死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します   作:来巻梓

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開戦の狼煙(2)

 正午にはまだ早い。

 けれど、空はすでに白くぼやけていた。

 

 曇り空の下、谷全体が薄い光で一様に照らされる。影が短く、方向の感覚が掴みにくい。

 

 荷車は予定通り、谷の手前の平らな場所で止めた。

 ここからなら、東の村も、谷に沿って伸びる道も、丘の上の「変な木」も、全部一度に見渡せる。

 

 丘の上には、小さな点がいくつか動いていた。

 弓兵隊。リオを含む数人が、黒い木の影に身を寄せているはずだ。

 

「……見えるか?」

 

 フィンが目を細めて、谷の向こうを睨んだ。

 彼の馬は雪の中でも足取りが軽い。蹄が固い場所を選んで歩く癖がついている。

 

「敵ですか?」

 

「いや、まだ」

 

 フィンは首を振る。

 

「でも、煙の匂いが変わった」

 

「匂い、ですか」

 

「ほら」

 

 言われて、シュアラも鼻腔に意識を向ける。

 

 燻製小屋の煙は、普段は脂と木の匂いが混ざった重たい匂いだ。

 今、風に乗って届いているのは、それに少しだけ焦げた藁の匂いが混ざっている。

 

(狼煙の準備を始めた、ということですね)

 

 村の男たちが、約束通り、丘の中腹の焚き場に火を入れている。

 敵の姿が見えたら、そこから高い煙を上げる。それが今日の「最初の一手」だ。

 

「軍師殿」

 

 ラルスが、荷台の影から半分だけ顔を出した。

 

「ほんとに、ここから全部見えるんですか」

 

「全部は無理です」

 

 即答する。

 

「だから、見張りを何か所かに分けています」

 

 丘の上。谷の入口。村のはずれ。

 そのそれぞれに、目のいい兵を置いた。彼らの目と足が、シュアラの盤面の延長になる。

 

「フィンさん」

 

「おう」

 

「谷の入口まで、一度見てきてください。敵の列の長さと、荷車の有無。可能なら、旗の数も」

 

「了解」

 

 フィンは軽く敬礼し、馬の腹を蹴った。

 雪煙を上げて、谷の方へ駆けていく。細い背中が、すぐに木々の間に紛れた。

 

 その背中を見送りながら、シュアラは懐から手帳を取り出す。

 

『開戦前確認』

 

 見出しの下に、空白の行がいくつも並んでいる。

 そこに一つだけ、先に言葉を埋めた。

 

『目標:砦側死者ゼロ(暫定→本番へ)』

 

 インクが紙に染みていく様子を見ていると、不思議と手の震えは収まった。

 代わりに、胸の奥で何かが静かに膨らんでいく。

 

(帳簿の数字を塗り替える作業と、本質的には同じです)

 

 違うのは、ここでは「予算」ではなく「命」という単位を使っているだけ。

 

 そう言い聞かせても、父の会議室とは比べものにならないほど喉は乾いた。

 

 遠くで、かすかな音がした。

 

 土を叩くような鈍い音。

 何かが整列を始める足音。

 

 谷の向こうの斜面に、黒い点がぽつぽつと現れ始める。

 

「……来ました」

 

 ラルスが、思わず声を落とした。

 

 最初は、人なのか木の影なのか判別がつかない。

 だが、動き出せばすぐに分かる。雪を踏むリズムは、木では再現できない。

 

 黒い点が線になり、線が帯になる。

 谷を横切るように、ゆっくりと進んでくる。

 

 その上に、いくつかの色が揺れていた。

 

「旗、三つ……いや、四つか?」

 

 ラルスが目を凝らす。

 

 シュアラも、手で額に影を作って斜面を見た。

 

 赤い帯と、青い菱形と、黒い牙のような印。

 いずれも、帝都の系譜書で見慣れた紋章の簡略版だ。

 

(今朝の斥候の報告と、数は一致)

 

 懐の手帳の別のページに書いた数字が、頭の中で並び替わる。戸数、兵役免除者数、借財。全部合わせて弾き出した「動員可能兵数」が、目の前の列の長さと重なった。

 

 最前列の足並みが揃っている。

 斜面を降りる時、歩幅が乱れていない。少なくとも、完全な素人ではない。

 

「……“冬越せるかどうかぎりぎりの家計が、最後の一稼ぎに来た”という感じですね」

 

 思わず口から出た言葉に、ラルスが目を丸くする。

 

「そんな家計、見たことねえです」

 

「帝都の帳簿上には、いくらでもあります」

 

 シュアラは、淡々と答えた。

 

「そいつらが、“胃袋”を狙っている」

 

 谷の奥で、燻製小屋の煙が、先ほどよりわずかに濃くなった気がした。

 村の腹の中にある肉の量を、そのまま数えているような気がして、胃のあたりがきゅっと縮む。

 

 そのときだった。

 

 丘の上の「変な木」の近くで、ぱん、と乾いた音がした。

 矢が弦を離れる音に似ている。いや、実際そうなのだろう。

 

 次いで、丘の中腹から白い煙が立ち上った。

 

「狼煙だ」

 

 ラルスが息を呑んだ。

 

 昨日、自分たちが説明した通りの場所で、説明した通りの高さの煙が上がっている。

 弓兵の誰か――ほぼ確実にリオが、最初の矢を焚き場の薪に通したのだ。

 

(人ではなく、火に)

 

 昨夜、彼に言った言葉が、遅れて胸の内で反響する。

 

『馬を倒し、剣を弾き、旗を折る。それだけでも、戦場の形は変わります』

 

 今は、煙を上げるための矢。

 それでも、その矢が一本放たれた瞬間、盤面の状態は変わる。

 

 丘の狼煙に応じて、谷の入口近くでも別の煙が上がった。

 前進中の敵の列が、一瞬だけ足を止める。

 

 その間隙を縫うように、谷の右側の森から黒い影が出てきた。

 

 鉄の音。

 雪を蹴る蹄の音。

 

 カイの隊だった。

 

 狼の紋章を掲げた旗が、谷の右手の斜面を駆け下りる。

 重騎士たちの鎧が、鈍い光を反射した。

 

 距離があるせいで、声は届かない。

 けれど、旗の動きと馬の流れで、何が起きているかは分かる。

 

 敵の列が、慌てたように形を変えた。

 前に向いていた槍が、横へ向きを変える。

 

「……挟まれたな」

 

 ラルスがぽつりと言った。

 

 谷の中央で、小領主軍の隊列が、右側からの突撃に押されて膨らむ。

 そこへ、谷の正面からもう一つの影が現れた。

 

 歩兵。

 盾と槍を前に出したカイの歩兵隊が、村との間に厚い壁を作るように広がっていく。

 

「予定通りです」

 

 シュアラは、手帳の端に小さく記した。

 

『敵主力:谷中央に固定。村との間に味方壁形成』

 

 字のインクが紙の上で乾く前に、谷の中で鉄と木がぶつかる音が響いた。

 剣と槍。盾と盾。

 

 声は、まだここまでは届かない。

 ただ、空気の密度だけが変わる。谷全体が一つ息を呑んだような、奇妙な静止のあと、遅れて喧噪が押し寄せた。

 

 狼煙が、二本、三本と増える。

 それぞれが、違う高さと濃さで空に線を描いた。

 

「軍師殿」

 

 フィンが、雪煙を上げて戻ってきた。

 

 頬に霜を貼りつけたまま、馬から飛び降りる。

 

「敵は、全部で四列。先頭は槍、真ん中が盾と歩兵、その後ろに弓持ち。荷車は谷の手前に置きっぱなしだ」

 

「旗は?」

 

「四つ、全部いる。さっきの狼煙で、半分は谷の真ん中に釘付けになった」

 

 息を整える間も惜しんで、フィンは雪の上に指で簡単な図を描いた。

 

「ここが谷で、ここが村。カイの奴がここから突っ込んで、敵がこう……」

 

 ざっくりとした線だが、方向は分かる。

 

 シュアラは、その図を手帳の盤面に重ねた。

 

 帝都の会議室で動かしていた木片とは違う。

 ここで動いているのは、人間の列だ。剣の届く距離、弓の射程、馬の疲労。

 

「……予測と、大きな差はありません」

 

 口から出た言葉に、フィンが片眉を上げた。

 

「嬉しいのか、怖いのか、どっちだそれ」

 

「両方です」

 

 即答する。

 

「こちらの想定通りに敵が動くということは、“こちらの想定通りにしか動かないように押し込めている”ということですから」

 

「聞けば聞くほど怖いな、あんたの頭の中」

 

 フィンは額の汗を手袋で雑に拭った。

 

「で、俺はそろそろ若んとこ戻るが……“引き際”の相談はどうする?」

 

 その言葉に、シュアラは一瞬だけ口を閉ざした。

 

 昨夜の団長室。

 紙と革と人の体温で満ちた部屋。

 机の上の地図の上に置かれた拳。

 

『俺が引けと言ったら、その時点で全部捨てて帰ってこい。荷でも、計画でも、数字でもだ』

 

 その声の低さと、紙を押しつぶす指の力だけが、妙に鮮明だった。

 

「フィンさん」

 

「ん?」

 

「あなたの口から、『終わり』が来たとき」

 

 シュアラは、荷台の縁を握りしめた。

 

「その瞬間、この荷車は坂も橋も全部捨てて、砦に向けて走ります」

 

「坂も橋も?」

 

「はい。噛ませどころとして使う余裕があっても、その合図が来たら全部切り捨てます」

 

 自分で言いながら、胸の奥で何かがきしんだ。

 それは、すでに計算に入れていたはずの「損切り」の感覚だ。

 

「……団長と約束しましたから」

 

 フィンは、しばらくシュアラの顔を見ていた。

 冬の光のせいで、彼女の顔はいつにも増して血の気がない。

 

「若が、“第五ゲームやるなよ”って言ってたやつか」

 

「聞いていたんですね」

 

「扉の外まで声が聞こえてたからな」

 

 フィンは苦笑した。

 

「損得勘定で自分の命の削りどころ考えるゲームは、俺もあんまり好きじゃねえ」

 

「好き嫌いで言えば、私もです」

 

 即答すると、フィンは少しだけ目を丸くした。

 

「ただ、そのゲームをしないで済む盤面を作れるなら、そちらを選びたい」

 

 声に出してから、自分でもそれが本音だと気づく。

 

 父の帳簿では見たことのない種類の「利益」だ。

 損失を減らすのではなく、削る必要のない場所そのものを作る利益。

 

「……了解」

 

 フィンは、軽く肩をすくめた。

 

「じゃあ俺は、“終わり”の印を運ぶ役だ。若が『まだいける』と言ってるうちは、あんたは好きに噛ませろ」

 

「“好きに”という表現は適切ではありませんが」

 

「そういうとこだよ、お前」

 

 ラルスがぼそりと挟んだ。

 

 その薄い笑いが、ほんの少しだけ緊張を削いだ。

 

 フィンは馬に飛び乗る。

 

「じゃ、行ってくる。あんたらはその辺で、“おいしそうに見えるように”待ってろ」

 

 軽口を残して、谷の方へ駆けていった。

 

 その背中が小さくなるのを見送りながら、シュアラは手帳を閉じ、懐に戻した。

 

 谷の中では、戦いが本格的になりつつあった。

 狼煙は、すでに三本から四本に増えている。高さと濃さの組み合わせで、斜面ごとの状況が伝わってくる。

 

 丘の上から、再び矢の音がした。

 今度は、敵の旗のあたりで布が大きく揺れる。

 

(馬か、旗か)

 

 どちらにせよ、「人そのもの」ではない。

 それでも、その一本の矢で、誰かが倒れ、誰かが助かる。

 

 リオの指が、今、どれだけ震えているか。

 それを想像した瞬間、自分の指の震えは完全に止まっていた。

 

 かわりに、胸の奥で別の感覚がじわじわと膨らんでいく。

 

(――まだ、盤面は想定の範囲内)

 

 それは事実だ。

 小領主軍は、東の村の「胃袋」を目指して谷を進み、カイの隊に正面から噛まれている。

 

 村と砦の両方を守るための、「最初の条件」は満たされている。

 

 ただ、その「範囲内」という線が、どこまで延ばせるかは、まだ誰にも分からない。

 

 谷の奥、煙の向こう側で、敵の列の一部がほんのわずかに膨らんだ気がした。

 ひとつの旗が、他の列から半歩ほど遅れて動く。

 

 風のせいか、錯覚か。

 判断するには、まだデータが足りない。

 

 シュアラは、あえて目を細めた。

 

「……ラルスさん」

 

「はい」

 

「ロープの結び目の確認を、もう一度お願いします」

 

 ラルスは黙って頷き、荷台に登り直した。

 指先で一本一本、結び目を確かめていく。

 

 坂道。橋の手前。重い荷車。

 ここが、二つ目の「噛ませどころ」になる。

 

 狼煙はなおも空に伸びていく。

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