死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します   作:来巻梓

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撃てない狙撃手(2)

 団長室を出て射場へ戻る頃には、太陽は砦の壁の向こうに半分ほど沈みかけていた。

 雪に踏み荒らされた地面だけが、さっきの訓練の名残を留めている。

 藁人形は横倒しになり、胸の赤い布が濡れて暗い色に変わっていた。

 

 その脇で、リオが一人、矢を拾い集めていた。

 

 手袋をしない手は赤く、指先はかじかんでいる。

 それでも、折れた矢は丁寧に脇に分けている。

 

「残骸も、資産ですよ」

 

 声をかけると、リオがびくりと肩を震わせた。

 

「ぐ、軍師殿……」

 

 振り向いた瞳は、驚きと警戒と、少しの怯えが混ざった色をしていた。

 

「壊れた矢でも、削れば火種になります。鉄は溶かせば、別の形になります」

 

 シュアラは、折れた矢を一本拾い上げた。

 

「あなたも同じです」

 

「お、俺が……折れた矢ってことですか」

 

 自嘲混じりの言い方に、シュアラは首を振る。

 

「折れかけた矢、ですね。まだ完全には折れていません」

 

 それは慰めではない。現状の診断だ。

 

 リオはうつむき、矢筒の口を見つめた。

 

「さっき、また……撃てませんでした」

 

「見ていました」

 

「的なら、行けるんです」

 

 リオは必死に言葉を探しているようだった。

 

「丸い板とか、木とか、瓶とか。どれでも当てろって言われたら、いくらでも当てます。でも、人形になると……」

 

 喉が詰まり、言葉が途切れる。

 

「胸に布巻かれてるだけで、人みたいに見えて……。前に、一回、間違えて……」

 

 そこから先は、声にならなかった。

 肩だけが、小さく震えている。

 

 シュアラは、立ち尽くす少年の前に回り込んだ。

 

「リオさん」

 

「……はい」

 

「あなたに聞きたいことが二つあります」

 

 彼女は一本の矢を取り出し、その矢先を藁人形の足元に向けた。

 

「一つ。敵の馬の脚を狙えと言われたら、撃てますか?」

 

 リオは一瞬迷い、それから、わずかに頷いた。

 

「……馬、ですか」

 

「ええ。人を落とすための脚です」

 

 彼の瞳に、少しだけ焦点が戻る。

 

「撃て……る、かもしれません」

 

「二つ目。あなたの後ろにいる仲間が斬られそうになったとき、敵の手から剣を弾けと言われたら?」

 

 リオの表情が揺れた。

 

「それも……多分、行けます。人、じゃなくて……持ってるものなら」

 

(やはり、恐怖の境界線は“命そのもの”ではなく、“人そのもの”か)

 

 シュアラは、心の中でメモを取る。

 

「分かりました」

 

 彼女は矢を矢筒に戻した。

 

「では、当面あなたは、『人の周りにある物』だけ撃ってください」

 

「え?」

 

「人そのものを狙う訓練は、しばらく禁止します」

 

 リオの目が丸くなる。

 

「そ、それでいいんですか?」

 

「良くはありませんが、今のあなたにはそれが最善です」

 

 きっぱりと言うと、リオは困惑したように眉を寄せた。

 

「でも、俺……戦えないままで……」

 

「戦えます」

 

 シュアラは、藁人形の胸ではなく、その腰のあたりを指さした。

 

「馬を倒し、剣を弾き、旗を折る。それだけでも、戦場の形は変わります」

 

 その説明は事実だ。

 同時に――

 

(これは、彼に“最初の一歩”を与える作業でもあります)

 

 完全な殺害ではなく、「戦いを終わらせるための矢」。

 彼にとっては、おそらくそれ以外に矢を放つ理由が持てない。

 

「団長とは話をつけました」

 

 シュアラは続けた。

 

「条件付きで、あなたをまた“矢”として盤面に乗せる許可をもらっています」

 

「じょ、条件……?」

 

「あなたの矢が、味方を傷つけそうになった瞬間、即座に引き上げられること」

 

 リオの喉が、ごくんと鳴った。

 

「怖いですか」

 

「……そりゃ、怖いです」

 

 正直な答えに、シュアラは小さく頷いた。

 

「私も怖いです」

 

「軍師殿が、ですか?」

 

「ええ。数字だけで片付く話なら、とっくに終わっているはずです」

 

 彼女は、懐から薄い手帳を取り出した。

 

 そこには、新しいページが一つ開かれている。

 まだ何も書かれていない白い紙の上に、ペン先が触れる。

 

「ここに、ゲームを一つ、追加します」

 

「ゲーム……?」

 

「『矢を撃てない狙撃手を、矢として盤面に戻すゲーム』です」

 

 リオは、ぽかんと口を開けた。

 

「な、なんか、すごく嫌なゲーム名なんですけど」

 

「私もそう思います」

 

 けれど、と彼女は続ける。

 

「このゲームに勝てれば、砦の“死ぬ確率”が少し下がる」

 

 その言い方が、どこか冷たすぎることは分かっている。

 しかし彼女は、自分の言葉を選び直さなかった。

 今はまだ、「恐怖のコスト」をうまく言い換える語彙を持っていない。

 

「リオさん」

 

 シュアラは、真っ直ぐに彼を見た。

 

「あなたは、ここに残りますか。それとも、後方で荷物を運ぶだけの兵になりますか」

 

 突きつけたのは、二択だ。

 どちらを選ぶかは、彼自身の問題。

 

 リオはしばらく唇を噛みしめ、俯いた。

 雪の上に、ぽたりと小さな滴が落ちる。

 

 泣いているのだと気づくまで、少し時間がかかった。

 

「……残ります」

 

 かすれた声が、雪に吸い込まれる。

 

「こんな俺でも、矢として使ってもらえるなら……残りたいです」

 

 その言葉に、シュアラは静かに頷いた。

 

「分かりました」

 

 ペン先が、白い紙の上を滑る。

 

『ゲーム3:狙撃手リオ 初期条件:矢を撃てない』

 

 さらりと書き込み、その下に、小さく数字の欄を作る。

 

『距離/対象(物)/命中率/手の震え具合(主観)』

 

(恐怖のコスト。今はまだ、粗い目盛りでしか量れませんが)

 

 それでも、彼女は書き続ける。

 

「では、明日から、少しだけ訓練メニューを変えます」

 

 シュアラは手帳を閉じ、リオに向き直った。

 

「最初の課題は、『馬のない射場で、馬の脚を撃つ練習』です」

 

「……どういうことですか?」

 

「それは、考えてください。馬を用意する予算は、今はありませんから」

 

 少し皮肉を混ぜて言うと、リオは戸惑いながらも、わずかに笑った。

 

 その笑いを見て、シュアラは胸の奥で、何かがほんの少しだけほどけるのを感じた。

 

(数字に乗らない変化、ですね)

 

 雪はまだ本格的には降り出していない。

 けれど、冬は確実に近づいている。

 

 その冬を越えるために必要な矢が、今、一本だけ――折れかけたまま、彼女の盤面に戻ってきた。

 

 その矢を、どうすれば真正面から放てるようになるのか。

 恐怖という名の誤差を、どうやって計算式の中に組み込むのか。

 

 シュアラは手帳を抱え直し、まだ温もりの残る弓の弦を一度だけ指先で弾いた。

 

 静かな音が、白い空気の中に溶けていった。

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