死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します   作:来巻梓

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死者報告(1)

 矢羽根が、冬の空気を二つに割った。

 

 音はほとんどない。張り詰めた弦がわずかに鳴ったきり、あとは風の中に溶けていく。

 代わりに、耳の奥で自分の鼓動がうるさかった。

 

(……右に半歩)

 

 リオは息を殺したまま、視界の端で黒い影の動きだけを追った。

 

 丘の上の「変な木」。

 途中から折れて、横に伸びた枝。

 その枝にまたがるようにして、彼は伏せていた。尻の下の樹皮がじりじり冷たい。

 

 斜面の下には、白い雪原が広がっている。

 橋と、その手前の坂道と、荷車二台。

 さらに向こう、谷から回り込んできた敵の別働隊が、黒い帯になって坂を駆け下りてくる。

 

(もう一歩)

 

 息を止める。

 矢の先が、黒い帯の中の一か所をなぞった。

 

 馬と人と槍と旗。

 それぞれが揺れながら混ざり合っている。

 どこを狙えば一番「止まる」かを考えた。

 

(旗じゃない。……馬だ)

 

 リオは、弓をほんのわずかに引き直した。

 

 軍師殿の言葉が頭の中で繰り返される。

 

『馬の脚と旗と槍の木の部分。今はそこまでです』

 

 人の胸ではなく、馬の胸。

 それなら、まだ狙える。

 

 自分の矢で、誰かの顔から血の色を抜く光景だけは、まだ想像したくなかった。

 

(それでも、誰かの脚は止める)

 

 リオは、指を離した。

 

 矢が、雪原に向かって落ちていく。

 時間の感覚が、一瞬だけ伸びる。

 

(当たれ)

 

 祈りとも命令ともつかない言葉が、喉の奥で転がった。

 

 黒い帯の中の、一頭の馬が崩れた。

 

 胸のあたりを撃ち抜かれたのか、前脚から折れたのか。

 そこまで細かくは見えない。

 ただ、馬と騎手と、その周囲の数人がまとめて雪に沈むのだけは分かった。

 

 列が乱れる。

 後ろから来ていた馬が、避けきれずにぶつかる。

 旗が揺れ、槍の向きがばらばらになる。

 

 リオは、弦を握り直した。

 指先の感覚が、さっきよりもほんの少し軽い。

 

(……一本目)

 

 喉の奥で数える。

 矢筒には、まだ何本も矢が残っている。

 

 丘の上の空気は、ひどく静かだった。

 自分の吐く白い息と、遠くの金属の音だけが、世界のすべてみたいに思える。

 

「よし」

 

 小さく呟き、次の矢をつがえた。

 

 斜面の向こうでは、狼の旗が動き始めている。

 谷の底から、味方の列がにじみ出るように前へ出てきていた。

 

(団長の道を、軽くする)

 

 自分でそう決めた以上、やることは単純だった。

 

 馬の胸。

 旗の棒。

 槍の木の部分。

 

 矢を放つたびに、雪原の一部が少しずつ欠けていく。

 その欠けた部分が、守りたかった誰かの立つ場所になればいい――そう思いながら。

 

 矢を三本目まで放ったところで、指先の感覚が鈍くなってきた。

 

(まだだ)

 

 リオは、自分の指に言い聞かせる。

 

「まだいける。まだ撃てる」

 

 声に出すと、少しだけ楽になった。

 

 雪原の向こう側で、別の旗が揺れた。

 狼の紋章。谷の底から、カイたちの隊が前へ出てくる。

 

 リオは、その旗の少し右側に矢先を向けた。

 団長の進む道を、少しでも軽くするために。

 

 *

 

 雪が、鉄の蹄に踏み潰されていた。

 

 カイは、馬の首筋に身を伏せたまま前を見ていた。

 谷の中央で敵の槍をいなし、その勢いのまま右へ切り込む。

 足元の感覚が一瞬で変わる。斜面。雪。泥。

 

「右、開けろ! ボルグ、ついてこい!」

 

 喉が焼けるほど叫ぶ。

 肩口の傷が軋んだが、構わず腕を振る。

 

 重騎士の列が、盾の壁の間を抜けた。

 鉄と馬と人間がひと塊になって、別働隊と本隊の間の細い隙間へ突っ込んでいく。

 

 敵の槍がこちらに向き直る前に、馬の体当たりで列を割る。

 盾に当たる衝撃が、腕の骨まで響いた。

 

(あの別働隊を放っておいたら、雪原のほうに抜けられる)

 

 リオの矢で乱れた列。

 そこに、自分たちの塊を無理やりねじ込んでいく。

 

 視界の端で、黒い外套が雪に転がるのが見えた。

 その周囲で、敵の列がさらに乱れている。

 

「……リオか」

 

 短く呟く。

 あいつの矢の癖は、もう何度も見てきた。人の胸ではなく、馬の胸を狙う矢だ。

 

 崩れた列の隙間を、狼の紋章を掲げた旗が駆け抜ける。

 カイはその少し前に出た。

 

 転がった黒外套の男が、なんとか身体を起こそうとしていた。

 膝が雪に沈み、片腕で地面を押さえている。兜は脱げて、顔が露わになっていた。

 

 敵将――ヴォルフ。

 砦の情報で顔だけは知っていた。

 

 真っ直ぐな鼻筋と、癖のない髪。

 帝都生まれの貴族によくある顔立ちだ。

 ここ数年、ああいう顔の奴らに散々な目に遭わされてきた記憶が、喉の奥で苦く笑う。

 

「よく来たな、辺境の狼」

 

 ヴォルフが、血の混じった息を吐きながら言った。

 

「“死人”を飼ってるって噂は、本当だったらしい」

 

 その言葉に、カイの頬の筋肉がぴくりと動いた。

 

「噂より口が回るな。死に損なったくせに」

 

 剣先を、男の喉元寸前で止める。

 ヴォルフの喉が、ごくりと動いた。

 

「殺すか?」

 

 ボルグが隣で問う。馬上からでも、重騎士の視線は鋭い。

 

「砦に連れて帰る」

 

 カイは短く答えた。

 

「死んだ奴の口は開かねえ。生きてる奴の口は、場合によっちゃ金貨より役に立つ」

 

「生かしといて、あとで噛ませるってわけか」

 

「……さあな」

 

 ヴォルフの腕を、とりあえず馬の腹帯に縛りつける。

 敵将を縛る麻縄の感触が、指にざらついて残った。

 

 背後では、まだ剣と槍の音がしている。

 鉄同士がぶつかる音。

 人の叫び。

 雪が抉れる音。

 

 カイは、息を吐いた。

 

(……帳簿の数字、守ってやるよ)

 

 自嘲気味に鼻を鳴らした。

 

 この一戦で、仮に十や二十、敵の首を取ったところで。

 冬のあいだに腹を空かせて死ぬ子どもの数のほうが多くなるかもしれない。

 それなら、今は「守りたい腹」のほうを優先する。

 

「ボルグ!」

 

「おう!」

 

 重騎士隊長が鉄の塊みたいな声で応じた。

 

「何人か選んで、あの黒外套の護衛につけろ! 逃がすな、殺すな!」

 

「へいへい、“客人様”だもんな!」

 

 ボルグがニヤリと笑う。

 その笑いの裏に、ようやく戦が終わりつつある実感が混じり始めていた。

 

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