死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します   作:来巻梓

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戦績に付く値札(1)

 雪は、夜のあいだに、砦の輪郭を少しだけ鈍らせていた。

 

 屋根の上も、中庭の石畳も、白い膜を一枚かぶっている。

 まだ積もったというほどではない。だが、足音の響き方が、昨日までと違っていた。硬い石を叩く音から、浅い雪を踏みしだく音に変わる。そのわずかな違いが、冬の「次の段階」を告げている。

 

 シュアラは、その音を窓越しに聞きながら、机の上の手帳を開いた。

 

 ページの真ん中、矢傷の跡で紙が細く裂けている。

 そこに、昨夜書き足した行がある。

 

『第五ゲーム:冬の試験国家

 担保:死人文官シュアラの存命』

 

 インクはもう乾いているのに、指でなぞると、まだどこか湿っている気がした。

 

(……自分で書いたんだから、消せとは言えませんね)

 

 口の中で、誰にも聞こえないため息を一つだけ吐く。

 

 胸の奥で、心臓が一拍打つたびに、「担保」という文字がわずかに揺れる。

 ヴァレンの声が、耳の奥で蘇った。

 

『あなたの心臓の鼓動と、この土地の生存日数に、賭けさせてもらいましょう』

 

 懐に差し込んだ封筒の端が、布越しに触れる。

 宛名のない死亡届。まだ一度も使っていない、自分の「死」の証明書。

 

(……抵当権に、死亡届に、「試験国家」に)

 

 自分の身に貼りついた札の数を、頭の中で雑に数えてみて、途中でやめた。

 数え終わったところで、軽くなるものは何一つない。

 

 扉の方から、足音が近づいてきた。

 

 今度は、雪を踏む音ではない。石を急いで叩く、細かくて落ち着きのない足音だ。フィンの歩き方だと、耳が先に判断する。

 

「軍師殿、入るぞ!」

 

 ノックと声がほぼ同時だった。

 返事を待つという発想は、彼の中にまだ根付いていないらしい。

 

「どうぞ」

 

 言い終わる前に扉が開き、冷たい空気が入り込んだ。

 

 フィンの肩には、外の雪がいくつか貼り付いている。息が白い。額には汗も浮かんでいるのに、寒さでその輪郭が曖昧になっていた。

 

「門に客だ。……いや、客って顔じゃねえな」

 

「商人ギルドの続き、ですか」

 

 ヴァレンがまだ砦にいる可能性を計算しながら問う。

 

 フィンは首を横に振った。

 

「違う。赤い旗だ。真ん中に金の紋章。双頭の……あれだよ、帝都の」

 

 脳裏に、王宮の大広間の天井近くに掲げられていた旗が浮かぶ。

 金糸で縫い取られた紋章。赤い布。蝋燭の光を受けて、やけに眩しかった。

 

 シュアラは、手帳を閉じた。

 

「何人ぐらいです?」

 

「馬に乗ってるのが六。うち二人は鎧。あとの四人は……書類抱えてる感じだな。外套が妙に綺麗だ」

 

 フィンは眉をひそめる。

 

「門番の話じゃ、『帝都監査局の査察官』って名乗ったらしい。団長に面会を希望、だとよ」

 

 予想していた単語の一つが、実際に口から出てきた瞬間、喉の奥が少しだけ狭くなった。

 

(帝都監査局……)

 

 父と一緒に見ていた帝国歳入の帳簿。その表紙に押されていた印章と、今門の前に立っている男たちの印章は、おそらく同じだ。

 

「団長は?」

 

「もう下に向かってる。監視塔から角笛も鳴ったしな。……で、軍師殿はどうします?」

 

 どうします、と言われても、選択肢は多くない。

 

 ここで「存在を消す」ために使える切り札――死亡届の封筒――に指が向かいかけて、途中で止まった。

 

 今それを開けるのは、あまりにも雑な使い方だ。

 帝都の帳簿の上ではとっくに死んでいる身分が、ここで現実に死んだことにされれば、ヴァレンとの「試験国家」条約も、その瞬間に崩れる。

 

(私が死ねば、ここも一緒に死ぬ)

 

 ヴァレンの言葉は、あれほど嫌だったのに、今は妙に便利な制約に思えた。

 少なくとも、今この瞬間に「ただ逃げる」ことだけは、選択肢から消してくれる。

 

「……ひとまず、顔を洗ってきます」

 

「は?」

 

「火傷痕を、少しだけ目立たせたいので」

 

 フィンが瞬きをした。

 

「目立たせる? 隠すんじゃなくて?」

 

「『死んだはずの侯爵令嬢』を探しに来た人たちがいたとして」

 

 自分の声が、思ったよりも落ち着いて聞こえる。

 

「春の舞踏会で見た顔と、今の私を、簡単に重ねてほしくありません」

 

 理解が追いつくのに、彼の頭の中で三拍ぐらいかかったらしい。

 

「……ああ。そういうことか」

 

 ようやく納得したようにうなずく。

 

「じゃあ急いだほうがいいな。若が“帝都様”を上まで連れてくる前に」

 

「分かりました。フィンさんは、団長のところへ」

 

「了解」

 

 彼はくるりと踵を返し、廊下を駆けていった。

 雪を踏む音と石を叩く音が入り混じる。

 

 シュアラは立ち上がり、壁際に掛けてあった小さな鏡の前に移動した。

 

 鏡に映る自分の顔は、見慣れているはずなのに、今日はどこか他人のようだった。

 

 左頬からこめかみにかけて巻いた淡い布。

 布の端から、火傷痕の不規則な赤みがのぞいている。

 

 布を少しだけずらし、痕の範囲を広く露出させる。

 冷たい空気に触れた皮膚が、じんと痛んだ。

 

 奥歯を噛みしめながら、指先で痕の縁をなぞる。

 色の薄い部分と、まだ赤黒い部分。その境界線を、ほんの少し荒く見せかけるように、布の端を折り曲げた。

 

(……舞踏会の写真を持ってきて比べられたら、さすがに困りますが)

 

 さすがにそこまで用意周到ではないだろう、と自分に言い聞かせる。

 

 髪をざっと梳き、わざと少し乱したままにした。

 帝都の令嬢らしい整った編み込みではなく、辺境に流れ着いた文官の「寝不足」の髪。

 

 鏡の中で、自分が一度だけ深く息を吸う。

 肺の奥まで冷たい空気が入ってきた。

 

「……陰気で、数字もそこそこ、ですかね」

 

 独り言を、布に吸い込ませる。

 

 扉の向こうから、別の足音が聞こえてきた。

 今度は重い。鎧の金具がかすかに鳴る。カイだ。

 

「シュアラ」

 

 扉が開く前に、声だけが届いた。

 

「団長、どうぞ」

 

 言い終えるより早く、扉が開く。

 冷気と一緒に、森色の瞳が入ってきた。

 

 カイは、シュアラの顔を見るなり、眉をひそめた。

 

「痛くねえのか、それ」

 

「少しだけ。効果がある方が、査察官の目を引きます」

 

「引いてどうすんだよ」

 

 言いながらも、視線は火傷の部分に吸い寄せられている。

 あの夜、燃える馬車からやっとのことで抜け出したときに負った傷。その痕跡だと知っているからこその、複雑な色だ。

 

「帝都からの使者は、何と言っていました?」

 

「『第四ゲームの戦闘報告と、砦の経理状況の確認に来た』だとよ」

 

 カイは、腰に差した手袋を握りしめる。

 

「それともう一つ。門で文書を見せてた。ゲルトがちらっと読んだらしいが……」

 

 言葉を切る。

 彼にしては珍しく、続きがすぐに出てこなかった。

 

「何と?」

 

「『財務長官クライフェルト侯爵家令嬢に酷似する者の存在について、調査せよ』」

 

 喉の奥で、何かがからんだ。

 

 予感はしていた。

 シルバークリークの丘の上から見ていた謎の影。ギルドの査定官。あちこちからこちらを覗いていた視線たち。

 

 それらのどこかから、帝都に「噂」が届いたのだろう。

 

「その文書を、今は誰が持っています?」

 

「門番のところで封を閉じたまま預かってる。正式には、これから俺が受け取って、開封する流れだ」

 

「でしたら、そのまま『今初めて知った』顔をしてください」

 

 シュアラは言った。

 

「団長は何も知らなかった。ここにいる死人文官は、ただの辺境の雑用係。その前提で、話を進めましょう」

 

 カイは、しばらくシュアラを見ていた。

 何かを言いかけて、言葉を飲み込む。そのかわりに、机の端を指で二度叩いた。

 

「……分かった」

 

 短い言葉。

 

「で、その『雑用係』は、どんな顔して座ってりゃいい」

 

「陰気で無能そうに見えれば、なおよしです」

 

 自分で言っておきながら、わずかに胸がちくりとした。

 それを顔に出さない技術だけは、帝都時代に嫌というほど身につけている。

 

「数字を少しだけ間違えるのはどうでしょう」

 

「わざとやるな。癖になる」

 

「癖にはしません。今日限定です」

 

 カイの口元が、ほんのわずかだけ緩んだ。

 

「……ゲルトとフィンには、もう話してある。あとは兵どもにも、それとなく回す」

 

「口裏合わせ、ですね」

 

「ああ」

 

 森色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見た。

 

「帝都様が何を調べに来ようが、ここにいるのは『死人文官シュアラ』だ。――それ以外は、全部“噂”にしといてやる」

 

 その言葉が、思った以上に温度を持って胸に刺さった。

 

 シュアラは、一度だけうなずく。

 

「では、会議室でお待ちしています。団長は、使節団をお連れください」

 

「おう」

 

 カイが部屋を出ていく。

 扉が閉まったあと、わずかな沈黙が落ちた。

 

 心臓が、さっきよりも速く打っている。

 それは、ヴァレンに担保にされた鼓動と同じ臓器の動きであるはずなのに、色の違う音に聞こえた。

 

(……守られるのは、あまり得意ではないのですが)

 

 誰に聞かせるでもない言い訳を胸の奥にしまい、シュアラは手帳とペンを抱えて部屋を出た。

 

 *

 

 小会議室の空気は、いつもより重かった。

 

 蝋燭の火が三本。

 窓の外には、白くなりかけた中庭が見える。雪の上に残った足跡の列が、門から執務棟へと続いていた。

 

 長机の一番奥に、カイ。

 その右隣にシュアラ。左隣にはゲルト。

 扉に近い側に、フィンが控えている。

 

 向かい側には、灰色の外套を着た男が二人と、その後ろに若い書記官が一人。

 外套の襟や袖口には、細い金糸が縫い取られている。雪に濡れているのに、布の質は明らかに砦のものとは違った。

 

 年長のほうの男が、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。

 髭は短く整えられ、指には印章のはまった指輪が光っている。

 

「第七騎士団ヴァルム砦、臨時団長カイ・フォン・ヴォルフ殿とお見受けする」

 

 滑らかな声だ。

 帝都の官僚特有の、抑揚の少ない口調。

 

「帝都監査局第二課、ルース・ハルデンと申す。こちらが同課所属のディート、後ろが書記官のアルノだ」

 

 名乗りを聞いた瞬間、シュアラの背中のどこかがわずかに冷えた。

 名前に聞き覚えがあるわけではない。ただ、「第二課」という響きに、帝都財務省時代の記憶が反応しただけだ。

 

 カイは椅子の背にもたれず、わずかに前傾した姿勢のまま答えた。

 

「第七騎士団ヴァルム砦臨時団長、カイ・フォン・ヴォルフだ。遠路ご苦労なこった」

 

 礼儀としてぎりぎり許される程度に砕けた口調。

 ルースは、薄く笑ったのかもしれない。口元だけがわずかに動いた。

 

「本日は、帝都より幾つかの確認事項を預かっております」

 

 彼は外套の内ポケットから封筒を取り出した。

 赤い封蝋。双頭の紋章。

 

「正式には、ここで開封すべきものですが……内容については、すでに門で簡単な説明をさせていただきました」

 

 カイは封筒を受け取り、蝋に押された紋章を一瞬だけ眺めた。

 そして、テーブルの上で封を切る。

 

 薄い紙が、一枚、机の上に広がった。

 シュアラの位置からは、文字のすべては読めない。ただ、いくつかの単語が目に飛び込んできた。

 

『第四ゲーム』『死者ゼロ』『侯爵令嬢』『酷似』

 

 喉の奥で、小さな音が鳴りそうになった。

 

 カイは紙を読んでいる。

 森色の瞳が、文字の列を追う。途中で視線が一瞬だけ横に流れ、シュアラの左頬の火傷のあたりで止まりかけたが、すぐに戻った。

 

「……ふん」

 

 紙を読み終えると、彼は鼻から短く息を吐いた。

 

「で、帝都様は、うちの砦に『幽霊でも出るのか』って聞きに来たわけだ」

 

 ルースの目が、わずかに細くなる。

 その変化を、シュアラは見逃さなかった。

 

「文書にありますように」

 

 ルースは、淡々と言葉を継ぐ。

 

「第一に、第四ゲームと称される戦闘において、当砦が『犠牲者ゼロ』と報告している点について、状況確認を」

 

「それは報告の通りだ」

 

 カイは短く答える。

 

「第二に、この砦に勤務する文官の一人について」

 

 今度は、はっきりと視線がシュアラに向けられた。

 

「帝都にて死亡と処理されたはずのクライフェルト侯爵家令嬢と『容貌・才覚において酷似する者がいる』との噂が複数寄せられております。その真偽を確認したく存じます」

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