死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します   作:来巻梓

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凍てつく射場の計算書(1)

 その夜、シュアラの部屋には、まだ矢の匂いが残っていた。

 

 昼間、射場で張り詰めていた弦の音と、藁人形の乾いた手触りが、指先にこびりついている気がする。

 

 床にはいつものように紙と石とパンくずが散らばり、その真ん中に蝋燭が一本。

 短くなった蝋が皿の縁を溢れかけて、固まりかけていた。

 

 シュアラは、膝の上の手帳を開く。

 

 一枚、二枚とめくった先に、昼間書いたばかりの文字がある。

 

『ゲーム3:狙撃手リオ 初期条件:矢を撃てない』

 

 その下に、細い線で組まれた表。

 

『距離/対象(物)/命中率/手の震え具合(主観)』

 

 欄の多くは、まだ空白のままだ。

 

 シュアラは、ペン先をインクに浸し、迷いなく一行を書き足した。

 

『二十歩/丸的/十本中九本/震え1』

 

 さらに、もう一行。

 

『二十歩/藁人形の胸/零本/震え5(指が止まる)』

 

(数字にすると、あまりにもはっきりしていますね)

 

 丸い的に向けた矢は、ほとんど誤差のない花になった。

 人の形になった途端、矢は一本も放たれない。

 

 違うのは、的の形だけ。

 

 シュアラは、表の余白に小さく書き込む。

 

『恐怖=命中率を0まで落とす要因/致死部位を狙う時にのみ発生』

 

(恐怖のコスト。今のままでは、“誤差”どころか“ゼロ割り”です)

 

 ゼロで割っては、計算が崩壊する。

 

 父の声が、遠い記憶の底から浮かび上がる。

 

 ──数字にできないものは、まず「どこからどこまでがそれなのか」を区切れ。

 

(境界線は、“人そのもの”)

 

 シュアラは、先ほどの二行の下に、さらに枠を増やした。

 

『二十歩/馬脚の代替(縄)/?/震え?』

『十五歩/武器の柄の代替(棒)/?/震え?』

 

(人ではなく、“人の周りにある物”。そこなら、まだ恐怖は薄い)

 

 恐怖を完全に消すことはできない。

 けれど、「発生しない場所」を見つければ、ゲームの駒として扱える。

 

(まずは、恐怖が“ほとんど作用しない距離と対象”を探す)

 

 そのうえで、少しずつ境界線をずらしていく。

 

 丸だった的を、棒に。棒を縄に。縄を、より動きのある物へ。

 

(理屈の上では、恐怖も“訓練による減価償却”が可能なはずです)

 

 ペン先が、また走る。

 

『目的:恐怖による戦力損失を最小化すること』

『手段:①非人型標的での命中率測定 ②恐怖の境界線の再定義』

 

 書きながら、胸の奥で小さな違和感がうごめいた。

 

 「恐怖による損失」という言い方が、自分でも少し冷たく聞こえる。

 

 けれど、今は数字でしか考えられない。

 

(“死なせたくない”という感情は、数字の外側に置いておきましょう)

 

 蝋燭の火が、わずかに揺れる。

 

 シュアラは手帳を閉じ、机に立てかけた弓に一度だけ触れた。

 

「……明日は、縄と棒の在庫を確認しないと」

 

 ひとりごとのように呟く。

 

 その声もまた、静かに冬の空気に溶けていった。

 

 翌朝の射場は、薄い雲に覆われた空の下にあった。

 

 霜の残る地面から、踏まれるたびに白い粉がはじける。

 的の板が並ぶ列の手前に、見慣れない仕掛けがいくつか立っていた。

 

 低い杭に渡された横木。

 横木から垂れた何本もの縄。

 縄の先には、割れた皿や古い鍋の蓋がぶらさがっている。

 

「……なんだ、こりゃあ」

 

 早めに来ていた弓兵が、眉をひそめる。

 

「馬の足か?」

 

「脚……に見えなくもないな」

 

 ざわめきが広がり始めたところで、ゲルトが射場の中央に立った。

 肩をぐるりと回し、シュアラのほうを横目で見る。

 

「軍師殿。本日の“変な遊び”のご説明をどうぞ」

 

「遊びではありません。実験です」

 

 シュアラは、そう言って一歩前へ出た。

 

 手にはいつもの手帳。

 その表紙を軽く叩きながら、弓兵たちを見渡す。

 

「今日は、通常の的当ての前に、『縄切り』と『棒撃ち』の試験を行います」

 

 兵たちの視線が、吊るされた鍋の蓋に集まった。

 

「まず、『縄切り』から。距離は二十歩。

 条件は、ぶらさがっている鍋の蓋を落とすように、縄を狙うこと」

 

「的の真ん中じゃなくて、縄?」

 

「はい。馬の脚や、敵の槍を持つ腕の代わりだと思ってください」

 

 兵たちの中に、少し緊張の笑いが漏れた。

 

「成功条件は簡単です。矢を三本以内に放ち、そのうち一本でも縄を切れば合格。

 報奨として、夜番一回免除と、温かいスープの追加一杯を」

 

 ざわざわ、と空気が変わる。

 

「マジか……」

「夜番一回、でけえぞ」

「でも、あんな細いもん当てられるかよ」

 

「ご安心を。外しても減点はありません。

 ただし、狙うのはあくまで『縄』。鍋の蓋を直接狙った場合は失格です」

 

 シュアラは、さらりと言い添えた。

 

(鍋を狙えば、“当てたつもり”にはなりますが、意味がありませんから)

 

「それじゃあ……よし、腕に自信のあるやつから前に出ろ」

 

 ゲルトが声を張ると、すぐに数人が前に並んだ。

 

 最初に出てきたのは、第三班の中堅弓兵。

 いつも的の中心近くに矢を集める腕の持ち主だ。

 

「二十歩、風なし……よし」

 

 彼は息を整え、弓を引く。

 

 弦が鳴り、矢が飛ぶ。

 

 鍋のすぐ横を掠め、背後の板に突き刺さった。

 

「おしい!」

 

「あと少し右だ!」

 

 仲間たちの声が飛ぶ。

 

 二本目。

 三本目。

 

 いずれも、縄の左右をかすめるだけで、鍋はぶらぶら揺れるばかりだ。

 

「はい、交代」

 

 ゲルトが肩を叩き、次の兵を呼ぶ。

 

 二人目、三人目。

 誰もが、胸の的なら確実に当てられる腕を持っている。

 

 それでも、細い縄はなかなか切れない。

 

 縄の中央を狙っているはずの矢が、ほんのわずかに上下して板に刺さる。

 鍋の蓋にかすった矢が、甲高い音を鳴らすことはあっても、肝心の縄には届かない。

 

(命中率は、だいたい三十本中零。震えは……一か二。技術的な難しさですね)

 

 シュアラは、手帳の端に小さく印をつけていく。

 

 やがて、ゲルトが声を上げた。

 

「リオ!」

 

 呼ばれた少年が、びくりと肩を揺らした。

 

 周囲の視線が一斉に集まる。

 

「おい、大丈夫かよ」

「丸い的なら百発百中だしな」

「でも、紐なんて当てられるのか?」

 

 冷やかしとも期待ともつかない声が混じる。

 

 リオは何も返さず、弓を抱えたまま前に出た。

 いつもより一歩小さい歩幅だ。

 

 射位に立ち、ゆっくりと弓を構える。

 細い指が弦にかかり、視線が縄の一点を結ぶ。

 

「……距離二十。風、ほとんどなし」

 

 彼の口から、かすれた声がこぼれた。

 

 弦の音が、空気を震わせる。

 

 矢は、迷いのない軌道で飛んだ。

 

 ぱちん。

 

 短い音とともに、縄が途中から弾け飛ぶ。

 鍋の蓋ががしゃりと地面に落ち、霜を散らした。

 

 一瞬、静寂。

 

 次の瞬間、兵たちの間からどよめきが上がった。

 

「おおっ……!」

「一発で切りやがった」

「見えたか? あの軌道」

 

 リオ本人は、呆然と縛っていた指先を見つめていた。

 

「おめでとうございます」

 

 シュアラは、わざと少し柔らかい声を出した。

 

「規定内、一矢命中。夜番一回免除と、スープ一杯追加確定です」

 

「……え?」

 

 リオが顔を上げる。

 

 彼の瞳に、冬の光が差し込んでいた。

 

「さすがだな、お前」

 

 ゲルトが、口の端を上げて彼の背中をどんと叩く。

 

「最初の“綱切り役”は決まりだ」

 

 周囲の視線が、さっきまでの冷やかしとは違う色を帯び始める。

 「役に立つ腕」としての目だ。

 

(……やはり、“人ではない物”なら指は動く)

 

 そのあとも訓練は続いたが、縄を切れた者は、結局リオ一人だけだった。

 

 全員分の試験が終わり、兵たちが持ち場へ散っていく。

 

 射場には、切れた縄の切れ端と、踏み荒らされた霜だけが残った。

 

 シュアラは、落ちていた縄を一本拾い上げながら声をかける。

 

「リオ。少し時間をもらえますか」

 

「……はい」

 

 返事は小さいが、はっきりしている。

 

 シュアラは、風除けの塀の影まで歩き、そこに立っていた藁人形を一体引き寄せた。

 胸の部分を布で隠し、代わりに腕と足元に赤い布を巻く。

 

「これは……」

 

「人形の胸は、当面封印します」

 

 彼女は淡々と言った。

 

「その代わり、あなたにお願いしたいのは、『人の周りにある物』を確実に撃つことです」

 

「……さっきの縄、みたいなやつですか」

 

「そうです」

 

 シュアラは、手帳を開き、さきほどの数値を指先でなぞった。

 

「丸い的なら、二十歩で十本中九本命中。

 縄は一発で切れる。

 でも、人形の胸は、矢を放てない」

 

 リオの肩が、わずかに強張る。

 

「その状態で戦場に出れば、どうなるか」

 

 シュアラは、声の調子を変えずに言葉を続けた。

 

「例えば、敵とこちらの兵が二十人ずつぶつかる場面を仮定します。

 あなたが『物』を狙って撃つか、『何も撃たないか』で、こちらの死者がどれくらい変わるか」

 

「……死者、ですか」

 

 リオの喉が、ごくりと動いた。

 

「はい」

 

 シュアラは、手帳の別のページを開いた。

 

 そこには、簡単な計算が記されている。

 

『前衛接敵時の致死率:おおよそ三十%』

『敵の突撃速度を縄切りで落とした場合、致死率:二十%まで低下』

『兵二十人の場合、死者六人→四人(期待値)』

 

「ざっくりとした仮定ですが」

 

 シュアラは、数字を指で叩く。

 

「あなたが縄を切って敵の突撃を遅らせれば、この場面で“死なずに済む可能性が上がる兵”は、二人分」

 

「……二人」

 

 リオの声が、かすかに震えた。

 

「逆に、あなたが怖くて矢を放てなければ、死ぬ可能性が高い兵が二人増える」

 

 彼女の言葉は冷静そのものだった。

 

「これは、あなたを責めているわけではありません。

 ただ、“撃たないこと”にも、ちゃんとコストがあるという話です」

 

 リオは、うつむいた。

 

 握り締めた手の甲に、白い血管が浮かぶ。

 

「……俺が撃たないと、二人死ぬってことですか」

 

「確率の話です」

 

 すぐに返す。

 

「もちろん、私の数字は粗い前提の上に成り立っています。

 でも、“あなたの矢が一本飛ぶことで、誰かが死なずに済む確率が上がる”のは事実です」

 

 それは、数字として見れば間違っていない。

 

 けれど、リオの耳には、別の形に聞こえていた。

 

「……じゃあ、あの時は」

 

 彼は、握った指先を見つめたまま言った。

 

「あの時、俺が外したせいで……肩を撃ったあいつの代わりに、誰かが死んだかもしれないって、そういう……」

 

「違います」

 

 思わず、シュアラの声が少しだけ強くなる。

 

「その場面の計算はもう終わっています。今話しているのは、“これから起こりうる場面”の話です」

 

「でも、同じでしょう」

 

 リオが顔を上げた。

 

 瞳の奥に、乾いた光が揺れる。

 

「俺が撃っても、撃たなくても、誰かが死ぬかもしれない。

 俺が矢を放したせいで、誰かが死ぬかもしれないってことなんですよね」

 

「……そうですね」

 

 否定しきれない。

 

「だからこそ、私たちは“死者の数”を減らす選択を取らなければならない。

 個人の恐怖より、全体の生存確率を優先する必要が――」

 

「軍師殿」

 

 低い声が、話を断ち切った。

 

 いつの間にか、塀の影にゲルトが立っていた。

 

 腕を組み、じっとこちらを見ている。

 

「……今の話、最初から聞いてました」

 

 リオがはっとして振り向く。

 

 ゲルトは、少年の肩をぽん、と軽く叩いた。

 

「ちょっと休んでこい。スープでも飲んでろ。ここは大人の話だ」

 

「……はい」

 

 リオは、何か言いかけて、それを飲み込み、頭を下げて小走りに去っていく。

 

 霜を踏む足音が遠ざかるのを確かめてから、ゲルトはゆっくりとシュアラのほうを向いた。

 

「なあ、軍師殿」

 

 いつもの軽口混じりの呼び方のはずなのに、その声には棘があった。

 

「今の、あいつに全部聞かせる必要、あったか?」

 

「……必要があります」

 

 シュアラは、手帳を閉じ、胸の前で両手を組んだ。

 

「彼自身が“自分の矢の重さ”を理解しない限り、この砦全体の――」

 

「“砦全体の”な」

 

 ゲルトが遮る。

 

「それはよーく分かってる。嬢ちゃんがここに来てから、飯も増えたし、壁も持ち直した。その数字を信じてるから俺たちは動いてんだ」

 

「ならば――」

 

「だがな」

 

 彼は、霜を靴先で踏み砕いた。

 

 じゃり、と嫌な音がした。

 

「あいつ一人の頭の中に、『お前が撃たなきゃ二人死ぬ』って数字だけ放り込んで、“はい、理解しましたね”で終わらせるのは、違うだろ」

 

 シュアラの喉が、きゅっと縮まる。

 

「私は……事実を告げただけです。

 私たちが“撃たない”という選択を取った時にも、死ぬ可能性が増える。その責任は――」

 

「責任責任って、あいつはもう十分背負ってる」

 

 ゲルトの声が少し荒くなった。

 

「あいつ、自分の矢が味方の肩を貫いたこと、忘れちゃいねえよ。

 毎晩寝る前に、何百回も頭の中で繰り返してる」

 

「それは――」

 

「だからこそ、“恐怖のコスト”なんて言葉で、また数字にして見せられたらどうなるかって話だ」

 

 ゲルトは、拳をぎゅっと握った。

 

「嬢ちゃんの言ってることは、間違っちゃいねえ。

 だがな、人間は数字どおりには動かねえんだよ」

 

 その一言は、石よりも重く感じられた。

 

「俺たちは、『死者二人分』なんてきれいな数字じゃ覚えねえ。

 あいつの頭ん中にあるのは、“肩を撃たれたあの顔一つ分”だ。

 そこに“これから死ぬかもしれねえ二人分”まで積み上げたら、潰れるに決まってんだろうが」

 

 シュアラは、言葉を失った。

 

 ゲルトは少しだけ息を吐き、声の調子を落とした。

 

「嬢ちゃんがやりてえのは、『誰も死なせねえための計算』だろ。

 それ自体は否定しねえ。むしろありがたい」

 

 黒ずんだマントの襟を掴み、ぐいと引き上げる。

 

「だが、その計算の中で、兵一人一人の恐怖やら傷やらを“コスト”っつって片付けるなら……それは違う」

 

「私は、片付けているつもりは――」

 

「結果は同じだ」

 

 ゲルトは、シュアラの手帳を一瞥する。

 

 あの表。距離、対象、命中率、震え具合。

 

「“恐怖”って欄に数字を書いた瞬間、あいつの震えは、『調整すべき数値』になる。

 嬢ちゃんの頭の中じゃ、それで正しいんだろう」

 

 彼は、首を横に振った。

 

「けど現場じゃ、それは“傷口”だ。

 まずは布で押さえて、血を止めてやらなきゃいけねえ場所だ」

 

 シュアラの胸の奥で、何かがきしんだ。

 

 数字では説明できない音だ。

 

「……どうすればいいと、お考えですか」

 

 彼女は、ようやくそれだけを聞いた。

 

「知らねえよ」

 

 即答だった。

 

「俺は嬢ちゃんみたいに頭ん中で砦を動かせねえ。

 ただ、さっきのリオの顔を見りゃ、『その説明の仕方は間違ってる』くらいは分かる」

 

 ゲルトは、肩をすくめた。

 

「人は数字じゃ動かねえ。それだけは、忘れんな」

 

 そう言い捨てて、彼は踵を返した。

 

 霜を踏む足音が、射場の外へ遠ざかっていく。

 

 残されたのは、切れた縄と、冷たい風と、手の中の手帳だけだった。

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