転生陰陽師は平穏に暮らしたい ~神の子と呼ばれたサラリーマン、最強すぎてスローライフ計画が崩壊寸前~   作:パラレル・ゲーマー

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第19話 灰色の戦場と始まりの二人

 斉藤健太は、決意した。

『KAII HUNTER』――この、神の悪戯か悪魔の囁きか判然としないアプリが、彼の人生の中心となってから三週間。彼はもはや、ただ能力を手に入れたことに満足し、日常の中でこそこそと力を使って悦に入るだけの、臆病な少年ではなかった。

 

 あの攻略サイトのチャットルームで垣間見た、自分よりも遥かに先に進んでいるプレイヤーたちの存在。そして「裏サイト」や「狂人(ランカー)」といった、得体の知れない言葉。

 

 もっと知りたい。

 もっと強くなりたい。

 

 灰色の日常を塗り替えるための力を、彼はすでに手に入れた。だが、それだけでは足りなかった。彼は、この力が存在する「世界の本当の姿」を、この目で見ずにはいられなかったのだ。そのためには――。

 

「……やるしかないか」

 

 自室のベッドの上で、彼はスマートフォンの画面を睨みつけながら、覚悟を決めたように呟いた。画面に表示されているのは『KAII HUNTER』のホーム画面。その片隅にある『デイリークエスト』の一覧。彼は今までずっと無視し続けてきた、その項目をタップした。

 

【デイリークエスト:Tier5の怪異を一体討伐せよ】

 報酬:スキルポイント × 50、初心者討伐ボックス × 1

 

 報酬は、能力を数回使うだけのクエストとは比較にならないほど魅力的だった。だが同時に、明確なリスクがそこには存在した。遊びではない、本物の「戦い」。下手をすれば、死ぬかもしれない。

 

 健太は、ごくりと唾を飲み込んだ。心臓が早鐘のように高鳴っている。だが不思議と恐怖はなかった。むしろ、武者震いに似た高揚感すら覚えていた。

 

 彼はホーム画面のもう一つの機能、『怪異レーダー』を起動した。画面がGPSと連動した地図に切り替わる。そこには彼の現在地を中心に、いくつかの赤いドットが明滅していた。それが、この近辺に巣食う怪異の居場所を示しているらしかった。

 

 そのほとんどは、最もランクの低い「Tier5」を示す、小さな赤い点。彼はその中から、自宅から最も近く、そして周囲に人気のなさそうな場所を選んだ。――駅から少し離れた、建設が途中で放棄された古い五階建ての雑居ビル。

 

「……よし」

 

 彼は短い決意の言葉と共にベッドから立ち上がると、クローゼットから黒いパーカーと動きやすいジーンズを取り出した。そしてスマートフォンをポケットにねじ込むと、誰にも何も言わずに静かに自室のドアを開けた。

 

 初めての「狩り」が、今始まろうとしていた。

 

 ***

 

 夜の闇が支配する廃ビル。

 健太は、錆び付いて半分開いたままの鉄柵を乗り越え、その敷地内へと足を踏み入れた。生温い夜風が、彼の頬を撫でていく。ひび割れたコンクリートの隙間からは雑草が生い茂り、カエルの鳴き声だけが不気味なほど大きく響き渡っていた。

 

 彼はスマートフォンを取り出し、『怪異レーダー』を再確認する。赤いドットは、このビルの三階部分で激しく明滅していた。

 

(……いる。本当にいるんだな)

 

 彼は逸る心を抑えながら、ビルの入り口へと向かった。ガラスの割れた自動ドアを抜け、内部へと侵入する。中は、シンナーの匂いとカビの匂いが混じり合った、独特の悪臭に満ちていた。床には、瓦礫やゴミが散乱している。

 

 彼は息を殺しながら、埃っぽい階段をゆっくりと上っていった。一歩進むごとに、心臓の鼓動が自分の耳の中で大きく響く。三階のフロアにたどり着いた時、彼の目は暗闇に慣れ始めていた。そして――いた。

 

 フロアの最も奥、月の光が差し込む窓枠の下に、それはいた。

 身長は一メートルほど。緑色の醜くたるんだ皮膚。頭には一本の歪んだ角。手には、どこから拾ってきたのか、錆びついた鉄パイプのようなものを握っている。チャットルームで誰かが「ゴブリンもどき」と呼んでいた、最もありふれたタイプの雑魚怪異だった。

 

 怪異はすでに彼の存在に気づいていた。低い唸り声を上げ、血走った目で健太を睨みつけている。

 

 健太は、ゴクリと唾を飲んだ。これが怪異。これが、自分がこれから倒さなければならない「敵」。

 

(……落ち着け。大丈夫だ)

 

 彼は自分に言い聞かせた。相手は、このゲームにおける最弱のスライムのような存在だ。そして自分は、最高レアリティのSSR能力『念動力』を持っている。負けるはずがない。

 

 彼はポケットのスマートフォンには触れなかった。この力は、もはやアプリを起動しなくても、彼の意思のままに発動できる。彼はまず手始めに、足元に転がっていた拳ほどの大きさのコンクリート片へと意識を集中させた。

 

(――浮け)

 

 コンクリート片が、音もなくふわりと宙に浮いた。完璧な制御。

 

 怪異は、その超常現象を前にしてわずかに警戒の色を見せた。だが、その獣じみた本能は、恐怖よりも食欲を優先したらしい。

 

「グルルル……ギャアァァッ!!」

 

 怪異は耳障りな奇声を発すると、鉄パイプを振り上げ、健太めがけて一直線に突進してきた。

 

(――行け!)

 

 健太がそう念じた瞬間、宙に浮かんでいたコンクリート片は、まるで弾丸のように射出された。それは正確に、そして凄まじい速度で、怪異の眉間へと吸い込まれていく。

 

 ゴッ!――という鈍い音がフロアに響いた。

 

 コンクリート片は怪異の額に深々とめり込み、その勢いのまま後頭部を突き破って反対側へと突き抜けていた。

 

 怪異の動きが、ぴたりと止まる。その血走った目からは「信じられない」という驚愕の色が見て取れた。そして次の瞬間には、その身体は内側から淡い光を放ち始め、塵となって音もなく崩れ落ちていった。後には、焦げ付いた匂いすら残らなかった。

 

「…………」

 

 健太は、その光景を呆然と見つめていた。

 

 あっけない。あまりにも、あっけない幕切れだった。命のやり取り、死闘。そんな言葉から想像していたものとは全く違う。ただ、邪魔な石ころを道端からどかしたような――そんな事務的な感覚。

 

 彼のポケットの中のスマートフォンが、ぶぶっと短く振動した。画面にはポップアップ通知が表示されている。

 

【クエストを完了しました! 報酬を獲得しました!】

 

(……なんだ。こんなものか)

 

 拍子抜けという言葉が彼の頭をよぎった。だが同時に、彼の胸には今まで感じたことのない、どす黒い達成感がじわりと広がっていくのを感じていた。

 

 これが「狩り」。

 これが「力」。

 

 彼は、まるで何かに取り憑かれたかのように、次の獲物を求めてスマートフォンのレーダーを再び起動させた。

 

 ***

 

 それから数日間、斉藤健太の「怪異狩り」が始まった。

 学校が終わると、彼はすぐに帰宅し、制服から動きやすい私服へと着替える。そして夜の闇に紛れて、レーダーが示す場所へと向かう。廃工場、閉鎖された地下道、誰も寄り付かない墓地。そういった、世界の淀みが溜まる場所には、必ずと言っていいほど怪異は巣食っていた。

 

 彼は戦いを重ねるごとに、急速に成長していった。

 最初はコンクリート片や鉄パイプといった、その場に落ちている物を武器として使っていた。だがすぐに気づいた。そんなものでは効率が悪い、と。彼は、念動力の新たな可能性に目覚め始めた。

 

 ある時は、周囲の瓦礫を無数に浮かべ、それらを一度に敵へと射出する、散弾銃のような戦い方を見せた。

 またある時は、巨大な鉄板を念動力で操作し、敵の攻撃を防ぐ盾とし、同時にそれを高速回転させて敵を切り刻む凶器へと変えた。

 

 彼の戦闘スタイルは、日を追うごとにより洗練され、より冷徹に、そしてより残忍なものへと進化していった。

 彼は、もはや怪異を「生き物」だとは見ていなかった。それは、スキルポイントとドロップアイテムをくれる、ただの「経験値」でしかなかった。

 

 SSR念動力――その力は、Tier5クラスの雑魚怪異にとっては、あまりにも絶対的すぎた。

 

 その日も健太は、いつものように夜の街を徘徊していた。今夜のターゲットは、廃墟となった商業施設の地下駐車場に巣食うTier5の怪異が三体。彼にとっては、もはやウォーミングアップにもならない、手慣れた作業のはずだった。

 

 彼は薄暗い地下駐車場へと足を踏み入れた。ひんやりとした湿った空気が肌を撫でる。奥から、グルルルという低い唸り声が聞こえてきた。三体のゴブリンもどきが、すでに彼の存在に気づき、こちらを睨みつけている。

 

「……三体か」

 

 健太は、何の感慨もなく呟いた。彼は、まるでベルトコンベアのスイッチを入れるかのように、無意識のうちに周囲の鉄屑やコンクリート片を念動力でふわりと浮かせた。いつでも弾丸として射出できる状態だ。

 

「――まとめて終わらせるか」

 

 彼がその殺戮の引き金を引こうとした、その時だった。

 

「――待って!」

 

 凛とした、しかしどこか必死な響きを持った少女の声。

 健太ははっとして、声がした方へと振り返った。

 

 駐車場の柱の影から、一人の少女がおずおずと姿を現したのだ。

 歳は健太と同じくらいだろうか。少しウェーブのかかった柔らかな髪。大きな瞳は、怯えと、そして強い意志の光をないまぜにして、まっすぐに健太を見つめていた。服装は、どこかの私立高校の清楚なセーラー服。こんな危険で薄汚い場所にいるべき人間ではないことは、一目瞭然だった。

 

「……誰だ、お前」

 

 健太は、警戒を最大レベルに引き上げながら問いかけた。まさか、自分以外にもこんな場所に人間がいるとは。

 

「……あなたは、『ハンター』の人……ですよね?」

 

 少女は震える声で尋ねてきた。その口から出た「ハンター」という単語に、健太は息を呑んだ。

 

(こいつも……プレイヤーか?)

 

「だったらなんだ」

 

「あの……! お願いがあるんです! わ、私と……パーティーを組んでもらえませんか!?」

 

 少女は意を決したようにそう言って、深々と頭を下げた。

 

「……は?」

 

 健太の口から、間の抜けた声が漏れた。パーティー? MMOゲームじゃあるまいし、一体何を言っているんだ、この女は。

 

 その二人の奇妙な対峙を、三体の怪異は不思議そうに眺めていた。だが、やがて痺れを切らしたのか、そのうちの一体が再び奇声を発しながら、少女めがけて突進してきた。

 

「――危ない!」

 

 健太が叫ぶよりも速く、少女が動いた。彼女はスカートのポケットから、健太と同じようにスマートフォンを取り出すと、その画面をタップした。

 

「『身体能力強化(弱)』!」

 

 彼女の身体が淡い光に包まれる。それは先ほどの健太の圧倒的な力とは比較にならない、本当に微弱な霊力の発光だった。だが、彼女の動きは確かに常人のそれとは一線を画していた。彼女は、突進してきた怪異の鉄パイプを、しなやかな動きでひらりとかわすと、その懐へと潜り込む。そして、小さな拳を怪異の鳩尾へと叩き込んだ。

 

 ドンッ!――という鈍い音が響く。

 

 だが怪異は、よろめきもしなかった。Tier5とはいえ、それは人ならざる化け物なのだ。少女の非力な拳など、まるで効いていない。怪異は嘲笑うかのように、反撃の鉄パイプを振り下ろした。

 

(――馬鹿が!)

 

 健太は、内心で悪態をついた。彼は浮かせていた鉄屑の一つを、思考の速度で射出する。それは、振り下ろされる鉄パイプを横から弾き飛ばし、あらぬ方向へと逸らさせた。

 

 そして続けざまに、三つのコンクリート片を、三体の怪異の眉間へと、寸分の狂いもなく撃ち込んだ。

 

 ゴッ! ゴッ! ゴッ!

 

 三つの鈍い音が、ほとんど同時に響き渡る。三体の怪異は、何が起こったのかも理解できないままその場に崩れ落ち、塵となって消えていった。

 

「…………」

 

 少女は、目の前で起きたあまりにも圧倒的な光景に、ただ呆然と立ち尽くしていた。彼女の必死の攻撃をものともしなかった怪異たちが、ほんの一瞬で、まるで虫ケラのように片付けられてしまったのだ。

 

「……お前、馬鹿だろ」

 

 健太は、冷たい声で言った。

 

「あんな雀の涙ほどの強化能力で、まともに戦えると思ってんのか。自殺行為だぞ」

 

「……う……」

 

 少女は何も言い返せなかった。正論だったからだ。

 

「で? さっきの話の続きだが……。パーティー? なんで俺がお前なんかと組まなきゃいけないんだ。足手まといにしかならんだろうが」

 

 健太の言葉は、氷のように冷たかった。だが少女は俯いたまま、それでも必死に言葉を紡いだ。

 

「……私には、戦闘能力はほとんどありません……。でも……!」

 

 彼女は顔を上げ、再び健太の目をまっすぐに見つめた。その瞳には、涙が浮かんでいた。

 

「……私には『治癒能力』があります! もしあなたが怪我をしたら、私が治しますから……! だから、お願いします……!」

 

「……治癒能力……?」

 

 健太の動きが、ぴたりと止まった。それは彼が持っていない能力。そして、この危険な「ゲーム」をプレイしていく上で、最も価値のある能力の一つかもしれない。

 

(……怪我か)

 

 今まで彼は怪我などしたことがなかった。格下の相手としか戦っていなかったからだ。だがこれから先、もっと強い敵と戦うことになったら? チャットルームで話されていたTier3や、それ以上の怪異と。――その時、自分は無傷でいられる保証など、どこにもない。

 

(……こいつと組めば、保険にはなるか……?)

 

 リスクとリターン。彼の頭の中で、天秤が揺れ動く。

 

「……怪我した時を考えると、まあ組んでおいた方が良いかもしれんな」

 

 彼は、まるで自分に言い聞かせるかのようにそう呟いた。そして少女へと向き直った。

 

「……うん。良いぜ。組んでやるよ」

 

 その言葉に、少女の表情がぱあっと――まるで暗闇に朝日が差し込んだかのように――明るくなった。

 

「ほ、本当ですか!? ありがとうございます!」

 

「ただし言っとくが、俺はお前の護衛じゃない。お前は自分で自分の身を守れ。俺は、俺が倒したい敵を倒すだけだ。いいな?」

 

「は、はい! 分かってます!」

 

「よし。じゃあ行こうか」

 

 健太は、まるでそれが当然であるかのように、駐車場のさらに奥へと躊躇いなく足を踏み入れていった。

 

「え? い、行くって……どこへ……?」

 

「決まってんだろ。次の『狩り場』だよ。レーダーによれば、この階の奥にもう一体、いや二体いるらしい」

 

 その、あまりにもあっさりとした言葉に、少女は目を白黒させた。だが彼女は、慌てて健太の後を追いかけた。

 

「あ、あの!」

 

「なんだ」

 

「……名前、まだ聞いてませんでした。私は、桜井(さくらい)詩織(しおり)って言います」

 

「……健太だ」

 

 健太は、振り返りもせずに短くそう答えた。

 

「健太さんですね! あの、健太さんは怪異狩り始めてどれくらいなんですか?」

 

「いや? 能力を手に入れたのが二週間くらい前で、怪異狩りを本格的に始めたのは、ほんの数日前だ」

 

「へー! 私と同じくらいですね!」

 

 詩織の声が、少しだけ弾んだ。

 

「私は、能力を手に入れてからは、おばあちゃんの腰痛を治したり、飼ってる犬の怪我を治したり、そういうことにしか使ってなかったんです。でも、それだけじゃ全然スキルポイントが貯まらなくて……。能力の進化が完全に滞っちゃって。それで最近になって、意を決して怪異狩りを始めたところだったんです」

 

「……なるほどな」

 

「でも、私の戦闘能力なんて、本当に『身体能力強化(弱)』くらいしかなくて……。ほとんど倒せなくて困ってたんです……」

 

「まあ、俺が倒すから問題ない」

 

 健太は事もなげに言った。

 

「俺のは、SSRの念動力だからな」

 

「エスエスアール!? すごいですね、健太さん!!」

 

 詩織の、裏表のない純粋な尊敬の眼差し。それは健太が今まで誰からも向けられたことのない種類の光だった。彼の胸の奥が、ほんの少しだけくすぐったいような、温かいような、奇妙な感覚に包まれた。

 

 灰色の戦場に二人。

 一人は最強の力を手に入れ、孤独に突き進む少年。

 もう一人は、人を癒す力しか持たない、心優しい少女。

 

 およそ釣り合いの取れているとは思えない、歪なパーティー。

 だが、これが斉藤健太という少年が、孤独な「神様ごっこ」を終え、初めて「誰か」と共に戦う物語の始まりとなることを、彼自身はまだ知らなかった。

 

 ――二人の、不器用で危険な冒険が、今、静かに幕を開けた。

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