死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します   作:来巻梓

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隠し事の荷車(1)

 夜というには薄く、朝というには早すぎる色が、砦の上にかかっていた。

 空の底が、うっすらと白んでいる。

 

 第三倉庫の前だけが、やけに騒がしかった。

 

 荷車が二台。

 馬が二頭ずつ。

 車輪には麻縄が巻かれ、軸には凍らないよう油が塗り込まれている。

 

 ラルスが荷台に上がり、半分凍った指でロープを締めていた。結び目を噛んだ歯が、じん、と痛む。

 

「もう一回、そこ締め直してください」

 

 荷の端を押さえながら、シュアラが言う。

 

「坂の途中でほどけるのは困ります」

 

「はいよ……」

 

 ラルスは手袋越しにさらに力を込めた。

 ロープがきしむ。中で石袋が少しだけ沈む。

 

 石袋と、小麦袋と、干し肉の樽。

 見た目だけなら、ただの物資搬送だ。

 

 ラルスが、結び目を叩いて息を吐く。

 

「……これ、本当に、石ころでいいんですよね」

 

「ええ。敵から見えるのは、荷車の数と、傾きだけです」

 

 シュアラは、少し離れたところで荷車全体を眺めた。

 雪を踏み固めた地面に、車輪の跡が深く刻まれていく。

 

「坂道を上り下りしたときの沈み方と、馬の汗の量。そこだけ、きちんと本物にしておきたい」

 

「中身のことまでは、向こうさん気にしねえってわけですか」

 

「重さと高さだけが分かれば、『中身は食えるものだ』と判断してくれます」

 

「判断してくれます、って言い方やめてほしいなあ」

 

 ラルスが、苦笑とも溜息ともつかない声を漏らした。

 

「まるで、食ってもらうのを楽しみにしてるみてえだ」

 

「楽しみではありません」

 

 そう言ってから、少し考え直す。

 

「……正しく噛んでもらえるなら、ありがたいとは思います」

 

「ほら、やっぱり怖いことサラッと言う」

 

 ラルスは肩をすくめた。

 

「団長さん、ほんとによく許しましたね。こんな手」

 

「よく、というほど滑らかではありませんでした」

 

 インクと紙の匂いが、一瞬、鼻の奥で蘇る。

 

 昨夜の団長室の、こもった空気。

 

 

「囮に文官を出す? 馬鹿言え」

 

 地図の上に置かれた団長の手が、どん、と音を立てた。

 蝋燭の火が揺れ、影が壁に跳ねる。

 

 執務棟二階の団長室。

 窓の外はすでに色を失っている。紙と革と、人間の体温だけが部屋を暖めていた。

 

「囮に出すのは荷と馬だ。人間はおまけでいい」

 

「御者と護衛だけでは、現場での判断が足りません」

 

 シュアラは、机の端に立ったまま言った。

 背筋を伸ばしていても、肩に力が入っているのが自分で分かる。

 

「どこで荷を捨てて軽くし、どこで止まり、どこで走り切るか。数字を見ながら決める人間が、一人必要です」

 

 地図の上には、砦と三つの村と、谷と坂道。

 黒いインクで描いた線の上に、小さな石と木片が置かれている。

 

 カイはその盤面を睨みつけたまま、低く唸った。

 

「必要だからって、そこにお前を置く理由にはならねえ」

 

 乱暴な言い方だが、間違ってはいない。

 

「帳簿を見慣れていて、村の状況も把握していて、物資の優先順位もその場で切り替えられる人間は?」

 

「他に候補は」

 

「います」

 

 即答してから、自分でその言い方に違和感を覚えた。

 実際には「いたらいいのですが」の方が正しい。

 

 カイの視線が、ようやくシュアラに向く。

 

「誰だ」

 

 短い問い。

 

 名前を出せば、たちまち嘘になる。

 出さなければ、嘘ではないが、真実からはずれる。

 

「……輜重兵の中に、帳簿の読み書きができる者が何人かいます」

 

 言葉を選びながら答える。

 

「彼らに必要な数字だけを教え込んで、現場に立たせることも理屈の上では可能です」

 

「理屈の上では、な」

 

 カイは、短く息を吐いた。

 

「そいつら、今まで『砦全体』を相手に数字いじったことは?」

 

「ありません」

 

「じゃあ、初陣でやらせる仕事じゃねえ」

 

 あっさり斬り捨てられる。

 

 シュアラは黙って唇を噛んだ。

 インクの染みのついた指が、机の端をきゅっと掴む。

 

「……囮隊の荷は、偽物が混ざります」

 

 別の角度から切り込む。

 

「石と、空樽と、底にだけ詰めた粉。敵から見れば、本物と見分けがつかないように」

 

「だからこそ、扱いを間違えたら笑い話にもならねえ」

 

 カイの声が少し低くなる。

 

「『軽い方』から捨てていったら、敵に『重たい本物』だけ残してやることになる」

 

「ええ。それを避けたいのです」

 

 シュアラは、一度息を整えた。

 

「前線で戦っている人たちを見殺しにしないために、囮隊が荷を抱えて逃げ続ける必要があります。どこまで抱えるか、どこで投げ捨てるかを、現場で調整できる人間が欲しい」

 

「欲しい、な」

 

 カイは顎に手を当てた。

 蝋燭の火が、その横顔に影を刻む。

 

「砦に残って数字を回せる人間は、他にいるのか」

 

「……いません」

 

 今度は、誤魔化せなかった。

 

「だからと言って、お前が囮に乗る理由にはならねえって言ってんだ」

 

「囮に乗る、という言い方はやめてください」

 

「事実だろ」

 

 短く切り返される。

 

 喉がひりつく。

 それでも、視線だけは地図から外さなかった。

 

「団長」

 

「なんだ」

 

「明日の目的は、『ここで冬を越せるだけの兵と村人を、できるかぎり減らさないこと』です」

 

「知ってる」

 

「砦から誰も死なせない前提で作戦を組んでいます」

 

「……前提、ねえ」

 

 カイは椅子の背にもたれ直し、天井を一度見上げた。

 短い沈黙。蝋がぽたりと落ちる。

 

「その前提の中に、自分は入ってんのか」

 

「……はい」

 

「だったら、お前の死も入ってる」

 

 淡々とした口調だった。

 

「この砦から一人も出さねえって決めたなら、そこにお前も含める」

 

 喉に引っかかっていたものが、少しだけ動く。

 

 返事がすぐには出てこない。

 

 代わりに、指先が勝手に動いた。

 机の端を押さえていた手に、力が入る。

 

「……作戦の許可をいただけますか」

 

 自分でも分かるくらい、話題をずらした。

 それでも、ここで引く気はなかった。

 

 カイは深く息を吐いた。

 

「条件付きだ」

 

 指を一本立てる。

 

「囮隊の撤退ラインは、現場じゃなく、砦から見てる俺が決める」

 

「どういう……」

 

「伝令を一人つける。そいつからの報告で、俺が『もう駄目だ』と思ったところが終わりだ」

 

 彼の声が低くなる。

 

「お前の頭の中の『まだいける』は、現場の『もう限界』より、だいたい一歩先にある」

 

 図星を刺された感じがした。

 否定する言葉が、うまく見つからない。

 

「俺が引けと言ったら、その時点で全部捨てて帰ってこい。荷でも、計画でも、数字でもだ」

 

「……分かりました」

 

 喉の引っかかりを押し下げるようにして答える。

 

「約束します」

 

「よし」

 

 カイは、椅子の背にもたれ直した。

 

「作戦そのものは許可する。囮隊も出せ。坂も橋も好きに使え」

 

 そこで一度言葉を切り、口の端をわずかに上げる。

 

「ただし、お前は本来なら砦に残ってろ。そこが一番、頭を使える場所だ」

 

 それは、命令というより「当然そうだろう」という前提の確認だった。

 

 シュアラは、視線を地図の一点に落とす。

 

「砦に残る私の代わりは、誰かできます」

 

「……」

 

「囮隊の上で荷の優先順位を入れ替え続ける役目は、しばらくのあいだ、私しかできません」

 

「お前、自分を安く使うゲームだけは始めんなよ」

 

 カイがぼそりと言う。

 

「ゲーム、ですか」

 

「勝手に名前つけるなら『新しいゲーム』だ。『自分の命をどこまで削ったら砦が得するか』ってやつ」

 

 言われて、胸の奥で何かがきしむ。

 

 それは、すでに頭の片隅で始まりかけていた遊びだったからだ。

 数字で自分を刻んでいく、嫌な癖。

 

 黙って頭を下げる。

 それが、肯定にも否定にも見えないことを祈りながら。

 

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