。その代わり、あなたは私のことを他人に話さない。そういう契約です」

 

明星ヒマリは、まだ光の残滓を見つめていた。

 

「契約には強制力があります。破ることはできません」

 

「……初めて見る現象ですね」

 

明星ヒマリは、深く息を吸い、長く吐いた。

 

「これが……あなたの秘密の一端、というわけですか」

 

そして、どこか疲れたように呟く。

 

「……はあ。本当に、面倒臭いことをしてくれましたね」

 

 

 

コハク過去編  22

 

多幸感と、わずかな浮遊感に包まれたまま、私は帰宅した。

 

足は地面についているはずなのに、

一歩一歩がどこか軽く、

まるで現実の床よりも、少し上を歩いているような感覚がある。

 

夜風が頬を撫でるたび、

懐石料理で火照っていた体表の熱は、ゆっくりと奪われていった。

 

肩口に触れる空気は冷たい。

けれど、腹の奥――

胃の底のあたりには、まだ熱が残っている。

 

それは単なる食事の温度ではなく、

「満たされた」という感覚そのものが、

体の内側でぬくもりとして残っているようだった。

 

「……確か、この階だったよな」

 

独り言が、やけに静かなエレベーターホールに落ちる。

 

昼間に何度も乗り降りしたはずなのに、

今は少しだけ、感覚が曖昧だ。

 

廊下の照明は間接的で、

白すぎず、暗すぎず、

どこかホテルの廊下のような落ち着いた光だった。

 

「……ここだ」

 

鍵を差し込み、

静かに扉を開ける。

 

「おかえりなさい」

 

キッチンの方から、黒服さんの声がした。

 

私は少しだけ驚いて、

それから、自然と肩の力が抜ける。

 

「……ただいまです」

 

靴を脱ぎ、

部屋の中を見渡す。

 

リビングのソファに、コピー体もいた。

 

コピー体は、送り出したときとは服装が変わっている。

 

白い半袖のシャツに、

動きやすそうな半ズボン。

 

かなりラフな格好

 

その姿を見た瞬間、

昼間の血まみれだった姿が、

遠い過去のように感じられる。

 

「服、着替えたんだね」

 

私がそう言うと、

コピー体は、最小限の動きでこちらを見る。

 

「はい。活動に支障が出ないよう、変更しました」

 

相変わらず、抑揚の少ない声。

 

黒服さんは、コーヒーカップを片手に説明を始めた。

 

「別の施設で、あなたと同様の検査を行ってきました。身体構造、再生挙動、神秘の流れ……ほぼ同一です」

 

「……ほぼ、ということは?」

 

「恐怖を付与した際の反応ですね」

 

黒服さんは、淡々と続ける。

 

「あなたは、明確な神秘変動を示しましたが、この子は何も反応しませんでした。心拍、神秘量、精神指標、すべて安定したまま」

 

コピー体は、何も言わずに座っている。

 

それが、当然であるかのように。

 

「……ですよね」

 

私は、小さく息を吐いた。

 

正直、驚きはなかった。

 

むしろ、

「やっぱりな」という感覚の方が強い。

 

「恐怖に反応するのは、私だけ。コピー体は、恐怖を恐怖として認識しない」

 

「ええ。大方、予想通りです」

 

黒服さんは、そう言って頷いた。

 

これ以上、今は話す気力がなかった。

 

頭の中には、

昼間の出来事、

神秘、恐怖、神、崇高――

そんな言葉たちが、まだ渦巻いている。

 

「……今日は、もう休みます」

 

私がそう言うと、

黒服さんは軽く微笑んだ。

 

「ええ。今日はよく動きましたから」

 

コピー体は、私の方を見て、一言だけ。

 

「おやすみなさい。本体」

 

「……おやすみ」

 

私はそう返してから、

自分の部屋へ向かった。

 

部屋に入る。

 

整えられた家具、

清潔なシーツ、

最低限の私物。

 

なのに――

どこか、落ち着かない。

 

「……慣れないな」

 

思わず、そう呟いていた。

 

旅館に来たときのような、

あるいは、内科の個室に通されたときのような、

そんな感覚。

 

ここが「自分の家」になった、

という実感が、まだない。

 

けれど、

体は正直だった。

 

一日の疲労が、

今になって、どっと押し寄せてくる。

 

制服を脱ぎ、

ベッドに腰を下ろした瞬間、

もう瞼が重い。

 

横になる。

 

天井を見る。

 

考えなければならないことは、

山ほどあるはずなのに――

頭が、うまく回らない。

 

思考が、

ゆっくりと、沈んでいく。

 

「……今日は、もう十分だ」

 

誰に向けるでもなく、

そう心の中で呟いた。

 

次の瞬間。

 

夢を見ることもなく、

何かを思い出すこともなく。

 

私は、

気絶するように、眠りに落ちた。

 

ーーー

 

翌朝、目覚めは妙だった。

 

ぱちりと目を開けた瞬間、

意識だけが先に浮上し、

体がまだ夢の底に沈んでいるような感覚。

 

白くはないはずの天井が、

一瞬だけやけに無機質に見えて――

まるで、病室で目を覚ましたときのようだった。

 

点滴の気配も、消毒液の匂いもない。

それなのに、胸の奥がざわつく。

 

「……見られてる?」

 

そんな言葉が、頭の中をよぎった。

 

根拠はない。

ただ、視線の重みのようなものを、

はっきりと感じる。

 

私はゆっくりと首を起こし、

寝ぼけた目のまま、周囲を見回した。

 

答えは、すぐに見つかった。

 

ベッドのすぐ横。

簡素な椅子に腰掛けて、

コピー体がこちらを見ていた。

 

背筋を伸ばし、

手は膝の上に揃えられ、

まるで「待機中」のような姿勢。

 

看病、という言葉が、

なぜか一番しっくりきた。

 

「……」

 

私が完全に目を覚ましたのを確認すると、

コピー体は、ほんのわずかに首を傾けた。

 

「おはようございます」

 

抑揚のない声。

いつもと変わらないはずなのに――

なぜか、その一言が、少しだけ柔らかく聞こえた。

 

気のせいだろう、と自分に言い聞かせる。

 

昨日の夜、

神だの恐怖だのと、

ろくでもない話を聞いたせいで、

感覚が過敏になっているだけだ。

 

「……おはよう」

 

私は短く返し、

布団をめくってベッドから降りた。

 

コピー体は、何も言わず、

何も動かない。

 

ただ、

私の行動を静かに観測している。

 

それが、少しだけ居心地が悪くて、

でも、妙に安心感もあった。

 

部屋を出て、洗面所へ向かう。

 

鏡の前に立つと、

そこには、盛大に寝癖のついた私がいた。

 

「ひど……」

 

小さく呟き、

くしを手に取って髪をとかす。

 

指に引っかかる毛先。

少し力を入れると、

すぐに整っていく。

 

再生能力があるせいか、

髪も妙に丈夫だ。

 

顔を洗う。

 

冷たい水が、

一気に意識を現実へ引き戻す。

 

ぱしゃぱしゃと水をかけ、

目元を拭う。

 

昨日までの出来事が、

夢ではなかったことを、

はっきりと実感する。

 

洗面所を出て、リビングへ。

 

時計を見ると、

時刻は朝の六時半。

 

「……早」

 

あれだけ疲れていたはずなのに、

思いのほか、すっきりと目が覚めている。

 

リビングに足を踏み入れると、

そこには、いつもの光景があった。

 

黒服さんが、ソファに腰掛け、

片手に本、片手にコーヒーカップ。

 

朝の光が、窓から斜めに差し込み、

その姿を柔らかく照らしている。

 

――絵になるな。

 

不意に、そんな感想が浮かんだ。

 

作られた演出ではない。

ただ、自然体でそこにいるだけなのに、

妙に様になる。

 

「おはようございます」

 

私がそう声をかけると、

黒服さんは本から視線を上げ、

穏やかに微笑んだ。

 

「ああ、コハクさん。おはようございます」

 

本を閉じ、

カップをソーサーに戻す。

 

「うまく眠れましたか?」

 

その問いかけに、

私は少し考えてから答えた。

 

「ええ。相当に疲れが溜まっていたみたいで……すぐに眠れました」

 

実際、

気絶するように落ちた。

 

夢も、記憶も、何もない。

 

「それは何よりです」

 

黒服さんは、満足そうに頷いた。

 

「朝食は、冷蔵庫に入っています。特別なものではありませんが、好きに取って食べてください」

 

「わかりました」

 

私はそう返し、

冷蔵庫の前に立つ。

 

扉を開けると、

中には、いくつもの惣菜パンが並んでいた。

 

甘い系、しょっぱい系、

種類もそこそこ豊富。

 

「……研究者の家って感じだな」

 

そんなことを思いながら、

明太フランスパンと、

丸ごとソーセージを手に取る。

 

電子レンジで軽く温め、

皿に乗せる。

 

テーブルにつき、

一口かじる。

 

外は少し硬く、

中はふんわり。

 

明太子の塩気が、

寝起きの口にちょうどいい。

 

「……おいしい」

 

思わず、そう呟いた。

 

特別な料理じゃない。

高級でもない。

 

それなのに、

昨日の懐石とは違う意味で、

ちゃんと「おいしい」。

 

向かいの席には、コピー体が座っている。

 

同じように、

惣菜パンを手にしているが、

食べる様子はない。

 

ただ、

そこにいる。

 

黒服さんは、再び本を開き、

コーヒーを一口。

 

会話は、ほとんどない。

 

けれど、

沈黙が気まずくない。

 

誰かと同じ空間で、

同じ時間に、

朝食を取る。

 

それだけのことなのに、

胸の奥が、少しだけ温かくなる。

 

――ああ。

 

こういう朝も、

悪くないな。

 

私はそう思いながら、

残りのパンを、ゆっくりと食べ進めた。

 

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