影と触れ合ったせいか、先ほどより活力が湧いてきたサイラ。
「これなら帰れるな」
サイラは腹の痛みに歯を食いしばりながら、古いビルの地下層をよろめくように抜け出した。
空気は粉塵と腐った鉄の匂いが混ざり、上層へ繋がる階段は半分崩れている。
それでも――外へ戻らなければ死ぬ。
ノットはその後ろを静かに歩いてくる。
足音はない。
ただ“影の重み”だけが、サイラの背にまとわりつく。
「……お礼は?」
不意にノットが呟いた。
「助けただろう、私」
サイラは痛む腹を押さえながら、振り返らずに吐き捨てた。
「……助けたってより、俺が勝手に落ちて、勝手に生きてただけだ。それ以外のなんでもない。」
サイラは先ほどまでと打って変わり、冷酷に告げる。
あれは自分が見せた心の内、弱い部分だ。
アイツはすぐに手を差し伸ばされた方へ伸ばすが
俺は違う。
そう言いたげな顔をだ。
それを知ってか知らずかノットは、ふっと喉で笑った。
「強がり。でも、そういうの嫌いじゃない」
サイラはその声に苛立ちを覚えながらも、階段をよじ登る。
その時だった。
階段の破れた先――
“異界の影“が蠢いた。
放射線に侵され、骨と肉の境界を失った生物。
四つ足かどうかすら曖昧で、瞳だけが血のように赤い。
サイラが短剣を抜く。
だが、腕が震える。
腹の傷が深すぎる。
冷や汗が頬を垂れ、意識が傷の方へ自然と向いてしまう。
異界の生物がゆっくりと近づく。
獲物を品定めするように。
サイラは一歩だけ踏み出したが――
膝が折れた。
「……ッ、くそ……!動けよ、俺の足!」
ノットはその様子を見て、唇の端をわずかに上げた。
「無理をしすぎると、死ぬわよ。さっきまで死にかけてたのに」
サイラは影を睨む。影ながらに嗤っているのが伝わる肩の動きに焦燥と苛立ちを覚える。
「笑ってる場合か……!」
ノットは肩をすくめ
「笑ってないわ。ただ、あなたが不器用すぎて可笑しいだけ」
その言葉の直後――
異界の生物が跳んだ。
「俺もここまでか、」
だが、その瞬間。
世界が一段暗くなった。
まるで世界という部屋の明かりを消したような。
生物の足元に、黒い影の縄のようなものが絡みつく。
動きを縛りつけ、地面に押し止める。
サイラは驚いて振り返った。
ノットは、サイラの影と自分の影を重ねるように立っていた。
その表情は薄いが、どこか愉快そうだった。
それは、美しいガラス細工が、今にも砕け散りそうな危うさで揺れているのを、芸術品を愛でるかのように静かに見守る収集家のように。
「ふーん?あなたがあまりにも愛おしからほら、止めてあげた。……少しだけね」
サイラは息を荒げる。荒げて傷の痛みに嗚咽する。
「お前……そんな力があるなら!!ぐっ、、最初から――」
ノットはゆっくり言葉を挟んだ。
「そうしたい、でもね、サイラ。この“影の手”――ずっとは持たないの」
影縄は軋み、異界の生物は少しずつ足を動かし始める。
ゴム質のようにジリジリと伸びだす影縄を見て、サイラは効力が薄れていることを実感する。
「確かに、いや……」
ノットはサイラの目の前に片手を差し出した。
指先だけを。
「だから……指先を貸して?」
サイラは反射的に拒む。
「……ふざけんな、なんだそれ……!」
ノットの声が、急に甘く、残酷に変わる。
例えるならば甘美な囁きと、凍てつく宣告の狭間に、声は揺れていた。
それは、完璧なバラの花弁の裏に麻痺性の鋭い棘が仕込まれているのを知る感覚に似る。
相手の命を断つ無慈悲な決定を、まるで愛の契約を結ぶかのように優しく紡ぎ出す。
その声音は、永遠の眠りへ誘う子守唄のように穏やかでありながら、拒否すれば即座に燃え尽きる炎の脅威を内包していた。
「でももうすぐ足止めが解けるわ。このままだとあなた、食べられる。生きたいんでしょ?」
その声は囁きだったが、
確かに“選択肢を奪う声”だった。
サイラは息を呑んでノットを見る。
彼女は笑っていない。
ただ――サイラが選ぶのを、楽しんでいる。
影の束は、さらに歪む。
異界の生物が咆哮し、拘束を破りかけている。
ノットはもう一度言う。
「サイラ。――指先だけでいいの。」
サイラは一瞬だけ迷い、
自分の手を見る。
その手は血だらけで震えていた。
自分では何もできない、サイラはそう思わざる得なかった。
そして――彼はノットの指先に触れた。
途端、影が広がり、二人の影が一つに溶け、異界の生物の動きが完全に止まった。
ノットは小さく「いい子」と呟いた。
サイラは歯を食いしばりながら叫ぶ。
「やっぱり……お前、最初からもっとやれたろ!」
ノットは少しだけ笑う。
「ええ。でも……あなたが“私に触れる理由”がほしかったの」
異界の生物が潰れるように崩れ落ちる。
それを知っていたと言わんばかりに、影縄が解ける。
サイラは息を整えながら、ノットの手を振り払おうとしたが――
彼女は指先を離さず、離す気もなかった。
影の薄いサイラの指先には影が点り、その無駄な肉のない様々な陰影が現れている。
完璧な円が、どこか無機質な完全体であるのに対し、微かな歪みや欠けを持つことで、物語性と生きた魅力が宿るように。
そしてそれが、二人が“共犯”に堕ちる最初の接触だった。
「ねぇ、これ回収しないの?」
ノットが死を体現した異界の物を指さしながら、飽きたおもちゃを見る子供のように呟いた。
その表情は、展示された高価な宝石そのものよりも、宝石を前にした買い手の呼吸に興味を示す鑑定士に近かった。
薄い笑みの下には、対象物に対する無関心と、他者の反応に対する鋭敏すぎるほどの関心が同居している。
「あぁ、素材は売れるからな。他はこの辺に置いとけば俺が追われずに済む」
解体を始めたサイラに、ノットは近付き様子を観察する。
「なんだよ、気が散るだろ」
サイラが苛立ちを込めてそう言い放つ。
「あなたが何をするかに興味があるからね」
「勝手にしろ、」
サイラは透明な檻の中に閉じ込められた獣のように、最後の咆哮を上げた。
声は震え、表情は絶望的な自由への渇望と、逃れられない運命への静かな降伏を同時に表していた。
「勝手にしろ」という言葉は、見ている者ではなく、自分自身の抵抗の残骸を打ち砕くための槌の音。
それは、まるで諦念の海に沈みゆく者が、最後の泡として放った無意味で美しい抵抗の輝きだった。