死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します   作:来巻梓

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凍てつく射場の計算書(2)

 風が一度、強く吹き抜けた。

 

 鈍い金属の音と足音が近づいてきて、すぐ近くで止まる。

 

「……ずいぶんと、寒い顔してるな」

 

 聞き慣れた低い声だった。

 

 シュアラが顔を上げると、カイが塀の影に立っていた。

 

 外套の襟を片手で押さえ、彼女と、切れた縄とを順番に眺める。

 

「ゲルトから、少しだけ聞いた」

 

「“少しだけ”という顔ではありませんね」

 

 自分の声が、妙に乾いているのが分かった。

 

「また怒鳴られました。『人は数字じゃ動かねえ』と」

 

「……まあ、そう言うだろうな、あいつは」

 

 カイは苦笑を浮かべる。

 

「俺も、最初にお前の床を見た時は似たようなことを思った」

 

「床、ですか」

 

「数字と石とパンくずだらけのやつだ」

 

 彼は、霜を踏んでシュアラの近くまで来る。

 

 いつものマグは持っていない。

 かわりに、手袋越しに手を組んでいた。

 

「さっきの話、俺にもしてくれるか」

 

「どこからです?」

 

「お前の好きな、“ゲーム”の話からでいい」

 

 促され、シュアラは手帳を開いた。

 

 ゲーム3のページ。距離、対象、命中率、震え具合。

 そして、その前のページには、死亡率の計算が並んでいる。

 

「恐怖を、“戦力の損失”として扱うことにしました」

 

 彼女は、静かに言った。

 

「恐怖のせいで矢が一本も撃てないなら、それは実質的に兵力ゼロです。

 ならば、どこまでなら矢を撃てるのか、その境界を数字で測るべきだと」

 

「理屈は分かる」

 

 カイは、ページを覗き込んだ。

 

『死者六人→四人(期待値)』

 

 という行に目を留める。

 

「リオに、これを見せたのか」

 

「はい。彼の矢が飛ぶことで、“死なずに済む兵が二人増える”と」

 

「そりゃあ……押しつぶされるだろうな」

 

 カイは、わずかに顔をしかめた。

 

「そんなにおかしなことを言いましたか」

 

「おかしくはない」

 

 彼は即座に否定した。

 

「間違ってもいない。

 ただ、“いきなり全部見せすぎた”んだろう」

 

 冷たい空気の中で、カイの息が白く曇る。

 

「俺だって、最初の戦で斬ったのは一人だ。

 数字にすりゃ、“敵軍の兵のうちの一”に過ぎねえけど……寝られなかったぞ」

 

 シュアラは、目を瞬いた。

 

 彼が自分の過去を話すのは、珍しい。

 

「何日も何日も、あいつの顔だけが頭の中で繰り返される。

 誰も、『あれで村の死者が何人減った』なんて数字を教えてはくれなかった」

 

 カイは、少し息を吐いた。

 

「多分、教えられてたら、余計眠れなかった」

 

「……どうしてです?」

 

「“俺が斬らなきゃ、その分村人が死んだ”って話になるからな」

 

 カイは、雪のような霜を靴先で払いながら言う。

 

「お前の計算は、そういう話だろ。

 “撃てば守れる命がある。撃たなきゃ死ぬ命がある”」

 

「ええ」

 

 それは、彼女が何度自分に言い聞かせた理屈でもあった。

 

「俺たち指揮官は、それを頭に叩き込んでおかないと、判断を誤る。

 どこかで誰かを切り捨てねえと、全員死ぬことだってある」

 

 カイは、シュアラをまっすぐ見た。

 

「でも、それを“そのまんまの形”で兵に渡すかどうかは、また別の話だ」

 

「……では、偽るべきだと?」

 

「いや」

 

 即座に首を振る。

 

「嘘はつくな。あいつらは、すぐ見抜く。

 ただ、“どこを見るか”だけは選んでやれ」

 

 シュアラは、手帳を見下ろした。

 

 数字の列。死者の期待値。恐怖のコスト。

 

「俺がさっき見たお前のページには、『死ぬかもしれねえ二人』の数字がある」

 

 カイは、指先でその行を叩いた。

 

「けど、リオの頭ん中にいるのは、“肩を撃たれたあいつ”一人だ。

 お前があいつに見せるべきなのは、多分、『新しく増える二人』じゃなくて――」

 

 そこで言葉を切る。

 

「『お前が守れるかもしれねえ誰か』のほうだ」

 

 シュアラは、カイの顔を見た。

 

「守れるかもしれない、誰か」

 

「あいつ、村の子どもと話してるとき、ちょっとだけ顔が柔らかくなるの、見たろ」

 

 カイは、思い出したように笑った。

 

「この前、粉引き婆さんの家で、荷物運ぶの手伝ってた時とかよ」

 

「……はい」

 

 思い当たる光景が、頭に浮かぶ。

 

 大きな袋を一人で持ち上げられず、リオが黙って支えていたあの時。

 

「あいつに、“撃たなきゃ二人死ぬ”って言うんじゃなくてさ」

 

 カイは、霜の上に指で簡単な図を描いた。

 

 一つの丸。その横に、小さな点をいくつか。

 

「“お前が撃たなかったら、この婆さんが斬られるかもしれねえ”とか、“あの子どもの親父が帰ってこねえかもしれねえ”とか。

 そういう“顔つきの誰か”で考えさせてやるほうが、多分あいつには効く」

 

 それは、数字には載らない話だ。

 

「……“撃つことが正しい”と説くのではなく、“撃たなかったときに誰が死ぬか”を一緒に考えろ、ということですか」

 

「そうだ」

 

 カイは頷いた。

 

「お前の計算式の中に、名前を入れてやれ。

 リオに、『自分がどの死なら背負えるか』を選ばせてやれ」

 

「どの死なら……」

 

 シュアラは、思わず繰り返した。

 

「敵か、味方か。

 見知らぬ誰かか、昨日パンを分けてくれた誰かか。

 選びたくない選択を、あいつに押しつけることになる」

 

 カイは、言葉を選ぶように続ける。

 

「でも、“選ばせてもらえないまま”矢を握らされるよりは、まだマシだ」

 

 シュアラの胸の奥で、何かが変な音を立てて動いた。

 

 恐怖のコスト。

 

 今まで、それは「死者の増減」としてしか見えていなかった。

 

 けれど、カイの言葉は、そのコストに「顔」と「名前」を付けることを求めている。

 

「……それは、非合理です」

 

 口をついて出た言葉は、半分だけ本音だった。

 

「誰か一人の顔を特別扱いすれば、判断が揺らぎます。

 公平性が失われ、全体の最適解から外れる可能性が――」

 

「お前はもう、何人かの顔を特別扱いしてるだろ」

 

 カイが静かに遮った。

 

「最初に門番に毛布をかけた時からな」

 

 喉の奥が熱くなるような感覚がした。

 

「……それは、最低限の資産保全です」

 

「そういうことにしておけ」

 

 カイは、薄く笑った。

 

「お前がどう言い繕っても、現場の人間は知ってる。

 嬢ちゃんは“誰でもいい誰か”じゃなくて、“今目の前にいるこの一人”を生かすために走ってるってな」

 

 言葉が出ない。

 

「だから、その“甘さ”を、たまには数字の中に混ぜてやれ」

 

 カイは、冬空を見上げた。

 

「恐怖のコストってのは、多分、“誰かを失うのが怖い”ってことだ。

 それをただ“損失”として削るんじゃなくて、“守りたい対象”として計算に入れてみろ」

 

 シュアラは、ゆっくりと手帳を見下ろした。

 

 距離、対象、命中率、震え具合。

 死者六人、四人。

 

 そこに、名前は一つも書かれていない。

 

「……難題ですね」

 

 ようやく、それだけが言えた。

 

「俺には計算式なんざ書けねえ。そこはお前の仕事だ」

 

 カイは、そう言って肩をすくめる。

 

「ただ、さっきのリオの顔を見ちまうとよ。

 “恐怖のコスト”って欄に、あいつの全部を押し込めちまうのは、見てられねえ」

 

 彼は踵を返した。

 

「昼までには、北の見張り台の交代に顔出す。

 それまでに、少しあったまってこい。顔が真っ青だ」

 

「……はい」

 

 カイの背中が遠ざかり、足音が消えていく。

 

 射場に残ったのは、切れた縄の切れ端と、霜と、手帳だけだった。

 

 日が傾く頃、シュアラの部屋には、また蝋燭の光が戻っていた。

 

 床に散らばる紙の上に、“ゲーム3”のページを抜き出すように手帳を広げる。

 

 昼間、ゲルトとカイの前で見せた計算式。

 死者の期待値。恐怖のコスト。

 

 彼女はしばらくそれを眺め、それから大きく息を吐いた。

 

「……これは、失敗ですね」

 

 自分に向けた宣告だった。

 

 ペンを取る。

 

 計算式がびっしりと詰まった一枚を、綴じ目から丁寧に破り取った。

 紙が裂ける音が、静かな部屋にやけに大きく響く。

 

 破ったページの上部に、ただ一言だけ書き込む。

 

『失敗』

 

 それから、その紙を二つ、三つに折りたたみ、火のついていない小さな炉の隅に押し込んだ。

 

 燃やしはしない。

 

 けれど、手元の「ゲーム3」のページから、その計算を切り離す。

 

 新しく開いたページの一番上に、ペン先を乗せる。

 

『ゲーム3:狙撃手リオ(改)』

 

 その下に、最初に書き込んだ。

 

『目的:仲間の死者数を最小化すること(死者ゼロを目標に)』

 

 続けて、もう一行。

 

『前提:恐怖は“除去すべき誤差”ではなく、“守りたい対象がいる証拠”』

 

 ペン先が震えた。

 

 それでも、書き続ける。

 

『リオに提示すべき問い:

 「撃つべきか」ではなく

 「撃たなかったとき、誰が死ぬか/誰を守れなくなるか」』

 

 名前を書く欄を、枝分かれするようにいくつか空けた。

 

『例:粉引き婆さん/門番の兵/ルバークリークの子どもたち ……』

 

(公平ではない。非合理です)

 

 心のどこかが、そう呟く。

 

 誰か一人を特別扱いすれば、数字は歪む。

 最適解から外れる可能性もある。

 

 けれど――

 

(あの子の恐怖は、“誰でもいい二人分”の数字なんかじゃない)

 

 肩を撃たれた仲間の顔。

 村の子どもたちの笑い声。

 粉引きの老婆の、節くれ立った手。

 

 それら全てが、恐怖というコストの内訳なのだとしたら。

 

(ならば、その内訳ごと、計算式に組み込むしかありません)

 

 シュアラは、最後に小さく書き添えた。

 

『備考:人は数字どおりには動かない(ゲルトの指摘)→式に「名前」の変数を追加』

 

 ペン先を離す。

 

 蝋燭の火が、ページの上で揺れた。

 

 冬は、ゆっくりと近づいている。

 

 その冬を越えるために必要なのは、矢とパンと鉄だけではない。

 恐怖と責任を抱えたまま、それでも指を動かせるだけの「理由」だ。

 

「……リオには、別の聞き方をしないといけませんね」

 

 誰に向けるでもなく、そう呟く。

 

 恐怖のコストを、ただ減らすのではなく、正しく支払うために。

 

 シュアラは手帳を閉じ、指先で表紙を一度撫でた。

 

 静かな音が、また冬の空気の中に溶けていった。

 

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