死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します 作:来巻梓
谷の底の空気は、雪の上に貼りつく血の匂いで重くなりつつあった。
カイは、左腕の盾越しに敵の槍を弾きながら、息を吐いた。
吐くたびに白い蒸気が上がる。視界の端で、それがすぐに雪と混ざった。
「右、詰めろ! 足元見るな、前だけ見ろ!」
怒鳴る声が、自分のものかどうか、一瞬分からなくなる。
数年前の戦場で、同じように喉が焼ける感覚を味わったことがあるからだ。
(あの時は、守りきれなかった)
赤い谷。
凍った川の上で、退路を塞ぐように倒れていった仲間たちの背中。
あのときは、「殿」を務めるしかなかった。
今は違う。
今は、自分が崩れたら、後ろにいる誰かを噛ませることになる。
「団長!」
左側から、雪を蹴る足音とともに声が飛んできた。
フィンだ。肩で息をしながら、盾列の隙間を縫ってこちらに来る。
「さっき丘の見張りから伝令!」
「言え!」
「敵の一列、東の坂道に回り込み中! 数は四十前後、馬混じり!」
予想通りだ。
カイは短く頷きかけ――そこで、フィンの言葉が続いた。
「進路上に、囮の荷車!」
盾で槍を弾きながら、カイは眉をひそめた。
「進路上にってのは、そういう配置だろうが」
「いや、その――」
フィンが唇を噛む。
「“例の文官殿”、自分で荷台に乗ってましたよ。朝、ここに来る前に見た」
喉の奥で、何かがはじける音がした。
それが血管か、古い怒りか、一瞬判断がつかない。
「……誰が、乗ってたって?」
「シュアラですよ。荷の重さ数えながら、『ここが噛ませどころです』って」
フィンは、苦い笑いを混ぜた。
「団長の『第五ゲームやるな』って台詞、聞いてたはずなんですけどね」
カイの視界の端で、敵の槍がちらりと光る。
反射的に盾を上げ、剣を振るう。鉄と鉄がぶつかる音が、耳の奥で爆ぜた。
昨夜の団長室の光景が、遅れて脳裏に蘇る。
『選定はこちらに任せていただけますか』
あいつは、名前を言わなかった。
『帳簿の理解度と、撤退時の判断の速さを見て』
脳裏のシュアラが、静かな声でそう言う。
そのあと、手帳の余白にうっすらと書かれていた行。
――許容損耗率。
苛立ちが、胃のあたりから込み上げてくる。
それは、敵に向けたものではなく、自分と、団長室の机の向こう側の女に向けたものだ。
(やっぱり、自分をチップに乗せやがったな)
舌の奥に苦味が広がる。
「フィン!」
「おう!」
「右の重騎士全部集めろ! ボルグにも言え、『道を開ける』ってな!」
「殴り込みですか」
「違ぇよ」
カイは剣を振り上げ、前の兵たちに声を張った。
「挟み込むんだ!」
谷の右側――東の坂道に向かって、ぐっと顎をしゃくる。
「敵の別働隊と本隊の間にぶち込む! 列を割って、道を作れ!」
自分でも分かるくらい、声が荒くなっていた。
兵たちが顔を見合わせる。その中の誰かが、小さく笑った。
「団長、久しぶりに“狼”の顔してますよ」
「黙って走れ!」
怒鳴りつけ、しかしそれは完全な怒りではない。
半分は、自分自身を叱り飛ばしている。
シュアラが囮隊にいることを、今の今まで半分くらいしか疑っていなかった自分を。
「いいか、聞け!」
カイは、盾列の後ろにいる兵たちにも届くように声を張り上げた。
「あの女は――」
言いかけて、少しだけ言い換える。
「軍師だ! 頭だ! ここにいる全員分の命の計算を、今まで全部やってきた!」
フィンが目を細める。
前列の兵の一人が、ぽかんと口を開けた。
「軍師……」
「誰だよ、それ」
「死人文官だろ」
ざわめきが、小さく波紋のように広がる。
「その軍師を、敵に噛ませるな!」
カイは剣を振り下ろした。地面に刺さった雪が跳ねる。
「――軍師を守れ! 道を開けろ! 食えるもんがあるなら、全部俺たちが先に食ってやる!」
最後の一言で、兵たちの表情が変わった。
恐怖と疲労の中に、妙な悪戯っぽさが混ざる。
「はいよ、団長!」
「食い扶持、取らせねえぞコラ!」
掛け声とともに、ヴァルムの兵たちが一斉に動いた。
右側の重騎士――ボルグを先頭にした鉄の塊が、雪を蹴って前へ出る。
盾の列がわずかに開き、空いた隙間に騎馬が滑り込んだ。
谷の中央で、敵と味方の列がぶつかる。
雪煙がもうもうと舞い上がり、一瞬だけ視界が白一色になる。
その先にあるはずの東の坂道を想像しながら、カイは奥歯を噛みしめた。
*
東の雪原には、まだ血の匂いはなかった。
代わりに、馬の汗と、袋に詰めた粉の匂いと、冷えた鉄の匂いだけが混ざっている。
「来ます」
シュアラが言うと同時に、地面の震えが強くなった。
雪を踏みしめる蹄の音が、さっきまでよりはっきりと耳に届く。
黒い帯が、坂の上に姿を現した。
完全な列ではない。馬の前後が少し乱れている。谷から回り込んできたせいで、隊形が整いきっていないのだろう。
それでも、こちらにとっては十分脅威だった。
馬一頭の質量は、石袋の数字よりも簡単に人の骨を折る。
「前の荷車、ゆっくり動かしてください」
御者が手綱を握り直す。
車輪が、ぎゅ、と雪を噛んだ。
荷車がじわじわと動き出す。
そのすぐ後ろを、シュアラと護衛たちが走る。
奥の荷車――砦側の一台は、すでに橋の手前へ向かって動き出している。
「ラルスさん」
「聞こえてます!」
ラルスが、前の荷車の御者台の上で振り返る。
顔は真っ青だが、声だけは大きい。
「『馬の鼻先がかすめるくらい』まで引き付けるんですよね!? はい、覚えてますとも!」
「途中で怖くなっても止まらないでください」
「怖くなんねえ訳ないでしょ!? でも止まりませんよ! 多分!」
多分、という言葉を、シュアラはあえて拾わなかった。
坂の上の敵が、こちらに気づいたのが分かる。
旗がひとつ、ひゅっとこちら側に傾いた。
馬の速度が上がる。
雪煙が一段濃くなった。
距離が縮まるにつれて、顔の輪郭が見え始める。
頬がこけている者。まだ若い目をした者。
彼らの背中にも、きっと何人分もの腹がぶら下がっているのだろう。
(……それでも、そちらに渡すわけにはいきません)
シュアラは、懐の手帳を押さえた。
紙越しに感じる「死者ゼロ」の文字列は、体温でほんのり温かい。
やがて、馬の鼻息が聞こえる距離になった。
蒸気が白く吹き出し、すぐに冷たい空気に飲まれる。
「今です!」
声が、自分の喉から出たものとは思えないくらいよく通った。
ラルスが御者台の上で立ち上がる。
用意していた合図旗を振ると同時に、荷台の後ろでロープが切られた。
「落とせ!」
兵たちが一斉に石袋を押し出す。
道の真ん中に、灰色の塊がごろごろと転がり落ちた。
前の荷車の速度が、ほんの一瞬だけ落ちる。
その隙を埋めるように、奥の荷車が橋の手前へと滑り込む。
敵の馬が、慌ててブレーキをかけた。
蹄鉄が雪と石袋を同時に噛み、耳障りな音を立てる。
先頭の馬が躓いた。
騎手が体勢を崩し、地面に転がる。
その後ろの馬も次々と足を取られ、列の前半がぐしゃりと崩れた。
雪が大きく舞い上がる。
白と灰色の間に、暗い色が一瞬混ざった。
シュアラは、その暗さから目を逸らさなかった。
逸らしてしまえば、何人分の数字をごまかしたか分からなくなるからだ。
(骨折。打撲。最悪の場合、頸椎損傷……致命傷ではなく、戦列から外れる程度)
頭の中で、瞬時に分類する。
父の会議室では、数字の桁で切り捨てていた部分だ。
「橋を渡って!」
奥の荷車に向かって叫ぶ。
「このまま砦まで戻ってください! 残りはここで時間を稼ぎます!」
「軍師殿は!」
誰かが振り返って叫んだ。
「私は――」
喉が、そこで止まった。
橋の前に、もう一つの「噛ませどころ」があった。
雪で覆われた細い坂。
さっきラルスにロープの結び目を確認させた場所。
あそこに残って操作を続けるなら、誰かが最後までここにいなければならない。
石袋を落とす役、ロープを切る役、橋を渡り切った荷車の数を数える役。
(ここで私が残れば、全体の生存率は……)
思考が、そこまで進んだところで止まる。
それは、カイが昨夜言った言葉と重なっていた。
『勝手に「第五ゲーム」だけは始めんなよ』
自分の命をどこまで削ったら砦が得をするか、というゲーム。
父が好んでやっていた種類の計算。
シュアラ自身が、これまで何度も頭の中で試し書きしてきたゲーム。
背中の方から、別の音が聞こえた。
矢だ。
風を切る、短く鋭い音。
次いで、紙が裂ける感触が胸元に伝わった。
「……っ」
懐の手帳が、内側からぴしりと裂ける。
矢の先が紙を貫き、表紙をめくったところで止まっていた。
数歩遅れて、腕に鈍い痛みが走る。
毛皮と服だけを掠めた矢が、皮膚の上を焼いた。
「軍師殿!」
ラルスが悲鳴のような声を上げる。
「大丈夫です!」
即座に返す。
手帳を引き抜くと、真ん中あたりのページが破れていた。
『死者ゼロ(暫定→本番へ)』と書いた行のところで、インクが裂けている。
なんて縁起の悪い場所を、と思う。
同時に、まだその行そのものは完全には消えていないことに、妙な安堵も覚えた。
「矢が届く距離までは、ここに残ります」
シュアラは、荷台の影に身を寄せ、再びロープの位置を確かめた。
「ラルスさん、橋を渡るタイミングの判断はお任せします」
「お任せしますって、またそれだ……!」
ラルスは半泣きの顔で叫ぶ。
「団長さんの『引け』が聞こえるまで引かないとか言わないでくださいよ!」
「団長の声は、ここまでは届きません」
「届かせてくださいよ!」
そのやり取りの最中にも、敵の別働隊は体勢を立て直しつつあった。
足を挫いた馬を捨て、歩兵が雪の中を走り出す。
彼らの目は、すでに橋と荷車だけを見ている。
雪の上に、重い足音が迫る。
鉄と革の擦れる音が混ざる。
シュアラは、奥歯を噛みしめた。
(ここで、何人分の時間を稼げるか)
それは、帳簿の数字ではなく、肺の数と心臓の数で数える時間だ。
そのときだった。
谷の方から、もう一度、角笛の音がした。
さっきよりも鋭く、短い。
風に乗って、その音が雪原を駆け抜ける。
耳に届いた瞬間、足元の雪がほんのわずか震えた気がした。
「……?」
振り向いた先。
遠くの斜面に、黒い旗が一つ、雪煙を切り裂いていた。
狼の紋章。
その後ろに、鉄の塊のような影が続いている。
カイの隊だ。
谷から別働隊と本隊の間を突き破り、そのままこちら側へなだれ込んできている。
敵の別働隊の列が、一瞬だけ動きを止めた。
背後から迫る気配に、振り返る者が出る。
そのほんの一瞬の静止が、こちらにとっては何十心拍分もの猶予に見えた。
「……ラルスさん」
「なんですか」
「今のうちに、橋を半分まで渡ってください」
「半分?」
「ええ。全部渡りきると、『逃げ切れるかもしれない』と思ってしまうので」
ラルスは、泣き笑いのような顔をした。
「軍師殿って人は、本当に……!」
それ以上の言葉は、雪煙と蹄の音の中に飲み込まれた。
荷車が軋みながら橋へ向かう。
敵の別働隊がそれを追う。
谷の方からは、狼の旗を掲げた騎士たちが雪原を駆けてくる。
シュアラは、手帳の裂け目を指先で押さえながら、ロープにかけた手に力を込めた。
遠くから、狼の咆哮が聞こえた。