死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します   作:来巻梓

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怪しき符号(2)

「今の、何だ?」

 

 カイが首を傾げる。

 

「規定書類の識別用でしょう。意味は、後で確認します」

 

 シュアラは、意図的にそう答えた。

 今ここで問い詰めて、試験そのものを止めさせるわけにはいかない。

 

(証拠は、全部紙の上で揃える)

 

 その方が、会議室に持ち帰ったとき、逃げ道を塞ぎやすい。

 

「第二便、比較案。──出航」

 

 また、定型句。

 だが、船が桟橋を離れる瞬間の感触は、さっきとは違っていた。

 

 潮の向きが、わずかに逆らう。

 波の山が、船底の真下でぶつかり合うような揺れ方をする。

 

 漁師が舵輪の横で舌打ちした。

 

「おい、さっきと海が違うぞ」

 

 別の男が舷側から身を乗り出し、水面を睨む。

 

「同じ時間じゃねえからな。潮目が変わっちまってる」

 

 その言葉自体は正しい。

 だが、「同じ条件で比較する」という約束は、その瞬間から紙の上の言葉だけになっていた。

 

「波高、中。風向、北西。遅延──微少」

 

 フィンの読み上げる声に、さっきとは違う迷いが混じる。

 

「“微少”って、どのくらいだ?」

 

 側にいた士官が、さらりと口を挟んだ。

 

「帝都の基準では、十五刻以内は微少です」

 

 ログ用紙の端を指で示す。

 

「第一便も第二便も、その範囲なら“遅延なし”扱いで構いません」

 

 シュアラが顔を上げかける。

 

「でも、現場としては──」

 

 士官は笑顔のまま、言葉をかぶせた。

 

「統一基準に従いましょう。そうでないと、比較になりませんから」

 

 シュアラの手が、羽根ペンの軸を握り締める。

 指先が、わずかに震えた。

 

(基準を動かしておいて、“統一”)

 

 舌の裏に、苦い笑いが広がる。

 

 船は、確かに進んでいる。

 だが、第一便のときのような「素直さ」はない。

 

 波の位相が合わず、舳先が左右に小さく振れる。

 風の息が乱れ、帆がはためく音が増える。

 

 帝都船の士官が、双眼鏡越しにこちらを見ながら言った。

 

「比較が取れましたね」

 

 双眼鏡を下ろし、口元に笑みを浮かべる。

 

「第一便の方が安定している。──証拠が取れそうです」

 

 シュアラは航路帳を閉じ、視線だけを帝都船に向けた。

 

「まだ途中です」

 

 抑えた声の奥に、細い棘のようなものが引っかかっている。

 

「一便だけでは。統計として、弱いでしょう?」

 

 帝都船の士官は、間髪入れずに答えた。

 

「二便目で、同じ結果が出れば十分です」

 

 その「同じ結果」が、どう作られたものかには、触れないまま。

 

 士官の口元が、また少し上がる。

 

(あとで、全部並べて見せてあげますよ)

 

 読み上げの基準が第一便と違うところ。

 ログ用紙が差し替えられたこと。

 潮目と出航タイミングのズレ。

 

 全部、航路帳とログ用紙に記しておく。

 今ここで言い争うより、その方が「潰し返す」材料になる。

 

 そう判断して、シュアラはペンを握り直した。

 視線が、自然と紙へ落ちる。

 人の顔よりも、数字の列の方がよく見える位置だった。

 

*

 

 海が、急に静かになった。

 

 さっきまで揺れていた船体が、すっと落ち着く。

 それは「凪ぐ」という言葉では足りない、異様な静けさだった。

 

「……止まった?」

 

 カイが舷側から身を乗り出す。

 

 波はある。うねりもある。

 だが、それらが一斉に「揃って」いた。

 

 船の周囲で、波の山が同じ高さで並び、同じ間隔で押し寄せてくる。

 まるで誰かが巨大な水面に定規を当てて、揺れ方を整えているようだ。

 

 漁師の一人が舷側に唾を吐く。

 

「気持ち悪い海だ」

 

 別の男が、波から目を離さないまま呟いた。

 

「こんな揃い方、見たことねえぞ」

 

 その瞬間。

 

「──緊急措置、実施」

 

 帝都船の甲板から、士官の声が飛んだ。

 

「規定により、段階二を発動する」

 

 シュアラは顔を上げる。

 例の封書が、今度は本当に開かれようとしていた。

 

 士官が革ひもを解き、封蝋を割る。

 中から取り出した厚紙に目を走らせた。

 

「……確認。条項七、段階二。──航行継続のため、深海契約出力の増幅を許可」

 

 全文は読まない。

 必要な符号だけを拾い上げると、紙を胸元に押し当てた。

 

「深海契約の器に、追加出力を要請。零札・刑徒の想定損耗枠は、規定範囲内で調整」

 

(想定損耗枠──)

 

 言葉自体は、午前の会議で何度も聞いた。

 だが、海の上で聞くそれは、まるで別物だった。

 

 帝都船の甲板で、リュシアの顔色が一瞬変わる。

 青ざめるというより、何かを飲み込むような表情。

 その横で士官たちが視線を交わす。誰も声を出さないが、肩の線が固い。

 

(……今の、嫌な顔)

 

 一瞬、違和感がよぎる。

 だが、フィンがログ用紙をめくる音が、その感覚を紙の向こうへ押し戻した。

 

 リュシアが短く頷く。

 口は開かない。それでも、その立ち位置だけで「ここにいる」と示していた。

 

 次の瞬間──空気が冷えた。

 

 風向きは変わっていない。

 けれど、肌に触れる空気の温度だけが、一段、落ちたように感じられた。

 

「……寒い?」

 

 フィンが腕をさする。

 

 波の揺れが、さらに揃う。

 凪いだのではない。

 決められた通りに揺れさせられているような、奇妙な規則正しさだ。

 

 そして、船が──嘘みたいに進み始めた。

 

「おい、舵を切ってねえぞ!」

 

 カイが舵輪を掴んだまま叫ぶ。

 力を込めて回そうとするが、舵の手応えがいつもと違う。

 

 帆をいじっていない。風を受ける角度も変えていない。

 それなのに、船体が前へ滑っていく。

 波の方が、船を押している。

 

 帝都船の周囲の水面が、わずかに色を変えた。

 深い藍色の筋が、舳先から尾を引いている。

 

(これが──“必要な措置”?)

 

 シュアラは震える手で数字を足した。

 速度、位置、波の状態。

 

 紙の上の記録だけを見れば、まだ「好転」と書けてしまう。

 

 そのあいだに。

 

 帝都船の甲板の中央で、リリーシアが立っていた。

 

 遠くて、顔までは見えない。

 ただ、首元の金具と、背中の刻印のあたりが、ときおり、うっすらと光るのが見えた。

 

 光るたびに、海が揺れを合わせる。

 波の山がひとつ消え、別の場所に新しい山が立つ。

 

「出力は安定しています」

 

 リュシアの報告が、風に乗って届いた。

 

「数値上、問題はありません」

 

 その声を聞いて、海務院士官たちはほっと息をついたように見えた。

 

「よし。このまま第二便を完遂する」

 

「比較ログが“揃い”ますな」

 

 彼らの視線は、数字と線と海図に注がれている。

 

 シュアラもまた、ログ用紙に目を落としていた。

 

 第一便との違いを書き込む。

 潮目のズレ。出航時刻の変化。測定方法の変更。

 緊急措置発動の時刻と、その後の速度の跳ね上がり。

 

(ここまで揃えておけば、あとで“公平じゃなかった”って、紙の上で言える)

 

 その確信が、逆に視界を狭めた。

 紙の上の数字だけが、はっきりと見える。

 そのぶん、甲板の向こうの白い影が、視界の端から滑り落ちていく。

 

 カイは操船と部下の安全で手一杯だった。

 「何かあれば舵で殺す」と、半ば本能で動いている。

 

 フィンは記録で両手が塞がっている。

 ペンを走らせ続けなければ、今起きていることが紙の上から零れ落ちる。

 

 海務院の士官たちは、シュアラ案を「失敗」と記録する段取りを頭の中で組み立て始めていた。

 どの項目なら「悪く見せられるか」を考えている。

 

 そのあいだに──。

 

 リリーシアの呼吸は、確実に乱れていった。

 

 胸の上下が、波と合わない。

 視線が、人の方を向いていない。

 口元が、何かを呟いては飲み込むように、かすかに動き続けている。

 

 だが、その様子を今見ている者はいない。

 

 帝都船の護衛は、周囲の海と揺れに意識を向けている。

 マリーハイツとヴァルムの船からは、彼女の表情までは読み取れない。

 

 誰も、今は気づけなかった。

 

*

 

 揃いすぎた海が、次にどう変わるかを知っている者も、まだいない。

 

 波の山が、一つ一つ、張りつめた膜のように固くなる。

 船底に吸い付くように、進行方向を絡め取る。

 

「……おかしい。さっきまで滑ってたのに、急に重くなった」

 

 舵輪を握るカイの腕に、妙な抵抗がかかる。

 海は穏やかに見える。風も、さほど強くなってはいない。

 

 それなのに、船は進まない。

 

「速度、低下。遅延──」

 

 フィンのペン先が、紙の上で止まった。

 

「これ、もう“微少”じゃ済まねえだろ」

 

「基準上は、まだ──」

 

 口を挟もうとした士官を、シュアラは睨んだ。

 

「基準そのものが、壊れかけています」

 

 いつもより一段低い声が出た。

 

 帝都船から、また声が飛んでくる。

 

「この海域での停滞は、比較対象として不適切です」

 

 誰かがそう言った。

 どの士官の声なのかはっきりしない。

 ただ、言い回しだけが、やけに事務的だった。

 

「これがあなたの案の結果です、文官殿」

 

 風に運ばれてくるその言葉だけが、鮮明だった。

 胸の奥に刺さる。

 

 シュアラは、喉の奥に溜まったものを飲み込む。

 舌の上に、鉄の味が広がった。

 

(違う)

 

 本当は今すぐ言い返したい。

 

 条件を揃えていないこと。

 計測方法を途中で変えたこと。

 「緊急措置」とやらを誰が、いつ、どの段取りで発動させたのか分からないまま、「比較」と呼んでいること。

 

 その全部を、海図とログ用紙で叩きつけたい。

 

 けれど、船がきしむ音の方が、その衝動よりも大きかった。

 

 板が鳴る。

 帆がきしむ。

 船体を支える音の全てが、「今は生き延びろ」と訴えている。

 

「舵、利かねえ!」

 

 カイが舵輪を両手で握りしめ、短く叫んだ。

 力を込めても、舵輪は粘つくように重い。

 

「波が──掴んでやがる!」

 

 船底の下で、何かがざわついた。

 

 波の音でも、潮の流れでもない。

 ざわ、ざわ、と。

 紙束を乱暴にめくるときのような音が、木板越しに足裏へ伝わってくる。

 

 フィンがペンを握ったまま、足元の板を見つめた。

 

「……何だ、これ」

 

 ペン先が微かに震える。

 

 ログ用紙には、まだ書かれていない行が残っている。

 それなのに、その枠の向こう側で、誰か別の手が勝手に数字を埋め始めているような感覚だった。

 

 船の周囲の海面に、黒い影が浮かぶ。

 

 魚の群れでも、岩礁でもない。

 濃い影がいくつも、一定の間隔を保ちながら円を描くように並び始めた。

 

 漁師が舷側から身を乗り出し、水面を覗き込む。

 

「おい、魚が──」

 

 そこで言葉が途切れた。顔色が変わる。

 

「……いねえ」

 

 影の内側には、何もいなかった。

 水はある。

 ただ、“生き物の気配”だけが、ごっそりと抜け落ちている。

 

 リリーシアの首の金具が、遠目にも分かるほど強く光る。

 

 背中の刻印が、その光に応えるように淡い線を描く。

 そのたび、遠くの水平線の向こうで、黒い雲の壁がじわじわと厚みを増していった。

 

(今、振り向けば──)

 

 シュアラは、一瞬だけそんな予感に背中を引かれた。

 

 帝都船の甲板の上。

 白い衣の少女の姿。

 その足元を取り巻く、見えない何か。

 

 だが、次の瞬間、ログ用紙の上にインクが一滴こぼれた。

 

 フィンが思わず声を上げる。

 

「あっ」

 

 慌てて布を取り出し、にじみかけた数字の列を押さえる。

 

「すみません、今の──」

 

 シュアラは首を横に振った。

 

「大丈夫です」

 

 一拍置いて、にじんだインクを見つめる。

 

「……ここで、汚れたままにしておきましょう」

 

 自分で言って、自分の喉がきゅっと締まる。

 

(綺麗なログなんて、もうどこにもない)

 

 海は、勝手に自分の「順番」を作り始めている。

 

 誰を沈めるか。

 誰を先に、誰を後に。

 

 それを、紙の上ではなく、海の底で決めようとしていた。

 

 船底から伝わる「ざわざわ」が、一段と強くなる。

 

 枠からこぼれた数字たちが、どこか別の場所で並べ替えられていく。

 

 シュアラは、青い航路帳を強く抱きしめた。

 ページの端が、指先でくしゃりと折れる。

 

(まだ──まだ、紙から奪い返せる)

 

 そう思い込もうとした、そのとき。

 

 水平線の向こうの黒い雲が、雷の白を一本吐き出した。

 

 雷鳴が遅れて海を叩く。

 揃っていた波の列が、今度は別の規則で崩れ始めた。

 

 帳簿の外側で、海が「沈む順番」を並べ替える音だけが、確かに聞こえている。

 

 そして、シュアラは気づいていなかった。

 紙の上で「証拠」を揃えることに必死になっているあいだに、

 白い衣の少女が、今まさに壊れかけていることに。

 

 青い航路帳の上に、一滴だけ海水が落ちた。

 インクが、わずかに滲む。

 

(……見逃した)

 

 その自覚だけが、冷たく胸の底へ沈んでいった。

 

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