死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します 作:来巻梓
雪原の白さは、音を飲み込んでしまう。
谷の方から、かすかに金属のぶつかる音が届いていた。
剣と槍と盾が擦れる、鈍い響き。人の声も混じっているはずなのに、ここまで来ると、ただのざわめきにしか聞こえない。
シュアラは、荷台の影に立ったまま、耳と手帳とを交互に使っていた。
遠くの狼煙の本数。高さ。谷の奥で揺れる旗の色。風向き。
数字に変えられるものは全部、紙の上に落としていく。
『敵旗 4 → 谷中央に3固定(煙の位置より推定)
残1:動きに差異あり(遅れ・余白)』
最後の一行のところで、ペン先がほんの少し止まった。
(さっきから、あの列だけ、呼吸が合っていませんね)
谷の右側。
正面からカイの隊に噛まれている主力と違い、外側の一列だけ、じわり、じわりと動きがずれている。
最初は風のせいかと思った。斜面の傾きかもしれない。
だが、さっきよりも「ずれ」が大きい。
帯の端が、谷ではなく、こちら側――東の坂道の方へ、少しだけ膨らんでいる。
「軍師殿」
御者台の横で、護衛の一人が声を潜めた。
「あっちの黒いの、さっきからこっち見てないですか」
指さした先。
谷の縁に、ひときわ濃い影があった。旗持ちとは違う、馬に乗った男。肩口にかかる外套の布が、雪原の白さの中でやけに黒く見える。
シュアラは、荷台の縁に片足をかけて視線を上げた。
視力には自信がない。だが、「見るべきもの」の形だけは分かる。
馬の向き。
旗の位置。
周囲の歩幅。
全部合わせて、一つだけ答えが出た。
(――こちらを「見ている」側の目ですね)
獲物を探す目だ。
盤面全体ではなく、「一番噛みやすそうな肉」を探している目。
喉の奥が、きゅ、と細くなる。
「ラルスさん」
「はいよ」
御者台のすぐ後ろで、ロープの結び目をもてあそんでいたラルスが顔を上げた。
頬に雪がついている。緊張で舌なめずりする癖が、今日はいっそう目立つ。
「第一案から、第二案に切り替えます」
「第一案と第二案って何でしたっけ」
「敵が“こちらを見つける前に済む案”と、“見つかってから払う追加料金ありの案”です」
わざと、少しだけ言い方を柔らかくする。
「はい? なんかすごい嫌な言い回しだった気がするんですけど」
「追加料金の支払いは、なるべく『石』と『時間』だけにします」
人ではなく。
そう言い添えてから、シュアラは荷車の前方を指した。
「まず、重い石袋を手前の荷車に集めてください。奥の荷車はできるだけ軽く」
「さっきは、逆に積んだばっかりなんですけど」
「状況が変わりました」
谷の方を一度見る。
「敵列が、一つ剥がれました。あれは、おそらくこちら側に回り込む別働隊です」
「……マジっすか」
ラルスの顔から血の気が引いた。
唇だけが、かろうじて動いている。
「ええと、それってつまり」
「『囮がちゃんと囮として認識された』という意味では、作戦は成功しています」
言葉だけ聞けば、ほめ言葉のようだ。
誰も嬉しそうにはしなかった。
「成功のご褒美が、『追いかけ回される権利』って、世知辛すぎません?」
「世の中の利息も、だいたいそんなものです」
父の声が、記憶のどこかからひょいと顔を出す。
──最初の一万は、甘い条件で貸してくれるさ。
──問題は、その次だ。二万、三万と積み上げた時に、どこまで削られるかを最初から見ておけ。
インクの匂いではなく、今は鉄と雪の匂いだ。
それでも、「どこで手を打つか」の感覚だけは同じだった。
「ラルスさん」
「はい」
「奥の荷車――砦に近い方は、坂を下りきったらすぐに橋を渡ってください。前の荷車は、この平地で一度止める」
「止める?」
「ええ。“捕まりかけているように見せる”ために」
ラルスは、盛大に顔をしかめた。
「それ、本気で言ってます?」
「本気で言っています」
シュアラは、坂の斜面を指さした。
「この平地から橋までは、馬二十頭分くらいの距離があります。敵が全力で追いかけてきた場合、道の真ん中が一番詰まります」
手帳の端に、簡単な線を引く。
荷車二台。石袋。橋。坂。
「そこで、石袋を全部落とします」
「全部?」
「ほぼ全部です。さっき練習した土手の内側ではなく、道の真ん中に」
ラルスは、首をぐらぐら振った。
「それ、もはや『噛ませる』じゃなくて『蹴つまずかせる』ですよね」
「噛ませる前に躓いてくれるなら、それもまた助かります」
言いながら、自分でも喉の奥が少し冷えた。
計算上は死者ゼロでも、現場の雪は、もっと乱暴に血を吸うだろう。
(それでも、ここで止めなければ、村に行くまでにもっと多くの血が落ちる)
燻製小屋の煙が、風にちぎられながら上がっている。
あれが消えれば、村の冬も一緒に消える。
「……分かりました」
ラルスは大きく息を吐き、それから自分の頬を軽く叩いた。
「やりますよ。俺、帰ってきてから借金減るんですよね」
「帳簿上は、既に減り始めています」
「じゃあ死ねねえなあ」
自分で言って、自分で笑ってみせる。
その笑いはぎこちないが、さっきまでよりは少しだけ血色が戻っていた。
荷台の上で、兵たちが慌ただしく動き始める。
石袋がごろごろと転がり、小麦の袋が持ち上げられる。雪を踏む音と、馬の鼻息と、麻縄が軋む音が重なった。
谷の方からのざわめきが、一瞬だけ大きくなった。
敵の列の一部が、こちらの斜面の方へ向きを変える。
雪の上に、新しい黒い帯が引かれていく。
シュアラは、懐から手帳を取り出した。
『別働隊 推定三~四十
方向:東坂道→村/囮隊ライン
意図:主力の「牙」を避け、直接“胃袋”を噛みに来る動き』
最後の行を書き終える前に、ペン先が紙を突いた。
インクが小さくにじむ。
(……私の見積もり、甘かったですね)
会議室の暖かい空気の中では、もっと綺麗な線を引けていた。
現場の雪の上では、線はすぐに滲む。
それでも、今更、盤面ごとひっくり返すことはできない。
「全員、馬車から離れすぎないでください」
声を張る。
「最初の合図は、私が出します。敵が『届く』距離まで来たら、前の荷車を一度止める。そのあと、橋へ向けて一気に走る」
「届くって、どれくらいです?」
護衛の一人が聞く。
「馬の鼻先が、荷車の尻に触れそうになったくらいです」
「近っ……!」
「それより手前で止まると、敵の方が賢いです」
ラルスが頭を抱える。
「馬の匂いかいでる余裕なさそうだなあ、俺」
「匂いを嗅げるなら、まだ大丈夫です」
シュアラは、微かに笑った。
「駄目なのは、自分の匂いすら分からないくらいになってからです」
「それはもう、手遅れって言うんです」
そんなやり取りをしているあいだにも、黒い帯はじわじわと近づいてきた。
雪の上に、馬の蹄の跡が新しく刻まれる。
それを見ているだけで、足の裏がむず痒くなる。いつ自分の足跡がその上に重なるか、分からないからだ。
喉の渇きが増す。
水筒に手を伸ばすのをこらえ、代わりに舌先で唇を湿らせた。
そのとき、谷の方から別の音がした。
角笛だ。
狼の咆哮に似た、低く長い音。
砦のものではない。カイが使う、騎士団の合図だ。
(何か、盤面が変わりましたね)
そこまで考えたところで、一度、視線を谷へ戻した。
谷の中央で、狼の旗が大きく翻っていた。
それまで横に広がっていた隊列が、ぐっと前に押し出されている。雪煙が立ち昇る。
カイが、主力ごと前へ出たのだ。
谷の中ほどで、敵と味方の距離が一気に縮まる。
(……戦線を押し上げた。別働隊に、谷の入口を渡さないためですね)
理解と同時に、不安も膨らむ。
戦線を押し上げるということは、それだけ味方も噛まれる位置に出るということだ。
死者ゼロという文字列が、手帳の裏側で薄く疼いた。