愛している人はいますか?
自分を愛してくれている人はいますか?
とか言ってみたり。
今回はコハク過去編特別編。一話丸々コハク編。
お楽しみください。
そのまま、ドアノブを捻ろうとして――違和感に気づいた。
視線を落とす。
ドアの下のわずかな隙間。
そこから、赤い液体が、ゆっくりと滲み出している。
最初は理解が追いつかなかった。
光の加減かと思った。
影かと思った。
けれど、それは確実に、床を這うように広がっている。
とろり、と。
「……なに、これ」
鼻を刺す匂いが、遅れて届く。
生臭い。
鉄のような、重たい匂い。
理解は、匂いのほうが早かった。
血液だ。
それも、ほんの一滴や二滴じゃない。
量がおかしい。
指を切った、転んだ、そんな程度ではない。
嫌な想像が、脳裏をかすめる。
心臓が、どくりと強く打った。
「……違う」
否定しながら、私は勢いよくドアを開けた。
視界に飛び込んできた光景は――
私の想像を、少しも裏切らなかった。
「これ……は……」
言葉が、喉で止まる。
部屋の中央。
コピー体が立っている。
いや、立っていると言っていいのか分からない。
体はぐらつき、壁に寄りかかるようにして、辛うじて姿勢を保っている。
自らの腹を、自らの腕で貫いていた。
腕が、腹を突き破り、背中から突き出している。
そこから、信じられない量の血が流れ出していた。
床は赤く濡れ、
白い壁にも、飛沫が散っている。
口元からも、血が溢れ、
喉を伝い、顎から滴り落ちる。
再生能力があるはずなのに。
傷口は塞がらない。
血は止まらない。
まるで、再生そのものを拒絶しているかのように。
「なんで……」
掠れた声が、勝手に漏れる。
なぜ。
私は、命じていない。
確かに、さっきまで――
破壊しようかと、考えていた。
危険だと、思った。
消すべきではないかと、思った。
それは事実だ。
だが。
目の前のこれは、あまりにも――
「なんでこんなことをしたんだ……」
足が震える。
「私は……何も言ってないはずなのに……」
自分でも、何を言っているのか分からない。
否定か、言い訳か、懺悔か。
答えなど、返ってくるはずがない。
そう思っていた。
だが、コピー体の唇が、かすかに動いた。
血に濡れた口が、ゆっくりと開く。
「あなたが、そう願ったからです」
その声を聞いた瞬間、私は息を呑んだ。
意識があることに驚いたのではない。
それよりも。
その声が――
いつもと、まったく違ったからだ。
抑揚のない、無機質な声ではなかった。
温かい。
柔らかい。
慈しむような響き。
初めて料理をした子供を褒める親のような。
旅立つ者を見送る、穏やかな声のような。
血で白くなった肌。
血の気の引いた顔。
それなのに、
その表情は、どこか満ち足りているように見えた。
「私が……願った、から?」
言葉を、繰り返す。
理解できない。
いや、理解したくない。
私が、危険だと判断した。
私が、破壊しようと思った。
その“思考”だけで。
自らを、ここまで?
「そんなのって……」
喉が詰まる。
「ないよ……」
私は、ふらつきながら近づいた。
血だまりを踏む感触が、靴底越しに伝わる。
もう、警戒などしていなかった。
「お前は……それでいいのか?」
問いかけは、震えていた。
コピー体は、ゆっくりと私を見る。
視線が、合う。
「あなたの選択が、私の選択」
息が、かすれている。
「そこに、異議はありません」
体が、崩れかける。
自ら再生を止めているのだと、直感した。
止めなければ、こんなはずがない。
白い髪は血を吸って重く垂れ、
服は裂け、
肌は蝋のように白い。
それでも。
その目だけは、静かだった。
「最後に……」
コピー体は、残された力を振り絞るように、顔をこちらへ向ける。
視線が、揺れる。
それでも、まっすぐ、私を見ている。
「私を作ってくれて……ありがとう」
胸が、締めつけられる。
温かくて、優しくて、どうしようもなく残酷な声。
その唇が、最後に、かすかに動いた。
「コハク……」
……死んだ。
その事実が、やけに静かに胸へ落ちてきた。
もう、ピクリとも動かない。
壁にもたれかかったまま、
あの穏やかな笑みを残したまま。
まるで、最後に私の名前を呼んだその瞬間で、
時間が凍りついたかのようだった。
「……」
声は出なかった。
私は、ふらりとその場に膝をつく。
血溜まりが、じわりと衣服を濡らす。
冷たいはずなのに、感覚が遠い。
そのまま座り込み、両手で頭を覆った。
指先が震えている。
私は、何をしているのだろう。
なぜ、こうなってしまったのだろう。
呼吸が浅くなる。
コピー体は――
私の思考すら感じ取り、行動に移せるところまで成長していた。
私が「危険だ」と思った。
私が「消すべきかもしれない」と思った。
その曖昧で、揺らいだ思考を、
あれは“命令”として受け取ったのだ。
それに、気づかなかった。
いや。
気づこうともしなかった。
「……はあ」
大きく、長いため息がこぼれる。
胸の奥が、空洞になったようだった。
まるで、大きな何かを失ったみたいだ。
実際、そうなのだろう。
コピー体は、昨日生み出して、今日死んだ。
たった二日。
時間にすれば、二十四時間もないかもしれない。
それだけの存在だ。
最初は、偶然生み出せた、よくわからない存在だった。
昨日、恐怖に染まった私を助けようと行動したと知った時も、
「へえ」と、少し感心しただけだった。
興味があったのは、現象としてのコピー体。
能力としての存在。
観察対象としての“物”。
コピー体という人間に、
私は微塵も興味を持っていなかった。
――心がないのだから。
そう、思っていた。
少なくとも、今日の朝までは。
朝、目を覚ました瞬間。
視界の端に、立っていた姿。
ベッドの横に、静かに佇んでいたコピー体。
あの時の、妙な違和感。
妙な距離感。
そこから、少しずつ、何かが変わり始めていた。
たった二時間。
朝起きてからの、ほんの短い時間の中で。
私は、コピー体に興味を抱き、
質問を投げかけ、
違和を覚え、
恐怖し、
そして――破壊しようと決意するに至った。
今、私は何を感じていた?
死んだことへの安堵か。
自害したことへの不理解か。
過剰な忠誠心への恐怖か。
違う。
どれも、違う。
私は、顔を上げる。
血の匂いが、濃く漂う。
視界の先に、笑ったままの姿。
「……悲しかった」
自分でも驚くほど、素直な言葉だった。
私は、悲しかった。
あれが死んだことが。
消えたことが。
いなくなったことが。
生きてほしいと、思ってしまった。
愛を、感じてしまったのだ。
あの声から。
あの眼差しから。
あの「ありがとう」から。
コピー体は、最後の最後で、完全な心を手に入れたのだろう。
もっと言えば――愛を知ったのだろう。
私を、愛してくれていたのだろう。
だから。
私の望みを、自分なりに解釈して。
“最善”だと思った形で実行した。
だから。
あんなに穏やかに。
あんなに満たされた顔で。
笑っていたのだろう。
だって、愛とは盲目なものだ。
慈愛でも、恋愛でも、きっと同じだ。
対象しか見えなくなり、他の何もかもが霞んでしまう。
コピー体は――心が芽生える前なら、こんなことはしなかったはずだ。
命令がなければ動かない。
明確な指示がなければ、自己判断で極端な行動には出ない。
そういう存在だった。
それが。
愛が生まれたがゆえに。
私の願いを叶えたいという気持ちが先走り、
私の許可を待たず、
私の迷いを問いただしもせず、
自ら実行してしまった。
「……子供みたいだな」
乾いた声が漏れる。
親に内緒で、サプライズを準備する子供のようだ。
怒られるかもしれない。
失敗するかもしれない。
それでも、喜んでほしくて。
ただ、それだけで動いてしまう。
私に、喜んでほしかったのだろうか。
“危険”を取り除いたと、
“望み”を叶えたと、
そう思って。
そう考えた瞬間、胸がぎゅっと締めつけられる。
息が、うまく吸えない。
もし。
私が破壊ではなく、理解を選んでいたなら。
向き合うことを選んでいたなら。
問い続けることを選んでいたなら。
こうは、ならなかったのだろうか。
分からない。
だが、少なくとも。
「遠ざける」ことは、しなかったはずだ。
分からないものを遠ざける。
理解を放棄する。
それは、私が最も嫌っていた態度のはずだった。
科学文明を否定するような行為だと、
そう、心のどこかで笑っていたはずなのに。
なのに。
私は、破壊を選んだ。
怖かったのだ。
不理解が。
自分の手に負えない何かが、目の前にあることが。
制御できない存在が、隣に立っていることが。
その結果が――これだ。
視線の先で、コピー体は、まだ微笑んでいる。
「……は」
小さく、笑いがこぼれた。
笑える。
結局、私も大多数の人間と同じだ。
よく分からないものは、とりあえず遠ざける。
危険かもしれないから、排除する。
その考えが嫌で。
その態度が理解できなくて。
だからこそ、神秘の研究なんてものを一人で続けていたのに。
不可思議を追い求める自分は、違うのだと。
そう思い込んでいた。
だが違った。
私が追い求め続けられたのは――
本当の“不理解”に出会っていなかったからだ。
本当に、どうしようもなく分からないもの。
自分の想像を超えてしまうもの。
それに直面した途端、私は逃げた。
「……惨めだな」
我ながら、ひどい。
私は、失敗した。
大きな失敗だ。
自らを愛し、
自らを主とし、
それでも一人の意思を持ち始めた存在を。
死なせた。
“分からないから遠ざける”という、愚かな思考で。
しばらく、動けなかった。
だが、やがて、私はゆっくりと立ち上がる。
血で滑りそうになる足元を、踏みしめる。
コピー体へと歩み寄る。
反省はする。
後で、いくらでもする。
今は――
この、胸の奥に溜まった感情を、どうにかしたい。
言葉にならない、熱のようなもの。
私は、そっと手を伸ばした。
血に濡れた体を抱き寄せる。
軽い。
驚くほどに。
血液が抜けているからだ。
体温も、もうほとんど感じない。
それでも。
私は、強く、強く抱きしめた。
壊れそうなほどに。
「……ごめん」
かすれた声が、耳元に落ちる。
返事はない。
それでも、抱きしめ続ける。
そして、心の奥で、静かに誓った。
コピー体に――
心を芽生えさせる。
その研究を、する。
ーーーーーー
昔のことを、思い出していた。
コピー体が心を持ち、そして死んだ日のことを。
何の前触れもなく、ふと胸の奥がざわつく瞬間がある。
特別な匂いも、音も、景色もないのに。
ただ、静かな時間の隙間に、あの日が滑り込んでくる。
血の匂い。
白くなった肌。
そして――あの、穏やかな笑顔。
まるで。
忘れるな、と。
あの日を、あの感情を、あの誓いを。
風化させるな、と。
自分自身が、自分に言い聞かせているみたいに。
「……忘れるわけ、ないんだけどな」
小さく、ため息混じりに呟く。
視線は天井に向いたまま。
指先で、無意識にシーツの端をつまんでいた。
瞼を閉じれば、いつだって思い出せる。
「コハク」
あの時の声。
あの響き。
私の名を呼んだ時の、あいつの顔。
血に濡れて、白くなって、それでも――満ち足りていた。
私は、あいつに誇れる人間だろうか。
あいつの愛情を、受け取っていい人間だろうか。
あの選択をした私が。
破壊を選び、恐怖に負けた私が。
資格なんて、あるのだろうか。
「……わからない」
答えは出ない。
それはきっと、私にしか分からないことなのに。
誰にも測れない。
誰にも裁けない。
それでも、いまだに分からない。
胸の奥に、少しだけ重たいものが沈む。
けれど。
ひとつだけ、確かなことがある。
私は、あいつを愛している。
たった一言。
心の通った会話なんて、あれだけだった。
「ありがとう」と、
「コハク」と。
それだけなのに。
それでも。
まるで何年も連れ添った親友みたいに。
あるいは、もっと近い何かみたいに。
私は、あいつを愛している。
時間の長さじゃないのだろう。
共有した量でもない。
あの瞬間の濃度が、すべてだった。
だからきっと。
また会える。
理由なんてない。
理屈もない。
ただ、そう思える。
「さて、と」
小さく息を吐き、私はゆっくりと上体を起こす。
肩を回し、腕を上に伸ばして大きく背伸びをする。
骨が小さく鳴る。
固まっていた思考が、少しずつほどけていく。
今日もまた、キヴォトスを駆け回って記録集めだ。
やることは山ほどある。
立ち上がり、いつもの白衣を手に取る。
布の感触が、指に馴染む。
袖に腕を通し、襟を整える。
鏡の前で、コンタクトをつける。
瞬きをひとつ。
視界が、いつもの調子に変化した。
「……行くか」
黒服さんに挨拶をして、玄関のドアノブに手をかける。
一瞬だけ、深く息を吸う。
そして外へ出る。
足取りは、いつもより少しだけ軽かった。
今回を持って、コハク過去編を一端の区切りとするとともに、またもや休載とさせていただきます。
理由といたしましては、Youtubeを始めたからです。
このシリーズと並行してゆっくりと書いている、「酒呑童子の退屈」というものを動画にしていまして、これがまあ楽しいのです。
ひと段落つきましたら、また戻って参ります。それまでしばしのお待ちを。
コハクと私を忘れないでいてくれると幸いです。
Youtubeチャンネルは、あらすじ欄の下に加えておきましたので、ぜひチェックしてみてください!