死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します   作:来巻梓

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判決

 朝の港は、潮の匂いより先に、壊れたものの匂いがした。

 

 濡れた木材。裂けた網。ひっくり返った樽から流れ出た油。海水を吸った麻袋。防波堤の欠けた石。冬を越すために積み上げていた備えが、海にいちど噛み砕かれたあとみたいに、そこかしこへ散っている。

 

 死者は出なかった。

 

 それでも、助かった、の一言で畳める朝ではなかった。

 

 担架はいまも行き来している。頭を打った者、腕を折った者、瓦礫の下敷きになって足を痛めた者。命は繋がっていても、明日からの暮らしまで無傷で済んだわけではない。割れた舟底も、流された保存食も、崩れた倉庫の壁も、ぜんぶ冬の帳尻へそのまま乗ってくる。

 

 シュアラは、冷えた指先を袖の内で握った。

 

 数える。

 

 数えなければ、ただ圧に呑まれる。

 

 崩れた防波堤、南側が三間ぶん。小型漁船、横転二、半壊三。塩漬け魚の樽、流失十七。網、破損多数。荷揚げ場の板材、交換必須。怪我人、いま見えるだけで二十を超える。数字に直したところで軽くはならない。だが、数字にしなければ取り返せない。

 

「……まだ増えそうですか」

 

 横でフィンが、小声で言った。

 

「物損は、はい。人は……これ以上増やしたくありません」

 

 答えながら、視線を前へ戻す。

 

 被害地区の広場だった。荷車をどけて空けた場所に、人が集められている。漁師、網元、荷運び、倉庫番、家族連れ。泣いている子どももいれば、腕を組んだまま黙っている老人もいる。怒鳴る気力もなく、唇だけきつく結んでいる顔がいちばん多かった。

 

 その正面に、リュシアが立っていた。

 

 まだ十三の、小柄な子どもだった。

 

 昨夜の広場で腕の中にリリーシアを抱いたあとの姿を、シュアラは見ている。背筋を伸ばそうとしている。だが、膝がわずかに内側へ入り、肩は冷えた鳥みたいにすぼまっている。顔色は白いというより、色が抜けていた。

 

 それでも逃がさなかったのは、シュアラだ。

 

 ここで隠したら、帝都がいちばん楽をする。

 

 死んだことにする。見えないところへ下げる。書類のどこかへ移す。そういう終わらせ方を、もう一度だけ許したら、あの夜に戻ってきたものまで帳簿の底へ沈む。

 

 だから立たせた。

 

 ここへ。

 

 カイは、リュシアの斜め前にいた。半歩だけ前だ。いざという時に割って入れる距離を、最初から測って立っている。

 

 その背中を見ていると、胸の奥の冷えが少しだけ均された。

 

 シュアラはひとつ息を吸った。

 

「始めます」

 

 大きく張った声ではない。

 

 だが、人のざわめきは薄く引いた。

 

 視線が集まる。

 

 広場の真ん中で、リュシアの喉が小さく動いた。

 

「……帝国海務院、海洋魔導計算局少技士、リュシア・フォン・クラウゼです」

 

 最初の一文だけで、群衆の温度が落ちる。落ちたぶんだけ、次の怒りは冷えた。

 

 誰かが鼻で笑った。

 

「ご立派な肩書きだな」

 

 別の誰かが吐き捨てる。

 

「うちの倉庫をぶっ壊したのも、その計算様か」

 

 リュシアの睫毛が震えた。

 

 それでも、逃げなかった。

 

「……昨日の航海、および深海契約の強制出力増幅によって、マリーハイツ港に重大な損害を発生させました」

 

 声は細い。だが、途中で言い換えなかったのは偉い、とシュアラは思った。事故ではなく損害。発生した、ではなく発生させた。主語を曖昧にしない。その一点だけで、帝都の書類よりずっとましだった。

 

「わたしの判断と、わたしの計算と、わたしの沈黙で……人を傷つけました。申し訳、ありませんでした」

 

 頭が下がる。

 

 綺麗ではない。途中で息が詰まり、最後の「でした」がひどく掠れた。

 

 その不格好さに、逆に何人かが息を呑んだ。

 

 だが、すぐに別の声が重なる。

 

「申し訳ありませんで、網が戻るのかよ!」

「うちの弟、まだ立てねえんだぞ!」

「謝って済むなら、海なんかいらねえ!」

 

 一つ怒鳴り声が上がれば、あとは早かった。

 

 言葉が次々に飛ぶ。家が傾いた。稼ぎが消えた。舟が駄目になった。娘が泣き止まない。冬をどう越す。誰が払う。誰の責任だ。

 

 どれも正しかった。

 

 シュアラは、言葉の一本一本を否定しない。否定できない。昨夜の波が持っていったものの重さを、帳簿上の都合で軽く見積もる気はなかった。

 

 その中で、女の声がひとつ、ほかより低く刺さった。

 

「うちの亭主、まだ起きねえんだよ」

 

 人垣の前から、三十代半ばほどの女が一歩出る。腕の中に、小さな上衣を抱えていた。子どものものだ。泥と塩で汚れている。

 

「舟は割れた。倉庫もやられた。息子は昨夜から熱出してる。あんたが頭下げたら、それで今日から飯が湧くのかい」

 

 リュシアが言葉を失う。

 

 数字では切れる。だが、目の前に出されたのは帳面の項目ではなく、乾いていない生活そのものだった。

 

 誰かの足元で、小石が鳴った。

 

 嫌な音だった。

 

 誰かが靴先で押し出した、小さな石。最初はそれだけだ。

 

 だが、人間は最初の一つが飛ぶと、次を出しやすくなる。

 

「待ってください」

 

 シュアラが口を開くより速く、石が飛んだ。

 

 一直線に、リュシアの額を狙った軌道だった。

 

 その前へ、カイが出る。

 

 鈍い音。

 

 石は肩口に当たって落ちた。

 

 広場が静まる。

 

 カイは眉ひとつ動かさなかった。石を拾い上げることもしない。ただ、前を見たまま言う。

 

「この子に石を投げたいなら──その前に俺を倒してからにしろ」

 

 低い声だった。

 

 怒鳴ってはいないのに、妙によく通る。

 

「沈める相手を選びたいなら、顔も知らねえ子どもじゃなくて──ちゃんと戦える大人から順にやれ」

 

 その言葉で、何人かが顔をしかめた。

 

 図星だったのだと思う。目の前の小さい背中に怒りを全部ぶつける方が、ずっと楽だ。けれど、それを口に出してしまえば、自分が何をしているかまで見えてしまう。

 

 だから代わりに、別の怒りが来る。

 

「子どもなら何をやってもいいのかよ!」

「庇うなよ、騎士様!」

「てめえら、結局またよそ者同士で庇い合うのか!」

 

 カイは一歩も引かなかった。

 

「いいなんて言ってねえ」

 

 短い。

 

「だから立たせてんだろうが」

 

 広場に、また別の沈黙が落ちた。

 

 そこでようやく、シュアラは前へ出た。

 

 カイの半歩後ろ、リュシアの斜め横。怒りがいちばんぶつかりやすく、それでも言葉が届く場所へ。

 

「怒るのは、当然です」

 

 まず、そこから言う。

 

「壊された物も、怪我をした人も、戻らない時間もあります。いまここで許してくださいなどとは言いません」

 

 群衆はまだ固い。

 

 それでも耳は向いた。

 

「ですが、殴って終わりにはしません」

 

 何人かが眉を上げた。

 

「ここでこの子を潰しても、帝都の帳簿は喜ぶだけです。責任者死亡。原因不明。再発防止は上位機関へ一任。そう書かれて終わります」

 

 言葉にした途端、何人かの顔に嫌悪が走る。実際にありそうだと分かるからだ。

 

「だから、生かします」

 

 シュアラは、リュシアを見ずに言った。

 

「この港の損害を、一銭も漏らさず計算させます。壊れた船も、網も、倉庫も、働けなくなった日数も。帝都式の“想定損耗”ではなく、この町で実際に失われた額として、全部」

 

 前列にいた男が、腕を組み直した。

 

 さっきまで喚いていた若い荷運びが、口を閉じる。

 

「それを帝都に出させます。補償請求書にします。再建に必要な物資の算定も、この子にやらせます。机の上にいた人間なら、机の上で返させるのがいちばん重い」

 

 漁師の男が、苦い顔で言った。

 

「そんなもん、帝都が払うと思うのか」

 

「払わせます」

 

 シュアラは即答した。

 

「払わなかった記録も残します。逃げたら逃げたで、その数字が次の武器になります」

 

 その時、フィンが息を呑む気配が横であった。少し離れた位置で、零札たちも黙って聞いている。

 

 リュシアはまだうつむいていた。

 

 だが、肩だけがさっきと違う。恐怖で縮んでいるだけではなく、逃げ道を一つずつ塞がれていると理解した人間の固さだった。

 

 シュアラはそちらを振り向く。

 

「リュシア・フォン・クラウゼ少技士」

 

 公の場で、肩書きまで付けて呼ぶ。

 

 逃がさないためだ。

 

「命じます。この港の被害額を算定してください。物損、人件費、操業停止による損失、応急修繕費、再建費用。使える帳簿と台帳を全部使って、一銭も漏らさず」

 

 リュシアの唇が震えた。

 

「……はい」

 

 かろうじて出た返事だった。

 

「声が小さい」

 

 厳しく言う。

 

 優しくしたら、その場しのぎの赦しに見える。

 

 リュシアはぐっと喉を鳴らした。

 

「……はい!」

 

 今度は広場に届いた。

 

 その返事のあとで、ようやく別の声が入る。

 

「で、あの白いのはどうなる」

 

 誰かがリリーシアの方を見る。

 

 護衛に囲まれた向こうで、リリーシアは毛布に包まれていた。目は閉じたままだが、眠っているというより、熱を出した子どもみたいに浅く息をしている。

 

 その問いに答えたのは、シュアラではなかった。

 

「深海契約が原因でした」

 

 年嵩の海務院士官が一歩前へ出た。

 

 昨日から見かけている男だ。若い連中のような保身の色が薄く、かわりに疲労が顔に出ている。たぶん、全部分かったうえで、この場へ出てきたのだろう。

 

「リリーシア・アルスリスの負担は限界です。これ以上、彼女を使った比較は不可能と判断します」

 

 広場がざわめく。

 

 士官は続けた。

 

「ついては、リリーシア抜きで、帝都案とマリーハイツ案の再検証を提案します」

 

 そこで、女がさっきより強い声で割って入る。

 

「提案、ね」

 

 抱えていた子どもの上衣を、女は胸に押しつけた。

 

「壊したのはそっちだ。提案じゃなくて、尻拭いだろ」

 

 士官は一瞬だけ黙った。

 

 その黙り方は、若い役人が逃げる時の黙りではなかった。言い返せないと知っている人間の間だった。

 

「……その通りです」

 

 後ろの方で、誰かが短く舌打ちした。

 

 別の誰かが「だったら最初からそう言え」と吐く。

 

 それでも、さっきまでみたいな無秩序な怒鳴り方ではなかった。

 

 シュアラは男を見る。

 

「純粋な航路設計の比較、という意味ですか」

 

「はい」

 

 士官は頷く。

 

「深海契約なしで。条件を揃えた再検証です」

 

 条件を揃える。

 

 その言葉に、まだ信じ切れないものがある。だが昨夜のように、最初から汚された盤ではない。少なくとも、ここで言質は取れる。

 

 シュアラは、短く考えた。

 

 感情で蹴るのは簡単だ。けれどいま必要なのは、帝都の顔に泥を塗ることではなく、マリーハイツとヴァルムに通る道を一度でも現実にすることだ。

 

「分かりました」

 

 答える。

 

「受けます。ただし、記録係は双方から出してください。航路条件、出航時刻、貨物量、乗員数、全部開示で」

 

 士官の目が細くなる。

 

「……ずいぶん厳しい」

 

「昨日のあとですから」

 

 それだけ返す。

 

 男は苦く息を吐いたあと、頷いた。

 

「妥当です」

 

 そこで、群衆の中からまた声が上がる。

 

「じゃあ、この子はそのまま働かせるってのか」

 

 さっきまで怒鳴っていた女だった。目の縁が赤い。たぶん、家族に怪我人がいる。

 

 シュアラはそちらを見る。

 

「はい」

 

 女の顔が険しくなる。

 

「やさしいんだね、死人文官様は」

 

 皮肉だった。

 

 けれど、シュアラはそれをそのまま受ける。

 

「やさしくはありません」

 

「だったら、なんで生かす」

 

 その問いだけは、広場全体の代弁だった。

 

 シュアラは、一拍だけ黙る。

 

 答えは単純だ。けれど、ここで綺麗な言葉にすると、また嘘になる。

 

「死ぬ方が楽だからです」

 

 広場がしんとした。

 

「ここで潰れたら、痛いのは一度だけで済む。残るのは、怒った側の手応えと、帝都の綺麗な整理だけです」

 

 それでは足りない。

 

「この子は、生きて、自分が壊したものの額を見続けるべきです。自分の計算で削ったぶんを、今度は返す側の計算に使うべきです。それが、この場で選べるいちばん重い形です」

 

 女はすぐには返さなかった。

 

 ただ、腕の中の上衣を見下ろしたあと、低く言う。

 

「……じゃあ、最初にうちへ来な」

 

 リュシアの肩が跳ねる。

 

「うちの亭主が何日寝込むか、舟がいくらで直るか、全部書け。見て書け。聞いて書け」

 

 それは赦しではない。仕事の順番を決めただけだ。

 

 前列の男が、小さく頷いた。

 

 誰かが「うちは倉庫からだ」と言い、別の誰かが「網の束も数えろ」と続ける。

 

 カイがそこで、少しだけ振り向いた。

 

「聞いたな」

 

 リュシアへ向けた声だ。

 

 低い。けれど、昨日の広場ほど硬くはない。

 

「ここで楽になる道は、もうねえぞ」

 

 リュシアは答えなかった。

 

 代わりに、ぎゅっと歯を食いしばった音だけが近くで聞こえた。

 

 群衆はすぐには散らない。

 

 怒りはそんなに綺麗に片づかない。けれど石はもう飛ばなかった。怒鳴り声は残っていても、いまこの場で潰して終わりにする方向からは、少しだけずれていた。

 

「フィン」

 

「はい」

 

「役所と倉庫組合の台帳を借ります。漁協の被害報告も集めて。仮の再建一覧表を切ります」

 

「もうですか」

 

「もうです」

 

 躊躇えば、そのぶんだけ帝都が整理する。

 

 フィンは短く頷いて走った。

 

 次に、零札たちへ目を向ける。

 

「人手を貸してください。壊れた場所の実測をします」

 

 零札の男が鼻を鳴らした。

 

「帝都の嬢ちゃんに、俺らが被害額教えるってか」

 

「ええ」

 

「気分わりいな」

 

「分かります」

 

「でも、やるんだな」

 

「やります」

 

 男は少し黙ったあと、肩をすくめた。

 

「……だったら、桟橋から順だ。見た目より流されてる」

 

 そう言って歩き出す。

 

 もう一人が続く。乱暴な足取りだが、止まらない。

 

 広場の端で、毛布に包まれたリリーシアが小さく咳いた。

 

 シュアラはそちらを見る。

 

 昨夜、青灰色の瞳で怯えていた少女。いまはまだ目を開けない。だが、その呼吸がここにあるというだけで、進める話がある。

 

「医者は」

 

 シュアラが訊くと、海務院士官がすぐ答えた。

 

「町医者と帝都側の術師、両方つけています」

 

「海へは戻しません」

 

 確認ではなく宣言だった。

 

 士官は、少しだけ目を伏せる。

 

「……承知しています」

 

 その返事を信じるほど甘くはない。だが、いまは言質で十分だ。

 

 リュシアが、ふいに口を開いた。

 

「……あの」

 

 誰に向けた声か、一瞬分からないほど小さい。

 

 シュアラが見ると、リュシアはまだ正面を向いたまま、唇だけ動かしていた。

 

「被害額の算定……倉庫単位で切ると、港の仕事が止まった日数の方が大きく出ます。船だけじゃなく、荷役も、塩漬けも、網の修繕も……」

 

 途中から、言葉が少しずつ速くなる。

 

 いつもの計算の声だ。

 

 それが逆に痛々しい。壊した側の頭が、壊したあとも正確に回ってしまう残酷さ。

 

 シュアラは頷く。

 

「分かっています。だから全部載せます」

 

「……はい」

 

 またその返事。

 

 今度は最初より、少しだけ人間の声だった。

 

 昼前には、被害地区の人の流れが少し変わっていた。

 

 怒鳴る者はいても、手を動かす者が増える。割れた板をどけ、濡れた麻袋を運び、怪我人を日向へ移し、仮の見積もりのために壊れた箇所を指差す。人は、怒りだけでは長く立っていられない。結局は、生きるための作業へ戻っていく。

 

 その中に、リュシアも立たせた。

 

 女の家の前だった。割れた舟板が壁にもたれ、戸口には濡れた縄が山のように積まれている。土間の奥では、男が寝台に横たわっていた。右足を添え木で固定され、顔色が悪い。

 

 リュシアは帳面を開いたまま、そこから先が一瞬進めなくなる。

 

 男の胸は浅く上下している。寝台の脇の桶には濁った水と血のついた布。土間には、海水を吸って重くなった網がまだ放り出されていた。

 

 リュシアの指先が、紙の端を持ったまま止まる。

 

「書け」

 

 女が言う。

 

「舟は半壊。網は三束駄目。亭主はしばらく海に出られない。塩場も二日止まる」

 

 リュシアはすぐには返さなかった。

 

 唇が一度開いて、閉じる。

 

 寝台の男の固定された足へ目が落ちる。すぐ逸らす。逸らした先に、濡れた縄と、割れた舟板と、戸口で乾ききらない泥がある。

 

 喉が鳴った。

 

「……二日では」

 

 そこまで言って、声が掠れた。

 

 小さく息を吸い直す。

 

「……済まない、可能性もあります」

 

「だったら、そのぶんも書け」

 

 女は容赦しなかった。

 

「こっちは足し算を甘くされる方が困るんだよ」

 

 リュシアのペン先が震える。

 

 インクが、最初の一文字のところで少し滲んだ。

 

 それでも、ようやく数字を書いた。

 

 ひとつ、またひとつ。

 

 そのたびに、目の前の男の息づかいと、紙の上の数字が結びついていく。

 

 シュアラは少し離れて、その様子を見る。

 袖の中で握った指先に、紙の角が食い込んだ。

 

 カイはさらに少し離れた木箱の上に腰掛け、腕を組んで周囲を見ている。誰かが近づきすぎれば立つつもりの姿勢だ。だが、過剰には庇わない。

 

 ちょうどいい位置だった。

 

 シュアラはその横へ行く。

 

「肩は」

 

「石一個だ」

 

「当たり前みたいに言わないでください」

 

「当たり前だろ」

 

 カイは前を見たまま言う。

 

「殴る相手を間違えさせるのも、前に立つ奴の仕事だ」

 

 少しだけ、シュアラは息を吐いた。

 

「……助かりました」

 

「礼は早え」

 

「まだ何も終わってませんからね」

 

「だろうな」

 

 そこでようやく、カイがシュアラを見た。

 

「でも、今日の分は前に進んだ顔してるぞ」

 

 シュアラは返事をしなかった。

 

 言い返そうとしたが、先に海風が頬を撫でた。冷たい。

 

 壊れた港の匂いはまだ消えない。それでも、昨夜の“終わるしかない”空気とは違う朝だった。

 

 遠くでフィンが叫ぶ。

 

「死人文官さん! 役所の奥から古い税台帳も出てきました! これ、過去三年の荷揚げ量まで追えます!」

 

「持ってきてください!」

 

 シュアラが返す。

 

 声が自分でも驚くほどよく通った。

 

 その時、リュシアが顔を上げる。

 

 目が合った。

 

 リュシアの喉が一度だけ動く。視線が揺れて、それでも逸れない。逃げたいのに、もう後ろへ下がれない顔だった。

 

 シュアラは、その視線を受け止める。

 

「あとで、再検証の条件を詰めます」

 

 仕事の話として言う。

 

 そうするしかない。

 

 リュシアは、ほんのわずかに背筋を伸ばした。

 

「……はい。今度は、条件を揃えます」

 

 シュアラは頷く。

 

「ええ。今度は最初から」

 

 広場の端で、潮を吸った板がきしむ音がした。

 

 港はまだ傷んでいる。怒りも消えていない。帳簿に乗せるべき損害は山ほどある。帝都はこれから逃げるかもしれないし、再検証だって綺麗には進まないだろう。

 

 シュアラは、濡れた紙の束を抱え直した。

 

 紙はまだ重い。端の方は乾ききらず、指に冷たく貼りつく。

 

 少し離れたところで、リュシアのペン先がまた止まる。

 

 それでも、次の数字を書くために、もう一度だけ動いた。

 

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