死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します   作:来巻梓

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魔導水庭と消えた戸籍(2)

 役所を出ると、丘の斜面を吹き上げる風が、布越しに頬を刺した。

 

 白い壁と青い屋根が、昼の光の中で眩しく連なっている。その中腹、少し高い位置に、クラウスの案内で聞いたアルスリス家があった。

 

 三人分ほどの幅の石段を上っていく。

 段々畑の間を縫うように続く細い階段の両側には、冬の名残のキャベツと、芽吹いたばかりのハーブが揺れている。遠く、港の方からは波と人の声が微かに届いた。

 

「ここか」

 

 カイが足を止めた先に、小さな木の扉と白い壁の家があった。

 窓辺には干した魚と、洗い立ての布がかかっている。屋根の端には、簡素な風見がついていて、海からの風にくるくると回っていた。

 

「いいとこだな」

 

 ボルグがぼそりと言った。

 

「坂はきついが、見晴らしは悪くねえ」

 

 フィンは、周囲の家並みと路地の形を目でなぞっている。零札たちは、一段低いところで待機していた。声は届くが、家の中までは覗き込めない距離だ。

 

「入るのは、私と団長だけで十分でしょう」

 

 シュアラが言うと、カイは頷いた。

 

「ボルグとフィンと、お前らはここで見張りだ。妙な連中が近寄ってきたら、さりげなく追い払え」

 

「さりげなく、ですね」

 

 フィンが苦笑する。

 

「大声出して追い払ったら、余計目立ちますからね」

 

 シュアラは扉の前に立ち、軽くノックした。

 

 しばらくして、靴音が近づく気配。扉が軋んで開いた。

 

「はい」

 

 現れたのは、肩を少し落とした中年の女だった。

 髪は後ろでひとつに束ねられ、顔には浅くも深くもない皺が刻まれている。目元の形は、どこかで聞いた名前の人に似ていた。

 

「どちら様で?」

 

 女の視線が、シュアラとカイの服装と肩の紋章を素早くなぞる。その瞬間、わずかに緊張が走った。

 

「マリーハイツに滞在している、帝国軍の者です」

 

 カイが、いつもより少し丁寧な声で言った。

 

「突然の訪問、失礼します。アルスリス家でお間違いないでしょうか」

 

「そうだけど……」

 

 女の目が細くなる。

 

「リリーシアのことで、また何か?」

 

 「また」という言葉の重さが、扉の隙間から漏れた。

 

 シュアラは、布越しに深く頭を下げた。

 

「はい。リリーシアさんのことで伺いました」

 

 女の顔に、一瞬だけ険しさが浮かぶ。

 

「帝都の人なら、もう十分でしょう。あの子のしたことも、あの子がどうなったかも、何度も説明しました。紙まで書かされて」

 

 女は、扉の縁を指先でつまむように握りしめた。節の白い指が、木に食い込む。

 

「申し訳ありません」

 

 シュアラは、頭を上げずに言った。

 

「私たちが知りたいのは、帝都に送られた話ではありません。ここで――マリーハイツで、リリーシアさんがどう暮らしていたかです」

 

「どう……暮らしてたか」

 

 女の声が、少し揺れた。

 

「帝都の帳簿には、彼女の名前が残っていませんでした」

 

 シュアラは、静かに続ける。

 

「だから、あなたの口から、彼女の名前を、もう一度聞きたい」

 

 沈黙が、短く落ちた。

 

 女は、視線を一度だけ足元に落とし、それからゆっくりと扉を開いた。

 

「……上がって」

 

 家の中は、海の匂いがした。

 

 玄関の脇には、干した魚を入れた籠と、港から持ち帰ったらしいロープの束。壁には、小さな壊れた網が掛けられている。奥の方から、煮干しとハーブの匂いが薄く流れてきた。

 

「狭いけど」

 

 女は、奥の部屋へと二人を通した。

 

 窓からは、港が少しだけ見える位置だ。

 粗末な木の机の上には、簡単な帳面と、半分ほど使われたインク壺。それに、角が擦り切れた本が数冊積まれていた。

 

「昔は、あの子の本がもっと積んであったんだよ」

 

 女は、机をちらりと見た。

 

 指先が、積まれた本の一番上を撫でる。紙の端が、かさりと音を立てた。

 

「帝都に行くとき、半分は持っていった。残った半分は……読める者がいなくてね」

 

「ここで勉強してたんですか」

 

 カイが尋ねると、女は小さく笑った。

 

「港で魚の数を数えて、丘を駆け上がってきて、その勢いのまま机に突っ伏して寝る。そんな子だったよ」

 

 その言葉に、老主人の話が重なる。

 

「朝は漁師の荷揚げを手伝って、昼は学院で字を習って、夜は港の灯りの下で本を読んでいた」

 

 シュアラは、昨夜聞いた言葉を心の中でなぞった。

 

「落ち着きがないって、よく怒ったさ」

 

 女は、窓の外を見ながら言った。視線は港の方を向いているが、焦点はどこか遠くにある。

 

「飯を食べてるときも、魚の数を数える癖が抜けなくてね。『この皿に何匹』『あっちの鍋に何匹』って。あの子の頭の中じゃ、いつも何かが増えたり減ったりしてたんだろうね」

 

「数字は、好きだったんですね」

 

「好き、だったんだろうねえ」

 

 女の頬に、懐かしさと寂しさが同居したような笑みが浮かぶ。

 

「魔法は下手だったけどさ」

 

 そう言って、女は肩をすくめた。

 

「やっぱり」

 

 カイが思わず口を挟んだ。

 

「ここでもそう言われるのか」

 

「ここでも、さ」

 

 女は、少しだけ口元を緩めた。

 

「火を出せって言われて煤をまき散らすし、水を出せって言われて床を水浸しにする。宿の親父さんに、何度スープを駄目にしたって怒られたか」

 

「老主人も、覚えていました」

 

 シュアラが言う。

 

「『いい子だった』と」

 

「……あの人」

 

 女は小さく笑い、すぐにその笑みを拭った。

 

「いい子だったよ」

 

 短い言葉に、誇らしさと、どうしようもない喪失感が滲む。

 

「帝都に行くって話が来たときはね、怖かったけど、嬉しかった。あの子が好きだった数字だの字だのを、もっと学べるって」

 

 女の視線が、机の上の帳面に落ちる。

 しばし沈黙。指先がインク壺のふちをなぞり、途中で止まった。

 

「先生が言ったんだよ。『マリーハイツから、帝都に出す子だ』って。港の誰もが、自分のことみたいに喜んでくれた。……それが、こんなことになるとはね」

 

 部屋の空気が、少し重くなる。

 

「帝都からは、どんな知らせが」

 

 シュアラが、慎重に尋ねた。

 

「最初は、紙だったよ」

 

 女は、棚から折りたたまれた羊皮紙を取り出した。端が少し擦り切れている。

 

「ここでの功績だの、研究への貢献だの、難しい言葉でいっぱいの紙。あの子の名前が、立派な書体で書いてあった」

 

 シュアラは、それを遠目に見た。

 帝都式の整った文字。装飾的な頭文字。そこに確かに「リリーシア・アルスリス」とある。

 

 女は、指でその名前の部分だけをそっと撫でた。

 

「次に来たのは」

 

 指先が、羊皮紙の端をぎゅっと握りしめる。白くなった指の節が、震えた。

 

「『深海の魔女』って呼び名と……『失踪』って言葉だけ」

 

 部屋の中の音が、いったん消えた気がした。

 

「遺体は見つかっていません。儀式の混乱の中で、波に呑まれた可能性が高い、って。そんな文言が書かれていたよ」

 

 帝都の帳簿で見たのと、同じ言葉だ。

 

(失踪)

(遺体未確認)

(帝都に報告済み)

 

 それらは、紙の上ではたった数語だ。

 だが、目の前の人間にとっては、それが全てを終わらせる印になっている。

 

「それから何度か、帝都の人が来たよ」

 

 女は続けた。

 

「あの子が何をして、どういう儀式に関わって、誰と契約して――そんなことばかり聞かれた」

 

「答えられましたか」

 

「答えられるわけないだろう」

 

 女は、少し声を荒げた。羊皮紙を机に置き、その上に手のひらを広げる。

 

「あの子は、ここで魚の数を数えて、学院で字を習って、夜には本を読んでただけだ。深海の何かと契約するような話は、一度だって聞いたことがない」

 

 カイが、ゆっくりと息を吐く。

 

「ただの、港町の娘だった」

 

 シュアラが、その言葉を拾う。

 

 女は、ぎゅっと目を閉じた。

 

「そうだよ」

 

 かすれた声が漏れる。

 

「ただの港の娘だよ。偉い家の生まれでもない。特別な器なんかじゃない。潮の匂いのする服で帰ってきて、魚の骨を皿の端にきれいに並べて、それを自慢げに見せてくるような子だった」

 

 その情景が、ありありと浮かぶ。

 皿の上に並んだ細い骨。得意そうな顔。その向こうで、港の灯りが揺れている。

 

「帝都の人たちはね、『深海の魔女』だの『契約者』だの、いろんな言葉をくっつけてきた」

 

 女は、拳を握った。その拳には、さっきまで羊皮紙があった場所の温度が残っている。

 

「でも、あたしらにとっては、最後まで、ただのあの子なんだよ」

 

 沈黙が、再び部屋を満たした。

 

 窓の外で、港の方から子どもの声が微かに届く。

 昨日見た「魔女ごっこ」の笑い声が、頭のどこかで重なった。

 

(零札の男たちも言っていた)

 

 シュアラは思い出す。

 

『俺たちだって人間だろ』

 

 冗談めかした笑いの裏に、かすかな怒りと諦めを滲ませながら。

 

(深海魔導も深海契約も、“魔女”も零札も)

 

 視線を落とすと、自分の帳面の上にも、さっき写したばかりの「対象者一二三」という文字がある。

 

(呼び名も番号も違っても、帳簿に並ぶ前は、どれも誰か一人の手と声と体温を持っていた人間だ)

 

 使い捨てにするために、先に名前を削り、別の印を貼る。

 そのやり口を思うだけで、喉の奥が冷たくなった。

 

 帳簿の上では、数字と記号に変えられた「対象者」。

 でもここでは、皿に残った魚の骨の並べ方まで覚えている、誰か一人の娘だ。

 

「……教えてくださって、ありがとうございました」

 

 シュアラは、深く頭を下げた。

 

「何か、あの子にしてやれることがあるなら」

 

 女の声が、少しだけ柔らかくなった。

 

「別に、仇をとってほしいとか、そういうんじゃない。ただ……名前を、どこかに残してやってほしい」

 

 その言葉は、シュアラの胸の奥にまっすぐ届いた。

 

「残します」

 

 シュアラは顔を上げ、はっきりと言った。

 

「帳簿の上で、ですか」

 

「はい。帳簿の上で」

 

 カイが横目で彼女を見る。

 

 女は、小さく息を吐き、かすかな微笑みを浮かべた。

 

「帳簿でも、構わないさ。あの子は数字が好きだったからね」

 

*

 

 アルスリス家を後にし、石段を下りていく。

 

 丘の斜面を渡る風は冷たいが、砦のそれよりは柔らかい。白い壁と青い屋根の向こう、港の水面がきらきらと光っている。

 

「どうだった」

 

 少し前を歩いていたカイが、振り返りながら尋ねた。

 

「……数字ではなく、『誰か一人の娘』として、ようやく理解できました」

 

 シュアラは、布の下で小さく息を吐いた。

 

「帝都の帳簿に載っていなかった行を、ここで見つけた気分です」

 

「帳簿の話に戻るのかよ」

 

 フィンが笑う。

 

「感想を言わせても、すぐ数字に変えますね、軍師殿は」

 

「仕事ですから」

 

「そういう仕事しかしてねえだろ、お前」

 

 カイが肩をすくめる。

 

「ゼロ損耗に、航路の公約に、今度は人の名誉回復まで抱える気か」

 

「全部、帳簿に書けます」

 

 シュアラは即答した。

 

「帝都の帳簿が拾わなかった行を、一つだけ、こちら側で書き足しておきます」

 

 零札の男が、少し後ろから口を挟んだ。

 

「俺たちの名前も、ついでにどっかに紛れ込ませといてくれませんかね」

 

「検討しておきます」

 

 即答に、男たちの間に小さな笑いが広がる。

 

「怖いなあ、その『検討』」

 

 フィンが苦笑した。

 

「たぶん、気づいたらどこかの欄外に『備考:零札の名誉回復も兼ねる』とか書かれてるんですよ」

 

「それなら、まあ、悪くねえ」

 

 カイが、港の方を見ながらぽつりと言った。

 

「誰かの名前を、ゼロじゃない場所に置いてやれるならな」

 

 宿へ戻る途中、小さな広場からロッタ魔導水庭の塔が見えた。

 昼の光の中でも、ガラスの塔の中の水は青く輝き、ゆっくりと逆流している。

 

 その向こう、港の出入り口には、見慣れない模様の旗を掲げた小さな船が入ってくるのが見えた。

 帝都の紋章に似た輪郭が、陽炎の向こうで揺れる。

 

「……急がないと、帳簿を書く時間も削られそうですね」

 

 シュアラは、誰にともなく小さく呟いた。

 

 青い帳面を取り出し、歩きながら表紙を開く。

 

 一番最後のページ。

 まだ何も書かれていない欄外に、細い字で一行だけ書き足す。

 

『備考:ヴァルム砦とマリーハイツを結ぶ本公約は、リリーシア・アルスリスの名誉回復を兼ねる』

 

 インクが乾くまでの間、彼女は帳面を閉じなかった。

 

 丘の上で、ロッタ魔導水庭の塔が、風にわずかにきしむ音を立てる。

 港の方からは、さきほどの船の到着を告げる鐘の音が遅れて届いた。

 

 帝都の帳簿から消された名前が、一つだけ、別の帳簿に移された。

 

 それはきっと、帝都から見れば、取るに足らない欄外の一行にすぎない。

 

(それでも)

 

 シュアラは、布の内側で静かに目を閉じた。

 

(ここから始める)

 

 ゼロ損耗の数字と、失われた戸籍と、ただの港の娘の名を、同じページの上に並べて。

 

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