死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します   作:来巻梓

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隠し事の荷車(2)

「――で、団長さんにはなんて言われたんです?」

 

 ラルスの声で、現在に引き戻される。

 

「条件付きで許可されました」

 

 シュアラは、荷台から手を離した。

 

「囮隊の撤退ラインは、団長が決めます。私ではありません」

 

「ふうん」

 

 ラルスは、結び目をもう一度確かめてから、苦笑した。

 

「だったら、俺は団長さんの条件の方信じよ。文官殿の『まだいける』は、正直あんま信用ならねえし」

 

「ひどいですね」

 

「自覚あるでしょ?」

 

 言われて、返す言葉が見つからなかった。

 

 倉庫の影から、足音がひとつ近づいてくる。

 

「文官殿」

 

 ゲルトだった。外套の襟を立て、息を白くしながら歩いてくる。

 

「荷の方は?」

 

「石と粉と塩と、干し肉少し。予定通りです」

 

 シュアラが答えると、ゲルトは荷台を一瞥した。

 石袋を足で軽くつつき、重さを確かめる。

 

「よく詰めたな。見た目だけなら、腹の足しになりそうだ」

 

「噛んだら歯が欠けます」

 

「敵の歯なら歓迎だ」

 

 ゲルトは口元だけで笑った。

 

「で、団長の条件ってのは?」

 

「伝令を一人、つけていただけるそうです」

 

「ああ」

 

 ゲルトは振り向き、倉庫の陰にいた若い兵を手招きした。

 

「こいつだ。フィン。足は早い。頭も……まあ、走る分には困らねえ」

 

「ふ、フィンです! よ、よろしくお願いします!」

 

 短髪の兵が、慌てて背筋を伸ばす。

 外気で赤くなった耳が、少し震えていた。

 

「砦と囮隊のあいだを走ってもらいます」

 

 シュアラは、彼の方へ一歩近づいた。

 

「こちらから『まだいける』という報告を出したとき、その顔を見て、団長が『もう駄目だ』と判断します」

 

「お、おお……?」

 

「あなたが途中で転べば、私の『まだいける』はそこで終わりです」

 

「ひぇっ」

 

 妙な声が出る。

 

「脅かしてどうする」

 

 ゲルトが吹き出した。

 

「文官殿、そういうとこだぞ」

 

「事実を簡潔に述べただけですが」

 

 シュアラは、フィンの肩を軽く叩いた。

 

「あなたの足に、今日の砦の生存率がぶら下がっています」

 

「今の方がよっぽど脅かしてるっての!」

 

 ラルスが、頭を抱える真似をする。

 フィンは情けない顔で笑いながら、それでも「が、頑張ります!」と声を張った。

 

 その声を聞きながら、シュアラはふと空を見上げた。

 砦の上の色は、さっきよりわずかに白さを増している。

 

 初めての戦の日の空の色だ、と妙なところで実感がわいた。

 

 その瞬間、別の夜の空気が戻ってくる。

 

*

 

 前夜。

 雪の踏み固められた射場に、白い吐息が点々と浮いていた。

 

 リオが、弓を抱えて立っている。

 矢筒は空だ。今日は、矢ではなく弓の手入れの日だと言われているらしい。

 

「こんな時間まで?」

 

 声をかけると、少年は慌てて振り向いた。

 

「あ、軍師殿」

 

 彼の手は、布切れを握っていた。

 弓の木を拭く布。油と松脂が、指の関節の間に染み込んでいる。

 

「寝ようと思ったんですけど、手が勝手に動くんですよね」

 

 リオは、言いながら弓の背を撫でた。

 

「明日、弦が切れたら嫌だなって」

 

「正しい心配です」

 

 シュアラは、弓の先の曲がり具合を眺めた。

 

「明日は、丘の上から見ることになりますよ」

 

「ゲルトさんから聞きました。あの、変な木のとこですよね」

 

 変な木。

 夏なら葉をつけるはずの枝が、今は黒い骨のように空へ伸びている。

 

「はい。あそこから、全部の動きが見えます」

 

「……全部、ですか」

 

 リオの喉が、ごくりと鳴る。

 

「全部見えても、全部には届かねえんだろうなあ」

 

「だからこそ、あなたの弓が必要です」

 

 シュアラは、雪に残る足跡を避けながらリオの隣に立った。

 夜気が、頬を刺す。

 

「明日、あなたにしてほしいことが、いくつかあります」

 

「……また難しい顔してる」

 

「簡単な方からにしますね」

 

 シュアラは、手袋を外して弓の木の部分にそっと触れた。

 乾いた木肌が、冷たさを吸っている。

 

「ひとつは、よく見ること」

 

「見る……?」

 

「どこから敵の旗が動くか。どの馬が速いか。どの槍がこちらに向き始めるか。全部、目で追ってください」

 

 リオの視線が、自然と遠くの闇を向く。

 まだ何も見えない夜の空間に、想像上の敵の列が浮かんでいるのだろう。

 

「もうひとつは、どうしても必要なところだけを、噛み砕くことです」

 

「噛み砕く?」

 

「あなたの矢は、砦の牙です」

 

 シュアラは、自分の胸の前で拳を握ってみせた。

 

「牙の先は、馬の脚と旗と、槍の木の部分くらいだと思ってください」

 

「……人じゃなくて?」

 

「明日の段階では、そうです」

 

 はっきりと言う。

 

「馬の脚を射抜けば、馬も騎手も止まります。旗を落とせば、列が迷います。槍の木を折れば、その瞬間だけこちらの盾が生き延びます」

 

 口にしながら、自分でも少し息苦しくなった。

 人間を直接数に入れない言い方を選んでいるのが分かる。

 

「人を狙わなくていいのは、今のところ、ですけどね」

 

 最後だけ、小さく付け加える。

 

 リオは、弓の握りをきゅっと握り直した。

 

「……それなら、まだちょっとだけ、できる気がします」

 

「『できる気がする』で十分です」

 

 シュアラは、リオの手元を見た。

 指が、微かに震えている。

 震えを隠すように、弓の木目が夜の光を吸った。

 

「牙と……その……なんでしたっけ、俺」

 

「脳の延長です」

 

 以前、ゲルトがからかい混じりにそう呼んだ。

 あの言葉が、砦の中で半ば定着しつつある。

 

 リオは、少し照れたように笑った。

 

「そんな大そうなもんになれる気は、まだしないですけど」

 

「私の頭から出た線が、あなたの矢まで届いてくれれば、それで十分です」

 

 それは、戦場における理想の形だ。

 頭と牙の距離が短いほど、無駄に死ぬ兵が減る。

 

 黙っていると、リオがふと真顔になった。

 

「……軍師殿」

 

「はい」

 

「俺、ひとつだけ、分かってることがあって」

 

「なんでしょう」

 

「明日、俺が矢を撃っても撃たなくても、誰かは死ぬんですよね」

 

 その言い方は、驚くほど落ち着いていた。

 

「俺、そんなに賢くねえですけど、そのくらいは分かります」

 

「そうですね」

 

 否定のしようがない。

 

「ただし、私は前線には立ちません。荷車の上で数字を見ているだけです」

 

「でも、そこにだって矢は飛んできますよね」

 

 リオの声が、わずかに低くなる。

 

 噂はもう回っているのだろう。

 「軍師殿が囮に行く」という、余計な尾ひれのついた形で。

 

「輜重隊に、帳簿係が一人必要です」

 

 なるべく平坦に答える。

 

「荷の数字を見て、どこまで捨てるか決める人間が」

 

「イコール軍師殿ですよね、それ」

 

 リオは、意外と冷静な声で言った。

 

「……はい」

 

 否定のしようがなかった。

 

「俺、さっきの話聞いてて思ったんですけど」

 

「はい」

 

「馬の脚とか旗とか槍の木とか、そういうの狙うのって、ぜんぶ『軍師殿が生きて帰ってくる確率』にくっついてるんですよね」

 

 シュアラは、少しだけ目を見開いた。

 

「そんなふうに考えたことはありませんでした」

 

「俺には、それくらいしか考えらんないんで」

 

 リオは、弓を胸に抱え直した。

 

「……軍師殿の頭ん中の数字に、軍師殿自身が入ってないのも、多分、なんとなく分かります」

 

 痛いところを、さらっと突いてくる。

 

「……私の計算には入っていません」

 

 やっとそれだけ言う。

 

「でも、あなたの計算に入れるかどうかは、あなたが決めてください」

 

 リオは、しばらく黙っていた。

 やがて、小さく笑う。

 

「ずるいっすね、それ」

 

「自覚はあります」

 

「じゃあ俺、自分で決めます」

 

 彼は、弓を胸にぎゅっと押しつけた。

 

「とりあえず、明日は弦切らさないように頑張ります」

 

「それが一番の貢献です」

 

 風が一度だけ強く吹き、雪がきしむ音がした。

 

 

 角笛が鳴った。

 砦の門の上から、短く、低い合図。

 

 ゲルトが肩を回す。

 

「来たな」

 

 門へ向かう道の両側に、兵たちが並びつつある。

 誰も声を荒げないが、鎧の擦れる音がいつもより少し多い。

 

「軍師殿」

 

 ゲルトが、不意に真面目な声を出した。

 

「まだ間に合うぞ」

 

「何がですか」

 

「俺と団長の言うこと聞いて、砦で帳簿とにらめっこしてるって選択肢だ」

 

 冗談めかしているが、目は笑っていない。

 

「それは、昨日のうちに棄却しました」

 

 シュアラは、外套の前を留め直した。

 

「今日の私は、荷車の上で帳簿とにらめっこします」

 

「……そうかよ」

 

 ゲルトは、短く舌打ちをしてから、笑った。

 

「だったら、ちゃんと戻ってきて、また数字で俺らをこき使え」

 

「善処します」

 

「善処じゃなくて、約束だ」

 

 ゲルトが、拳を軽く差し出してくる。

 シュアラは一瞬迷ってから、その拳に自分の拳をそっと当てた。

 

 門の方から、馬のいななきが聞こえる。

 

「行くぞー!」

 

 誰かが声を張った。

 

 御者が手綱を握り、馬が一歩踏み出す。

 車輪が雪を噛み、ぎゅう、と木と鉄が鳴った。

 

 シュアラは、砦の門を一度振り返る。

 

 門の上には、門番の男が寄りかかるように立っていた。

 半分眠そうな顔で、それでも耳だけは外の音を拾っている。

 

 目が合うと、男は軽く顎を上げた。

 それがこの砦なりの、送り出す礼だった。

 

 シュアラは、荷車の後ろに手を掛け、よじ登る。

 御者台のすぐ後ろ、荷の隙間に腰を下ろす。

 

 袋に詰めた粉の匂い。干し肉の脂の匂い。

 その下に、石の鈍い冷たさ。

 

 懐のなかの封筒が、布越しに当たる。

 宛名のない死亡届。紙一枚の重さが、今日は少し違って感じられた。

 

 馬がもう一度いななく。

 荷車が、ゆっくりと前に滑り出す。

 

 砦の門が、少しずつ遠ざかる。

 

 雪を踏む車輪の音が、夜明け前の空気を、じわりときしませた。

 

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