死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します 作:来巻梓
東の村から戻った翌朝、ヴァルム砦の空は鉛の薄膜を張ったように重かった。
雪を孕みながら降りてこない雲が、夜の名残を惜しむように空を塞いでいる。
石床の冷たさは、踏みしめるたび骨の奥へ沁みる。朝というより、冷気の底から這い上がるような時間だ。
シュアラは、小さな執務室で簡易地図を広げていた。
厚い羊皮紙の上に、パン屑と小石で作った三つの村の印――東のシルバークリーク、西のアイアンストリーム、そして南のミルストーン。
本来なら、南は粉が余っているはずだった。
だが帳簿は逆を示している。
紙の端には、昨夜カイと数字を突き合わせたときの自分の走り書きが残っていた。
(粉袋の数が合わない。ブライスが誰かに貸している……? この冬の天秤で、一番軽く見てはいけない皿)
羊皮紙の上には、砦と三つの村を示す印。そのまわりに、手近な小石とパン屑と、拾った釘を置いていく。
砦の印には小石を多めに、東の村には魚のつもりの木片、西の鉱山には釘、南のミルストーンにはパン屑をいくつか。
南のパン屑を一つ指で払うと、砦のまわりの小石が、すぐ足りなくなる形になった。
試しに東の木片を減らすと、今度は砦と南の周りが、あからさまに薄くなる。
(どこか一枚の皿が欠ければ、残りの皿も連鎖して傾く)
粉は、冬の命の最低ラインだ。
東の村へ“十日分”を送ったあとで、ここ南で循環が止まれば、最後に沈むのは砦だ。
ペン先でミルストーンの印を軽く叩いた。
乾いた音が、自分の胸の奥にも響く。
(ここで数字をごまかされると、全部の絵が歪む)
そう考えている最中、扉が軽く叩かれた。
「文官、入るぞ」
返事を待たずに入ってきたのはゲルト。その後ろには、湯の湯気を揺らすカイがいた。
カイのマグから立ち上る湯気は白く、彼の寝癖混じりの黒髪の周辺で、妙な輪を描いている。
「南に行く準備はできてる」
そう言うカイの声は、いつもよりわずかに張りがあった。
東の村での狼煙と死体の布――あれが、彼のどこかをわずかに覚醒させたのだと、シュアラは推測する。
「団長、昨夜の帳簿ですが――」
「ああ、粉の減り方がおかしいってやつな」
カイは湯を一口飲み、ひりつく喉を洗うように息を吐いた。
「三割だっけか。自然に減る数字じゃねえ」
「粉袋が三割も勝手に消える倉があったら、帝都の財務省が倒れています」
シュアラは淡々と返し、机上の地図に視線を戻した。
「ミルストーンの倉で粉が止まると、東への補給が止まります。東が止まると、砦の兵糧が目減りします。……全部つながっています」
「つまり、南の村長が腹に入れた分だけ、こっちの腹が減るってことだな?」
ゲルトが面倒くさそうにあくびを噛み殺す。
「おおざっぱに言えば、そうです」
「だったらさっさと行って腹をひっくり返そうぜ」
「物理的にはひっくり返さないでください」
シュアラが小声で付け加えると、カイが口元だけで笑った。
「話は道中で続けりゃいい。雪が深くなる前にな」
彼はマグを置き、腰の剣を軽く叩いた。金属音が、小さな部屋の空気を締める。
シュアラは帳簿を革紐で束ね、外套の内側にしまった。
数字はここにある。あとは、それをどう見せるかだ。
南へ向かう街道は、朝霧の名残が薄く漂っていた。霜柱を踏む音が、一定のリズムで続く。
馬の息が白く膨らみ、冬の入り口が空気を固くしていく。
行列の先頭にカイ、その少し後ろにゲルトと第一班の兵たち。シュアラは列の真ん中、借りた馬の背で、揺れに合わせて必死に腰を固定していた。
(……やっぱり、落ちそうです)
鞍の上で体が浮くたび、腹の底がひやりとする。
東の村へ向かったときと同じ恐怖だが、今回は少しだけマシだった。一度経験した分だけ、「落ちる確率」が頭の中でわずかに下がっている。
「嬢ちゃん、馬に慣れたか?」
後ろからゲルトの声が飛んできた。
「死ぬほどではありません」
「ほう、上出来だ」
(死ぬほどではない=上出来……?)
妙な評価基準に戸惑いつつも、返す言葉は「ありがとうございます」だけにしておいた。
丘を越えた瞬間、のっそりと巨大な影が見えた。
ミルストーンの大風車だ。雪を抱いた羽根は重く、不器用に空を掻いている。
ギィ……ゴゴゴン……と、どこか痛みに耐えるような音が響いた。
(回転が遅い……七割程度。粉袋の減り方と、だいたい一致)
風車の回転は、村全体の呼吸だ。
息を吸い込み、粉に変えて吐き出す。今のミルストーンは、明らかに息が浅い。
風車の根元には、粉挽き小屋。
その前に、丸い腹の男――村長ブライスが立っていた。
「ようこそ、ようこそ! ヴァルム砦のお歴々が、こんな田舎まで!」
愛想笑いと一緒に、脂の乗った手がぶんぶん振られる。指の間まで、粉と油が染み込んでいた。
「お出迎え感謝します、村長」
シュアラは馬から降り、裾を整えて一礼した。
「先日の税記録の件で、少々確認したい数字がありまして」
「ええ、ええ! 数字ならお任せを! ミルストーンの粉は、この辺り一帯の命綱ですからな!」
口では立派なことを言うが、その目は落ち着きなく風車と砦の兵を行き来している。
「では、粉袋の現在の在庫を見せていただけますか」
「もちろんとも!」
ブライスは胸を張り、粉挽き小屋の扉を押し開けた。
中は、粉塵で薄く白く霞んでいた。石臼の低い響きが腹の底へ伝わる。
壁際には粉袋が山になって積まれ、ところどころ口が開いている。
(……数が、少ない)
帝都で見慣れた倉庫の光景と照らし合わせるまでもない。
帳簿上の数字から逆算した「あるべき山」と、目の前の山の高さが違う。
「冬前にこれは不自然です。帳簿を拝見します」
シュアラが静かに告げると、ブライスは大げさに手を振って笑った。
「いやあ、風が強くてね! 粉なんて軽いもんで、飛ぶんですよ!」
「三割も?」
軽く問い返しただけで、ブライスの笑みがぴたりと固まる。
「そ、そりゃネズミも食いますしね! 賢いんですよあいつらぁ!」
(賢くても三割は食べません。そんなネズミがいたら帝都の食糧も消えてます。そもそも保管場所の状態は確認済みですし)
喉まで出かかった言葉を飲み込み、代わりに頭の中で数字だけを並べる。
「触っていいか?」
カイが積まれた粉袋に手を伸ばした。掌を押し当て、軽く沈める。ずぶりと頼りない感触。ブライスの額に汗がにじむ。
「……村長」
シュアラは穏やかに言った。
「帳簿を確認したいだけです。隠さなければ、すぐ終わります」
「な、なにも隠してなんて――」
「嘘くせえ声だな」
ゲルトが冷たく吐き捨てた。風車の軋みと、男の声の薄さが、雪の上で妙に重なる。
ブライスが口を開きかけた、その瞬間――音がした。
パキン。
粉挽き小屋の窓辺に飾られていた陶器の壺が、床に落ちて砕けた音だ。壺を持ち上げ、落としたのはカイだった。
「だ、団長さん! 高い――」
ブライスの叫びを、カイが肩越しに振り返って遮る。
「次はもっと高いやつ割る。帳簿を出せ」
「ひっ……わかった! 本物を!」
ブライスは慌てて奥へ消え、埃をかぶった帳簿を抱えて戻ってきた。胸元で抱え込む腕が、微かに震えている。
シュアラは差し出された帳簿を受け取り、表紙の汚れと指の跡を確かめてから、ゆっくりと開いた。
ページを繰ると、インクが不自然に均一だ。日付の並びに対して、筆圧がどれも同じ。
(筆圧が同じ……日付の改ざん。後書きですね)
貸し付け欄は多いが、返却欄はほとんど空白。
貸付先の名前も偏りすぎている。特定の家名ばかりが並んでいた。
「困っていた村人を助けた、とありますね。返却は?」
「そ、それは……多少“見返り”が……」
「あなた個人への、ですね」
ブライスの喉が、ごくりと動いた。風が粉袋を揺らし、冷たい空気が肌を刺す。風車の羽根が鈍く回り続ける音が、妙に大きく感じられた。
カイが低い声で言う。
「村長。お前のやり方じゃ、村の外に借りが残る」
「外って?」
ブライスが虚勢を張るように眉を吊り上げる。
「砦だ。お前が個人で粉を動かしても、村の信用にはならん。“粉が消えた村”って評価だけが残る」
シュアラは帳簿を掲げた。
「村単位で砦と取引しましょう。不足は砦が貸し、返すのは“村全体”。あなたの懐ではなく、村の帳簿に記録します」
ブライスは長い沈黙のあと、肩を落とした。
粉挽き小屋の中で働いていた若者たちが、雪を踏む足音を忍ばせてこちらを伺っている。
「……そこまでやる理由は……」
「あなたの村が沈めば東が沈み、東が沈めば砦が沈みます」
シュアラは、淡々と、しかしごまかさずに告げた。
「この村だけの問題じゃありません。今のままだと、『どこでどれだけ消えたか分からない粉』が増えていくだけです」
観念したように、ブライスはもう一冊――隠していた帳簿を差し出した。先ほどのものより薄く、紙質も良い。
「……粉の本当の流れも……全部出す」
「最初からそうしてくだされば、壺は一つで済みました」
カイがぼそりと付け加える。ブライスの顔が引きつき、若者たちの間から小さな笑いが漏れた。
粉挽き小屋の奥は、粉塵と湿気で白く霞んでいる。石臼の低い響きが腹に伝わる。足元の板は踏むたび軋み、そのたびに粉がふわりと舞い上がった。
「くしゃみ出そうだな……」
ゲルトが鼻をひくつかせる。シュアラは粉袋の山と帳簿を見比べながら、数字と現物を丁寧に揃えていった。
隠し帳簿の方には、先ほどの帳簿にはなかった名前も載っている。
そこに書かれている額と、粉袋の山の減り方が、ようやく近づいた。
「ここにある名前の方々を、呼んでいただけますか」
シュアラが頼むと、ブライスは苦い顔をしながらも、若者に指示を出した。