死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します   作:来巻梓

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祝われた生、呪われた生

 扉を押した途端、酒場の熱が背中から剥がれた。

 代わりに入ってきたのは、潮の匂いを含んだ夜気だった。

 

 海沿いの町は、暗がりの中で少しずつ輪郭を取り戻していく。目が慣れるにつれ、板で継いだ白壁や、布を打ちつけた窓や、路地の端へ押しやられた瓦礫の黒い山が見えてきた。海水を吸った木の匂いと、乾ききらない石畳の冷えが、足もとからじわじわ上がってくる。

 

 広場の火桶がいくつも赤く燃えている。濡れた上着を竿へ掛ける男がいて、壊れた籠を膝の上で編み直す婆さんがいる。鍋の湯気の向こうでは、女が子どもの手に先に木杯を押しつけていた。飲み終えたその子が、ようやく母親の膝に頬を預ける。

 

 笑ってはいない。

 だが、潰れてもいなかった。

 

 カイは戸口に肩を預けたまま、その光景を眺めた。

 

 ついさっきまで、背中の向こうはもっと明るかった。灯りも声も多くて、次の便が組めるだの、油が回るだの、明日も船が出せるだの、そういう話が杯の音といっしょに飛び交っていた。祝いと言うにはまだ硬い。喪失の匂いも疲れも残っている。だが、それでもあそこには、助かったあとにしか出ない熱があった。

 

 嫌いじゃない。むしろ、ああいう熱が要る夜なんだろう。

 ただ、自分は少しだけ外へ出たかった。

 

 海風が頬を撫でる。冷たいが、ヴァルムの冬みたいに肌を裂く冷えじゃない。湿っていて、少し重い。息を吸うと、舌の奥に塩が残る。

 

 カイはそこで一度、長く息を吐いた。

 

 今日、自分は人を殺さずに済んだ。

 

 そう思ったとたん、胸の内側で小さく軋むものがあった。

 

 昔なら、違った。

 守るためだと言いながら、結局は斬るしかなかった。敵を減らし、黙らせ、血で帳尻を合わせる。それが戦だと思っていたし、それしかできない男だとも思っていた。

 

 事実、そうやって生きてきた。

 

 帝国に使われ、切られ、敗戦の責任だけを背負わされてヴァルムへ飛ばされた頃には、腹の底にろくなものは残っていなかった。剣は持てる。人も斬れる。だが、その先に何を守るのかはぼやけていて、残っているのは怒りと、行き場をなくした力だけだった。

 

 そこへ、シュアラが来た。

 

 死人文官。

 青白くて、細くて、寝ているのか起きているのかも分からない顔で、それでも紙だけは誰よりよく見ている女。

 

 最初から分かっていたわけじゃない。あいつの言う理屈に腹が立ったこともある。紙の上の話で人が助かるか、と、何度も思った。

 だが、違った。

 

 あいつは、紙の上で人を減らしていたんじゃない。紙の上で、人が減らない道を作っていた。

 

 今日だってそうだ。勘で通したわけでもなければ、奇跡で通したわけでもない。戻る順を、人の手で組み直した。切る順番じゃなく、帰す順番として。

 その結果、自分は剣を抜いても、誰も殺さずに済んだ。

 

 剣の意味が、昔より少しだけ変わった。

 それを変えたのは、間違いなくシュアラだ。

 

 カイは眉間を軽く押さえた。

 

 失いたくない、と思う。

 

 友としてか。戦友としてか。あるいは、もっと別の何かとしてか。そこは、自分でもうまく分からない。

 ただ、あいつを失ったら、自分がどこまで昔の方へ戻るのか、それだけは分からなくて、その分からなさだけが妙にはっきりしていた。

 

「……重症だな」

 

 誰に聞かせるでもなく、ひとりごちる。

 

 火桶の向こうで誰かが笑い、鍋の蓋が鳴った。遠くでは荷車の車輪が石を噛む音がする。壊れたままでも、町は明日へ進もうとしている。

 

 そろそろ戻るか、と海の方へ目をやった、その時だった。

 

 波打ち際へ向かって、細い影がひとつ歩いていた。

 

 急いでいない。ふらついてもいない。酔った足でもなければ、散歩の気楽さでもない。

 妙に静かで、もう迷うことだけをやめた人間の歩き方だった。

 

 嫌な歩き方だ、とカイは思った。

 

 火の届かない暗がりへ、波の音ばかりが大きくなる方へ、ためらいもなく進んでいく。帰る人間の足じゃない。何かを見に行く足でもない。行った先で、そこで終えるつもりの足だ。

 

 顔が少し上がり、灯りが横顔をかすめた。

 

 銀の髪。

 小柄な影。

 抱えていたはずの帳面は、今日はない。

 

 リュシアだった。

 

 考えるより先に身体が動いていた。

 

 石畳を蹴る。風が耳を裂く。波打ち際へ降りる坂は夜露と潮で滑りやすい。それでも足を緩める理由にはならない。

 リュシアは気づかない。いや、気づいても、もう気にしていないのかもしれなかった。

 

 靴の先が黒い水に触れる。

 

「おい」

 

 呼んでも振り向かない。

 

 もう一歩、海へ入る。

 

 カイは腕を伸ばし、その細い手首を掴んだ。

 

 冷たかった。骨ばっていて、驚くほど軽い。

 リュシアの肩が跳ねる。そこで初めて、彼女は振り返った。

 

 月の薄い光の下で見た顔は、泣いていなかった。泣いていないのに、どこかもう戻れないところまで行ってしまった顔だった。

 

「……離してください」

 

 声は小さい。震えてもいない。その平たさが、かえって怖かった。

 

「断る」

 

「これは、わたしの……」

 

「海に入る前の奴が言う台詞じゃねえよ」

 

 言い切る前に、カイは潰した。

 波が二人の足首を濡らして引く。夜の海は黒い。どこまでが地で、どこからが底なしなのか、見ているだけじゃ分からない。

 

 リュシアは一度だけ目を閉じた。

 

「今日、通りました」

 

「ああ」

 

「誰も沈みませんでした」

 

「ああ」

 

「……だから」

 

 そこでいったん詰まる。喉がうまく開かないみたいに、言葉が細く途切れた。

 

「だから、もう、いいんです」

 

 意味が分かりすぎて、カイは奥歯を噛んだ。

 

 リュシアは俯いたまま続ける。

 

「わたしがいなくなれば、たぶん、それで終われます。港も回るし、次の便も出る。困る人なんて、そんなに――」

 

「いるだろ」

 

「いません」

 

 すぐに返ってきたが、その声は強くなかった。強がりだけが先に立って、息が続いていない。

 

「そういうものなんです。だめだった方が消えれば、残った方がそのまま進める。零札孤児院では、ずっとそうでした。下からいなくなって、上はそのぶんだけ生きる。わたしは……そういうところを、上がってきただけです」

 

 そこでようやく、彼女は顔を上げた。

 

 年相応よりずっと幼く見える顔だった。聡いくせに、どこか育つ前のところだけ切り取られたままみたいな顔。

 

「今日だって、一手違えば、みんな死んでました」

 

「死ななかった」

 

「結果がそうだっただけです!」

 

 初めて声が割れた。

 

「灯りが少し遅れてたら。潮位が一つずれてたら。見張りが気づくのが遅かったら。わたしは、そういう『もし』で人を沈める側にいたんです。いまさら一回うまくいったからって、そっちへ行けるわけないじゃないですか」

 

 息が上ずる。だが、涙はまだ出ない。

 

「わたし、手つきが、もう……」

 

 言い切れなくなって、唇を噛む。

 

「沈める側のままなんです」

 

 カイは黙った。

 

「だから、祝われる輪の中に入れない。あの人たちの顔、見たら、分かるんです。違うって。わたし、あっちじゃないって」

 

 手首を掴んだままのカイの手に、少しずつ力が入る。

 

 分かる気がした。

 

 帝国に押しつけられた順番は、表向きにそれが終わっても、身体の奥からすぐには抜けていかない。捨てられる側も、捨てる側も、いったんその理屈で生き延びたなら、簡単には離れられない。

 

 カイは短く息を吐いた。

 

「俺も、似たようなもんだった」

 

 リュシアの目がわずかに動く。

 

「……何がですか」

 

「切られる側だよ」

 

 海を見るでもなく、カイは言った。

 

「帝国に使われて、都合が悪くなったら責任だけ乗せられた。ここでヴォルフを一人沈めりゃ数字がきれいになる、そういう話だ」

 

 リュシアは黙る。

 

「で、沈まなかった」

 

 カイの声は低い。だが、さっきより少しだけ近い。

 

「沈まなかったが、生き残ったあとに何が残るかって言や、ろくでもねえもんだ。怒りだけだ。剣だけだ。守るためだとか抜かしながら、結局は人を斬ることしかできねえ男が残る」

 

 夜の風が吹き抜け、濡れた前髪が額に張りついた。

 

「昔の俺は、そうだった」

 

「……でも、今は違う」

 

「違う。違っちまった」

 

 そこで少しだけ笑う。自嘲だが、嫌な笑いではない。

 

「シュアラがいたからだ」

 

 リュシアの目がほんの少し見開かれる。

 

「あいつに会って、剣の使い道が増えた。斬るだけじゃねえって、嫌でも分からされた。紙で道を作る女がいて、その道を通すために俺が立つ。そういうやり方を知った」

 

 言葉にしてみると、思っていたよりずっと重い。

 

「だから、俺はあいつを失いたくねえ」

 

 リュシアは何も言わない。

 

「友達だとか、信頼だとか、もっと別の何かだとか、そこは知らん。だが、あいつがいなくなったら、俺がどこまで昔に戻るのか分からねえ。それだけは分かる」

 

 リュシアはようやく、泣きそうな顔をした。

 自分の苦しみとは別の場所にある切実さを、正面からぶつけられたからかもしれない。

 

 カイは手首を掴んだまま、続けた。

 

「で、いま俺は、お前も失いたくねえと思ってる」

 

 リュシアが息を止める。

 

「な、んで……」

 

「俺が嫌だからだ」

 

 間を置かずに返した。

 

「失敗したからって、自分から海へ入って帳尻合わせる。そんな終わり方、帝国が一番喜ぶだろうが」

 

 リュシアの唇が震える。

 

「でも……わたし、どうしたら……」

 

「死ぬ以外で返せ」

 

 波音の向こうでも、そのひと言ははっきり届いた。

 

「その頭、まだ死んでねえだろ。だったら捨てるな。沈める方で使ったぶん、今度は返す方で使え」

 

 リュシアの喉が小さく鳴る。

 

「そんなの……」

 

「できるか分からねえ、って顔してんな」

 

「……分かりません」

 

「だろうな」

 

 カイは少しだけ顎を引いた。

 

「でも、今ここで死んだら、分からねえままで終わる」

 

 リュシアが目を伏せる。

 

「つらいです」

 

「ああ」

 

「死ぬより、ずっと」

 

「ああ」

 

「……いやです」

 

「それでもだ」

 

 カイの声は低いまま、少しも緩まなかった。

 

「逃げるな。そこまで嫌なら、なおさら、生きて嫌がれ」

 

 その言葉で、とうとう何かが切れた。

 

 リュシアの膝から力が抜ける。海へ崩れそうになった身体を、カイが引き寄せる。細い肩がぶつかった瞬間、堰が切れたみたいだった。

 

「わ、たし……っ」

 

 息が乱れる。言葉にならない。涙が遅れて溢れてくる。

 

「わたし、ずっと……ちゃんと、やってたんです……」

 

「……ああ」

 

「間違えないように、役に立つように、捨てられないように……っ」

 

「ああ」

 

「なのに、いざ失敗したら、ほんとに……ほんとに、消えるしかないみたいで……っ」

 

 嗚咽が混じる。小さな肩が情けないほど揺れる。十三の子どもが、今までよく立っていたと思うくらい危うい泣き方だった。

 

 カイは何も綺麗な慰めを言わなかった。言えるわけもない。

 ただ、海へ向いていたその身体を、陸の方へ向け直す。

 

「帰るぞ」

 

 リュシアは泣きながら首を振る。

 

「帰っても……顔、合わせられません……」

 

「合わせろ」

 

「シュアラさんにも……」

 

「なおさらだ」

 

 カイはそこで、ようやく少しだけ息を抜いた。

 

「あいつに黙って死なれたら、あとでどれだけ面倒か分かるだろ」

 

 その言い方が少しだけおかしかったのかもしれない。リュシアはしゃくり上げたまま、泣き笑いみたいな顔を一瞬だけした。

 

「……はい」

 

 返事は、かすれていた。

 

 カイはようやく手首から手を離し、その代わり、逃げられない距離で横につく。波打ち際を離れ、石段を上がる。リュシアの足は何度かもつれたが、今度は海へ戻ろうとはしなかった。

 

 町の灯りが少しずつ近づく。

 

 火桶の明かり。湯気。人声。壊れたままでも、進もうとする町の気配。

 その光の端に、ひとつだけ青白い灯りが見えた。

 

 役所の二階、開いた窓の向こう。誰かがまだ起きている。

 

「……寝てねえな」

 

 カイがぼそりと言う。

 

 リュシアもその先を見る。何も言わない。ただ、足だけは止めなかった。

 

 役所へ上がる階段は、夜気を吸って冷えていた。二階の廊下も、誰も歩いていないせいで妙に音が響く。紙をめくる小さな音が、扉の向こうから絶えず続いていた。インク壺の蓋が触れる乾いた音もする。

 

 カイが戸を押し開けた。

 

 シュアラは机に向かっていた。青い航路帳と、別の帳面と、被害算定の紙束。横顔は相変わらず白い。けれど、扉が開いた瞬間、その目だけがすぐにこちらを捉えた。

 

 先に見たのはカイではなかった。

 その半歩後ろ、濡れたまま立っているリュシアだ。

 

 靴。赤い目。泣き止んだあとの浅い呼吸。

 

 シュアラは何も聞かなかった。聞かないまま、青い航路帳を自分の前へ引く。頁を開き、迷いなくペン先を置いた。

 

 さらり、とインクが走る。

 

 誰も沈まなかった航路

 

 リュシアは、その一行を見つめたまま動かなかった。損耗や切り離しの条件が並ぶ帳面なら、見慣れている。誰を最後に回すか、何人までなら許されるか。そういう紙ばかり見てきた。

 だが、目の前に置かれたのは逆だった。誰も沈まなかった、という結果が、そのまま紙の上に残されている。

 

 シュアラはそこでペンを置いた。

 

「これで、今日の勝ちは残せます」

 

 声は平らだった。だが、突き放すほど冷たくはない。

 

「記録しておきます。次に使える形で」

 

 リュシアの喉がかすかに鳴る。

 

「……わたし、は」

 

 その先が出てこない。

 

 シュアラは待たなかった。

 

「今夜は、もう海へ行かないでください」

 

 リュシアが目を見開く。

 

「あなたの処分も、働き先も、ここでは決めません」

 

 短い間が落ちた。

 

「ここで片づける気はありません。ヴァルムへ来てください」

 

 部屋が静まる。

 

 カイは壁際に立ったまま、何も言わない。ただ、さっきまで海へ向いていた小さな背中が、今は机の方を向いているのを見ていた。

 

 リュシアの唇が震える。

 

「……ヴァルム」

 

「はい」

 

 シュアラは即答した。

 

「この町であなたを祝うことも、裁くことも、今はしません。どちらも雑になりますから」

 

 視線が、帳面の一行へ落ちる。

 

「持って帰ってもらうものがあります」

 

 リュシアは黙ったまま、浅い呼吸を繰り返した。

 

「今日の勝ち方です」

 

 そこで一度、シュアラは口を閉じる。説明を足しすぎないようにするみたいに。

 

「人を減らさずに通した、という結果を。帝都の帳簿ではなく、別の場所で積み上げる必要があります」

 

 責められる覚悟はしていたのだろう。追い出される覚悟も、たぶん。だが、連れて行くと言われるとは思っていなかったらしい。リュシアは信じきれない顔のまま、言葉を探すように唇を動かした。

 

「わたし、そんな……」

 

「資格の話ではありません」

 

 シュアラは静かに切った。

 

「雑に死なれると、私が困ります」

 

 リュシアが呆気に取られたように瞬く。

 

「あなたは今夜、海へ返しません。ヴァルムで返してもらいます」

 

 罰ではなかった。赦しでもない。死んで終わることだけを、先に封じる声だった。

 

 リュシアはとうとう顔を覆った。

 嗚咽は小さい。けれど今度は、海へ零れる音ではなかった。

 

 シュアラは航路帳を閉じる。

 

「出発までは、こちらで預かります」

 

「……はい」

 

「勝手にいなくなられると困ります」

 

「……はい」

 

 返事のたびに、声が少しずつ崩れていく。

 

 カイはそこでようやく、肩の奥に残っていた力を抜いた。

 

 シュアラはもうこちらを見ていない。閉じた青い航路帳の上に細かな砂を落とし、乾ききらない一行へそっと広げる。黒いインクが鈍く沈んでいく。

 

 窓の外で、夜の海が遠く鳴った。

 けれどリュシアは、顔を覆ったまま、もうそちらを見なかった。

 

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