死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します   作:来巻梓

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ドーパミン(2)

 執務室に戻ると、紙とインクの匂いがすぐに鼻を刺した。

 

 さっきまで大勢がいた食堂と違い、この部屋は静かだ。外では雪解けの水が石畳を叩いているはずだが、厚い石壁が音をほとんど遮っている。聞こえるのは、ランプの芯が小さく弾ける音と、自分の足音だけ。

 

 机の上には、昼間に広げたままの紙束が残っていた。

 

 帝都から届いた、本年度の標準予算書。帝国各地の税収、支出、軍備計画。びっしりと並んだ細い文字と数字の列。

 

 シュアラは椅子に腰を下ろし、予算書を手元に引き寄せた。

 

 とある頁の端に、折り目がついている。昼間つけた印だ。

 

 海路防衛の項目。その中に紛れ込むようにして、「補助人員」の行がある。

 零札という語と、人数の欄。さらに、その横に小さく、許容される「減り」の割合が記されていた。

 

 昼間は、その数字の異様さに眩暈がした。

 今は、そこに食堂で聞いた声が重なる。

 

(何人か減っても『損失なし』――)

 

 指先で、その行を軽くなぞる。紙の表面のざらつきと、インクのわずかな盛り上がりを確かめるように。

 

(本当は、食費、輸送費、装備費。さらに、監督に必要な人件費……)

 

 頭の中で、自然と数字が並び替えられていく。

 

(それだけのコストをかけた労働力を、最初から一定数は「戻らない前提」で扱う。愚かですね)

 

 倫理の話ではない。純粋な収支計算として、悪手だ。

 

 父の帳簿には、こう書かれていた。

 

 ――安価な労働力を「使い捨て可能」と見なした瞬間から、現場の人間はそれを本当に使い捨て始める。

 ――結果として、補填コストと反乱リスクが跳ね上がり、財務的には「高くつく」。

 

(救済ではなく、回収です)

 

 心の中で、言葉を置き換える。

 

 零札を「元の生活に戻す」ことを目標にするつもりは、今のところない。

 ただ、彼らに最低限の「見返り」を提示し、やる気を引き出し、その結果としてこの砦と海路の利益を最大化する――それなら、話は別だ。

 

 やる気のない労働力ほど、役に立たないものはない。

 逆に言えば、動機づけさえできれば、零札であれ何であれ、数字以上の働きを引き出せる可能性がある。

 

(そのためには、何を「餌」にすればいいでしょう)

 

 減刑の希望か、まともな寝床か、飢えない食事か。「名前」を取り戻す約束か。

 どれにどれだけ効き目があるかは、人によって違うだろう。

 

 棚の隅に、薄い冊子が立てかけてあるのが目に入った。

 

 帝都時代に、退屈しのぎに読んだ学者の論文をまとめたものだ。

 『心と脳の働きについての覚え書き』。複雑な数式と、素人にも分かるように噛み砕かれた例え話が混在している。

 

 ページをめくると、墨で線を引いた箇所が出てきた。

 

 ――人は、「危険を避ける」時よりも、「自分の選択が何かを変えた」と実感した時に、強い興奮を覚える。

 ――そのとき、脳のある部分が短く強く働き、それが「また同じことをしよう」という学習を促す。

 

(……つまり、「選ばされた」より、「自分で選んだ」の方が、長く動いてくれる、ということですね)

 

 別の頁には、こんなことも書かれていた。

 

 ――人は、強い恐怖のもとでは、目の前の危険以外に意識を向けにくくなる。

 ――長期の計画や協力行動には、「恐怖」よりも、「小さな褒美」と「仲間の視線」が有効である。

 

 恐怖だけで縛られた零札は、逃げるか、固まるか、壊れるかのどれかになりやすい。

 それでは、帝都の思惑どおりの「消耗品」にしかならない。

 

(この砦だけは、もう少しマシな使い方をしましょう)

 

 予算書を閉じる。代わりに、机の端に置いていた、まだ真新しい青い帳面を引き寄せた。

 

 表紙の革は、まだ柔らかく、手に吸い付くようだ。角は丸まっていない。中身はほとんど白紙――昼間、「このゲームの帳簿はこちらでつける」と宣言したばかりの帳簿だ。

 

 インク壺からペン先に墨を含ませ、最初のページを開く。

 

 昼間書いた最初の一行が、ランプの光を受けて浮かび上がる。

 

『この砦に配属される零札は、「使い捨て」ではなく、「回収可能な投資」として扱うこと。』

 

 それは、道徳ではなく、方針だ。

 

 その下に、新しく行を開き、さらさらと書き足していく。

 

 〈一、零札が到着したら、できる限り早い段階で簡易な聞き取りを行うこと。技能(船、荷役、工事、雑役)、嗜好(寒さへの耐性、人付き合いの得意・不得意)、「嫌ではない仕事」を把握する〉

 

 〈二、聞き取り結果をもとに、マリーハイツおよびヴァルム砦内での配置案を作成すること。本人の希望と、こちらの必要を「七対三」で折り合いをつける〉

 

 〈三、成果に応じた「見返り」を設定すること。減刑の余地がない者には、労働環境(寝床、食事、危険度)の改善を報酬とする〉

 

 〈四、零札の一部を、今後の海路再編に関わる「情報源」として扱うこと。現場の不満と状況を定期的に吸い上げ、反乱の兆候を予防する〉

 

 〈五、聞き取りと配置の結果を、必ず本人に口頭で伝えること。「自分の言葉が反映された」という実感を与えること〉

 

(「自分の選択が何かを変えた」と感じさせる――)

 

 さきほど読んだ脳の覚え書きの文と、帳面の文字が重なる。

 

 恐怖ではなく、「予想より少しだけ良い結果」が、人をよく働かせる。

 その仕組みを利用することに、何の罪悪感もなかった。むしろ、帝都の雑なやり方よりよほど誠実だとさえ思う。

 

(全員と話すのは、さすがに時間が足りませんね)

 

 三百近い人数――具体的な数は書類に記されているが、あえて数字を思い浮かべるのをやめる。

 数字にすると、「何人まで減ってよい」という帝都の考え方に引きずられる気がした。

 

(ならば、サンプルを)

 

 到着直後の零札の中から何人かを抽出して直接話を聞き、残りは「砦側」の人間に聞き取りを任せる。

 その方が、数字の精度と時間のバランスがよい。

 

 ちょうどそのとき、扉が二度、一定の間隔で叩かれた。

 

「入っています」

 

 返事をすると、扉が軋む音を立てて開く。

 

「おう。灯りついてたか」

 

 入ってきたのはカイだった。

 

 寝癖のついた黒髪に、外套の肩口には雪解けの水が黒い染みを作っている。片手には食堂から持ってきたらしい大きなマグカップ。湯気はほとんど立っていない。

 

「また一人で帳簿とにらめっこか」

 

 いつものように、彼は部屋の主のような顔でソファにどかっと腰を下ろした。

 

「はい」

 

 シュアラは、青い帳面の上にそっと手を置いた。自然と守るような形になる。

 

「零札に、どうやって働いてもらうかを考えていました」

 

「働いてもらう、ねえ」

 

 カイが片眉を上げる。マグを口に運びながら、視線だけをシュアラに向けた。

 

「てっきり、『かわいそうな連中をどう守るか』って話でもしてるのかと思ったが」

 

「救済は、私の専門外です」

 

 即答すると、カイの動きが一瞬止まった。

 

「私は財務官ですから。

 わざわざ輸送費をかけて送ってくる労働力を、最初から捨てていい前提で受け取るほど、計算が苦手ではありません」

 

「……言い方ァ、お前らしいな」

 

 カイは苦笑し、マグを机に置いた。

 

「で、その計算上、零札はどう扱うのが得なんだ?」

 

「最大限、働いてもらうことです」

 

 シュアラは、ためらいなく言う。

 

「そのためには、壊される前提の『道具』ではなく、『壊すとこちらが損をする労働力』だと思ってもらう必要がある。本人にも、周囲にも」

 

「思ってもらう、ねえ。どうやってだ」

 

「簡単です。本人たちに、まず何が『嫌ではない』か聞きます」

 

 青い帳面を少し回し、そこに書いた項目を指で示す。

 

「どんな仕事なら自分の力を使ってもいいと思えるか。

 何を条件にすれば、今より少しだけ頑張ろうと思えるか。人間の脳は、『自分で選んだ』と思った時の方が、長く動き続けるそうですから」

 

「は?」

 

 カイが間の抜けた声を出す。

 

「誰がそんなこと言ってた」

 

「帝都の学者です。難しい図がたくさん載っていましたが、要は『自分の選択が何かを変えたと感じるとき、人は気持ちよくなる』らしいです」

 

「……気持ちよくさせて働かせる、ってのは、なんか性質悪く聞こえるな」

 

「恐怖で縛るよりは、安上がりです」

 

 シュアラは淡々と返す。

 

「恐怖ばかり強くすると、人は目の前のことしか見えなくなる。逃げるか固まるかで精一杯になって、長く働いてくれません。それも、学者の本に書いてありました」

 

「本当に何でも帳簿か本で話をつけようとするな、お前は」

 

 カイは頭をかき、溜息をついた。

 

「明日、マリーハイツに向かいますね」

 

 シュアラは話題を繋げる。

 

「はいよ。港の連中に顔見せだ。零札を押し付けられる前に、向こうの腹も探っとかねえと」

 

「その件で、お願いがあります」

 

 シュアラは姿勢を正し、まっすぐカイを見る。

 

「零札が配属されたら、そのうち何人かを、マリーハイツ行きの便に同行させたいのです」

 

「……零札を、か?」

 

「はい。到着したばかりの彼らから、直接話を聞きたい。

 どのくらい泳げるのか、船に乗った経験はあるか、人前で話すのは得意か、寒さは平気か。そういう細かい情報は、紙の上の経歴だけでは分かりません」

 

 カイは腕を組み、少し目を細める。

 

「お前、零札をお飾りに連れて行く気じゃねえよな」

 

「飾っても意味がありません。

 彼らには、いずれ本当に海に出てもらいます。その前に、『自分の言葉がどこまで届くか』を試させる場としても、マリーハイツは都合がいい」

 

「……試す?」

 

「ええ。こちらが一方的に命令するだけでは、やる気は出ません。

 ですが、自分が話した内容が配置や待遇に反映されたと分かれば、『言えば変わる』という実感が生まれます。さきほどの本によれば、その瞬間に脳が喜ぶそうです」

 

「脳が喜ぶ、ねえ」

 

 カイは、どこか居心地悪そうに頭をかいた。

 

「残りの零札については、砦に残しておきます」

 

 シュアラは続けた。

 

「元刑徒兵たちに協力してもらい、砦内で何をしたいか、どんな作業なら続けられそうかを聞いてもらう。

 例えば、荷役が得意な者は倉庫と港の連絡役に、土仕事に慣れている者は補修班に。本人の希望を七割、砦の必要を三割として配分する計算です」

 

「七対三って、妙に具体的だな」

 

「五対五にすると、本人の『嫌』が勝って逃げます。

 九対一にすると、砦の側が不満を言います。中庸が最もコストが低いのは、たいてい七対三か六対四です」

 

「……お前、本当に零札のこと、数字にしか見えてねえだろ」

 

 カイは呆れたように笑った。

 

「道具として見ている帝都とは、違う種類の『数字』です」

 

 シュアラは、さも当然のように返す。

 

「壊しても怒られない道具は、壊れるたびにこちらの損失が増えます。

 だから私は、壊される前提の使い方をやめたい。彼らを大事に思っているからではなく、もったいないからです」

 

「もったいない、ねえ」

 

 カイはしばらく黙っていたが、やがてふっと笑った。

 

「……聞きようによっちゃあ、帝都よりよっぽど人間らしい扱いだな、それは」

 

「評価ありがとうございます」

 

「褒めてねえよ」

 

 そう言いつつも、カイの声にはどこか力が抜けていた。

 

「で、その同行させる零札だが」

 

 彼は椅子から少し身を乗り出す。

 

「何人くらい、どんな顔ぶれを連れて行きてえ」

 

「十人前後を想定しています。

 全体の中から、できるだけばらけた経歴になるように抽出したいですね。年齢、出身地、元の職業……それと、できれば『まだ自分を人間だと思っている顔』を選びたい」

 

「顔で選ぶのかよ」

 

「脳の本に書いてありました」

 

 シュアラは淡々と嘘をついた。

 

「『自分を物だと思っている者の脳と、自分を人間だと思っている者の脳は、働き方が違う』そうです。前者は壊れやすいので、なるべく後者を残したい」

 

「……それは本じゃなくてお前の意見だろ」

 

「そうかもしれません」

 

 シュアラはわずかに口元を緩めた。

 

 カイは立ち上がり、青い帳面の方に歩み寄った。

 

「見せていいのか。それ、お前の新しいゲーム帳簿だろ」

 

「一部なら」

 

 シュアラは帳面を回し、先ほど書いた項目のところを開いてみせた。

 

 零札を「回収可能な投資」とする方針。

 聞き取りの項目。マリーハイツ同行組と砦残留組の扱い。

 

 カイは目で追いながら、しばらく黙っていた。

 

「……本気だな」

 

「もちろんです。零札をうまく使えれば、帝都の海路再編計画は、こちらにとっても悪い話ではありません。

 彼らのやる気を引き出せるかどうかが、こちら側の勝負どころです」

 

「人を『使う』って言い方、嫌いな奴もいるぞ」

 

「言葉を変えましょうか?」

 

 シュアラは首をかしげる。

 

「『最大限に活かす』では、甘すぎますか」

 

「……いや、そのままでいい」

 

 カイは苦笑し、帳面をそっと閉じた。

 

「甘くねえところが、お前のいいところなんだろうな。たぶん」

 

 彼はドアの方へ向かいかけて、ふと足を止める。

 

「そうだ。明日のことだ」

 

「マリーハイツですね」

 

「ああ」

 

 カイは振り返り、シュアラの顔を見た。

 

「港の連中も、帝都から来る役人も、零札も。みんな、『どう使えるか』って目で俺たちを見るはずだ。

 そのとき――」

 

 ほんの一瞬だけ、彼の表情が硬くなる。

 食堂で見た兵たちの顔と、同じ種類のこわばりだった。

 

「お前の帳簿の数字が、俺たちの首を守ってくれるなら、それでいい。救うとか救わねえとかは、その次でいい」

 

「団長の首は高価ですから」

 

 シュアラは、ごく真面目な声で返した。

 

「できるだけ長く、利子を生み続けていただかないと困ります」

 

「利子つけて返せるほど、いい人生送った覚えねえけどな」

 

 ぼやきとともに、扉が閉まる。

 

 部屋に再び静寂が戻った。ランプの火が、小さく揺れる。

 

 シュアラは、青い帳面に視線を落とす。

 

 マリーハイツ。零札。やる気。労働力。

 救済ではなく、回収。だが、その過程で、彼らが少しだけ「人間らしく」扱われるなら、それはそれで構わない。

 

(結果として、損失が減るなら)

 

 インク壺にペン先を戻し、蓋を閉める。

 

 分厚い石壁の向こう側で、雪解けの水が、ぽた、ぽたと落ちる音がする。規則的なようで、微妙にずれている。そのばらつきが、妙に心地よかった。

 

 ゼロではない音だ、とシュアラは思う。

 

 帝都の帳簿の上では、「何人か減っても損失なし」と書かれる零札たち。

 だが、この砦の帳簿の上だけは、減った分だけ確かに損失として記されるように――。

 

 青い帳面に手を置いたまま、シュアラはゆっくりと目を閉じた。明日の港町の騒音と、まだ見ぬ零札たちの顔を、数字の向こう側に思い描きながら。

 

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