死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します   作:来巻梓

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沈む順番の海図(1)

 窓の外では、まだ港がいつもの朝を演じていた。

 

 薄い霧の上を、漁船の影がゆっくり行き交う。

 荷を積む男たちの掛け声。魚箱を引きずる擦過音。

 波が桟橋を叩く、小さな水音。

 

 その全部が、二重のガラス越しに、ひとつ膜を挟んだように遠く聞こえる。

 

 マリーハイツ役場二階の会議室は、外の賑わいとは別の空気で満ちていた。

 磨かれた長机が三列。窓側には町側の人間、反対側には帝都海務院の一行。

 出入口に近いところには、ヴァルム砦から来た者たちと零札たちが固まって座っている。

 

(今日、この部屋で――“沈む順番”が決まる)

 

 そんな言葉が、シュアラの頭の片隅で形になった。

 

 彼女はクラウス町長の斜め後ろ、書記役の席に座っている。

 視界の端に見えるクラウスの横顔は、いつもの陽気な宿の主人とはまるで違う。

 目元の皺は深く、唇は固く結ばれていた。

 

「……それでは、始めましょうか」

 

 喉を一度鳴らしてから、クラウスが声を出す。

 

「遠いところ、ようこそおいでくださいました。帝都海務院の皆さま、ヴァルム砦の皆さま」

 

 形式だけの挨拶に、簡素な拍手が散った。

 海務院側の士官は薄く微笑み、リュシアは椅子の背にもたれたまま、退屈そうに片眉を上げる。

 

 銀の髪。青白い顔。

 年齢のわりに背の低い、厚底ブーツの少女。

 

 帝国海務院・海洋魔導計算局の少技士――リュシア・フォン・クラウゼ。

 

 クラウスが、遠慮がちな視線をシュアラに向ける。

 「代案は言うな」と、事前に言い含められている視線だ。

 

(分かっていますよ、町長)

 

 シュアラは視線で「了解」を返し、手元の帳簿を開いた。

 まだ何も書かれていない頁の上で、羽ペンの先がかすかに震える。

 

「では――まずは帝都案のご説明を」

 

 クラウスの促しに、海務院側の士官が立ち上がる。

 髪をきっちり撫でつけた、中年の男だ。

 

「帝国海務院、海上航路管理局のコルネリウスです。本日は、北方海路の再編について……」

 

 前置きは、教科書の序文のように滑らかだ。

 いかに帝都が北方を重く見ているか。

 いかに皇太子殿下が北方の安全を案じておられるか。

 

 どれも正しく、耳あたりもよく、そして現場の寒さからは遠い。

 

 ひと通りの挨拶を終えると、コルネリウスは壁際の大きな海図へと歩み寄った。

 椅子が引かれる音が連鎖し、視線が海図に集まる。

 

 北方の海を描いた羊皮紙の上で、いくつもの色線が交差していた。

 帝都とヴァルム、マリーハイツ、周辺の港や村。

 そこを結ぶ航路が、青や赤や黒の線で示されている。

 

「詳しい説明は――」

 

 コルネリウスが一歩下がる。

 

「計算局の少技士、リュシア・フォン・クラウゼが担当します」

 

 銀髪の少女が、椅子をくるりと回して立ち上がった。

 

「はい。では、始めますね」

 

 小さな体に似合わない、よく通る声だった。

 リュシアは、教室の子どもに話しかけるみたいな口調で言葉を継ぐ。

 

「まず、今の海です」

 

 彼女は青いチョークを取り、海図に沿ってさらさらと線を引いた。

 帝都から北へ伸びる太い線。そこからヴァルムとマリーハイツへ枝分かれする細い線。

 

「ここが主な補給線。帝都からの物資が、ヴァルム砦とマリーハイツを経由して、さらに小さな町や村へ流れていきます」

 

 説明自体は簡潔だ。

 だが、その線一本一本が、何人分の冬越しと、何人分の飢えを意味するかを知っている者には、重すぎる図でもある。

 

「で、問題は――」

 

 リュシアは今度は赤いチョークを取り出し、北の方角に斜めの帯を引いた。

 

「ここ。これから三十年ぐらいのあいだに、嵐の通り道と、氷の張る範囲が、こう動きます」

 

 細い指先が、赤い帯の上をなぞる。

 

「海務院の記録と魔導観測から出した予測です。――嵐が少し南に降りてきて、この辺りの航路に前より強い負荷がかかる、ってことですね」

 

 コルネリウスが、横から補足するように頷いた。

 

「つまり、そのままでは、いずれどこかの港が“運悪く”途絶する可能性が高い、ということです」

 

(端折ったわね)

 

 シュアラは、心の中でだけ小さく息を吐く。

 

 本当はもっと複雑な数式と余白が、その一文の裏にあるはずだ。

 だが、こうやって「まとめて」しまう方が、会議では受け入れられやすい。

 

 リュシアは、青と赤が交差する地点に白いチョークで丸を描いた。

 

「そこで。嵐の通り道と、氷の変動を前提にして、航路の“優先順位”を組み直します」

 

 会議室の空気が、わずかに固くなる。

 

「優先順位、とな」

 

 クラウスが、低く繰り返した。

 

「はい」

 

 リュシアはあっさりと頷く。

 

「全部を均等に守ろうとすると、どこも守れなくなるんですよ。だから最初に決めておきます。どの道を絶対に折らないか。……そして、どの道から――折っていくかを」

 

 最後の一言だけ、声がわずかに沈んで聞こえた。

 

(来た)

 

 シュアラは、羽ペンを握り直す。

 

「この海図は、帝都と北方の港をつなぐための“背骨”です」

 

 リュシアは海図の中央、太い青線を軽く叩いた。

 

「背骨を守るために、手足のどこまでを切り離すか。それを決めたものが――この案になります」

 

 机の上に置かれた分厚い書類の束。

 表紙には「北方航路再編案/提起」と、帝都式の整った文字が踊っている。

 

(背骨、ね)

 

 シュアラは、紙の端を指で撫でた。

 

(背骨にも、切り離される手足にも、それぞれ心臓はついているはずなんですが)

 

 口には出さない。

 

 代わりに、目の前の帳簿の見出しに小さく書き込む。

 

『帝都案:背骨と切り離し/マリーハイツ位置 要検証』

 

 外から見れば、ただの事務的なメモだ。

 

「では、“沈む順番”の話に入ります」

 

 リュシアが、さらりと言った。

 

 その言葉を、会議室全体が一拍遅れて飲み込む。

 

 零札の男が一人、思わず椅子の上で姿勢を直す。

 カイは、後ろの方の席で腕を組んだまま、視線だけを鋭くした。

 

 窓の外では、港が相変わらずの朝を演じている。

 この部屋の中でだけ、別の台本が広げられていた。

 

     *

 

「まず、港や町ごとの“沈む順番”については――」

 

 リュシアは、淡々と紙をめくる。

 

「先日お話しした通りです。大きな港はなるべく最後まで残し、小さな入り江は嵐のときに切り離す。その代わり、普段からマリーハイツのような中規模港に荷を集約しておく。……そういう役割分担ですね」

 

 漁師たちの顔に、あからさまな不満の色が浮かんだ。

 けれど、そこまではまだ「損な役回りだが、分からなくはない」話でもある。

 

「今日、ここで決めるのは、その次です」

 

 リュシアは、机の上に用意された板を引き寄せた。

 黒く塗られた小さな板に、白い線でいくつかの枠が描かれている。

 

「船の中の、沈む順番」

 

 彼女は、板の左端に縦線を引き、枠を五つに区切った。

 

「一隻の船の中に、いろんな人が乗りますよね。乗客、船員、兵士、零札、刑徒……あと、積み荷も」

 

 列席している零札たちの肩が、わずかにこわばる。

 つい数日前まで奴隷に近い扱いを受けていた者も多い。

 

「海難が起きたとき、全員を一度に守ることはできません」

 

 会議室の空気が、さらに冷えた。

 

「だから、最初から決めておきます。どこまでを『どうしても沈めたくない』枠に入れるか。どこからを、『沈んでもらうかもしれない』枠に入れるか」

 

 リュシアは、一番上の枠に白いチョークで書き込む。

 

「上から順番に――」

 

 一行目。

 

『貴族・高位魔導師・極めて高価な貨物』

 

 二行目。

 

『通常の乗客・兵・船員』

 

 三行目。

 

『零札のうち、技能持ち/重要任務従事者』

 

 四行目。

 

『零札・刑徒(一般)』

 

 最後の枠だけ、少し間を置いてから書き足す。

 

『想定損耗枠』

 

 その言葉だけ、声に出さなかった。

 チョークの走る音だけが、会議室にやけに大きく響く。

 窓の外で、ちょうど波が桟橋を強く叩いた。

 

 シュアラは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 

(やっぱり、そういう形にしたのね)

 

 帝都で見た書類を思い出す。

 数字だけで書かれた「許容損耗率」。

 そこには、「誰」が沈むのかは、一文字も書かれていなかった。

 

「……上の二段は、『できるだけ沈めたくない』枠です」

 

 リュシアが、わざと軽い調子で説明を続けた。

 

「ここに入っている人たちが沈むと、帝都も現場も困ります。大きな損失になりますからね」

 

 数人の目が、ちらりとこちらを見る。

 「貴族」という言葉で、シュアラを連想したのだろう。

 彼女は、銀の半仮面の下で表情を動かさないようにした。

 

「三段目は、零札だけど、いなくなると作業が止まる人たち。魔導の維持とか、船の操舵とか。そういう人たちは、なるべく守った方がいいです」

 

「なるべく、ねえ」

 

 誰かが、低く呟いた。

 

「四段目と、最後の枠が――」

 

 リュシアが一瞬だけ言葉を選ぶように黙る。

 

「……“切り離す候補”です」

 

 会議室のどこかで、椅子がきしむ音がした。

 

「ふざけるなよ」

 

 最初に声を上げたのは、窓際に座っていた漁師の男だった。

 日焼けした腕に、魚の血の跡がまだうっすら残っている。

 

「切り離す候補ってのは、要するに、真っ先に海に落とす連中って意味じゃねえか」

 

「落とす、とは言っていません」

 

 リュシアは、きっぱりと言い返す。

 

「優先順位を決めるだけです。どこまで助けて、どこから諦めるかの線を、あらかじめ引いておく」

 

「同じだろうが!」

 

 漁師の拳が、机を叩いた。

 インク壺がかすかに揺れ、シュアラはとっさに手帳を押さえる。

 

「沈むときに、誰から手を離すか、最初から紙に書いておく。そんなもん、ただの“海に捨てる順番”だ!」

 

 怒鳴り声に、零札たちの視線が一斉に床に落ちた。

 自分たちの名前がどの枠に入っているか、言われなくても分かっている。

 

「親方、落ち着けよ」

 

 零札の男が一人、苦笑いを浮かべて漁師をなだめようとする。

 

「まあまあ。俺たちゃ、最初から“数に入らねえ分”だ。今さら枠が一つ増えたところで、大して変わりゃしませんって」

 

 笑いながら言う。

 だが、その笑いは喉の奥でからからと空回りするだけだ。

 

(変わりますよ)

 

 シュアラは、心の中でだけ反論する。

 

(あなたたちを“想定損耗”と書いた瞬間、その分は『失ってもいい数字』に変わる。それは、まったく違う)

 

 けれど今、それを口に出せば、会議が壊れる。

 壊れた会議のあとで、帝都案だけが一方的に通る未来が見える。

 

「怒るのは、分かります」

 

 リュシアが、真正面から漁師を見た。

 

 銀の瞳が、まっすぐだ。

 

「でも、決めておかないと、もっとひどくなります」

 

「もっと、だと?」

 

「沈むとき、人は、順番なんて考えません」

 

 彼女の声が、少しだけ小さくなる。

 

「掴めるものを掴んで、押せるものを押して、近くにいる誰かを踏んででも、上に上がろうとする。そのたびに、誰かが恨みを抱いて、誰かが『自分だけ切り捨てられた』って思う」

 

 リュシアは、板の最後の枠を指先で叩いた。

 

「最初から、『ここまで守って、ここからは守れません』って決めておけば――少なくとも、『助かったのに、助けなかった』って争いは減ります」

 

「減らすために、人を捨てるのか」

 

 漁師の声は、もう怒鳴りではなかった。

 長い冬と長い潮をくぐってきた、大人の声だ。

 

「はい」

 

 リュシアは、ほんの一瞬だけ目を伏せ、それでも頷いた。

 

「その方が、全体としての損失は、少なくなりますから」

 

 その言葉は、教科書通りの正しさを持っていた。

 海務院で何度も叩き込まれたロジック。

 

 でも――。

 

(それで、あなた自身は本当に納得しているんですか)

 

 シュアラは、銀の瞳の奥を覗き込むように見つめる。

 

 リュシアの口元が、少しだけ歪んだ。

 

「……本当は、誰も沈めたくないですけどね」

 

 ぽつり、と。

 聞こえるかどうかの声で、彼女は付け足した。

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