一年生専用の旧校舎に着き、Fクラスのリリィと別れて、ロッチと殿下は(厳密には侍従と護衛も付いてる)階段を上ってAクラスへ戻る。
二階は高位貴族子息子女ばかりとはいえ、殿下が教室へ入るとやはりピリリとする。
「あれ?」
「ルカが戻っていないね」
もう一人の一年生サロンメンバーのルカは、ランチは婚約者と二人きりで取るのだが、学生でない彼女の昼休みは早く終わるので、残り時間は教室で翻訳バイトをやっているのが常だ。
「あいつも健気だな」
ロッチはまたぼやく。
付き合いが悪くなったという程でもないが、ルカは平民の婚約者と貴族の学友を無理に交わらせない。
翻訳バイトに身をやつしているのも、特待生で食住の補われる学生の内に少しでも借金を減らして、彼女の負担を減らしたいからだ。
「『真実の愛』とは、見付けた時点でゴールではないのだな……」
殿下はとても神妙に溢された。
イサドラが、その彼女の世話を焼こうと近付いて、ルカの逆鱗に触れ、しばらく避けられるという哀しい目に遭わされて以来、サロンの上級生たちも、ルカの婚約者からは手を引いている。
でなければとっくに何処かの家の下女かメイドに取り込まれていただろう。
あの策士アーサーですら、『ルカにへそを曲げられたら厄介だし……』と諦めたように肩を竦めている。
しかしその婚約者に関して、ロッチは物凄く腑に落ちていない。
(だってあのルカだよ?)
理性的で理屈っぽくて、冷静に先を見据えて効率的に動くルカ。
その彼が、文字も読めない田舎娘に一目惚れして一瞬で人生を決めちゃうような、そんな浅い事をするなんて、信じられない。
外見も、これと言って特徴も無い、一目惚れ要素なんて何処にも感じられない超絶地味な子。しかも二つも年上でルカよりでかい。
(アーサー様たち、本当に真に受けているのかな?)
彼が婚約を言い出した最初、ロッチは、『自分を囲い込もうとする貴族たちから逃れる為?』とも考えた。
遠くの者から見るルカは、大人しい、一所懸命で健気な子供だ。
しかし近付いてみると、触れる者の手が少しでも
(うちの祖父ちゃんが一歩引いてるぐらいだし)
ロッチの大尊敬する実家の前伯爵翁も、ルカをたいそう気に入っているが、彼なりの用心が働くのか、積極的な手を伸ばしていない。
サロンの人たちも、ルカを取り込みたがっているのは変わらないけれど、溺愛している(らしい)平民婚約者の存在で、ちょっとブレーキが掛かっている感じだ。
そんな現在、確かに一時に比べるとルカの周囲はサッパリした。
幸せそうだし良い事のように思える。
だけれどロッチはやっぱり納得行っていない。
――ルカって、本当にあの子に恋しているのかな?
***
学園敷地の裏側。
干されたシーツが密林のように垂れ下がる向こう、小さな丸太ベンチ。
ルカと婚約者メムはいつものようにほっこり並んで昼食をとっていた。
メムはルカより二つ上、薄色の赤毛がポワポワと広がり、同年代の中でも小さいルカと並ぶと、ひときわ大きく見える。
「メム、これピーマン?」
「うん、さっと焙って甘酢に漬けてみた。どうかな、無理だったら残してね」
「うぅん、おいしい」
「ホント? 良かった」
「メム、凄い、天才」
「それほどでもぉ」
「僕の為に手間を掛けてくれてありがとう」
リスのように頬を膨らませてフクフクと、幸せそうに咀嚼するルカ。
「うん、おいしい、こっちもおいしい、みんなおいしい」
「えへへ」
・・・・
『取り込もうとする貴族家に対するブロックの為に、平民の婚約者を据えている』
ロッチが疑っている事など、アーサーあたりはとっくに考え巡らせて、影に探らせていた。
そして報告結果は、
『ガチでベタ惚れしている!』……だ。
あの、屁理屈を口ずさみながら生まれて来たようなルカが、平々凡々な洗濯女の前で、語彙の無い幼児のように甘えている。
報告を聞いたアーサーは、長い息を吐いて諦めた。これは下手に弄っちゃ駄目な奴だ。
が、この日の二人の世界には、ちょっとした乱入者が現れた。
「あの、こんにちは……」
突然現れたピンクドレスの女の子。
歳の頃は一年生ぐらい、衣服は上等なのに何となしに垢抜けない風貌で、両手を胸に身をくねらせて、しおらしい声を出す。
「私、道に迷ってしまって。ここはまだ学園の中ですよね? 来た道が分からなくて……用事を仰せつかっているのに、とても困っていて……」
やたらと輝く金髪を見て、ルカには一目でピンと来た。
これ、マリサ様が言っていた『ピンク怪獣』だよな?
何でここにいる?
マリサ様の馬車には乗り損ねたけれど、何らかの手段で学校までは来たのかな。この娘に甘い公爵か長男の仕業?
(でもイメージが大分……?)
「ねぇ、一年生のAクラスの教室って何処かしら」
「…………」
「えっと、頼まれた言伝てがあるの。迷ってる間に昼休みが終わりそう……言い付けを果たせなかったら、私、叱られてしまう……」
「…………」
「こ、困ってるの……とても……おじさまとても厳しくて……信頼を、早く得なくちゃならないのに……」
ベンチに座ったままの二人の子供が無言なので、女の子はだんだんと表情を変えて来た。
「な、何か言って下さい。お願い、黙っていられると、私辛い……」
(これが被害者ムーヴって奴か……)
ルカは仕方なく、脳の回線を通常モードに切り換えた。
(せっかくメムとの楽しい楽しい脳の休息時間だったのに……)
女の子を見て分析する。
(……ある意味油断ならない……)
言っている言葉は出任せに決まっているのに、彼女の喋り方というか声の調子が、どうにも引き込まれて信じてしまいそうになるのだ。
思わず同調して助けてあげなきゃって気分にさせられる。
顔はカンタベリィの血が物を言った整い方、そこに年齢なりのあどけなさが加わって庇護欲オーラがビンビン。なまじか意識の高い年上ならコロッと転がされそうだ。
(これ、わざと演出してんなら相当ヤバい子だぞ)
座ったまま思考しているルカに、横のメムがこそっと話し掛けて来た。
「ねえルカ、これって何語?」
ルカは目を見開いて隣の婚約者を見る。
「キャンキャンキューキュー、けたたましい動物の鳴き声にしか聞こえないんだけれど、こんな言葉ってあるの?」
小声だがピンク娘にも聞こえていて、しゃっくりしたみたいな顔になっている。
ルカは目を見開いたまま、でも何てことはないように答えた。
「うぅん、僕にも分からない、何語かなぁ?」
素直に「分からない」と言えるメムの隣が、ルカは大好きだ。
「ルカにも分からない言葉があるのね」
メムは鼻から息を吐いて女の子に向き直った。
「私たち、あなたの、言葉、わからないです。事務所へ、行ってください。あちらです」
ゆっくりゆっくり言われて、女の子は最初キョトンとしたが、いきなり顔を歪ませた。
「バカじゃないの? もしかしてあんたたち学生と違うの? よく見たらみすぼらしいし」
(みすぼらしい……)
ルカはホケッと、自分の制服を見下ろした。洗い替えが乏しいのでくたびれているが、清潔感には気を配っているつもりなのに……
「なぁんだ、丁寧にして損しちゃった」
女の子が豹変した。
「ねぇ、王子さまのいる教室ってどこ? 教えてくれたらこれあげる!」
小さいスプーンが差し出される。
それ純銀だろ公爵家の備品っ!
だけれどそんなスプーンも、価値を読めないメムには効かない。
「どうしよう、ルカ、話通じない」
「通じないんならしようがないねぇ。僕らが他所に行く?」
「うん、そうね」
メムは膝の上の弁当篭を包み直した。
一人の時なら、自分の休憩時間を削って事務所へ案内してあげる優しいメムだが、ルカと一緒の時は、ルカを最優先にしてくれる。
女の子は顔を赤くしてキ――ッと叫んだ。
今度はルカにもちゃんとキーッって聞こえた。
(これはメムと一緒の聞こえ方かな、だったら嬉しい)
なんて呑気に考えているルカの目の前に、メムの逞しいふくらはぎがズイッと立ちはだかる。
「キャーキャーキューキューうるさい! 外国に来るのなら、その国の日常会話くらい覚えて来なさいっ!」
うん、それは僕も割といつも思ってる・・と頷くルカ。
ふくらはぎだけでなく、日々のシーツ洗いで鍛えられた腕がこん棒のように頼もしいメム。彼女の後ろでは小さな雛鳥でいられる自分。
(あぁ、メムいいなぁ)
「アンタ、そんな格好しているけれど、貴族のお嬢様のふりをした偽物よね。学園に紛れ込んで何を企んでるの? どうせロクでもない事でしょ!」
凄い、言葉も通じないのに、もう見抜いてる!
寮の女学生たちに気に入られて交流しているメムは、確かに貴族令嬢の所作に詳しい。
(あ、もしかして言葉が通じないから騙されようがないのか?)
何にしてもルカは、ほぅっと安心して肩の力を抜いた。
メムは強い、頼もしい。
この娘の翼の下に居ればルカは『隙のない優秀なルカ』でいなくてもいい、
フニャフニャと脳をリラックスさせていられるのだ。
(あぁ、もぉ、メム大好き……バイト頑張ろ、メチャクチャ頑張ろ)
女の子は物凄い顔で歯噛みするが、メムに睨まれたまま動けない。
そのまま意気消沈して居なくなってくれれば良いのだが……
女の子がバっと横へ動いた。
ルカが「あっ」と声を上げて手を伸ばしたが、女の子はその手をバチンと叩き、干してあるシーツを引きずり下ろし始めた。
ええ――っ!?
報復? やけくそ? 無茶苦茶じゃん!
(え、えっと、ロッチに聞いた女性の取り押さえ方……手首を掴んで背中に回して反対の肩を……)
と、ルカがのろのろ脳を再起動させている間に、メムは女の子を突き倒して腕をネジ上げていた。
「キャアアッ あたしは公爵家のお嬢様よっ」
「キーキーうるさいっ。ルカ、手、大丈夫? 痛くしてない?」
「メムゥ……」
「あたしがこいつ押さえてるから、人、呼んで来てくれる?」
「駄目だよ、交代して」
「これはルカに押さえきれないよ、凄い力っ」
ちょっと傷付いたが、女の子が活きの良いエビみたいにビクンビクン跳ね始めるのを見て、確かに自信がなくなった。
「ひと、ひと……」
誰を呼んで来るのが得策かと逡巡している間に、物音を聞き付けたメムの同僚の女性が来た。
「あんだいっ、こりゃ!」
二人を応援している下働きの女性たちは、昼休みはなるべく物干し場に来ないように気を使ってくれている。
「ステラさん、ここトコ来たっ。このピンクの子供が洗濯物を引き下ろして!」
「あんだって、どこの子だい」
「知らないわ、言葉が通じな……ああっ、痛い、噛みつかないでっ」
「ちょいとお待ち」
メムの倍の腕っぷしのステラおばさんに掛かって、怪獣はあっという間に猿ぐつわを噛まされ洗濯ロープでふん縛られた。
「ああ、シーツが……酷い、折角乾き掛けていたのに洗い直しじゃないか。坊っちゃん、この子に心当たりは? 横恋慕なんかじゃないだろうねっ?」
あらぬ疑いが飛んで来て、ルカは慌てて首を横にブンブン振った。冗談じゃない。メムにカケラでもそんなコト思わせたくない。
***
腕っぷしのいいステラおばさんによってピンク怪獣は洗濯ロープでぐるぐる巻きにされ、物干しの支柱に縛り付けられた。
メムがシーツを拾い集め、ルカは学園事務所へ駆けた。
(ちなみに、ステラさんには怪獣の言葉が分かった)
事務棟へ入ると案の定というか、接客ブースの応接椅子にマリサの長兄エドアルドが足を組んで鎮座していた。
次兄レイモンドと違って話の通じない方。
『学校を見学したがっている知り合いの女の子を馬車で連れて来てあげたのだが、迷子になってしまった』と説明している。事務から警備に連絡を取って探させ始めた所なようだ。
(ほえぇ、マリサ様には予約を取らせて半刻の時間しか与えない癖に、関係ない『赤の他人の子供』を連れて来てあげる時間はあるんだ・・)
ルカの心中に呼応するように、職員がエドアルドに話し掛けた。
「お忙しい身を割いて知り合いの子供の世話を焼いてあげるなど、お優しくていらっしゃるのですね」
「いや、優しいのは父で、私は命じられて連れて来ただけだ。学校には妹がいるので任せる予定だったのだが、捕まらなくて困っている」
えぇ…… 残り少ない学園生活を大切に過ごされているマリサ様の時間を食い潰すつもり?
(世話を焼くなら焼くで、最後まで自分たちで責任持てよ)
ルカはスンッと温度を下げて、わざと女の子の所在を言わずに、一拍遅らせて声を出した。
「あの、立て込み中ですか? 物干し場に放たれ犬みたいのが入り込んで、洗濯物を滅茶苦茶にして暴れているんです。貴族の飼い犬っぽいんで迂闊に手を出せなくて。警護の方を寄越して下さい」
入り口の少年を振り向いたエドアルドは、高位貴族らしい整った眉をひそませた。
「君、今は私が話をしている。無礼だと思わんのかね」
(うわあっ)
あの聡明なマリサ様と同じ家の産物だとは思えない。
ルカは、次兄のレイモンドとは、院で出会って少し話をした事がある。
誰に対しても丁寧で、相手に合わせた分かりやすい言葉を選んでくれる柔軟な人物、って印象だった。
(跡取りとして育てられた人と、そうじゃない人の違いかなぁ)
「洗濯係りの女の子が噛まれたんですよ」
「それが何だというのだね」
ぁあ?
ルカの地雷が踏み抜かれた。緊急スイッチがバチンと入る。
「何だって、噛まれたんですよ、女の子が、噛まれたの。真面目に一所懸命働いている洗濯係の女の子が、無責任な貴族の大人が連れ込んだ犬に。
それを捨て置けと言うのなら国民の頂たる貴族ではありません、礼を尽くすに能わないです、少なくとも僕はそのような礼は持ち合わせておりません」
いきなり立て板に水の慇懃無礼を始める少年に、エドアルドは目を丸くした。
「い、犬ぐらい、君が何とかしたまえ」
「えぇっ、狂暴な獣相手に、いたいけな学生に素手で立ち向かえって? 本気ですか、本気で言っているんですか!」
「棒でも
「僕、刀なんて授業でちょっと振った程度ですよ。騎士みたいに手加減とか出来ません。もし殺しちゃったらどうしてくれるんですか。絶対に飼い主の貴族が言い掛かりを付けて来ますよ」
「大袈裟な」
「貴族相手なら僕ら庶民は最大限の用心をします。奴ら自分の理屈を振りかざして僕らなんか犬以下にしか思っていないんだから。その証拠に、今の貴方がそういう分け方をしているじゃありませんか。
被害者が出ているって聞こえましたよね、その上でご自分の不手際の迷子を優先しろと仰っている」
「……!」
ああ言えばこう言う……何なのだこの学生は? エドアルドの知る範疇の子供にこんな者はいない。
学園は庶民も受け入れているというが、父に言って秩序を見直させた方がいいのではないか。
「し、死んだら埋めてしまえばよかろう」
「本気ですか」
「被害者が出ているんだろう? 殺処分されたって至仕方なかろう? なぁ」
エドアルドに見渡されて、職員たちは口を結んで神妙な顔になった。
「分かりました。カンタベリィ卿の名に置いて、殺して埋めます。撤回しないで下さいよ」
「ああ、分かった分かった」
面倒くさくなったエドアルドがシッシッと追い払う仕草をすると、子供はやっと模擬刀を持って出て行ってくれた。
「まったく何なのだ、あの学生は」
エドアルドは、反撃出来なかった自分を棚に上げて、事務職員たちを睨み付けた。
「あの子はねぇ……」
五、六人居る職員たちは、顔を見合わせて肩を竦めている。彼らのよく知った学生らしい。
「貴族ではないのだろう?」
「はい、庶民の特待生です。成績は学年で一、二位を争うほど優秀で」
「だとしても無礼が過ぎる」
「怖い物が無いのでしょうね」
奥の席の壮年の職員が、書類仕事から顔を上げて呟いた。
「あの子を見ていると、失う物が無い無敵状態って奴を、つくづく思い知らされます。ですから油断なさらぬ方がよろしいかと」
「?? どいいう事だ、あんな子供が何だというのだ」
「名乗りもしないのに貴方様の家名を知っていて、平然と口にしたでしょう?」
「あ……」
エドアルドが言葉を途切れさせた時、学校警備員が入って来た。
「申し訳ありません、人数を割いて探しているのですが、どうにも見当たらなく」
「こ、この学園のセキュリティは万全なのだろう?」
「はい、それは自信を持って。不審者が入り込める隙間はありませんので、誘拐の可能性は限りなく低いです。
バックヤードにはきちんと柵を立て、立ち入り不可の注意書きがあります。
あの、もう一度、迷子のお子様の特徴を詳しくお教え願えますか?」
「桃色の衣装を着た活発な女の子だ。髪は私と同じ色、年齢は十二歳」
「あ、十二歳」
迷子と聞いて幼児を連想していた警備員は、肩を下ろした。
「その年齢で貴族の子弟なら、そうそうおかしな行動はなさらないでしょう。同年代の気の合う子でも見付けて、お喋りに夢中になっているのでは? 今、昼休み中ですし」
まさか上級貴族が見学希望だと連れ込んだのが、『立ち入り不可』も物ともしない、行動不測な怪獣だとは、警備員にも想定外だったろう。
***
学生の昼休憩終了間近になっても、迷子は見付からない。
事務室のクッションの薄い応接椅子に座るエドアルドは、膝をカタカタと揺らし始めた。
暇ではないのだ。
公爵家嫡男として限りある時間の中、父から言われて仕方なしに子供を送って来ただけだ。学園へ来れば昼休み中の妹に任せてすぐに帰れると思っていた。
なのに妹は所在が分からず連絡が取れない、子供は居なくなる、一度「後は妹に」と言って席を立とうとしたが、
「話の通っていない学生に責任を押し付けて居なくなられても困ります」と、事務室長に押し留められてしまった。
さすが王立の教育機関、子供の責任を子供に押し付けない。
そもそも保護者の大人が付き添っていなかったら、部外者の子供など学内に入れないのだから当たり前。
迷子捜索に進展は無く、エドアルドは貴重な時間をゴリゴリと磨り潰されて行く。
エドアルドにしたら、あんな縁の切れた者の子供など、どうでもよかった。上位者としての矜持で、哀れな子供にちょっといい顔をしてやろうとしただけだ。そこに発生する『責任』については考えていない。
***
午後の授業が始まって学生が捌けても、迷子は不明なまま。
職員たちにだって想定外だった。
敷地面積がそれなりに広い学内だが、学生の行動範囲は限られている。迷子は目立つピンクの服装だと言うし、まさかこんなにも見付からないとは思わなかった。
子供が見学希望だというのなら、
その現実に、彼らはひとつの可能性を考え始める。
「あの、そのお子様は、本当に見学を希望されていたのですか」
「どういう意味だね」
「見学を口実に、別の目的があった可能性はないでしょうか」
「何を言い出すのだ」
「誰か特別に会いたい人間が居たとか、あるいは……」
職員たちは顔を見合わせ、室長が言い難そうに薄く口を開く。
「家ではない別の場所へ逃げ込みたかったとか」
「無礼だぞ!」
エドアルドが声を荒げたが、平の事務員たちは何かを納得したように、視線を交わらせて机の仕事に俯く。
どうやら学園においては珍しくない事象なようで。
「あの、今、専門の者が参りますので、もう一度、迷子になったお子様の事を詳しくお話し願えますか」
「え……」
事態があらぬ方向へ転がりそうで動揺するエドアルド。家の恥を
公爵家嫡男相手に形式通りの礼を取って入室して来たのは、副学長と、エドアルドの知らない老年男性、そして黒髪をひっつめた二十代とおぼしき白衣の女性、の三名だった。
貴族家内の民法に明るい院所属の学者と、子供専門の心療内科医だと紹介された。何でこんな大袈裟に……
三名とも、カンタベリィ公爵家より下の家の者だが、学内の事に関してのみ強い権限を持っている。でないと教育の場を守れない。
「確認ですが、そのご令嬢は、就学年なのに何故入学していらっしゃらないのですか」
正面に腰掛けた副学長が、整った口ひげを揺らしながら質問する。
「貴族ではないからだ」
憮然と答えるエドアルド。詳しい素性は話したくない。
「この学園は、学力次第で貴族籍の無い者も受け入れております。では平民として入学試験を受けさせるご予定で?」
「いや……」
「入学は考えておられない?」
エドアルドは「ああ、おそらく」とだけ言って口を結んだ。父だってそういう考えは無いだろう。
「では何故に学校見学を?」
「…………」
「まさか冷やかしで?」
「ぶ、無礼だぞ!」
いや正にその通りで、彼も公爵も、子供の希望の上辺だけを叶えて、自分が満足したかっただけなのだ。
「私どもは各家の大切なご子弟を預かり、厳しい規則の元、細心の注意を払って学びの場を整えているのです」
副学長は至極
「そも、通わせるつもりが無いのに他所の子の学生生活を見せに来るだけなど、何とも無意味で無慈悲な事だと、わしは思いますがの」
民法学者の男性が口を挟み、隣の女医は何やらメモを取っている。
副学長が続けて言う。
「学園は家内の問題に差し出口はいたしませんが、持ち込まれた場合は最大限子供に寄り添う対処に徹します。私どもは教育者ですので」
「…………」
何も言えなくなってしまったエドアルド。哀れな平民の子にちょっと情けを掛けてやっただけなのに。
結果、こんな所で言い詰められ、貴重な時間を食い潰す羽目に陥っている。
(何故だ……)