死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します   作:来巻梓

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出来レースの果てに

 波が変わった。

 

 さっきまで同じ高さ、同じ間隔で押し寄せていた波の山が、急に乱れ始める。止められていたものが、糸を切られたみたいに暴れだす。作られた"整い"が崩れる瞬間は、帳簿の数字が訂正線一本で一気に意味を変えるのに似ていた。どれだけ綺麗に並べられていても、一本の線で全部が「誤り」になる。

 

 シュアラは記録用紙を抱えながら、帝都船の方を見た。

 

 リリーシアの首の金具が、異常に強く光っている。

 

 さっきまでの淡い青白さじゃない。目を焼くような、鋭い光。瞼の裏に残像が焼き付いて、瞬きをしても消えない。リュシアが何かを叫んでいる。声が風に潰されて届かないが、口の開き方が尋常じゃない。唇が震えているのが、ここからでも見える。

 

 カイが舵輪を握りながら叫んだ。

 

「全員つかまれ!港まで持ちこたえろ!」

 

 次の瞬間、船が大きく跳ねた。

 

 甲板の端で、零札の一人が欄干にしがみつく。膝が折れ、肘だけで体重を支える。服が濡れて重くなり、身体が欄干の外に引きずられそうになっている。

 

「またかよ……」

 

 掠れた声が、風に混じる。海水を飲んだせいか、喉の奥で何かが引っかかったような音だ。

 

「俺たちゃまた、誰かのために命の価値を比べられるってのか」

 

 別の零札が、甲板に座り込んだまま怒鳴る。両手で板を掴んでいるのに、指が滑っている。爪が板の目地に食い込んで、小さな白い線が残る。

 

「帝都のせいだ!あいつらが変なことしたから──」

 

 さらに別の零札が、空を仰いで叫んだ。声が裏返って、悲鳴と怒鳴りの中間のような音になる。

 

「俺のせいじゃねぇ!運命が悪いってんだ!!神様よぉ……俺が、ぉれたちがなにをしたっていいやがんだ!!」

 

 声が重なる。怒りと諦めと、何にも向かわない叫びが、波音に呑まれていく。答えのない問いが、海の上に投げ出されて、そのまま沈んでいく。シュアラの胸の奥が、冷たい水で満たされていくような感覚があった。

 

 フィンが記録用紙を落としそうになった。

 

 シュアラが咄嗟に手を伸ばし、紙の端を掴む。海水と手汗で、紙が指に貼りつく。濡れた紙の冷たさと、手のひらの熱さが混ざって、妙に生々しい感触が残る。

 

「これもう、無理だろ……死人文官さん……」

 

 フィンの声が裏返っている。いつもの軽口が消えて、喉の奥から絞り出すような音だけが残っている。

 

「俺たち、化け物にやられるんだ……海の、藻屑に……」

 

 笑った。

 

「ハハッ、いやぁ、うん……短い、人生だったなぁ、俺……」

 

 声は笑っているのに、目が笑っていない。涙が頬を伝っているのに、本人は気づいていない。その涙が顎のラインに沿って流れ、首元で服に吸い込まれていく。海水か涙か、もう区別がつかない。

 

 シュアラは記録用紙を胸に押し当てた。紙越しに心臓の鼓動が伝わる。濡れた紙が肌に貼りつき、呼吸のたびにわずかに動く。

 

「持たせます」

 

 自分の声も震えている。それでも言葉を押し出す。喉の奥がカラカラに乾いているのに、唇だけは海水で濡れている。その不均衡が、妙に気持ち悪い。

 

「港まで、持たせます」

 

 フィンは何も言い返さなかった。ただ、甲板の手すりを握る手が真っ白になっている。血が引いているのか、力を込めすぎているのか。指の関節が板に食い込んで、爪の根元が青白く見える。

 

 帝都船から、リュシアの悲鳴が届いた。

 

「出力が異常です!止まりません!基準値の三倍を超えています!」

 

 声が完全に裏返っている。いつもの冷静な技術者の声じゃない。子どもが助けを求めるときの、裏返った悲鳴だ。

 

「こんな数値、見たことない……!」

 

 シュアラの胸が冷える。

 

(私が、この航海を提案した)

 

 記録用紙を抱く手に力が入る。爪が紙に食い込む。濡れた紙が少し破れて、その小さな裂け目から、インクが滲み始める。数字が崩れていく。でも、手を緩められない。

 

(第一便で気づくべきだった。何かがおかしいと)

 

 紙を見ることに集中しすぎた。数字を追うことに必死すぎた。リリーシアの顔色が悪くなっていくのを、見ていたはずなのに。首の金具が光り始めたのを、知っていたはずなのに。

 

(人を、見ていなかった)

 

 父の死の時と同じだ。あの時も、帳簿と紙に向かっていた。父の顔を見る時間より、数字を見る時間の方が長かった。そして、父は死んだ。今度は、誰が死ぬ?

 

 フィンが指を差した。手が震えている。指先まで震えが伝わって、指差す方向すら定まらない。

 

「死人文官さん、あれ──」

 

 港の方角。

 

 波が、港の防波堤を越えている。

 

 桟橋に停泊していた小型船が横転し、積荷が海に投げ出される。木箱が割れて、中身が海に散らばる。魚か、塩か、見分けがつかない。倉庫の屋根が波に叩かれ、瓦が飛ぶ。空中で瓦が一枚、二枚と回転して、海に落ちていく。その軌跡が、妙にゆっくりと見える。

 

「港が……襲われてる……」

 

 シュアラの声が、自分のものに聞こえない。喉の奥で言葉が引っかかって、出てくるまでに形が崩れている。

 

(父の時と同じだ)

 

 胸の奥が、冷たい水で満たされていく。肺の中に水が入り込んでいくみたいに、呼吸が浅くなる。

 

(私のせいで、誰かが──)

 

 

*

 

 

 船が何とか港に辿り着いた時、そこはもう仕事場じゃなかった。

 

 匂いが先に殴ってくる。潮。血。消毒薬。吐瀉物。濡れ木の甘い腐りかけ。焦げた油。魚の内臓。それらが全部混ざって、鼻腔の奥に張り付く。息を吸うたびに、その匂いが肺の奥まで入り込んでくる。吐き気が喉の奥まで上がってくるのを、何とか飲み込む。

 

 怒鳴り声と泣き声と指示の声が、同じ高さで空気を叩く。耳の奥で、いくつもの音が重なって、一つ一つの言葉が判別できない。ただ、混沌だけが伝わってくる。

 

「こっちだ、頭打ってる!意識がねえ!」

 

「生きてるやつ優先しろ!死体は後回しだ!」

 

「死んでねえ!まだ息がある!」

 

「じゃあそっち運べ!早く!」

 

 桟橋の一部が崩れている。防波堤の石積みが崩れ、倉庫の壁に亀裂が走っている。その亀裂の一本一本が、まるで帳簿に引かれた訂正線のように見える。間違いを消すための線。でも、ここで消されるのは、建物じゃない。人だ。

 

 港湾労働者や漁師が倒れている。血と海水が混ざった水たまりが、あちこちに広がっている。その水たまりに、夕日が反射して、赤黒く光っている。血の色か、海水の色か、もう区別がつかない。

 

 シュアラが桟橋に足を踏み入れた瞬間、横を担架が駆け抜けた。

 

「通る!邪魔だ!」

 

 布が赤黒く染まっている。腕がだらりと垂れて、指先から水が滴る。その滴る音が、やけに大きく聞こえる。ぽた、ぽた、と規則的な音。心臓の鼓動と同じリズム。生きている証拠なのか、それとも死んでいく音なのか。

 

 足元の板が濡れて滑る。

 

 シュアラは記録用紙を抱えたまま、何とかバランスを保った。靴底が板の上を滑り、一瞬だけ体重が浮く。転びそうになって、咄嗟に記録用紙を胸に抱き寄せる。紙を守ることが、身体より先に来る。その自分の反応が、少し怖い。

 

 視界の端で、子どもが泣いている。母親を探しているようだ。小さな手を伸ばして、誰かの袖を引っ張っている。でも、誰も答えない。みんな、自分のことで精一杯だ。

 

(私が、この航海を通した)

 

 膝がガクガクと震える。立っているのが精一杯。地面が波打っているみたいに感じる。船から降りたはずなのに、まだ揺れている。

 

(私が、比較検証を提案した)

 

 記録用紙を抱く手が震える。紙がかすかに音を立てる。乾いた音。生きている音じゃない。

 

(私のせいで──)

 

 零札の一人が、桟橋に座り込んだまま動かない。両手で頭を抱えて、膝に顔を埋めている。肩が小刻みに震えている。

 

「もう嫌だ……もう船には乗らない……」

 

 声が、嗚咽と混ざって聞き取りにくい。でも、その絶望だけは、はっきりと伝わってくる。

 

 別の零札が怒鳴る。喉が枯れているのか、声が割れている。

 

「誰のせいだ!誰が俺たちをこんな目に!」

 

 港湾労働者が怒鳴り返す。血の混じった唾が飛ぶ。

 

「お前らを乗せたせいで、港がこうなったんだろうが!」

 

「俺たちだって被害者だ!帝都が──文官が──」

 

 責任のなすりつけ合い。怒りが、誰にも刺さらないまま宙を飛ぶ。標的のない怒りは、結局、一番近くにいる誰かに向かう。そして、その誰かもまた、別の誰かに怒りを向ける。連鎖していく。止まらない。

 

 フィンがシュアラの袖を引いた。その手も震えている。

 

「死人文官さん、記録は──もう、諦めた方が……」

 

 声が震えている。目が泳いでいる。瞳孔が開いて、焦点が合っていない。恐怖で、正常な判断ができなくなっている。

 

「こんなの、残したって、誰も読まないって……帝都が握り潰すだけだ……」

 

「俺たち、ここで殺されるかもしれない……記録より、逃げた方が……」

 

 フィンの本音が、隠しきれずに漏れている。生き延びたい。その本能が、理性を押しのけようとしている。でも言えない。臆病者と思われたくない。その矛盾が、声を震わせている。

 

 シュアラは濡れた記録用紙を抱きしめた。紙が冷たい。身体の熱を吸い取っていくみたいに冷たい。

 

「守ります」

 

 海水とインクが混ざって滲んでいる。文字の輪郭が崩れて、何が書いてあるのか読みにくくなっている。でも、まだ読める。まだ、証拠として機能する。

 

「これが、今起きたことの証拠です」

 

 本当は自分も怖い。自分も逃げ出したい。膝が震えて、今にも崩れ落ちそうだ。でも、記録を手放したら、全部が無駄になる。この港の人たちが、ただの「数字」になる。名前のない、顔のない、「想定損耗枠」になる。

 

 それだけは、嫌だった。

 

 カイが帝都船の方を睨んだ。その目は、いつもの穏やかさが消えて、戦場にいる時の目だ。獲物を捉える、鋭い目。

 

「あいつを止めないと、港が全滅する」

 

 リリーシアの金具がまだ光っている。その光が、波に反射して、海全体が青白く光っているように見える。海が呼応するように波打つ。リズムのない波。自然じゃない波。

 

 カイの拳が、舷側を強く握る。木が軋む音がした。その音が、シュアラの耳に妙に大きく響く。

 

「……俺が、行く」

 

 小さく、でも確かに。その声には、迷いがなかった。

 

 混乱の中、海務院の若い士官が現れた。制服は濡れて、肩章が重そうに垂れ下がっている。でも、声だけは官僚的な冷静さを保っている。

 

「記録は帝都で責任をもって検証します。町側は負傷者の対応を」

 

 その言葉が、シュアラの胸に刺さった。

 

(また、帳簿を奪われる)

 

 シュアラは濡れた記録用紙を抱えたまま、士官の前に立ちはだかった。身体が勝手に動いた。頭で考えるより先に、足が動いた。

 

(ここで引き下がったら、全部が無駄になる)

 

 膝が震える。でも、足は動かない。地面に根を張ったみたいに、動けない。

 

(私のせいで、こんなことになった。なら、私が──)

 

「私は午前中の覚書に署名した文官です。町側にも記録を見る権利があります」

 

 声が震えている。でも引かない。喉の奥がカラカラに乾いているのに、言葉だけは出てくる。

 

 士官が眉をひそめた。その眉の動きが、やけにゆっくりと見える。

 

「それは後ほど適切に──」

 

「後ほど、では遅いんです」

 

 シュアラは記録用紙を抱く手に力を込めた。爪が紙に食い込む。少し破れる音がした。でも、止められない。

 

「今、ここで、何が起きたのかを明らかにしてください」

 

 手が真っ白になるほど、力が入っている。血が引いて、感覚が鈍くなっている。でも、手を緩めたら、何もかもが崩れる気がした。

 

 リュシアが現れた。

 

 顔色が悪い。土気色、と言ってもいい。頬が痩けて見える。手が震えている。その震えが、持っている命令書にも伝わって、紙がかすかに音を立てている。

 

「少技士として、この場での開示権限があります」

 

 若い士官が制止しようとするが、リュシアは振り切った。封を切る音が、やけに大きく響いた。蝋が砕ける音。固いものが壊れる音。

 

 命令書を読み上げる。

 

 読み上げながら、リュシア自身が内容に気づいていく。その表情の変化が、痛々しい。目が見開かれ、唇が震え、顔から血の気が引いていく。

 

「これ……私、知らなかった……」

 

 小さく呟く。その声は、誰に向けたものでもない。自分に言い聞かせているような、独り言だ。

 

「第一便と第二便で、条件が……違う……?」

 

 自分が「嵌められた側」だったことに、今、気づく。利用されていたことに、今、気づく。その気づきが、彼女の中で何かを壊していく。

 

 条文の内容は、シュアラの予想通りだった。いや、予想以上に酷かった。

 

 第一便:ログ基準厳守。比較のための"きれいな数字"最優先。

 

 第二便:安全最優先として、「現場判断で基準を緩めてよい」。

 

 条項七:「必要と判断した場合、深海契約の出力増幅を許可。零札および刑徒の想定損耗枠は規定範囲内で調整してよい」

 

 想定損耗枠。

 

 人の命を、予算の誤差として処理する言葉。帳簿の上で、「±○名」と書かれる数字。その「○」の中に、誰かの顔がある。誰かの名前がある。誰かの人生がある。それを、「枠」と呼ぶ。

 

 シュアラの喉が、乾いた音を立てた。唾を飲み込もうとしたが、喉が引っかかって、うまく飲み込めない。

 

「第一便は"勝たせる側"として綺麗な数字を揃えた」

 

 記録用紙を握る手が震える。その震えが、腕を伝って、肩まで伝わっていく。全身が震えそうになるのを、歯を食いしばって堪える。

 

「第二便は"壊してもいい側"として基準を動かし、深海契約まで使った」

 

 周囲の港の人々がざわめく。その声が、波のように押し寄せてくる。

 

「そのうえで『帝都案が優れている』と書くつもりだったんですね」

 

 怒りの声が上がり始める。

 

「帝都のせいか!」

 

「零札のせいじゃなかったのか!」

 

「誰のせいなんだ!」

 

 声が重なって、一つの怒りの塊になる。その怒りが、行き場を探して、空気の中を渦巻いている。

 

 リュシアが膝から崩れ落ちた。命令書が手から滑り落ち、地面に落ちる。紙が濡れた地面に触れて、インクが滲み始める。でも、リュシアはそれを拾おうともしない。

 

「私……知らなかった……私、ただ数字を……」

 

 涙が頬を伝う。十三歳の子どもの顔。技術者の仮面が剥がれて、下から子どもの顔が出てくる。

 

「出力を上げろって言われて、私、ただ……」

 

 その声が、泣き声に変わっていく。言葉が崩れて、嗚咽だけが残る。

 

 帝都船の甲板から、低い笑い声が響いた。

 

 リリーシアの喉から。でも、それはリリーシアの声じゃない。

 

「カッカッカッ……懲りんのぅ、帝都の連中は」

 

 老人の声。海の底から響いてくるような、低い声。

 

「ワシの器を鎖で繋いだまま、海まで数字で縛ろうとはな」

 

 リリーシアの金具が、さらに強く光る。その光が、脈打つように強くなったり弱くなったりする。心臓の鼓動と同じリズム。でも、それはリリーシアの心臓じゃない。

 

「沈むのが港だけと思うなよ、小娘。この鎖ごと沈めてしもうたら、ワシらはようやく自由じゃ」

 

 海が再び波打ち始めた。

 

 港の人々が悲鳴を上げる。その悲鳴が、さっきより大きい。恐怖が、限界を超えている。

 

「また来る!逃げろ!」

 

 カイが立ち上がった。

 

 その動きが、混乱の中でも鋭く際立った。周囲の喧騒が一瞬だけ遠のく。空気が変わる。戦場に立つ男の、気配。

 

「このままじゃ、港が全滅する」

 

 部下たちに指示を飛ばす。その声は、いつもの穏やかさが消えて、戦場の指揮官の声だ。

 

「住民を高台に避難させろ。港から離れさせろ」

 

 部下の一人が声を上げた。その声は、恐怖で裏返っている。

 

「団長、あの化け物と戦うんですか!」

 

「俺がやらなきゃ、誰がやる」

 

 迷いがない。恐怖もない。ただ、やるべきことをやる顔。その顔を見て、部下たちは何も言えなくなった。

 

 シュアラが声を絞り出した。喉の奥が締め付けられて、声が出ない。でも、何か言わなければ。

 

「団長、リリーシアを──」

 

 声が裏返る。その声は、頼むような声か、謝るような声か、自分でも分からない。

 

 カイが振り返った。その目は、優しかった。いつもの、穏やかな目。でも、その奥に、覚悟が見える。

 

「分かってる。止める」

 

(私のせいで、団長を危険に晒す)

 

 シュアラの胸が締め付けられる。肋骨が内側から押されて、呼吸ができない。

 

(私が、この航海を通した)

 

 記録用紙を抱く手が震える。紙が音を立てる。その音が、責める声に聞こえる。

 

(せめて、団長が命を懸けたことを、紙に残す)

 

(それが、私にできる唯一のこと)

 

 フィンが、カイの背中を見ている。その目は、憧れと恐怖が混ざっている。

 

「止めるんじゃない。殺すのか?」

 

 震える声で問う。自分も怖い。でも問わずにいられない。答えが怖いのに、聞かずにいられない。

 

 カイが答えた。その声は、静かだった。

 

「止める。それ以外は考えない」

 

「でも、もし──もし、団長が負けたら──」

 

 カイが一瞬だけ足を止めた。その一瞬が、やけに長く感じられた。

 

「もし、はねえ」

 

 それだけ言って、走り出した。

 

 フィンは何も言い返せなかった。自分の臆病さが、余計に惨めに感じる。団長は戦いに行くのに、自分は何もできない。その無力感が、拳を握らせる。

 

(俺は、何もできない。怖がることしかできない)

 

(団長は戦いに行くのに、俺は……)

 

 拳を握る。爪が掌に食い込む。その痛みで、少しだけ現実に戻ってくる。

 

 リュシアが青ざめた顔で言った。涙の跡が、頬に筋を作っている。

 

「出力が下がりません。このままでは、(リリーシア)が壊れます」

 

「深海契約を強制切断すれば──でも、私、やり方が──」

 

 海務院士官が制止する。その声は、官僚的な冷たさを保っている。

 

「それは禁止されている!器の損傷リスクが──」

 

 リュシアが叫んだ。その叫びは、今まで溜め込んでいた全てが爆発したような、激しい叫びだ。

 

「じゃあどうすればいいんですか!このまま港を沈めるんですか!」

 

 初めて、感情を剥き出しにする。技術者の仮面が、完全に剥がれ落ちる。

 

 その時、カイは既に走り出していた。

 

 港湾詰所へ。人々を避けながら、担架を避けながら、まっすぐに。

 

 扉を開ける。

 

 壁に立てかけられた剣。

 

 掴む。

 

 重い。昔より、ずっと重く感じる。三年間、実戦で使っていなかった剣。でも、手に馴染む。身体が覚えている。

 

 鞘を腰に差す。その動作が、驚くほど自然だった。身体が覚えている、あの感覚。戦場の、あの日々を。血と泥と鉄の匂いがする日々を。

 

「……行くぞ」

 

 誰にともなく呟き、カイは詰所を出た。港の桟橋を駆ける。

 

 冷たい夜風が頬を撫でる。その冷たさが、頭を冷やしてくれる。月が海を照らしている。その月光が、波に反射して、海全体が銀色に光っている。

 

 帝都船の甲板に、少女の姿が見える。

 

 リリーシアだ。でも、あれはもう彼女じゃない。身体はリリーシアでも、中身は違う。首の金具が異常に光っている。その光が、少女の顔を青白く照らしている。

 

 甲板に立つリリーシアの周囲では、波が渦を巻いている。その波が、ゆっくりと膨れ上がっていく。高さは十メートルを超えた。いや、まだ膨らんでいる。十五メートル、二十メートル。空を覆うほどの、巨大な波。

 

 あれが落ちれば、港は壊滅する。建物も、人も、全てが海に呑まれる。

 

「……港を、沈める」

 

 少女の声が、夜の空気を震わせた。その声は、リリーシアの声のはずなのに、違う何かが混ざっている。老人の声と、少女の声が、同時に重なっている。

 

 港から悲鳴が上がる。

 

「逃げろ!!」

 

「波が来る!」

 

 シュアラが詰所の扉を握りしめる。その顔は、恐怖で引きつっている。フィンが立ち尽くす。港の人々が逃げ惑う。でも、どこに逃げればいい?

 あの波から、逃げられる場所なんてない。

 

 カイは桟橋の縁を蹴った。

 

 宙に浮く。帝都船の手すりを掴み、勢いのまま甲板に飛び乗る。着地の衝撃が足の裏から全身に伝わる。

 

 リリーシアが振り向いた。

 

 瞳は深海の色だった。青でも緑でもない、深海の藍色。光を吸い込む色。

 

「……お前は」

 

 カイは答えず、腰の剣に手をかけた。

 

 鞘から刃を引き抜く音が、波音を切り裂く。その音は、冷たく、鋭い。殺気を帯びた音。

 

 月光が刃を弾き、銀色の光が甲板に広がった。その光が、波に反射して、海全体が光っているように見える。

 

 リリーシアが手を上げる。

 

 波が動いた。

 

 港へ向かって。人々へ向かって。

 

 カイが一歩踏み込んだ。

 

 剣が閃く。

 

 波が、音もなく真っ二つに割れた。割れた水の壁が左右に流れ、港の両脇へ落ちていく。建物の屋根を避け、人々の頭上を避け、ただ海へ戻っていく。水しぶきが霧のように舞い上がり、月光を浴びて一瞬だけ虹を作った。

 

 港が静まり返った。

 

 誰かが叫んだ。

 

「止めた……!!」

 

「団長が波を止めた!」

 

 どよめきが広がり、歓声が上がる。人々の声が重なって、港全体が揺れるほどの歓声になる。

 

 シュアラは詰所の扉を握ったまま、カイを見ている。目が涙で濡れている。でも流さない。ただ唇を噛んで、カイを見つめている。

 

 フィンは口を開けたまま動けない。呆然とカイを見ている。

 

 カイは息を吐いた。

 

 剣を下ろさない。手がわずかに震えている。

 

(まだ、終わらない)

 

 リリーシアがカイを見た。瞳はまだ深海の色だ。

 

「……お前、何者だ」

 

 カイは答えず、剣を構え直す。

 

 リリーシアの唇が歪んだ。笑う。声が老人のものに変わる。

 

「面白い」

 

 海が唸る。空気が震え、甲板の板がかすかに震える。

 

 波が立ち上がる。さっきの倍。いや、三倍。それ以上。空を覆う黒い壁。月を隠し、星を隠し、世界が暗闇に呑まれる。

 

 港から再び悲鳴。

 

「嘘だろ……」

 

「まだ来るのか……!」

 

 シュアラは詰所の扉を握る。手が白くなるほど力が入っている。フィンは膝から力が抜けそうになるのを、何とか堪える。

 

 カイは剣を両手で構えた。息が上がっている。肩で息をしている。久々の実戦で身体が悲鳴を上げている。でも止まれない。

 

(来い)

 

 波が押し寄せる。

 

 港へ。

 

 カイへ。

 

 全てを呑み込もうとする波。

 

 リリーシアの唇がわずかに動いた。

 

「……や、めて……」

 

 誰にも聞こえない声。風に消されそうな小さな声。でもカイは聞き取った。

 

「リリーシア──」

 

 次の瞬間、波がカイを呑み込んだ。

 

 港から悲鳴が上がる。

 

「団長!!」

 

「団長ーーーっ!!」

 

 波が帝都船を覆い、甲板全体を呑み込む。船が大きく揺れ、マストが悲鳴を上げる。甲板が見えない。カイの姿が見えない。ただ、波だけが暴れている。

 

 海が暴れている。港が揺れている。

 

 シュアラは記録用紙を抱きしめた。濡れて重くなった紙。これが唯一残せるもの。唯一、証拠として残るもの。手を離さない。

 

 フィンは拳を握った。爪が掌に食い込んで血が滲む。痛みを感じない。ただ、拳を握り続ける。

 

 リュシアは両手を組んだ。祈るように。でも神は答えない。波だけが暴れている。

 

 零札たちは呆然と見ている。何もできない。ただ見ている。何もできない自分たちを、恨むように。

 

 夜の海に、波の音だけが響く。

 

 カイの姿は、見えない。

 

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