死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します   作:来巻梓

43 / 79
死者報告(2)

 別働隊の角笛が鳴った瞬間、雪原の空気が変わった。

 

 シュアラは、橋の手前でロープを握ったまま、その変化を指先の感覚で受け取った。

 雪の表面を滑ってくる振動が、さっきまでの「追い立てる」リズムから、「引き波」のような揺れに変わる。

 

「……撤退の合図ですね」

 

 誰に言うともなく呟くと、隣でラルスが大きく息を吐いた。

 

「マジで? 撤退? 本当に? 夢じゃなくて?」

 

「夢なら、もっと温かい部屋だと思います」

 

「ですよねー!」

 

 ラルスの笑い声が、半分泣き声みたいに裏返った。

 

 坂の上では、敵の別働隊がもつれ合うようにして引き返し始めている。

 落とした石袋と、転んだ馬と、雪に散らばった武具。

 その中を、敵兵たちが悪態をつきながらすり抜けていく。

 

 橋の上を渡りきった先には、砦へ続く道がある。

 その道の向こうで、また誰かが雪を踏み固めているはずだ。

 

「ラルスさん」

 

「はいよ!」

 

「ここから先は、できるだけ揺らさずに走ってください。粉袋の中身を、あまり暴れさせたくありません」

 

「粉袋……」

 

 ラルスがちらりと荷台を見て、苦笑した。

 

「中身、半分以上石なんですけどね」

 

「半分以下は、本物です」

 

 シュアラは、懐の帳簿を指先で押さえた。

 

「その半分以下を、ちゃんと砦まで連れて帰りましょう」

 

「了解です。……軍師殿」

 

 ラルスが、少し真面目な声になった。

 

「俺、ちゃんと帰ってきたら、帳簿の借金、ほんとに減るんですよね?」

 

「ええ。数字の上では、すでに減り始めています」

 

「じゃあ、死ねねえなあ」

 

 自分で言って、自分で笑う。

 その笑いが完全に冗談になりきる前に、御者台の下で誰かが声を上げた。

 

「軍師殿! 腕!」

 

 ロープを握っていた右腕を見下ろすと、袖の布が裂けていた。

 さっき矢を受けた箇所。

 血はもうほとんど止まっているが、動かすたびに鈍い痛みが走る。

 

「大丈夫です。かすり傷ですから」

 

「かすり傷でその血の量っすか……?」

 

「……冬は血が目立ちます」

 

 そう言って、シュアラはわざと肩をすくめてみせた。

 

 ラルスが、やれやれといった顔で前を向き直る。

 

(痛い)

 

 実際には、かすり傷というには少し深い。

 だが、それをきっちり報告してしまえば、次から同じ距離で矢を避けろと命じられるかもしれない。

 

(それは、さすがに無理です)

 

 そんな細かい調整ができるなら、帝都の帳簿だって破産なんてしなかった。

 

 橋を渡りきる直前、シュアラは一度だけ振り返った。

 

 坂の途中に、石袋と倒れた馬と、散った槍の穂先が見える。

 そこに血の色はほとんど見えなかった。

 

 敵兵の何人かは、まだ動いている。

 呻き声が風に乗って届いた。

 

(……数には入れません)

 

 自分に言い聞かせる。

 今日の帳簿に載せるのは、砦と村と、自分たちの数字だけだ。

 

 だからといって、見なかったことにするわけにもいかなかった。

 

「後で、応急処置の班を回します」

 

 ぽつりと呟くと、ラルスが振り返った。

 

「敵に、ですか?」

 

「はい。死なれると、数字がややこしくなります」

 

「そっちの理由っすか!」

 

 ラルスが呆れ半分に笑う。

 その笑いに救われる形で、シュアラも口元だけで小さく笑った。

 

 橋を渡りきったところで、砦からの援軍と出会った。

 狼の旗。鎧の軋む音。

 誰かが「軍師殿!」と叫ぶ声。

 

 そこでようやく、膝が笑った。

 

 雪の上に、どさりと尻餅をつく。

 冷たさが、鎧越しに太腿へ染み込んできた。

 

 右手が、懐の手帳を探す。

 

 矢で裂けたページを開くと、『死者ゼロ(暫定→本番へ)』の文字がまだかろうじて読めた。

 

 そのすぐ下の余白に、新しい行を足す。

 

『第一戦 砦側死者ゼロ(達成)

 重傷:四 中等傷:一二 軽傷:二三

 村側死者:ゼロ』

 

 インクが、裂け目の縁にじわりと染み込んでいく。

 文字の形はいびつだったが、それでいい気がした。

 

 手帳を閉じると、ようやく膝の力が抜けた。

 その場にしゃがみ込む。雪が太腿まで冷たく染みてくる。

 

「軍師殿!」

 

 遠くから名前を呼ばれた気がしたが、声の主を確かめる余裕はなかった。

 

*

 

 砦の中庭は、いつもよりざわついていた。

 

 夕方の光が、石壁と兵の鎧に薄く反射する。

 焚き火の煙と、煮込み鍋の匂いと、血と薬草の匂いが混ざっていた。

 

 負傷した兵たちが、毛布にくるまれて並んでいる。

 腕を吊った者。頭に包帯を巻いた者。

 痛みに顔を歪めつつも、どこか浮かれたような声で冗談を飛ばし合っていた。

 

「おい、見ろよ。団長がやっと仕事した顔してるぜ」

 

「お前は寝てろ、頭切ったばっかだろうが」

 

 鍋をかき回す者。捕虜の見張りをしながらぼやく者。

 誰もが、今日の「死者ゼロ」を、各々のやり方で噛み締めていた。

 

「文官殿、やったな!」

 

「お前の数字、たまには信用してやるよ!」

 

 そんな声が耳に飛び込んでくる。

 

 シュアラは、軽く会釈を返しながら中庭を横切った。

 紙束を抱えた腕に、体温と冷気が交互に触れてくる。

 

(……終わった)

 

 そう思った瞬間、足がほんの少しふらついた。

 雪と石畳の境目で、踵が滑る。

 

 紙束が腕からずれかけたところで、誰かの手がそれを支えた。

 

「おっと」

 

 低い声。

 聞き慣れたはずなのに、今日は妙に荒く聞こえる。

 

 顔を上げると、すぐ目の前にカイがいた。

 

 鎧の上半分を脱ぎかけた格好で、髪はいつも以上に乱れている。

 左眉の古い傷の下で、森色の目だけが鋭く光っていた。

 

 その目の下に、うっすらと青黒い影がある。

 疲労だけではない。

 怒りとも、安堵とも、別の何かが混ざった色だった。

 

「団長……?」

 

 思わずそう呼ぶと、カイの喉がわずかに動いた。

 

 握られた腕に、強い力がこもる。

 痛い、と言いそうになって口を閉じる。

 

 カイは、しばらく何も言わなかった。

 じっとシュアラの顔を見ている。

 紙束に矢の跡はないか。包帯の下に血が滲んでいないか。

 そんなふうに、一つ一つ確認するような目だった。

 

「……軍師殿」

 

 ようやく、低い声が落ちてきた。

 

「はい」

 

「勝手に第五ゲーム始めたら、どうするつもりだった」

 

 喉の奥が、きゅ、と鳴る。

 自分でも気づかないうちに、視線が紙束へと逃げていた。

 

「第五ゲームは、まだ始めていません」

 

「囮の荷車の上に乗るのは、第四ゲームの延長か」

 

「はい。第四ゲームの一部です」

 

 できるだけ平坦な声で答える。

 

「砦と村の冬を守るためのゲームであって、自分の命を削るゲームではありません」

 

「……本当にそうか?」

 

 カイの声が、少しだけ低くなった。

 

「俺には、お前が自分の勘定を後回しにしてるようにしか見えねえ」

 

「後回しにしている自覚はあります」

 

 否定しようとして、やめた。

 

「ですが、今日に限って言えば――」

 

 抱えていた紙束を抱き直す。

 矢で裂けた手帳と同じくらい、その紙も今は頼りない。

 

「第四ゲームの、決算が出ました」

 

 自分でも驚くほど、いつもの文官らしい声が出た。

 

「砦側死者ゼロ。村側死者ゼロ。――ご報告いたします、団長」

 

 カイの目が、ほんのわずかに細くなった。

 次の瞬間、彼の口が何かを言いかける。

 

 その続きが、どんな言葉になるのか。

 シュアラには、まだ分からなかった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。