死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します 作:来巻梓
夜というには薄く、朝というには早すぎる色が、砦の上にかかっていた。
空の底が、うっすらと白んでいる。
第三倉庫の前だけが、やけに騒がしかった。
荷車が二台。
馬が二頭ずつ。
車輪には麻縄が巻かれ、軸には凍らないよう油が塗り込まれている。
ラルスが荷台に上がり、半分凍った指でロープを締めていた。結び目を噛んだ歯が、じん、と痛む。
「もう一回、そこ締め直してください」
荷の端を押さえながら、シュアラが言う。
「坂の途中でほどけるのは困ります」
「はいよ……」
ラルスは手袋越しにさらに力を込めた。
ロープがきしむ。中で石袋が少しだけ沈む。
石袋と、小麦袋と、干し肉の樽。
見た目だけなら、ただの物資搬送だ。
ラルスが、結び目を叩いて息を吐く。
「……これ、本当に、石ころでいいんですよね」
「ええ。敵から見えるのは、荷車の数と、傾きだけです」
シュアラは、少し離れたところで荷車全体を眺めた。
雪を踏み固めた地面に、車輪の跡が深く刻まれていく。
「坂道を上り下りしたときの沈み方と、馬の汗の量。そこだけ、きちんと本物にしておきたい」
「中身のことまでは、向こうさん気にしねえってわけですか」
「重さと高さだけが分かれば、『中身は食えるものだ』と判断してくれます」
「判断してくれます、って言い方やめてほしいなあ」
ラルスが、苦笑とも溜息ともつかない声を漏らした。
「まるで、食ってもらうのを楽しみにしてるみてえだ」
「楽しみではありません」
そう言ってから、少し考え直す。
「……正しく噛んでもらえるなら、ありがたいとは思います」
「ほら、やっぱり怖いことサラッと言う」
ラルスは肩をすくめた。
「団長さん、ほんとによく許しましたね。こんな手」
「よく、というほど滑らかではありませんでした」
インクと紙の匂いが、一瞬、鼻の奥で蘇る。
昨夜の団長室の、こもった空気。
「囮に文官を出す? 馬鹿言え」
地図の上に置かれた団長の手が、どん、と音を立てた。
蝋燭の火が揺れ、影が壁に跳ねる。
執務棟二階の団長室。
窓の外はすでに色を失っている。紙と革と、人間の体温だけが部屋を暖めていた。
「囮に出すのは荷と馬だ。人間はおまけでいい」
「御者と護衛だけでは、現場での判断が足りません」
シュアラは、机の端に立ったまま言った。
背筋を伸ばしていても、肩に力が入っているのが自分で分かる。
「どこで荷を捨てて軽くし、どこで止まり、どこで走り切るか。数字を見ながら決める人間が、一人必要です」
地図の上には、砦と三つの村と、谷と坂道。
黒いインクで描いた線の上に、小さな石と木片が置かれている。
カイはその盤面を睨みつけたまま、低く唸った。
「必要だからって、そこにお前を置く理由にはならねえ」
乱暴な言い方だが、間違ってはいない。
「帳簿を見慣れていて、村の状況も把握していて、物資の優先順位もその場で切り替えられる人間は?」
「他に候補は」
「います」
即答してから、自分でその言い方に違和感を覚えた。
実際には「いたらいいのですが」の方が正しい。
カイの視線が、ようやくシュアラに向く。
「誰だ」
短い問い。
名前を出せば、たちまち嘘になる。
出さなければ、嘘ではないが、真実からはずれる。
「……輜重兵の中に、帳簿の読み書きができる者が何人かいます」
言葉を選びながら答える。
「彼らに必要な数字だけを教え込んで、現場に立たせることも理屈の上では可能です」
「理屈の上では、な」
カイは、短く息を吐いた。
「そいつら、今まで『砦全体』を相手に数字いじったことは?」
「ありません」
「じゃあ、初陣でやらせる仕事じゃねえ」
あっさり斬り捨てられる。
シュアラは黙って唇を噛んだ。
インクの染みのついた指が、机の端をきゅっと掴む。
「……囮隊の荷は、偽物が混ざります」
別の角度から切り込む。
「石と、空樽と、底にだけ詰めた粉。敵から見れば、本物と見分けがつかないように」
「だからこそ、扱いを間違えたら笑い話にもならねえ」
カイの声が少し低くなる。
「『軽い方』から捨てていったら、敵に『重たい本物』だけ残してやることになる」
「ええ。それを避けたいのです」
シュアラは、一度息を整えた。
「前線で戦っている人たちを見殺しにしないために、囮隊が荷を抱えて逃げ続ける必要があります。どこまで抱えるか、どこで投げ捨てるかを、現場で調整できる人間が欲しい」
「欲しい、な」
カイは顎に手を当てた。
蝋燭の火が、その横顔に影を刻む。
「砦に残って数字を回せる人間は、他にいるのか」
「……いません」
今度は、誤魔化せなかった。
「だからと言って、お前が囮に乗る理由にはならねえって言ってんだ」
「囮に乗る、という言い方はやめてください」
「事実だろ」
短く切り返される。
喉がひりつく。
それでも、視線だけは地図から外さなかった。
「団長」
「なんだ」
「明日の目的は、『ここで冬を越せるだけの兵と村人を、できるかぎり減らさないこと』です」
「知ってる」
「砦から誰も死なせない前提で作戦を組んでいます」
「……前提、ねえ」
カイは椅子の背にもたれ直し、天井を一度見上げた。
短い沈黙。蝋がぽたりと落ちる。
「その前提の中に、自分は入ってんのか」
「……はい」
「だったら、お前の死も入ってる」
淡々とした口調だった。
「この砦から一人も出さねえって決めたなら、そこにお前も含める」
喉に引っかかっていたものが、少しだけ動く。
返事がすぐには出てこない。
代わりに、指先が勝手に動いた。
机の端を押さえていた手に、力が入る。
「……作戦の許可をいただけますか」
自分でも分かるくらい、話題をずらした。
それでも、ここで引く気はなかった。
カイは深く息を吐いた。
「条件付きだ」
指を一本立てる。
「囮隊の撤退ラインは、現場じゃなく、砦から見てる俺が決める」
「どういう……」
「伝令を一人つける。そいつからの報告で、俺が『もう駄目だ』と思ったところが終わりだ」
彼の声が低くなる。
「お前の頭の中の『まだいける』は、現場の『もう限界』より、だいたい一歩先にある」
図星を刺された感じがした。
否定する言葉が、うまく見つからない。
「俺が引けと言ったら、その時点で全部捨てて帰ってこい。荷でも、計画でも、数字でもだ」
「……分かりました」
喉の引っかかりを押し下げるようにして答える。
「約束します」
「よし」
カイは、椅子の背にもたれ直した。
「作戦そのものは許可する。囮隊も出せ。坂も橋も好きに使え」
そこで一度言葉を切り、口の端をわずかに上げる。
「ただし、お前は本来なら砦に残ってろ。そこが一番、頭を使える場所だ」
それは、命令というより「当然そうだろう」という前提の確認だった。
シュアラは、視線を地図の一点に落とす。
「砦に残る私の代わりは、誰かできます」
「……」
「囮隊の上で荷の優先順位を入れ替え続ける役目は、しばらくのあいだ、私しかできません」
「お前、自分を安く使うゲームだけは始めんなよ」
カイがぼそりと言う。
「ゲーム、ですか」
「勝手に名前つけるなら『新しいゲーム』だ。『自分の命をどこまで削ったら砦が得するか』ってやつ」
言われて、胸の奥で何かがきしむ。
それは、すでに頭の片隅で始まりかけていた遊びだったからだ。
数字で自分を刻んでいく、嫌な癖。
黙って頭を下げる。
それが、肯定にも否定にも見えないことを祈りながら。