死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します   作:来巻梓

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公約草案と帝都の影(1)

 役所の二階の一番奥にある部屋は、海から離れているはずなのに、かすかに潮の匂いがした。

 

 石壁に囲まれた長方形の部屋。窓は町の方と港の方に一つずつ。広すぎない木の机が中央に二つ並べられ、その片方の端に、シュアラは青い帳面と数枚の紙をきちんと積み上げていた。

 

 壁際には、粗末な黒板が一枚、斜めに立てかけられている。

 もとは子どもたちの読み書きに使っているらしく、角は欠け、表面には消しきれない白い粉の跡が残っていた。

 

「……では、始めてもよろしいでしょうか」

 

 椅子に腰を下ろした男たちが、一斉にこちらを見る。

 マリーハイツ町長代理のクラウス。その隣に、魚商人と思しき男が二人。もう一人は網元か船主だろう。肩幅が広く、日焼けした首元に太い縄の跡が刻まれている。端には、若い書記官が紙束を抱えて座っていた。

 

 カイは壁際に背を預け、腕を組んで立っている。

 フィンは扉のそばに陣取り、外との出入りを目で追っていた。その向こう、廊下の突き当たりには、零札の男たちが、場違いな礼服を着せられたみたいな顔で固まっている。会議室に押し込むにはいかつすぎるので、廊下で待機することになったのだ。

 

「遠路はるばる、雪の砦からようこそ」

 

 クラウスが咳払いを一つした。

 

「本来ならこちらから条件をお示しすべきところですが……まずは、あなたが考えている『公約』とやらを聞かせていただけますか」

 

「はい」

 

 シュアラは椅子を離れ、黒板の前に歩み出た。

 布で隠した頬の内側で、一度だけ浅く息を吸う。

 

(数字の話は、できるだけ単純に)

 

 チョークを手に取り、黒板の左端に小さな山の絵を描いた。尖った三角形をいくつか連ね、そのふもとに四角い砦の印を付ける。

 

「こちらが、ヴァルム砦と、その周辺の村々です」

 

 次に、黒板の右端に、半円形の湾と、白い家を模した四角をいくつか描く。

 

「こちらが、マリーハイツ」

 

 最後に、二つの間をまたぐ位置、上の方に、大きく「帝都」と書いた丸を一つ。

 

「現在、帝都の帳簿の上では、このようになっています」

 

 山と帝都の丸の間に一本の線を引き、その途中に小さな丸をいくつか挟んでいく。

 

「ヴァルムからの穀物や鉱石は、一度、内陸の交易都市を経由して帝都に集められます」

 

 続けて、帝都からマリーハイツへ向けて線を伸ばし、その途中にもいくつか丸を描いた。

 

「そして帝都から、海路の管理者を通して、マリーハイツに送られる。あるいは、別の港町に送られる」

 

 途中の丸の一つを、チョークの先で軽く叩く。

 

「この丸一つが、帝都の言うところの『管理のための費用』です」

 

 魚商人の一人が鼻を鳴らした。

 

「ええ、まあ……そういうことになっております」

 

 クラウスが苦笑する。

 

「魚や魔導素材の方も、似たようなものですか?」

 

「はい。マリーハイツから帝都へ向かうときも同じです」

 

 今度は、湾から帝都へ向かう線を描き、その途中に同じような丸をいくつか足していく。

 

「あなた方の町から帝都に向かう際にも、管理費と称した中継が複数挟まっています。パン屋のツケのようなものだとお考えください」

 

「パン屋のツケ?」

 

 縄跡の男が首をかしげた。

 

「はい。村の誰かが、毎朝パン屋からパンを借りていくとします」

 

 シュアラは、黒板の下の空いたところに、小さな家とパン屋の絵を描いた。

 

「その人が、毎日きちんと支払えばいいのですが、たまに払い忘れる。するとパン屋は、帳簿の隅に『ツケ』を書き溜めていきます」

 

「あるな」

 

 魚商人が、隣の男と目を見合わせる。

 

「あるどころか、うちの客の顔が浮かんだ」

 

「ある日、その村人がまとめて支払えなくなったとき、パン屋は困ります。そこで――」

 

 家とパン屋の間に、「仲介人」と書いた棒人間を一人描く。

 

「帝都が『仲介人』として間に入り、『ツケ』をまとめて肩代わりする。代わりに、村人には利息を上乗せして請求する。その利息が、『手数料』です」

 

「……身に覚えのある話だな」

 

 縄跡の男が、苦い顔で呟いた。

 

「マリーハイツと帝都の関係も、これに似ています」

 

 シュアラは、帝都とマリーハイツの間に描いた丸を一つ指先で叩いた。

 

「帝都は、北方海路の安全と、魔導水庭の維持の名目で『ツケの肩代わり』をしています。その代わりに、手数料を上乗せする。ここまでは、帝都の理屈としては筋が通っています」

 

「筋が通っているなら、文句の付けようがないな」

 

 クラウスが、半分本気、半分皮肉で言う。

 

「問題は、あなた方がその理屈で納得しているかどうかです」

 

 シュアラは、静かに続けた。

 

「今の帝都案では、こうです」

 

 黒板の山と湾の間を、帝都を経由してつなぐ長い線を、二度ほど強くなぞる。

 

「ヴァルム→帝都→マリーハイツ」

 

 次に、その帝都を迂回するように、山と湾をまっすぐ結ぶ線を一本引いた。

 

「私の案は、こちらです」

 

 一本の短い線。

 

「ヴァルム→マリーハイツ」

 

 部屋の空気が、わずかに動いた。

 窓際の地図が、潮風に揺れる。

 

「帝都を通さないと、怒られないか」

 

 クラウスが、慎重な声で口を開いた。

 

「帝都は、そう簡単に『怒る』という手段を使いません」

 

 シュアラは、チョークの粉を指先で払い落とす。

 

「怒る前に、計算します。『この港町を切り捨てた場合と、そのまま生かしておいた場合、どちらが得か』」

 

 魚商人たちが、顔を見合わせた。

 

「帝都にとって、マリーハイツは『深海魔導の研究拠点』であり、『北方海路の玄関口』です」

 

 黒板の湾の部分を、軽く丸で囲む。

 

「そう簡単に、捨てられる場所ではありません」

 

「だからって、安心できる話じゃないがな」

 

 クラウスが、頬の髭をなでた。

 

「帝都の計算が狂ったとき、沈められるのは、たいてい数字の外側にいる方ですよ」

 

「ええ。その通りです」

 

 シュアラは、あっさりと肯定した。

 

「だからこそ、こちら側で先に数字を用意しておきたいのです」

 

 彼女は黒板の隣に、あらかじめ用意していた紙を一枚貼り付ける。左に「帝都経由案」、右に「ヴァルム直行案」と書かれた簡単な表だ。

 

「帝都経由案では、魚と魔導素材を帝都に売った際、手数料として一割から二割が天引きされます」

 

 右側の欄には「手数料なし」と記してある。

 

「直行案では、その分を丸ごとこちら側とヴァルムで山分けできます」

 

「山分け、ね」

 

 魚商人が喉の奥で笑った。

 

「分かりやすい話だ」

 

「ただし」

 

 シュアラは、左の欄を指で押さえた。

 

「帝都経由案には、『深海魔導の技術支援』という項目がついてきます」

 

 部屋の空気が、目に見えないところで硬くなる。

 

「港の防波堤の修復。魔導水庭の維持。大嵐の際の緊急防御」

 

 ロッタ魔導水庭の青い光が、窓の外で一瞬だけ頭をよぎる。

 

「直行案では、その支援をどう扱うか、別途決める必要があります」

 

「……ようやく本音が見えてきたな」

 

 縄跡の男が低く言った。

 

「帝都は、『深海の魔女』とやらの力を握っている。あれをちらつかせながら、『お前らの港を守ってやるから、ちゃんと税を払え』と言ってくるわけだ」

 

「私の立場からは、それを否定も肯定もできません」

 

 シュアラは目を伏せる。

 

「ただ、少なくとも、十年前の嵐の夜にこの港を守ったのは――帝都ではなく、この町の娘だったと、私は聞きました」

 

 机の上に置かれたクラウスの手が、わずかに強く握られた。

 視線が一瞬だけ揺れ、すぐに元の落ち着いた色を取り戻す。

 

「本題に戻ります」

 

 シュアラは、黒板の前に姿勢を正した。

 

「私の案では、ヴァルムとマリーハイツの間に一本の航路を引きます。ただし――」

 

 帝都とマリーハイツの間の線は消さずに残したまま、小さく指で叩く。

 

「この航路の収支は、帝都の帳簿には載りません。その代わり、こちら側で別の帳簿を一冊用意します」

 

「別の、帳簿?」

 

 若い書記官が顔を上げる。

 

「一冊は、帝都に提出する帳簿。もう一冊は、マリーハイツとヴァルムのための帳簿です」

 

 シュアラは、青い帳面を軽く持ち上げて見せた。

 

「帝都の帳簿には、今まで通り『北方海路全体の収支』だけを書いておきます。その裏で、この町と砦の間の細かいやり取りは、こちら側の帳簿にだけ記録する」

 

 短い沈黙が落ちた。

 

 魚商人の一人が、椅子をきしませる。

 

「……それはつまり、帝都から見たら、裏帳簿ってやつじゃねえのか」

 

 クラウスが、遠慮のない言い方で口火を切った。

 

 若い書記官が、小さく咳き込む。ペン先が紙の端をかすめて黒い筋を引いた。

 

「帝都から見れば、そう呼ばれるかもしれません」

 

 シュアラは、否定しなかった。

 

「ただ、その裏帳簿が『誰も沈めないために必要な記録』だとしたら――それをどう扱うかは、あなた方自身に決めていただくしかありません」

 

「誰も沈めない、ね」

 

 縄跡の男が肩をすくめる。

 

「沈む順番を決めて紙に書いてきたのは、あんたら帝都の仕事だろうに」

 

「ええ。だからこそ、そこを書き換えたいのです」

 

 シュアラは、声の温度を少しだけ下げた。

 

「帝都の帳簿には、すでに『沈む順番』が書かれています。どの村を先に切り捨てるか。どの港を後回しにするか。どの船を『損耗許容』に分類するか」

 

「……あんた、それを実際に見てきた口か」

 

 クラウスが、探るように問う。

 

「ええ」

 

 淡々と頷く。

 

「だからこそ、ここで一本だけ、別の線を引きたいのです」

 

 黒板に描いた「ヴァルム→マリーハイツ」の線を、もう一度なぞる。

 

 窓の外で、かもめの鳴き声が遠く響いた。

 

「話としては、よく分かりました」

 

 やがて、クラウスが口を開く。

 

「帝都案より、こっちの方が儲かる、というのも、頭では理解できます」

 

 魚商人たちも、渋い顔ながら頷いた。

 

「でも?」

 

 壁際のカイが、短く水を向ける。

 

「でも、だ」

 

 クラウスは両手を組み、机の上で指を組み替えた。

 

「帝都は、好んで怒りはしないかもしれないが――機嫌を損ねた相手に、どんな『計算結果』を返してくるか分からない」

 

 彼は、港の方角の窓を一瞥した。

 

「『深海の魔女』の力は、今や帝都の手の中にある、と皆が言う」

 

 魚商人の一人が、低く続ける。

 

「その力を使って港を守ってもらってる間はいい。だが、別の計算をされたときに、『あの娘』をどう使うかなんて、俺たちには読めねえ」

 

 部屋の空気が、また少し重くなった。

 

「あなた方の不安は理解できます」

 

 シュアラは素直に頷いた。

 

「私自身も、その計算結果を完全には読めません。最悪の場合、この抜け道ごと切り捨てられる可能性も、ゼロではありません」

 

「読めないのに、抜け道を作ろうとしているのか?」

 

 縄跡の男が、目を細める。

 

「はい」

 

 迷いなく答える。

 

「だからこそ、二つの帳簿を用意する必要があります。一つは、帝都のための帳簿。もう一つは、この町とヴァルムのための帳簿」

 

 シュアラは青い帳面を指で叩いた。

 

「ここに書くのは、『沈んでもいい人間』のリストではなく、『沈ませたくない名前』です。帳簿の名前は、帝都に決めさせません」

 

 短い沈黙。

 

 クラウスが、小さく息を吐いた。

 

「今、ここで『乗った』と言えれば、話は早いんだがな」

 

 苦笑まじりの声。

 

「帝都の目が、すでにこっちに向いているから、ですね」

 

 フィンがぽつりと言った。

 

「そういうことだ」

 

 クラウスは頷き、机の端に置いていた封筒を指先で押し出した。

 

「帝国海務院からの公文書だ。『北方海路安全性評価および深海契約運用状況確認のため、マリーハイツ港に視察団を派遣する』――そう書いてある」

 

「だからこそ、だ」

 

 彼は封筒を机の上に戻し、手を組み直した。

 

「今ここで、帝都に黙って新しい公約を結ぶわけにはいかない」

 

「……海務院の視察団が来るまで、ということですか」

 

「そうだな。少なくとも、帝都の顔を一度は見てからだ」

 

 クラウスは、隣の書記官に目配せした。

 若い役人が、慌てて紙とペンを手に取る。

 

「だから、今出せる答えは一つだけだ」

 

 クラウスは、ゆっくりと言った。

 

「『検討』」

 

 ペン先が、紙の上にその二文字を書き込む。

 

「マリーハイツ町としては、ヴァルム砦からの公約案を『検討する』。海務院の視察団の意見も聞いた上で、改めて返答する」

 

 魚商人たちが、小さく溜息をついた。

 期待と警戒とが入り混じった、居心地の悪い空気。

 

「……悪い話じゃないんだがな」

 

 縄跡の男が、ぼそりと漏らす。

 

「帝都を通さない方が儲かるってのは、どう考えても分かりやすいんだが」

 

「だからこそ、余計に怖いんでしょう」

 

 フィンが、小さな声で付け加えた。

 

「分かりやすく得な話には、大体、見えない穴があく」

 

「穴を埋めるために、こちらはここに来ています」

 

 シュアラは青い帳面を閉じた。

 

「『検討』で構いません。その二文字を帝都にも送ってください。マリーハイツが、自分で考えようとしていると伝わるように」

 

「……あんた、本当に死人か?」

 

 クラウスが、半ば呆れたように笑う。

 

「死人のくせに、やけにしぶとく息をしている」

 

「私はもう、帝都の帳簿では死んでおりますので」

 

 シュアラは、微笑ともつかない表情で一礼した。

 

「せめてこちら側の帳簿では、もう少しだけ足掻かせてください」

 

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