死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します   作:来巻梓

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失うことの恐怖

 紙束を支える腕よりも、掴まれた手首のほうが熱かった。

 

 カイの指が、シュアラの手首の骨を確かめるように掴んでいる。痛いほどではない。けれど、簡単には振りほどけない力だった。

 

「……第四ゲームの、決算が出ました。砦側死者ゼロ。村側死者ゼロ。――ご報告いたします、団長」

 

 言い終えた自分の声が、思ったよりも平板に聞こえる。

 いつもの報告と同じ調子。帳簿の数字を読み上げるのと、変わらない。

 

 カイは、しばらく何も言わなかった。

 中庭のざわめきだけが、わずかな間を埋める。煮込み鍋の蓋が鳴る音、負傷兵の笑い声、捕虜を見張る兵のぼやき。

 

「……そうか」

 

 ようやく落ちてきた声は、思っていたよりも低かった。

 

「お前の帳簿どおりだ」

 

 その言葉だけなら、誉め言葉だ。

 実際、中庭の何人かは「おお」と歓声を上げかけて、団長の顔色を見て口をつぐんだ。

 

「話がある」

 

 カイは短く言った。

 

「来い」

 

 返事を待たずに、掴んだ手首ごとぐい、と引く。

 紙束を抱えたまま、シュアラは一歩よろめいた。

 

「団長。文官殿は怪我人ですよ?」

 

 焚き火のそばから、ゲルトの呑気な声が飛ぶ。

 

「お前だって怪我人だろうが」

 

「俺は頭打ってるだけだ。団長よりは正気だ」

 

「うるせえ、後で報告聞かせろ」

 

 ゲルトの笑い混じりの野次を、カイは軽く手を振って追い払った。

 フィンが焚き火の向こうから片眉を上げる。

 

「……お前、怒られてこいよ、軍師殿」

 

「怒られるようなことはしていないつもりですが」

 

「そういうとこだよ」

 

 肩をすくめるフィンの視線を背中に受けながら、シュアラは半ば引きずられるように執務棟へ入った。

 

 *

 

 小会議室の空気は、まだ戦の前夜の匂いを残していた。

 

 机の上には、消し忘れた蝋の跡と、端に寄せられた木片と石。

 第四ゲームの盤面に使った駒たちが、今は役目を終えて隅で眠っている。

 

 カイは扉を足で蹴るように閉めると、そのまま背で押さえた。

 彼の影が、壁の上でわずかに揺れる。

 

 しばらく、言葉が落ちてこなかった。

 代わりに、荒い呼吸だけが部屋の中で反射している。

 

 ようやく、カイが一歩前に出た。

 

「それ」

 

 顎で示されたのは、シュアラの胸元だった。

 

 矢で裂けた手帳。

 表紙の真ん中に走った傷が、布越しでも分かる。

 

 シュアラは、指先で布をめくった。

 破れた手帳の背が覗く。矢羽根の粉が、まだ紙の間に細かく残っていた。

 

「弓兵の腕が良かったんです。紙で止まりました」

 

 できるだけ淡々と説明する。

 

「皮膚は掠った程度で――」

 

「そういう話をしてるんじゃねえ」

 

 テーブルの端が、どん、と鳴った。

 カイの手が、拳の形のまま机に食い込んでいる。蝋のかすが跳ねた。

 

 声が、低く削れていた。

 

「お前、自分の命をチップにすんな」

 

 シュアラは、瞬きを一度した。

 

「……チップ?」

 

「賭場に出す小銭だ」

 

 カイは、言葉を吐き出すように続けた。

 

「“この手を通したら、いくら減ってもしょうがねえ”って、最初から削る前提で積むやつだ。さっきのあれは、どう見ても自分の命をそこに混ぜてた」

 

 さっきのあれ――橋の前の坂道。

 敵の別働隊と、石袋と、荷車と。

 矢が飛び、雪が舞い、紙が裂けたあの瞬間。

 

 シュアラは、ほんのわずかに視線を逸らした。

 

「最初の設計時点で、囮隊に属する人数は『削れるチップ』として計算しました」

 

 それは嘘ではない。

 囮隊の損耗率。坂の傾斜。馬の速度。敵の弓の射程。

 全部合わせて、「最悪の場合でも、ここまで」という線を引いていた。

 

「ただ、その中に『自分』を含めるかどうかは――」

 

 カイの目が細くなる。

 

「含めたんだろ」

 

 問いではなく、断定だった。

 

 シュアラは、少しだけ息を飲んだ。

 

「……囮隊の設計と運用を、一番理解しているのは私です」

 

 それが、彼女の出した答えだった。

 

「坂の噛ませどころも、橋の強度も、石袋の重さも。誰よりも早く判断できる位置にいるべきなのは、設計者です」

 

「だから、自分でそこに乗ったと」

 

 カイは短く笑った。笑い声に、まったく愉快さはなかった。

 

「効率で言えば、たしかにそうだな」

 

 その言い方の冷たさに、シュアラの背筋がわずかに強張る。

 

「第四ゲームの目的は、『砦と村の死者ゼロ』です」

 

 自分でも分かるくらい、声が固くなった。

 

「囮隊に誰かを乗せるなら、判断の速い人間を。それが最も効率的な手でした」

 

「効率的、ね」

 

 カイは机から拳を離した。

 その手が、まだ微かに震えているのが分かる。

 

 彼は一歩、シュアラに近づいた。

 

「じゃあ聞くが」

 

 距離が近づいたぶん、森色の瞳の中に、薄い血管の模様が見えた。

 怒りだけではない。何か別のものが、瞳の奥を濁らせている。

 

「俺が言った“退け”って条件は、効率計算のどこに入ってた」

 

 昨夜の会議室の光景が、鮮やかに蘇る。

 紙の上の戦線と、赤い線で引かれた「撤退ライン」。

 『俺が引けと言ったら、その時点で全部捨てて帰ってこい』という声。

 

「角笛が鳴った瞬間、囮隊は橋へ向けて動きました」

 

 シュアラは答えた。

 

「団長の叫び声は、ここまでは届きませんから」

 

「届いただろうが」

 

 カイは、シュアラの包帯の巻かれた腕を睨んだ。

 

「矢が届いてる距離まで残ってたってことは、敵も味方も、全部お前のところに届いてたんだよ」

 

 矢が、手帳を裂いた瞬間。

 あの時、耳に届いていたのは角笛と、遠くの狼の咆哮と、石袋の転がる音。

 

 たしかに、団長の声だけは聞こえなかった。

 

「……私が残った時間は、計算上、囮隊全体の生存率を上げています」

 

「そういう話じゃねえって言ってんだ」

 

 カイは、額に手を当てた。指先が髪の間を荒くかき分ける。

 乱暴な仕草のわりに、その手もまだ震えている。

 

「いいか、シュアラ」

 

 名前を呼ばれた瞬間、背中のどこかがぴしりと鳴った気がした。

 

「俺は、自分の部下の命をチップ扱いしたことがある」

 

 その言葉は、予想していたどの叱責とも違っていた。

 

 カイは、窓の外へ視線を投げた。薄い冬の光が、彼の横顔の傷を浮かび上がらせる。

 

「前の戦だ。川沿いの谷で、退路潰されてな」

 

 シュアラは息を飲んだ。

 昨日、谷へ向かう途中でちらりと見せた「赤い谷」の記憶が、言葉になっている。

 

「“ここであと一手押し込めば、味方の死体で敵の足止められる”って、そう思った。そうすりゃ、本隊の損耗は減らせる。数字だけ見りゃ、そっちの方が効率が良かった」

 

 指先が、机の縁を無意識に叩いていた。

 一定のリズムになっていない。乱れた鼓動を、そのまま指に移したような動き。

 

「実際、その一手で助かった奴もいる。だが、そこで倒れた奴の顔と名前は、いまだに夜に出てくる」

 

 短く、息が笑いとも溜息ともつかない形で漏れた。

 

「“効率的に死んでもらった”って言い訳は、あいつらの墓の前じゃ通用しなかった」

 

 シュアラは、何も言えなかった。

 

 自分が普段使っている単語――効率、損耗率、許容範囲。

 それらの言葉が、違う重さでテーブルの上に落とされている。

 

「だから俺は、お前に“第五ゲームはやるな”って言った」

 

 カイは、ようやく彼女をまっすぐ見た。

 

「『自分の命をどこまで削れば盤面が勝つか』ってゲームは、最初から負けだ。勝ったところで、残るのは後味の悪さだけだ」

 

 第五ゲーム。

 シュアラが帝都にいた頃、父と一緒に何度も頭の中で回した「自分を切る」ゲーム。

 自分の命を最小単位のチップとして使う計算。

 

 今まで、それを否定した人間はいなかった。

 父はそれを「優秀」と呼び、王太子はそれを「薄気味悪い」と呼びつつも、都合よく使った。

 

「お前は、砦の死者ゼロを帳簿に書いた」

 

 カイの声音が、少しだけ柔らかくなる。

 

「……ありがたい。心底ありがたい。ここにいる奴ら全員の命を拾ってくれたってことだ」

 

 そこで一拍、言葉が途切れた。

 

「だからって」

 

 次の一言は、机を噛み砕きそうな勢いで吐き出された。

 

「お前自身を“ゼロ”の外に置いていい理由には、なんねえ」

 

 シュアラは、瞬きも忘れてカイの顔を見た。

 

 森色の瞳が、思ったよりも近かった。

 その奥にあるのは、怒りでも苛立ちでもない。もっと原始的な、名前のついていない恐怖だ。

 

(……私が死ぬことを、恐れている?)

 

 そんな計算式は、今まで一度も作ったことがない。

 

「団長」

 

 声が、自分でも驚くほどかすれていた。

 

「私は、囮隊の損耗率を――」

 

「数字じゃねえって言ってるだろうが」

 

 カイは、机から手を離し、代わりにシュアラの肩を掴んだ。

 鎧越しではない、衣越しの、そのままの体温が伝わる。

 

「俺はな、“負け戦の将”はもうたくさんだが、“死んだはずの文官”まで失う趣味はねえんだよ」

 

 口調は荒いのに、掴んでいる指先は、ほんの少し震えている。

 その震えが、自分の肩に細かく伝わってきた。

 

「お前が死んだって報告書、もう書きたくない」

 

 初めて聞く種類の言葉だった。

 

 帝都では、「君の犠牲は無駄にしない」とか、「君の計算にはいつも助けられている」などといった言葉は山ほど耳にした。

 だが、「死んだ報告書を書きたくない」とまで直接言ったのは、目の前の男が初めてだ。

 

「……最も効率的な手でした」

 

 口が、いつもの癖でそう言っていた。

 

「砦と村の死者をゼロにするために、囮隊の損耗を――」

 

「俺の感情は、その計算に入ってなかった」

 

 カイがかぶせるように言った。

 

「お前が矢で撃ち抜かれた未来の俺が、どうやってここで飯食ってるか。そのコストは、最初から勘定に入れてなかったろ」

 

 シュアラは、返す言葉を持たなかった。

 

 計算外のコスト。

 自分が死んだあとの誰かの生活。誰かの胃袋。誰かの夜の眠り。

 

 今までは、それを「他人の問題」として切り捨ててきた。

 切り捨てることでしか、生き延びられなかったからだ。

 

(私が死んだあと、誰かが困るかどうかを、考えたことがなかった)

 

 父はきっと困らない、とどこかで決めつけていた。

 帝国は、もっともっと大きな盤面だから、一マス欠けたくらいでは揺らがない、と。

 

 しかし今、目の前の男は、はっきりと困る未来を想像している。

 

「……次からは、考慮に入れます」

 

 ようやく絞り出した声は、情けないほど小さかった。

 

「自分の死が生む、感情のコストを」

 

 カイの眉がわずかに動く。

 

「そんな言い方しかできねえのか、お前は」

 

 ぼやきに似た声だった。

 それでも、さっきまでよりは少しだけ力が抜けている。

 

「でもまあ、そう言うなら、まだマシか」

 

 カイは手を離した。

 肩に残った指先の痕が、妙に熱い。

 

「次に同じような場面が来たら」

 

 扉の方へ半歩動いてから、振り返る。

 

「囮隊に乗る前に、まず俺に話せ。いいな」

 

「作戦会議の場で、すでに――」

 

「作戦会議じゃねえ。俺個人だ」

 

 シュアラは目を瞬かせた。

 

「団長個人に、ですか」

 

「そうだ」

 

 カイは、そっぽを向くようにして付け加えた。

 

「上官として部下を守るって話と、俺個人が“お前に死んでほしくねえ”って話は、別の勘定だ」

 

 聞いた瞬間、胸のどこかがきゅっと縮んだ。

 

 その感覚に名前をつけようとしたが、うまく見つからない。

 ただ、今まで帳簿のどこにも載せてこなかった単語だけは、はっきりしている。

 

(失うことの恐怖)

 

 自分が失う恐怖ではない。

 誰かが自分を失う恐怖だ。

 

「……承知しました」

 

 それでも、口から出る言葉は結局、いつもの文官のものだった。

 

「以後、検討と報告の手順に組み込んでおきます」

 

「手順にすんな、馬鹿」

 

 カイは呆れたように笑うと、扉に手をかけた。

 

「第四ゲームは、これで終わりだ。やっと一息つける」

 

 そう言いながらも、その背中にはまだわずかに緊張が残っている。

 扉が開き、外の喧噪が一気に流れ込んできた。

 

 カイは一度だけ振り返る。

 

「……帰ってこいよ、ちゃんと」

 

 意味の分からない言葉だった。

 砦に? 執務室に? それとも、どこからか自分の頭の中からか。

 

 シュアラが返事を探しているあいだに、扉は閉じた。

 

 小会議室には、使い終わった木片と、乾きかけた蝋の匂いだけが残る。

 

 シュアラは、机の端に手帳を置いた。

 裂けたページをそっと開く。

 

『死者ゼロ(暫定→本番へ)』

 

 矢が裂いた行のすぐ下に、ペン先を置く。

 

『備考:自分が死んだ場合に発生する感情コストについて、次回以降要検討』

 

 書いた瞬間、自分で少しだけ笑ってしまった。

 

「……備考欄に書くことじゃありませんね」

 

 誰も聞いていない部屋で、小さく独りごちる。

 

 それでも、書かなければきっと忘れる。

 数字にならないものほど、紙の上に留めておかないと、すぐ手のひらからこぼれ落ちる。

 

 ペンを置くと、指先の痺れがようやく痛みに変わった。

 遅れてやってきた痛みを確かめるように、シュアラは包帯越しに腕を押さえた。

 

 第四ゲームの盤面は片づけられた。

 ただ、どこかで別の誰かが、新しい賭け札を並べている気配だけが、薄く胸の奥に引っかかっていた。

 

 *

 

 ヴァルムから北へ二日。

 

 凍りかけた街道沿いの小さな町。その外れにある、やけに暖かい酒場の一室で、一人の男が紙束を眺めていた。

 

 痩せた指。

 指の間で一枚の金貨が転がされている。机の上には、ざっと書き散らした数字と矢印だらけの紙。

 

「……オッズが、また歪んでるな」

 

 男――ヴァレン・ハーツは、紙をひらりと裏返した。

 

 数日前に受け取った報告書には、「辺境砦ヴァルム、今冬中に陥落ほぼ確実」とあった。

 補給路の細さ、周囲三村の疲弊度、兵の装備の摩耗。

 どの数字をとっても、「生存確率ほぼゼロ」という結論に向かっていた。

 

 ところが、今さっき届いた新しい報告は、あっけない一行でそれをひっくり返している。

 

『ヴァルム砦、冬季第一戦 敵兵撤退。砦側戦死者ゼロ。村側死者ゼロ』

 

 戦死者ゼロ。

 紙の上の文字をなぞる指先に、うっすらと笑みが乗る。

 

「戦争でゼロか。ずいぶん退屈を嫌う奴が、一人紛れ込んだもんだ」

 

 金貨を転がす速さが、ほんの少しだけ速くなる。

 

 彼は、一枚の紙を別に取り出した。

 そこには、簡単な地図と、三つの村と砦を示す印。

 その隅に、小さく「死人文官シュアラ?」というメモが書かれている。

 

「“死人”が盤面を動かして、“死人”が死なせないようにしている」

 

 ヴァレンは、愉快そうに鼻を鳴らした。

 

「それとも、“死んでいるはずの令嬢”が、別のゲームを始めた、ってところか」

 

 ハーツ財務公庫の刻印が押された封筒が、机の端に積まれている。

 中身は、各地の債務状況と、商人ギルドの支部報告書。それらの隙間に、彼だけが読める「戦場投機所」の小さな符牒が挟まっている。

 

「さて」

 

 ヴァレンは椅子から立ち上がった。

 背が高く、影が床に長く伸びる。

 

「ここまで歪んだオッズを、遠くから眺めてるだけじゃ退屈だ」

 

 指先で金貨を弾いた。

 乾いた音が一つ、机の上に転がる。

 

「次の査定先は、ヴァルム砦。表向きは、商人ギルドの支部長として、借金取りの相談ってところかな」

 

 窓の外では、街道の雪が、夜の冷えにきしんでいる。

 その向こう側にある小さな砦と三つの村を思い浮かべながら、ヴァレンは外套を肩にかけた。

 

 金貨が、一枚、静かに指の間で転がった。

 

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