死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します   作:来巻梓

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空欄のままの死亡届

 山肌をなぞるように続く細い道が、崖の上の煙を視界の端から追い出すまで、ひたすら下へ伸びていた。

 足もとには、茶色く変色した蹄鉄の痕と、荷馬車の浅い轍がとぎれとぎれに残っている。雪と泥に半分埋もれたそれは、「もう使われていない」ではなく、「ぎりぎりまで使い倒されている」道だと告げていた。

 

 苔に縁取られた里程標が、片側へ首を折るように傾いている。

 刻まれた文字はところどころ欠け、指でなぞれば粉になりそうだったが、帝都からここまでの距離だけは、かろうじて読み取れた。

 

『帝都アークライトまで 三日』

 

 馬を替えず、まじめに街道を辿って三日ぶん。

 侯爵家の旅程表の端にも、同じ数字が記されていたのを思い出す。そこには、「二日目終点候補」「三日目終点確定」と、父の小さな追記が添えられていた。

 

 道脇の石積みは一部崩れ、崩れ目から顔を出した草が、道と崖の輪郭をゆっくり飲み込もうとしている。

 帝都から見れば、ここはすでに「辺境」へ滑り込む手前――帳簿の線が薄くなり始める場所だ。

 

 エリアーナは、抱えている帳簿がずり落ちないよう、胸の位置を少し上へ持ち上げた。

 片手は常に斜面側の幹や露出した岩を探っている。柔らかくなった土を踏むたび、靴底から冷たい水がじわりと染み上がってきた。

 

(通行頻度は、かつての三分の一……いえ、四分の一程度でしょうか)

 

 足の裏の感触と、轍の薄さを頭の中で掛け合わせる。

 税区を区切る地図の墨線から、この道が外されても、不思議ではない。

 

 息にほんのり白さが混じり始めた頃、谷を巻いていた道は傾斜を緩め、なだらかな丘の縁へと抜け出た。

 丘を一つ越えた先に、瓦屋根が肩を寄せ合うように連なっている。

 

 煙突から上がる煙が、夕方の空に細い帯を何本も引き、その匂いが風に薄く乗ってきた。焼いた麦と、煮込みに使う安い油の匂い。

 

 小さな宿場町だ。

 土を踏み固めただけの低い土塁と、形ばかりの木柵が輪郭を示している。

 

 帝都から見た公式の地図では、「第二税区北街道」の欄に、小さな丸とともに名前だけ載っていた場所。

 旅程表では「帝都発三日目の宿候補」と端に小さくメモされていた。その数字どおり、ここまでで、王都を出てからもう何晩も過ぎている。

 

 出入りする人影は多くない。荷車を押す男と、背負い籠を担いだ女たちが、日暮れを急かすように足早に家々へ吸い込まれていく。戸口の隙間から漏れる灯りが、雪混じりの泥に短い筋を落としていた。

 

 エリアーナは、泥が跳ねたドレスの裾を一度だけ手で払うと、何事もなかった顔で町の入口をくぐった。

 肩に掛けた灰色のマントは、父の外套の裏地をばらして縫い合わせたものだ。

 

 焼け焦げたドレスの裂け目は、その下に隠れている。布の焦げた匂いは、もうほとんど残っていない。

 遠目には、山道でしくじった旅人の一人――それくらいの記号にしか見えないはずだ。

 

 町の中央近く、木造二階建ての建物が、他よりわずかに大きく口を開けていた。

 頭上に掲げられた看板には、掠れた黒い字で「宿」とある。板の端が欠け、打ち直した釘の跡がいくつも並んでいた。

 

 前には小さな荷馬車が一台。車輪にはまだぬかるみの泥がこびりつき、御者台は空のまま冷えている。

 

 扉の取っ手に触れると、乾いた木がきしんだ。

 押し開けた瞬間、外気とは違う重さの空気が、胸のあたりをぬるく撫でて通り抜ける。

 

 煮込んだ豆と根菜の匂い。水で薄めた安酒の酸っぱい匂い。長いあいだ煤を吸った木材の、焦げとも埃とも言い切れない匂い。

 王都の香水と蜂蝋の甘さが混ざった空気より、よほど素直な匂いだった。

 

 室内は、炉の火と壁際に吊るされた数本のランプだけで照らされている。光は黄色く、薄い油膜越しに見るような揺らぎ方をしていた。

 節の目立つ木のテーブルがいくつか置かれ、その半分ほどに旅装束の男たちが陣取っている。

 

 革のこすれる音、ジョッキ同士の鈍い衝突音、笑いが喉で潰れたような声。

 扉の音に、いくつかの視線がこちらをなぞった。

 

 ドレスの色と髪の長さを一度だけ測るように見て、それから、誰もが自分の酒へと目を戻す。

 「見知らぬ黒髪の女」という記号として処理されるまでに、そう時間はかからなかったらしい。

 

 エリアーナは、足音がなるべく目立たないよう歩幅を調整しながら、まっすぐカウンターへ向かった。

 カウンターの手前で足を止め、息を一度だけ深く吸う。

 

「一晩、泊まれ――」

 

 言い出した声が、喉の奥でひっかかり、裏返りそうになる。

 咳払いを小さく一つ挟み、視線をカウンターの木目へ落とした。

 

「一晩、泊まれますか」

 

 今度は、普段より半音ほど低く抑えた声が、木のカウンターに当たって跳ね返った。

 

 カウンターの向こうで帳簿をめくっていた男が顔を上げる。

 灰色の髭の隙間から、濁りのない視線だけがすばやく飛んできた。値段と面倒事の臭いを一緒に計算する目だ。

 

「銀貨一枚。飯付きだ。部屋は二階の……そうだな、一番奥」

 

 言いながら、男は背後の鍵束を探る。

 エリアーナは、その手の動きを横目で追いながら、懐から布袋を取り出した。

 

 指先で硬貨の縁を一枚ずつなぞる。冷えた金属が、皮膚の内側の熱を奪っていく。

 銀貨を一枚摘まみ出し、余計な音を立てないよう、袋ごと袖の内側へ滑り込ませた。

 

 男は銀貨を爪で弾き、金属音の質を確かめると、カウンター脇の帳簿の上にぽんと置いた。

 

「名前は」

 

 問いだけが来て、視線は帳簿から動かない。

 ペン先が、次の文字を待つように紙の上で止まっていた。

 

 エリアーナは、扇を持っているふりで指先を一度折り曲げる。舞踏会で身についた癖が、こんな場所で役に立つとは思わなかった。

 

「……旅の者です。もし必要でしたら、見た目の方で」

 

 半拍遅れて返す。

 男は顔を上げもせず、肩を小さくすくめただけだった。

 

「じゃあ――黒髪の女でいいな」

 

 紙の上に、素朴な字が刻まれていく。

 確認のための視線は、一度もこちらへ戻ってこない。

 

(姓と名を問われない、という手続き。今だけは、その雑さに感謝すべきでしょうね)

 

 木でできた鍵が一つ、無造作に投げ渡された。

 掌の上で転がるそれは軽いが、冷たい金属の芯が確かに指に触れた。

 

 エリアーナは小さく会釈し、奥の階段へ向かう。

 踏み板を一枚上がるたび、乾いた軋みが足首から脳裏へ上ってくる。王宮の大理石では、決して聞こえなかった音だ。

 

*

 

 二階の一番奥の部屋は、細長い板張りの箱のような空間だった。

 壁際に小さな寝台が一つ。その向かいには、片脚だけわずかに短く見える机が置かれている。脚の下に板切れが挟まれているのに、それでも傾きが完全には直っていなかった。

 

 窓枠と石壁の隙間から、冷たい外気が細い糸のように流れ込んでいる。

 曇ったガラスには、昼間付いた指の跡がいくつか残っており、その向こうで、宿場の灯りが滲んで揺れていた。

 

 扉を閉め、鍵を回す。金属が噛み合う手応えを、手首から肘まできちんと確認する。

 そのうえで、腕の中の帳簿と、懐の封筒を机にそっと下ろした。

 

 床板の隙間から、階下の音がわずかに上がってくる。

 椅子の軋む音、皿の触れ合う音、酒を注ぐ音。その奥で、いくつもの声が混じり合い、時々誰かの笑いが表面に浮かんではすぐ沈んだ。

 

「……おい、聞いたか。北の街道で、でかい火事があったって話」

 

「侯爵様ご一行が丸焼けだとか何とか。クライフェルト侯爵っていう、帝都の偉いのがよ」

 

「娘も一緒だったってな。馬車ごと燃えたらしいぞ。昼間ここの駐屯隊の奴らが、得意げに吹いてた」

 

 エリアーナの指先が、無意識に机の角を掴んでいた。

 木の角に爪の先が食い込む。

 

 掴んでいることに気づき、ゆっくりと力を抜いた。

 薄く残った爪の跡を、親指の腹でならす。

 

「殿下の護衛までぞろぞろ付けてもらって、“静養”に出たんだろ? それが山道で事故。世の中、分かんねえもんだ」

 

「まあ、事故ってことにしねえと、いろいろ面倒なんだろさ。殿下の面子とかよ」

 

 乾いた笑いが混ざる。

 酒で温まった喉から出た笑いは、上まで届く前に、床下でしぼんだ。

 

 エリアーナは、机の上の封筒へ視線を落とした。

 

 紅い封蝋には、崖下で付いた泥と小石の傷が、細かく刻まれている。

 宛名欄は、父から渡されたときと同じく、きれいな空白のままだ。

 

 そこに名前を書き込む権利は、もう誰にもない――少なくとも、帝都の帳簿上では。

 

(“事故”で統一、というところでしょうか)

 

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