死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します   作:来巻梓

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雪原の囮(2)

 谷の底の空気は、雪の上に貼りつく血の匂いで重くなりつつあった。

 

 カイは、左腕の盾越しに敵の槍を弾きながら、息を吐いた。

 吐くたびに白い蒸気が上がる。視界の端で、それがすぐに雪と混ざった。

 

「右、詰めろ! 足元見るな、前だけ見ろ!」

 

 怒鳴る声が、自分のものかどうか、一瞬分からなくなる。

 数年前の戦場で、同じように喉が焼ける感覚を味わったことがあるからだ。

 

(あの時は、守りきれなかった)

 

 赤い谷。

 凍った川の上で、退路を塞ぐように倒れていった仲間たちの背中。

 あのときは、「殿」を務めるしかなかった。

 

 今は違う。

 今は、自分が崩れたら、後ろにいる誰かを噛ませることになる。

 

「団長!」

 

 左側から、雪を蹴る足音とともに声が飛んできた。

 フィンだ。肩で息をしながら、盾列の隙間を縫ってこちらに来る。

 

「さっき丘の見張りから伝令!」

 

「言え!」

 

「敵の一列、東の坂道に回り込み中! 数は四十前後、馬混じり!」

 

 予想通りだ。

 カイは短く頷きかけ――そこで、フィンの言葉が続いた。

 

「進路上に、囮の荷車!」

 

 盾で槍を弾きながら、カイは眉をひそめた。

 

「進路上にってのは、そういう配置だろうが」

 

「いや、その――」

 

 フィンが唇を噛む。

 

「“例の文官殿”、自分で荷台に乗ってましたよ。朝、ここに来る前に見た」

 

 喉の奥で、何かがはじける音がした。

 それが血管か、古い怒りか、一瞬判断がつかない。

 

「……誰が、乗ってたって?」

 

「シュアラですよ。荷の重さ数えながら、『ここが噛ませどころです』って」

 

 フィンは、苦い笑いを混ぜた。

 

「団長の『第五ゲームやるな』って台詞、聞いてたはずなんですけどね」

 

 カイの視界の端で、敵の槍がちらりと光る。

 反射的に盾を上げ、剣を振るう。鉄と鉄がぶつかる音が、耳の奥で爆ぜた。

 

 昨夜の団長室の光景が、遅れて脳裏に蘇る。

 

『選定はこちらに任せていただけますか』

 あいつは、名前を言わなかった。

『帳簿の理解度と、撤退時の判断の速さを見て』

 

 脳裏のシュアラが、静かな声でそう言う。

 そのあと、手帳の余白にうっすらと書かれていた行。

 

 ――許容損耗率。

 

 苛立ちが、胃のあたりから込み上げてくる。

 それは、敵に向けたものではなく、自分と、団長室の机の向こう側の女に向けたものだ。

 

(やっぱり、自分をチップに乗せやがったな)

 

 舌の奥に苦味が広がる。

 

「フィン!」

 

「おう!」

 

「右の重騎士全部集めろ! ボルグにも言え、『道を開ける』ってな!」

 

「殴り込みですか」

 

「違ぇよ」

 

 カイは剣を振り上げ、前の兵たちに声を張った。

 

「挟み込むんだ!」

 

 谷の右側――東の坂道に向かって、ぐっと顎をしゃくる。

 

「敵の別働隊と本隊の間にぶち込む! 列を割って、道を作れ!」

 

 自分でも分かるくらい、声が荒くなっていた。

 兵たちが顔を見合わせる。その中の誰かが、小さく笑った。

 

「団長、久しぶりに“狼”の顔してますよ」

 

「黙って走れ!」

 

 怒鳴りつけ、しかしそれは完全な怒りではない。

 半分は、自分自身を叱り飛ばしている。

 

 シュアラが囮隊にいることを、今の今まで半分くらいしか疑っていなかった自分を。

 

「いいか、聞け!」

 

 カイは、盾列の後ろにいる兵たちにも届くように声を張り上げた。

 

「あの女は――」

 

 言いかけて、少しだけ言い換える。

 

「軍師だ! 頭だ! ここにいる全員分の命の計算を、今まで全部やってきた!」

 

 フィンが目を細める。

 前列の兵の一人が、ぽかんと口を開けた。

 

「軍師……」

 

「誰だよ、それ」

 

「死人文官だろ」

 

 ざわめきが、小さく波紋のように広がる。

 

「その軍師を、敵に噛ませるな!」

 

 カイは剣を振り下ろした。地面に刺さった雪が跳ねる。

 

「――軍師を守れ! 道を開けろ! 食えるもんがあるなら、全部俺たちが先に食ってやる!」

 

 最後の一言で、兵たちの表情が変わった。

 恐怖と疲労の中に、妙な悪戯っぽさが混ざる。

 

「はいよ、団長!」

 

「食い扶持、取らせねえぞコラ!」

 

 掛け声とともに、ヴァルムの兵たちが一斉に動いた。

 

 右側の重騎士――ボルグを先頭にした鉄の塊が、雪を蹴って前へ出る。

 盾の列がわずかに開き、空いた隙間に騎馬が滑り込んだ。

 

 谷の中央で、敵と味方の列がぶつかる。

 雪煙がもうもうと舞い上がり、一瞬だけ視界が白一色になる。

 

 その先にあるはずの東の坂道を想像しながら、カイは奥歯を噛みしめた。

 

 

 東の雪原には、まだ血の匂いはなかった。

 代わりに、馬の汗と、袋に詰めた粉の匂いと、冷えた鉄の匂いだけが混ざっている。

 

「来ます」

 

 シュアラが言うと同時に、地面の震えが強くなった。

 雪を踏みしめる蹄の音が、さっきまでよりはっきりと耳に届く。

 

 黒い帯が、坂の上に姿を現した。

 完全な列ではない。馬の前後が少し乱れている。谷から回り込んできたせいで、隊形が整いきっていないのだろう。

 

 それでも、こちらにとっては十分脅威だった。

 馬一頭の質量は、石袋の数字よりも簡単に人の骨を折る。

 

「前の荷車、ゆっくり動かしてください」

 

 御者が手綱を握り直す。

 車輪が、ぎゅ、と雪を噛んだ。

 

 荷車がじわじわと動き出す。

 そのすぐ後ろを、シュアラと護衛たちが走る。

 奥の荷車――砦側の一台は、すでに橋の手前へ向かって動き出している。

 

「ラルスさん」

 

「聞こえてます!」

 

 ラルスが、前の荷車の御者台の上で振り返る。

 顔は真っ青だが、声だけは大きい。

 

「『馬の鼻先がかすめるくらい』まで引き付けるんですよね!? はい、覚えてますとも!」

 

「途中で怖くなっても止まらないでください」

 

「怖くなんねえ訳ないでしょ!? でも止まりませんよ! 多分!」

 

 多分、という言葉を、シュアラはあえて拾わなかった。

 

 坂の上の敵が、こちらに気づいたのが分かる。

 旗がひとつ、ひゅっとこちら側に傾いた。

 

 馬の速度が上がる。

 雪煙が一段濃くなった。

 

 距離が縮まるにつれて、顔の輪郭が見え始める。

 頬がこけている者。まだ若い目をした者。

 彼らの背中にも、きっと何人分もの腹がぶら下がっているのだろう。

 

(……それでも、そちらに渡すわけにはいきません)

 

 シュアラは、懐の手帳を押さえた。

 紙越しに感じる「死者ゼロ」の文字列は、体温でほんのり温かい。

 

 やがて、馬の鼻息が聞こえる距離になった。

 蒸気が白く吹き出し、すぐに冷たい空気に飲まれる。

 

「今です!」

 

 声が、自分の喉から出たものとは思えないくらいよく通った。

 

 ラルスが御者台の上で立ち上がる。

 用意していた合図旗を振ると同時に、荷台の後ろでロープが切られた。

 

「落とせ!」

 

 兵たちが一斉に石袋を押し出す。

 道の真ん中に、灰色の塊がごろごろと転がり落ちた。

 

 前の荷車の速度が、ほんの一瞬だけ落ちる。

 その隙を埋めるように、奥の荷車が橋の手前へと滑り込む。

 

 敵の馬が、慌ててブレーキをかけた。

 蹄鉄が雪と石袋を同時に噛み、耳障りな音を立てる。

 

 先頭の馬が躓いた。

 騎手が体勢を崩し、地面に転がる。

 その後ろの馬も次々と足を取られ、列の前半がぐしゃりと崩れた。

 

 雪が大きく舞い上がる。

 白と灰色の間に、暗い色が一瞬混ざった。

 

 シュアラは、その暗さから目を逸らさなかった。

 逸らしてしまえば、何人分の数字をごまかしたか分からなくなるからだ。

 

(骨折。打撲。最悪の場合、頸椎損傷……致命傷ではなく、戦列から外れる程度)

 

 頭の中で、瞬時に分類する。

 父の会議室では、数字の桁で切り捨てていた部分だ。

 

「橋を渡って!」

 

 奥の荷車に向かって叫ぶ。

 

「このまま砦まで戻ってください! 残りはここで時間を稼ぎます!」

 

「軍師殿は!」

 

 誰かが振り返って叫んだ。

 

「私は――」

 

 喉が、そこで止まった。

 

 橋の前に、もう一つの「噛ませどころ」があった。

 雪で覆われた細い坂。

 さっきラルスにロープの結び目を確認させた場所。

 

 あそこに残って操作を続けるなら、誰かが最後までここにいなければならない。

 石袋を落とす役、ロープを切る役、橋を渡り切った荷車の数を数える役。

 

(ここで私が残れば、全体の生存率は……)

 

 思考が、そこまで進んだところで止まる。

 

 それは、カイが昨夜言った言葉と重なっていた。

 

『勝手に「第五ゲーム」だけは始めんなよ』

 

 自分の命をどこまで削ったら砦が得をするか、というゲーム。

 父が好んでやっていた種類の計算。

 シュアラ自身が、これまで何度も頭の中で試し書きしてきたゲーム。

 

 背中の方から、別の音が聞こえた。

 

 矢だ。

 風を切る、短く鋭い音。

 

 次いで、紙が裂ける感触が胸元に伝わった。

 

「……っ」

 

 懐の手帳が、内側からぴしりと裂ける。

 矢の先が紙を貫き、表紙をめくったところで止まっていた。

 

 数歩遅れて、腕に鈍い痛みが走る。

 毛皮と服だけを掠めた矢が、皮膚の上を焼いた。

 

「軍師殿!」

 

 ラルスが悲鳴のような声を上げる。

 

「大丈夫です!」

 

 即座に返す。

 

 手帳を引き抜くと、真ん中あたりのページが破れていた。

 『死者ゼロ(暫定→本番へ)』と書いた行のところで、インクが裂けている。

 

 なんて縁起の悪い場所を、と思う。

 同時に、まだその行そのものは完全には消えていないことに、妙な安堵も覚えた。

 

「矢が届く距離までは、ここに残ります」

 

 シュアラは、荷台の影に身を寄せ、再びロープの位置を確かめた。

 

「ラルスさん、橋を渡るタイミングの判断はお任せします」

 

「お任せしますって、またそれだ……!」

 

 ラルスは半泣きの顔で叫ぶ。

 

「団長さんの『引け』が聞こえるまで引かないとか言わないでくださいよ!」

 

「団長の声は、ここまでは届きません」

 

「届かせてくださいよ!」

 

 そのやり取りの最中にも、敵の別働隊は体勢を立て直しつつあった。

 足を挫いた馬を捨て、歩兵が雪の中を走り出す。

 彼らの目は、すでに橋と荷車だけを見ている。

 

 雪の上に、重い足音が迫る。

 鉄と革の擦れる音が混ざる。

 

 シュアラは、奥歯を噛みしめた。

 

(ここで、何人分の時間を稼げるか)

 

 それは、帳簿の数字ではなく、肺の数と心臓の数で数える時間だ。

 

 そのときだった。

 

 谷の方から、もう一度、角笛の音がした。

 さっきよりも鋭く、短い。

 

 風に乗って、その音が雪原を駆け抜ける。

 耳に届いた瞬間、足元の雪がほんのわずか震えた気がした。

 

「……?」

 

 振り向いた先。

 

 遠くの斜面に、黒い旗が一つ、雪煙を切り裂いていた。

 狼の紋章。

 その後ろに、鉄の塊のような影が続いている。

 

 カイの隊だ。

 谷から別働隊と本隊の間を突き破り、そのままこちら側へなだれ込んできている。

 

 敵の別働隊の列が、一瞬だけ動きを止めた。

 背後から迫る気配に、振り返る者が出る。

 

 そのほんの一瞬の静止が、こちらにとっては何十心拍分もの猶予に見えた。

 

「……ラルスさん」

 

「なんですか」

 

「今のうちに、橋を半分まで渡ってください」

 

「半分?」

 

「ええ。全部渡りきると、『逃げ切れるかもしれない』と思ってしまうので」

 

 ラルスは、泣き笑いのような顔をした。

 

「軍師殿って人は、本当に……!」

 

 それ以上の言葉は、雪煙と蹄の音の中に飲み込まれた。

 

 荷車が軋みながら橋へ向かう。

 敵の別働隊がそれを追う。

 谷の方からは、狼の旗を掲げた騎士たちが雪原を駆けてくる。

 

 シュアラは、手帳の裂け目を指先で押さえながら、ロープにかけた手に力を込めた。

 

 遠くから、狼の咆哮が聞こえた。

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