死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します 作:来巻梓
「――で、団長さんにはなんて言われたんです?」
ラルスの声で、現在に引き戻される。
「条件付きで許可されました」
シュアラは、荷台から手を離した。
「囮隊の撤退ラインは、団長が決めます。私ではありません」
「ふうん」
ラルスは、結び目をもう一度確かめてから、苦笑した。
「だったら、俺は団長さんの条件の方信じよ。文官殿の『まだいける』は、正直あんま信用ならねえし」
「ひどいですね」
「自覚あるでしょ?」
言われて、返す言葉が見つからなかった。
倉庫の影から、足音がひとつ近づいてくる。
「文官殿」
ゲルトだった。外套の襟を立て、息を白くしながら歩いてくる。
「荷の方は?」
「石と粉と塩と、干し肉少し。予定通りです」
シュアラが答えると、ゲルトは荷台を一瞥した。
石袋を足で軽くつつき、重さを確かめる。
「よく詰めたな。見た目だけなら、腹の足しになりそうだ」
「噛んだら歯が欠けます」
「敵の歯なら歓迎だ」
ゲルトは口元だけで笑った。
「で、団長の条件ってのは?」
「伝令を一人、つけていただけるそうです」
「ああ」
ゲルトは振り向き、倉庫の陰にいた若い兵を手招きした。
「こいつだ。フィン。足は早い。頭も……まあ、走る分には困らねえ」
「ふ、フィンです! よ、よろしくお願いします!」
短髪の兵が、慌てて背筋を伸ばす。
外気で赤くなった耳が、少し震えていた。
「砦と囮隊のあいだを走ってもらいます」
シュアラは、彼の方へ一歩近づいた。
「こちらから『まだいける』という報告を出したとき、その顔を見て、団長が『もう駄目だ』と判断します」
「お、おお……?」
「あなたが途中で転べば、私の『まだいける』はそこで終わりです」
「ひぇっ」
妙な声が出る。
「脅かしてどうする」
ゲルトが吹き出した。
「文官殿、そういうとこだぞ」
「事実を簡潔に述べただけですが」
シュアラは、フィンの肩を軽く叩いた。
「あなたの足に、今日の砦の生存率がぶら下がっています」
「今の方がよっぽど脅かしてるっての!」
ラルスが、頭を抱える真似をする。
フィンは情けない顔で笑いながら、それでも「が、頑張ります!」と声を張った。
その声を聞きながら、シュアラはふと空を見上げた。
砦の上の色は、さっきよりわずかに白さを増している。
初めての戦の日の空の色だ、と妙なところで実感がわいた。
その瞬間、別の夜の空気が戻ってくる。
*
前夜。
雪の踏み固められた射場に、白い吐息が点々と浮いていた。
リオが、弓を抱えて立っている。
矢筒は空だ。今日は、矢ではなく弓の手入れの日だと言われているらしい。
「こんな時間まで?」
声をかけると、少年は慌てて振り向いた。
「あ、軍師殿」
彼の手は、布切れを握っていた。
弓の木を拭く布。油と松脂が、指の関節の間に染み込んでいる。
「寝ようと思ったんですけど、手が勝手に動くんですよね」
リオは、言いながら弓の背を撫でた。
「明日、弦が切れたら嫌だなって」
「正しい心配です」
シュアラは、弓の先の曲がり具合を眺めた。
「明日は、丘の上から見ることになりますよ」
「ゲルトさんから聞きました。あの、変な木のとこですよね」
変な木。
夏なら葉をつけるはずの枝が、今は黒い骨のように空へ伸びている。
「はい。あそこから、全部の動きが見えます」
「……全部、ですか」
リオの喉が、ごくりと鳴る。
「全部見えても、全部には届かねえんだろうなあ」
「だからこそ、あなたの弓が必要です」
シュアラは、雪に残る足跡を避けながらリオの隣に立った。
夜気が、頬を刺す。
「明日、あなたにしてほしいことが、いくつかあります」
「……また難しい顔してる」
「簡単な方からにしますね」
シュアラは、手袋を外して弓の木の部分にそっと触れた。
乾いた木肌が、冷たさを吸っている。
「ひとつは、よく見ること」
「見る……?」
「どこから敵の旗が動くか。どの馬が速いか。どの槍がこちらに向き始めるか。全部、目で追ってください」
リオの視線が、自然と遠くの闇を向く。
まだ何も見えない夜の空間に、想像上の敵の列が浮かんでいるのだろう。
「もうひとつは、どうしても必要なところだけを、噛み砕くことです」
「噛み砕く?」
「あなたの矢は、砦の牙です」
シュアラは、自分の胸の前で拳を握ってみせた。
「牙の先は、馬の脚と旗と、槍の木の部分くらいだと思ってください」
「……人じゃなくて?」
「明日の段階では、そうです」
はっきりと言う。
「馬の脚を射抜けば、馬も騎手も止まります。旗を落とせば、列が迷います。槍の木を折れば、その瞬間だけこちらの盾が生き延びます」
口にしながら、自分でも少し息苦しくなった。
人間を直接数に入れない言い方を選んでいるのが分かる。
「人を狙わなくていいのは、今のところ、ですけどね」
最後だけ、小さく付け加える。
リオは、弓の握りをきゅっと握り直した。
「……それなら、まだちょっとだけ、できる気がします」
「『できる気がする』で十分です」
シュアラは、リオの手元を見た。
指が、微かに震えている。
震えを隠すように、弓の木目が夜の光を吸った。
「牙と……その……なんでしたっけ、俺」
「脳の延長です」
以前、ゲルトがからかい混じりにそう呼んだ。
あの言葉が、砦の中で半ば定着しつつある。
リオは、少し照れたように笑った。
「そんな大そうなもんになれる気は、まだしないですけど」
「私の頭から出た線が、あなたの矢まで届いてくれれば、それで十分です」
それは、戦場における理想の形だ。
頭と牙の距離が短いほど、無駄に死ぬ兵が減る。
黙っていると、リオがふと真顔になった。
「……軍師殿」
「はい」
「俺、ひとつだけ、分かってることがあって」
「なんでしょう」
「明日、俺が矢を撃っても撃たなくても、誰かは死ぬんですよね」
その言い方は、驚くほど落ち着いていた。
「俺、そんなに賢くねえですけど、そのくらいは分かります」
「そうですね」
否定のしようがない。
「ただし、私は前線には立ちません。荷車の上で数字を見ているだけです」
「でも、そこにだって矢は飛んできますよね」
リオの声が、わずかに低くなる。
噂はもう回っているのだろう。
「軍師殿が囮に行く」という、余計な尾ひれのついた形で。
「輜重隊に、帳簿係が一人必要です」
なるべく平坦に答える。
「荷の数字を見て、どこまで捨てるか決める人間が」
「イコール軍師殿ですよね、それ」
リオは、意外と冷静な声で言った。
「……はい」
否定のしようがなかった。
「俺、さっきの話聞いてて思ったんですけど」
「はい」
「馬の脚とか旗とか槍の木とか、そういうの狙うのって、ぜんぶ『軍師殿が生きて帰ってくる確率』にくっついてるんですよね」
シュアラは、少しだけ目を見開いた。
「そんなふうに考えたことはありませんでした」
「俺には、それくらいしか考えらんないんで」
リオは、弓を胸に抱え直した。
「……軍師殿の頭ん中の数字に、軍師殿自身が入ってないのも、多分、なんとなく分かります」
痛いところを、さらっと突いてくる。
「……私の計算には入っていません」
やっとそれだけ言う。
「でも、あなたの計算に入れるかどうかは、あなたが決めてください」
リオは、しばらく黙っていた。
やがて、小さく笑う。
「ずるいっすね、それ」
「自覚はあります」
「じゃあ俺、自分で決めます」
彼は、弓を胸にぎゅっと押しつけた。
「とりあえず、明日は弦切らさないように頑張ります」
「それが一番の貢献です」
風が一度だけ強く吹き、雪がきしむ音がした。
角笛が鳴った。
砦の門の上から、短く、低い合図。
ゲルトが肩を回す。
「来たな」
門へ向かう道の両側に、兵たちが並びつつある。
誰も声を荒げないが、鎧の擦れる音がいつもより少し多い。
「軍師殿」
ゲルトが、不意に真面目な声を出した。
「まだ間に合うぞ」
「何がですか」
「俺と団長の言うこと聞いて、砦で帳簿とにらめっこしてるって選択肢だ」
冗談めかしているが、目は笑っていない。
「それは、昨日のうちに棄却しました」
シュアラは、外套の前を留め直した。
「今日の私は、荷車の上で帳簿とにらめっこします」
「……そうかよ」
ゲルトは、短く舌打ちをしてから、笑った。
「だったら、ちゃんと戻ってきて、また数字で俺らをこき使え」
「善処します」
「善処じゃなくて、約束だ」
ゲルトが、拳を軽く差し出してくる。
シュアラは一瞬迷ってから、その拳に自分の拳をそっと当てた。
門の方から、馬のいななきが聞こえる。
「行くぞー!」
誰かが声を張った。
御者が手綱を握り、馬が一歩踏み出す。
車輪が雪を噛み、ぎゅう、と木と鉄が鳴った。
シュアラは、砦の門を一度振り返る。
門の上には、門番の男が寄りかかるように立っていた。
半分眠そうな顔で、それでも耳だけは外の音を拾っている。
目が合うと、男は軽く顎を上げた。
それがこの砦なりの、送り出す礼だった。
シュアラは、荷車の後ろに手を掛け、よじ登る。
御者台のすぐ後ろ、荷の隙間に腰を下ろす。
袋に詰めた粉の匂い。干し肉の脂の匂い。
その下に、石の鈍い冷たさ。
懐のなかの封筒が、布越しに当たる。
宛名のない死亡届。紙一枚の重さが、今日は少し違って感じられた。
馬がもう一度いななく。
荷車が、ゆっくりと前に滑り出す。
砦の門が、少しずつ遠ざかる。
雪を踏む車輪の音が、夜明け前の空気を、じわりときしませた。