死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します   作:来巻梓

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出航の朝

 馬車の車輪が、砦の石畳の上で低くきしんだ。

 

 まだ空は青とも黒ともつかない色だ。砦の塔の上には、夜の名残りの星が二つ三つ、かろうじて張り付いている。吐く息は白いが、真冬ほど鋭くはない。雪が溶けて露わになった石畳には、薄く泥水が光っていた。

 

「荷はこれで全部か?」

 

 馬の首筋を撫でながら、ゲルトが短く問いかけた。

 門前には、二台の馬車と、その周りを取り巻くようにして兵と零札たちが集まっている。その少し外側には、見送りに来た村の代表たちも肩を並べていた。干し肉と干し魚の樽、穀物袋、予備の武具。零札棟から出てきた男たちは、肩から薄い外套を引き寄せながら、積み込みを手伝っている。

 

 砦の猫が一匹、場違いなほどのんびりと、その様子を眺めていた。

 冬のあいだ勝手に砦に居着いた、灰色縞のやせた猫だ。今は荷車の脇の木箱に前足を揃えて座り、尾だけをゆっくりと揺らしている。

 

「団長、積み込み終わりました」

 

 兵の一人が、荷台から顔を出して報告した。

 カイが「分かった」と短く答える。

 

 その声を合図にしたように、零札たちがざわめいた。

 彼らの首には、冬のあいだ砦で配られていた木札が、相変わらずぶら下がっている。零札――帝都の帳簿上では一度死んだことにされ、ここで働かされている者たちだ。

 

「本当に、海に行くんだな」

 

「冗談だと思ってたんですか」

 

 誰かの呟きに、別の誰かが笑い混じりに返す。

 

「だってよ、冬のあいだずっと『どうせ役人の机の上でひっくり返る話だ』って、皆で言ってたじゃないですか」

 

「そう言ってないとやってられなかったんだよ」

 

 そんなやりとりを聞きながら、シュアラは布で顔を覆ったまま、静かに馬車のそばに立っていた。

 

 布は、砦の倉から見繕ってきた薄手の麻布だ。顔の下半分を隠すように巻き、頭の後ろで結んでいる。帝都から来た官吏の顔をそのまま晒すには、あまりにも目立ちすぎるからだ。

 

「息苦しくないか」

 

 隣に立ったカイが、小声で尋ねた。

 

「多少は」

 

 シュアラは正直に答える。

 

「ですが、この程度でごまかせるのなら」

 

「役に立つって言い方やめろ」

 

 カイは苦笑した。

 

「俺が嫌なだけだ。お前が苦しそうにしてるの見るのが」

 

「では、なるべく苦しそうに見えないようにします」

 

「そういう問題でもねえんだがな」

 

 そんな会話をしていると、ゲルトがこちらに歩いてきた。

 

「若」

 

 彼はカイを呼び止め、ちらりと零札たちの方を見る。

 

「こいつら、全員、自分で『行く』と言ったんだな」

 

「ああ」

 

 カイは頷いた。

 

「無理やり連れてくつもりはねえ。行きたくないなら、ここに残って雪かきでもしてろって言った。でも――」

 

 彼は零札たちの列を見渡す。

 

「誰も、残るって言わなかった」

 

 零札の中の一人が、シュアラと目を合わせた。

 冬のあいだ、倉の帳簿の付け方を教えた男だ。彼は一瞬だけぎこちなく会釈し、それからすぐに目を逸らした。

 

「聞いたよ」

 

 ゲルトはうなずき、零札たちを一人ひとり見回した。

 

「お前ら。団長たちの顔を立てに行くつもりなら、まず自分の足をちゃんと残して帰ってこい。いいな」

 

 冗談めかした口調だったが、目は笑っていない。

 零札の一人が、乾いた喉で「了解しました」と答えた。

 

「……よし。言うことは言った」

 

 ゲルトはカイの方へ向き直る。

 

「若。こっちは任せろ」

 

「ああ。こっちもなるべく、殴られないようにしてくる」

 

「殴られたくないなら、全員連れて帰ってこい」

 

 荷の紐を締めていたフィンが、ひゅっと口笛を鳴らした。

 

「無茶言いますね、団長。帰りの分の酒、帳簿に載ってなくても請求しますよ」

 

 ゲルトは、フィンの軽口を聞き流すようにして、わざとらしく咳払いをした。

 

「それから――」

 

 彼は、シュアラの方をちらりと見やった。

 

「死人文官様。帳簿に書けない分まで、ちゃんと見てこい。海の数字と、人間の顔をよ」

 

「承知しました」

 

 布の下で、シュアラの目がほんの少しだけ細くなる。

 

「では、行きましょうか」

 

 カイが馬車の荷台に足をかけた。

 

「先に乗れ」

 

「いえ、団長が先に」

 

「いいから」

 

 軽く押される形で、シュアラは馬車の後ろから上がる。荷の隙間に腰を下ろし、布で覆った顔を少しだけ外に向けた。砦の猫がこちらを一瞥し、あくびをひとつしてから、門の上の方へと歩き出す。

 

「帰ってきたら飯やるからな」

 

 ボルグの野太い声に、猫は答えの代わりに尻尾を一度だけ振った。

 

 門が開く。

 石と鉄のこすれる音が、まだ柔らかい朝の空気を切り裂いた。

 

 馬車が動き出す。

 車輪が泥と石の境目を渡るたび、車体が大きく揺れる。そのたびに、荷の間で干し肉と穀物袋がかすかにきしむ。零札たちの笑いとも溜息ともつかない声が漏れた。

 

 砦から港までは、馬で半刻ほどの道のりだった。

 

 雪の名残がまだらに残る丘を下り、やがて潮風が鼻を刺し始める。冷たいはずなのに、砦の風とは違う湿り気を含んだ匂いだ。

 

「……塩の匂い」

 

 シュアラは布の下で、小さく呟いた。

 

「海を見るのは初めてか?」

 

 カイが尋ねる。

 

「ええ。帝都は内陸ですし、わたしの部署は海とは縁がありませんでしたから」

 

「そうか」

 

 カイは少しだけ目を細めた。

 

「じゃあ、初任地が海ってわけだな。死人文官の」

 

「縁起でもない言い方をしないでください」

 

 そう言いつつも、シュアラは自分の胸の内に、わずかな高鳴りがあるのを自覚していた。

 

 帝都の帳簿には、海の匂いは載っていない。

 用紙の汚れや、インクのにじみから想像することはできても、本物は違う。

 

(数字の裏側にある現物を、ようやく見に行ける)

 

 そう思うと、布の下で自然と息が深くなる。

 

 御者台では、砦の馬を預かっている年配の男が手綱を操っていた。

 もともと近くの村で馬車を走らせていた男だ。今回は荷馬車を借りる代わりに、港までの道案内も引き受けてくれたらしい。

 

「嬢ちゃんは、どこの出だ」

 

 振り返らずに、御者が言った。

 

「帝都から来ました」

 

 シュアラが答える。

 

「何しに」

 

「帳簿をつけに、です」

 

「……変わった嬢ちゃんだな」

 

 御者は鼻を鳴らした。

 

「顔、隠してるのも、その仕事の一環かい」

 

「そういうことにしておいていただけると助かります」

 

「ふうん」

 

 御者は興味なさそうに相槌を打ったが、その口元には、少しだけ笑みが浮かんでいた。

 

「団長さんの方は、見慣れた顔だがな」

 

「俺はただの荷物持ちだ」

 

 カイが肩をすくめる。

 

「行った先で怒鳴られねえように、頭を下げに行くだけさ」

 

「怒鳴られに行く団長なんて、世の中そう多くねえよ」

 

 御者はそう言って、馬の首を軽く叩いた。

 

「まあ、嬢ちゃんも団長さんも、無事に帰ってきな。あんたらが帰ってきた方が、この辺りの飯はうまくなる」

 

「飯……ですか」

 

「冬のあいだ、腹いっぱい食えたの、ここ十年で初めてだ」

 

 御者の声が、少しだけ真面目になる。

 

「あんたらが砦で倉をひっくり返してくれなきゃ、何人かは餓死してたろうさ」

 

「それは、砦の判断で」

 

「その砦を動かしたのは誰だって話よ」

 

 御者はそう言って、ちらりとカイを振り返った。

 

「村の年寄りどもが、まるで若い頃に戻ったみてえに喋ってたぞ。『あの若は、昔の戦で死んだ誰それに似てる』だの、『いや、もっとタチが悪い』だのってな」

 

「褒めてるんだか、貶してるんだか」

 

「褒めてるに決まってるだろ」

 

 御者は短く笑った。

 

「腹がふくれりゃ、人間、機嫌もよくなる。そういう当たり前のことを、帳簿と倉の鍵でやってくれたんだ。あんたらは」

 

 シュアラは、布の下で瞬きをした。

 

(帳簿と倉の鍵)

 

 それは、彼女が帝都で扱っていたものと同じ言葉だ。

 だが、意味はまるで違う。帝都では人間を削るための道具だったものが、ここでは人間を生かすための道具になっている。

 

「……恐縮です」

 

 彼女は小さく頭を下げた。

 

「わたしたちは、ただ自分たちの仕事をしているだけです」

 

「そういう仕事が、こっちには足りてなかったんだよ」

 

 御者はそう言って、前を向き直る。

 

「だから、生きて帰ってこい。嬢ちゃんも、団長さんも。あんたらが帰ってこねえと、砦の飯がまたまずくなる」

 

「海から帰ってきたときには、もっといいの食わせてやるからさ」

 

「ありがとうございます」

 

 ちょうどその頃、湯気の立つ包みが荷台に回ってきた。村からの差し入れだろう。

 シュアラはそれを受け取り、丁寧に頭を下げた。

 

 布で顔を隠しているせいで、熱い湯気が頬にこもる。じゃがいもを一口かじると、芯の部分にまだ少しだけ固さが残っていた。だが、その素朴な甘みは、砦の「何でも煮込み」とはまた違う温かさを持っている。

 

「団長、これ、うまいっすね」

 

 干し肉を齧りながら、フィンが感心したように言った。

 

「こんなまともな飯食ったあとに戦に出たら、胃袋が帰りたがりますよ」

 

「では、ヴァルムの食事の改善も、急務ですね」

 

 シュアラが、さらりと返す。

 

「倉の在庫と相談しながら、団長の『戦う気』を適度に削っていきます」

 

「勘弁してくれ」

 

 カイが苦笑し、零札たちから小さな笑い声が漏れた。

 その笑いには、まだ少し緊張が混じっている。見知らぬ海に向かうという事実が、彼らの背中を強ばらせているのだ。

 

(この人たちを、誰一人欠けさせずに連れ帰る)

 

 シュアラは、布の下で小さく息を吸った。

 

 帝都の帳簿に載らないなら、自分で書くしかない。

 

 馬車が丘を下りきる頃、潮の匂いは一気に濃くなった。

 

 小さな入江に造られた港は、すでに賑やかだった。

 

 雪解け水を集めた川が海へと注ぎ込む手前、岩場を削って作られた簡素な桟橋が数本。そこに、荷船が二隻と、小型の漁船が十隻ほど。朝の薄い光が、水面で割れてきらきらと揺れている。

 

「団長ーっ!」

 

 声が飛んだ。

 

 村の子どもたちが、土の道を駆け下りてくる。昨日まで泥遊びをしていた顔だ。手を振りながら、馬車を追いかけてくる。

 

「港まで走るな、こけるぞ!」

 

 砦の若い兵が、子どもたちの背中に向かって声を張り上げる。それでも足取りはほとんど緩まない。

 

「だって、海、初めてなんだもん!」

 

「魚、写真じゃなくて実物で見せてくださいって言ったじゃないですか、団長!」

 

 一番前を走っていた少年が、馬車の荷台にいるカイの方へ向かって叫んだ。カイは思わず肩をすくめる。

 

「写真なんて高級なもん、こっちにはねえよ」

 

「じゃあ、本物を!」

 

「分かった分かった。帰りに、できるだけでっけえの持って帰る」

 

 そう答えると、子どもたちの歓声が一斉に上がった。

 

 桟橋のそばでは、村の代表たちが荷積みを手伝っていた。

 冬のあいだ、カイとゲルトと一緒に倉の算段をしていた顔ぶれだ。頬に刻まれた皺は深いが、その目には冬を越えた者たちの強さがある。積み込みが終われば、彼らはまた陸に戻り、村と砦を守る番だ。

 

「本当に、いいのかい、若」

 

 村長の一人が、カイに声をかけた。

 

「うちの零札になった息子まで連れて行っても」

 

「いいとも」

 

 カイははっきりと言った。

 

「行きたい奴だけだ。行きたくない奴を無理に乗せても、海の上じゃ足手まといになる」

 

 零札たちの方へも、同じ目を向ける。

 

「ここで留守番していた方がいいと思う奴は、今なら引き返してもいい。誰も責めねえ」

 

 しばしの沈黙。

 だが、誰一人動かなかった。

 

 その様子を見ていたボルグが、鼻を鳴らした。

 

「聞いたか、若」

 

「聞いた」

 

 カイはうなずく。

 

「じゃあ、行こうか」

 

 船は、砦からの荷を積み終えていた。

 冬のあいだはほとんど動いていなかった小型の貨物船だ。塗料はところどころ剥げているが、船体そのものはまだしっかりしている。

 

 甲板に上がるための板が、桟橋から渡される。

 零札たちが順番に乗り込んでいく。足元を確かめるように一歩ずつ。誰も、冗談を言わない。さっきまで子どもたちと一緒に笑っていた男でさえ、今は真面目な顔で板のきしみを聞いている。

 

「死人文官様」

 

 ボルグが、シュアラの方を振り向いた。

 

「先にどうぞ」

 

「いえ、最後で構いません」

 

 シュアラは首を振る。

 

「わたしは、人員の管理をしますので」

 

「人員、ねえ」

 

 ボルグは少しだけ笑い、それ以上は何も言わなかった。

 

 シュアラは、桟橋の上から、船と港を一度見渡した。

 

 雪解け水を運んでくる川。

 その両岸に張り付くように建つ、石と木の家々。

 まだ寒さの残る空気の中で、朝の光だけが少しずつ強さを増している。

 

(ここから、帝国の海に接続される。この砦からマリーハイツまでは、一度海に出てしまうのが昔からの決まりらしい)

 

 帝都の地図でしか見てこなかった線が、今は目の前にある。

 

 ガタリ、と板が鳴った。

 

「死人文官様」

 

 カイの声がした。

 

「行くぞ」

 

「はい」

 

 シュアラは、青い帳面を胸に抱え直し、船へと足を踏み出した。

 

 甲板に上がった瞬間、足の裏に伝わる感覚が変わる。

 固い石ではなく、わずかにたわむ木の感触。波の動きに合わせて、船全体がかすかに揺れている。

 

「船酔いしそうか?」

 

 隣でカイが尋ねる。

 

「今のところは、まだ何とも」

 

「そうか」

 

 カイは前を向いたまま、片手で手すりを叩いた。

 

「嫌になったら、すぐ言えよ。無理して吐かれると、後片付けするのはだいたい俺だ」

 

「経験者の言葉ですね」

 

「若い頃にな」

 

 カイは苦笑する。

 

「よく分かった。『慣れれば平気だ』って言葉ほど当てにならねえもんはない」

 

「肝に銘じておきます」

 

 シュアラは、青い帳面を開いた。

 

 昨夜、「ゲーム2:マリーハイツ公約/海路試験国家」と題をつけ、「零札損耗率ゼロ」と書き込んだ同じ帳面だ。

 

 その次のページを開き、上部に新しい行を書く。

 

『航路記録第1便/出発地:ヴァルム小港/目的地:マリーハイツ港』

 

 ペン先が、船の揺れに合わせてわずかに震える。

 

『乗船予定:第七騎士団兵×○名/零札補助人員×○名/死人文官×1名』

 

 最後の「死人文官」のところで、一瞬だけペンが止まった。

 

(死人、ですか)

 

 自嘲ともため息ともつかない感情が、胸の底で小さく渦を巻く。

 だが、それもすぐに押し込めた。今は、この船の上にいる人間たちの数字が、何よりも優先される。

 

 桟橋の方では、ボルグが最後の荷を確認していた。

 砦から来た兵たちも、それぞれの持ち場に散っていく。フィンはマストの根元に立ち、港と海の境をじっと見ている。

 

 砦の猫が、いつの間にか船に乗り込んでいた。

 

 誰が連れてきたのか分からない。気付けば、甲板のロープの束の上で丸くなっている。人々の足元をするりと抜けて、桟橋へ伸びる太い係船ロープの方へ歩いていく。

 

「おい、猫」

 

 フィンが呼び止めるが、猫はそ知らぬ顔だ。

 ロープに前足を伸ばし、爪を立てて遊び始める。こんなところで綱を傷められてはかなわないと、ボルグが慌てて抱き上げようとした。その瞬間――猫は身をひるがえし、ひょいと桟橋の方へ飛び降りた。

 

 軽い着地の音。

 猫は何事もなかったかのように尻尾を立て、港の石段の方へ歩いていく。

 

「……海には乗らねえって顔だな、あいつ」

 

 カイが、感心とも呆れともつかない声で言った。

 

「沈みたくないなら、最初から海になど乗らない。猫の方が、理にかなっています」

 

 シュアラは、無意識にそう答えていた。

 

(人間は、それでも船を見れば乗ってしまう)

 

 そんな思いを、布の下でそっと飲み込む。

 

「乗員、全員乗船!」

 

 甲板の上で、誰かが声を張り上げた。

 

 砦から来た兵たちと零札たち。全員がそれぞれの持ち場に立つ。

 シュアラは、手すりのそばに位置を取った。海を見渡せる場所であり、同時に、船全体の動きを把握しやすい位置だ。

 

 港の方では、子どもたちがまだ手を振り続けている。

 

「団長ー! 魚、忘れないでねー!」

 

「海の話、いっぱい聞かせてくださいー!」

 

 その声の洪水の向こうで、ゲルトが腕を組んで立っていた。

 彼は何も言わない。ただ、短く顎をしゃくり上げる。

 

 カイがそれに応えるように片手を上げた。

 

「錨、上げろ!」

 

 船長の声が飛ぶ。

 係船ロープが外され、錨が引き上げられる音が、船底から鈍く響いてきた。

 

 ゆっくりと、船が動き出す。

 

 足元の木の板が、かすかに鳴る。

 港の景色が、少しずつ後ろへ滑っていく。雪解け水の流れが白い筋になり、その先で灰色の海と混じり合っていく。

 

「怖いか?」

 

 カイが、小さな声で尋ねた。

 

「……少しだけ」

 

 シュアラは正直に答える。

 

「ですが、それ以上に――」

 

 彼女は帳面を開き、空いている行に新しい文字を書き込んだ。

 

『出航時刻:○月○日/出航時零札損耗数:0名』

 

「それ以上に、この数字を守れるかどうかの方が、よほど怖いです」

 

 カイが、その帳面を覗き込む。

 

「ゼロから先を書き足さないように、ってことか」

 

「はい」

 

 シュアラはうなずいた。

 

「ここに『1』と書くことになった瞬間、わたしは、自分の仕事を失敗したと認めることになります」

 

「厳しいな」

 

「死人文官ですから」

 

 シュアラは、布の下で口元を引き結んだ。

 

「一度死んだことにされた人たちを、二度目はちゃんと生かして返す。それが、わたしが勝手に決めた今回の仕事です」

 

「勝手に決めた、ねえ」

 

 カイは小さく笑った。

 

「そういう勝手なら、いくらでも歓迎する」

 

「団長も、勝手な人でしょう」

 

「お互い様だ」

 

 カイは肩をすくめる。

 

「怖いのは同じだよ。海も、帝国も。だけど――」

 

 彼は、港が遠ざかっていくのを見つめながら続けた。

 

「怖えからって、何もしないでいるのが一番たちが悪い。俺たちが行かなきゃ、誰か別の奴らが行って、その分だけ無駄に死ぬ」

 

「……そうかもしれません」

 

「だから、せめて今回くらいは、ゼロで帰ろうぜ」

 

 カイは、帳面の「零札損耗数:0名」の文字を指先で軽く叩いた。

 

「お前のゼロと、俺のゼロ、合わせてな」

 

「了解しました」

 

 シュアラは、布の下でわずかに微笑んだ。

 

「その約束は、帳簿にも記しておきます」

 

「やめろ。後で帝都の誰かに読まれたら、くすぐったくて仕方ねえ」

 

「では、わたしの私物の帳面にだけ、こっそりと」

 

「それならまあ……」

 

 カイは言葉を濁し、海の方を見た。

 

 港が、さらに小さくなる。

 やがて、雪解けの川が流れ込むラインも見えなくなり、代わりに、果てのない灰色の海と空が広がった。

 

 風が頬を打つ。

 塩の匂いが、肺の奥まで入り込んでくる。

 

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