荒れた風がビルの隙間を鳴らし、砕けたガラス片が足もとで乾いた音を立てていた。
サイラは傷が開きかけた脇腹を押さえ、息を乱しながら瓦礫の通路を駆け抜ける。
地上はもう“世界”ではない。
異界の物たちが夜明けとともに縄張りを広げ、人間はただ逃げるか、狩るか。
今日は、いや常に狩る側のはずだった。
だが足取りは重い。
さっきの戦闘で、予想以上に深く切られていた。
──そんなサイラを影がくすりと笑った。
「ねぇサイラ、走るたびに血、ぽたぽた垂れてるよ。
そのままじゃ、呼び鈴みたいなものじゃない?」
足取りの重みで、腹の傷口から血が絞り出される。
その一滴が地面を叩く音は、まさに 獣の『ディナータイム』を知らせる、無慈悲で正確な振り子時計 だ。
「……うるさい」
不意に、サイラの特異が“線”を捉える。
それは視界が異常に澄む感覚だ。
空気の流れ、瓦礫の角度、生物の筋肉の収縮。
世界が、「次にどこへ動くか」を示す歪んだ線として浮き上がる。
「……来いよ」
荒い息の中で低く呟き、迫る異界の獣の“未来の軌道”へ先回りするように刃を振るった。
獣は裂け、血煙が散った。
彼は誰にも依存しない。
誰にも背を預けない。
ずっとそうして生きてきた。
だからこそ、背後でクスクス含み笑いを漏らす“影の女”の存在は、腹立たしいほど異質だった。
瓦礫に伸びる黒い影が、人の形を構築し、その中心に赤い目の気配が浮かぶ。
見る人が見れば、それは恒星の輝きにも優る、見たものは心奪われ、取り合いを始める賢者の石のようなそんな赤い目である。
「ふふ……サイラ、やっぱりあなた、すごく綺麗ね。その“線の切り方”、もっと見たいわ」
「……ノット。離れてろ。俺はひとりでやれる」
腹部を押さえながらサイラが苦し紛れの声を出す。
「んん? そう言う男、だいたいすぐ血まみれになるのよ?あなた、もうふらついてるじゃない」
軽く笑う声は、ひどく甘く、冷たい。
サイラは舌打ちしたが、
次の瞬間――
空気が沈む音がした。
建物の影から、黒い外骨格の“上位の異界獣”が現れる。
さきほど倒したものの数段上。
攻撃速度も格段に速い。
(まずい……この区域、“強い地帯”だったか。最低でも数人でやるやつだ)
サイラは一瞬の隙を見て動き出そうとする。
だが、特異を使った反動か、傷のせいか重く、足が鈍く枷がついているようだ、たが彼の足枷は鉄ではない。
傷と影が形を成した、鎖付きの重り だ。
歩を進めようとするたび、影が足首に絡みつき、まるで地獄の使いの手が踵を掴んでいるかのように、引き留める。
それを見た獣が跳ぶ。
影が揺れる。
爪が空を切る音は、運命の書のページを唐突に、無慈悲に引き裂く音だった。
その動作はあまりにも速く、時間すらも追いつけず、その軌跡は鮮血を持って虚空に留まる 。
サイラの身体が吹き飛び、瓦礫に叩きつけられた。
「っ……サイラ!」
ノットの叫びは、影のひずみを震わせていた。
ノット、わざと弱く“止めている”のをやめた。
胸の奥に秘めていた鎖で繋がれた、畏れられて捨てられたくないという感情を、朝日が照らす光のような眩さで焼き切っていく。
それを知ってか知らずか、獣が再びサイラへ迫る。
ノットは影の足でそれを絡め取り、わざと力を弱めていた拘束を少しだけ強める。
本気は出さないが、絶対に獣が動けない程には強く。
もがけばもがくほど絡まる蜘蛛の巣のように、首吊りの縄のように。
「ねぇサイラ。力を貸してほしいなら、もう一度指先を、ちょっとだけ貸して?あなたの影に触れれば、私、もっとちゃんと“守れる”の」
「……ふざけるな、俺は――」
「んん……?もうすぐ止めてるの、解けちゃうよ?」
これだけ気持ちを振り切ってもなお“まだ本気は見せない”。それがノットの方針だった。
手に入れた“拠り所”を怖がらせたくないから。
だが今は、サイラが動かなければ殺される。
必死の力でサイラは歯を食いしばった。それは薄れる意識でもなんとか、ノットに縋れば生き延びれる気がしたから。
だが、影に指を差し出そうとした瞬間――
彼の意識が、血の失われる速さに追いつけずに、ふ、と落ちた。
「サイラ!? ……嘘、ちょっと待って、駄目、寝ないで……!」
いつもの余裕も皮肉も溶けた声。
影の中で形を持たないノットの“手”が震える。
獣が吠える。
ノットは咄嗟に異界獣を影で引き裂いた。
絶対に見せない荒々しい力。
「サイラ……やめてよ……あなたを失ったら……私はまた、影の底にひとりなの……」
その声は、深い闇の中で一筋の光を失った肖像画のように、生気と希望の色彩をすべて奪われ、ただひたすらに黒く。
感情の見えない影にでさえ感情を感じるほどの絶望感。
だが、返事はない。
ノットは覚悟を決めた。
本来、絶対に嫌われるから避けていた方法。
サイラの影を深く包み込み、
その身体を“影の脚”で操るように持ち上げる。
強制移動。
意識のない他人を動かす、ほぼ“乗っ取り”に近い。
だが今はそんなことを気にしていられなかった。
「……街に連れていく。嫌ってもいい。でも、生きててよ……私の影処サイラ」
影が地面を滑り、夜の街灯が遠くに揺れる。
ノットはサイラを抱える影を締めながら、消え入りそうな声でつぶやいた。
「あなたが、生きていないと……私が壊れるの」
荒れた夜風だけが、それを聞いていた。