この世界には、皆が力を持っていた。
ある者は、その力を生活に役立て――
またある者は、力を生かして生計を立て――
そして、またある者は、その力を使い人を集めていた。
夜の帳が降りる頃、田舎の教会はいつものように静寂の中に沈んでいた。
神父は祭壇の前で祈っていた。確かに、自分の実力はこの地にしては過ぎたものだったかもしれない。だが、田舎だからこそ平穏があり、誰かの救いに寄り添えるのだと、そう信じていた。
だが、その祈りは血に塗れて終わった。
――不意に、鐘楼から鈍い音が鳴った。
風ではない。獣でもない。もっと人為的な、いや、悪意的な音だった。
次の瞬間、教会を包む静寂は砕かれ、鮮血と悲鳴が入り混じる地獄へと変わった。
助祭が最初に絶命した。背後から喉を裂かれ、声も出せずに倒れた。
シスターは逃げようとしたが、足首を斬られ、這った先で何度も刃を突き立てられた。
神父が駆け寄ったときには、既に彼女の目は濁っていた。
逃げ惑う人々。
「なぜ……!」
神父の叫びも虚しく、襲撃者はまるで影のように滑り込んできた。
黒衣に身を包み、顔を覆面で隠した暗殺者――その動きには無駄がなく、殺しを職務とする者の静かな獣性が滲んでいた。銀に光る刃を手に、音もなく祭壇前の神父へと迫る。
「お前だけが残ったか」
その低い声に、神父の膝が震えた。
意志とは関係なく、身体が硬直する。恐怖が内臓を締め付け、理性が足元から崩れていく。
「誰一人守れず、逃げることすらもできなかった己の弱さを恨むんだな」
剣が振り上げられた。殺意は迷いなく、刃は真っ直ぐ神父の首元を狙って――
――止まった。
まるで時が凍り付いたかのように、すべての音が失われた。
剣も、殺意も、空気までもが一瞬にして沈黙に包まれる。
その凪のような静寂の中、どこか柔らかく、だが決して温かくはない、どこか壊れた蓄音機のような声が響いた。
「こぉれは、これはぁ!」
奇妙に陽気な響きと共に、襲撃者の肩に“それ”が触れた。
「もう少し遅ければ、大変なことになっていましたねぇ!」
その声が落ちると同時に、空気が微かに揺らいだ。
男の背中から、音もなく黒い触手がぬるりと伸びていく。しかしそこに、粘液のぬめりや異臭はない。ただ静かに、禍々しいほどに滑らかで、まるで影が実体を持ったかのような質感だった。
気配を察知した暗殺者が反射的に跳ね退る。鋭い目で触手をとらえ、刃を抜いた。
「化け物が……ッ!」
一触即発。
触手が一閃。空気を裂く風音とともに、闇の中をしなるようにして襲いかかる。暗殺者は飛び退りつつ、刃で応戦。ぎん、と火花が散った。
弾いた……かに見えたが、触手はまるで痛みも衝撃も感じていないかのようにすぐさま別の角度から振りかぶる。まるで意思を持った蛇のように、獲物の死角を的確に狙うその動き。
「――っ!」
暗殺者の額に汗がにじむ。身のこなしは鋭い。蹴り上げた床を踏み台にして、一気に奥にある懺悔室の壁際まで距離を取り、構え直す。
だが、男は動かない。ひたすら、その背から伸びる漆黒の触手たちが、彼に代わって獲物を追い詰めていく。
一撃、また一撃。鉄のように硬質な刃も、触手のしなやかさと数に押されてゆく。
そして――
一瞬、足を滑らせた。暗殺者の動きがわずかに乱れた。
その隙を、触手が見逃すはずもなかった。
一条の影が直線に跳ね、鋭くしなった触手が、暗殺者の腹を貫く。
絶叫が教会に響いた。
腹、胸、喉――次々と槍のように突き刺さる触手が、臓腑を穿ち、骨を砕き、身体を宙に持ち上げる。
血が噴水のように舞い、赤黒い雫が聖堂の石畳を染め上げた。
その惨劇の中心で、“それ”――悪魔は、笑っていた。
「フフッ、ヒヒッ……あっはっはっはっはっ!」
楽しげに、芝居がかった口調で、まるで誰かと観劇でもしているかのように。
真紅のスーツ、ねじれた笑顔、小さな角を生やした頭部。そして一方だけギラつく瞳には、凄絶な快楽の色が宿っていた。
「なんて、素晴らしい叫び! 耳を犯すような、心を揺さぶる絶望の音色! ああ……嗚呼……もう一度、もう一度ッッ!」
触手がさらに深く入り込み、ぐちゃりと音を立てて内側をかき回す。
暗殺者の目が白くひっくり返り、もはや声を出すこともできず、泡混じりの血を吐きながら痙攣する。
やがて、沈黙が戻る。
そこにはただ、貫かれたまま吊るされる死体と、それを眺めながら微笑む何か――
そしてその光景を見つめ、息も忘れて立ち尽くす神父だけが残された。
触手が、腹部を貫き、背中を突き抜ける。血が霧のように噴き出し、教会の床を赤黒く染めた。
「お前は一体……」
血と死の臭いの中、神父はただ立ち尽くしていた。
「……貴方を助けに来た悪魔ですよ」
その声は、どこか壊れかけた蓄音機のようだった。音の端々にノイズが混じり、古びたラジオがつまらない雑談を再生しているような、不快で、なのに妙に耳に残る声。
神父が顔を上げると、そこには“それ”がいた。
真紅のスーツに身を包み、背筋を伸ばして悠然と歩く男――否、悪魔。
靴音は石畳の床にカツカツと小気味よく響き、その一歩一歩が、この場に不釣り合いなほど“陽気”だった。
まるで舞台の登場人物のように、堂々と、演技がかった動きで近づいてくる。
笑みを絶やさぬ口元。
それは礼儀にも見えるが、その目の奥に宿った光――片目だけが、ラジオのノイズのようにチカチカと明滅していた。
その目が、神父を見ていた。真っすぐに。
だが、そこに慈しみも同情もなかった。ただ、面白がるような、遊び道具を見るような、冷たい狂気だけがあった。
「……あ、悪魔……?」
神父は呟く。信じたくなかった。だが、口から漏れ出たその言葉を、悪魔は笑みとともに受け止めた。
「そうです」
答えはあっさりとしていた。
認めることに、躊躇はない。恥もない。誇らしげですらある。
男――いや、悪魔はステッキをひょいと回してみせる。
金属の軋む音が空気を裂き、彼の動作一つひとつが、奇妙に滑らかで、無駄がなく、それでいて演出めいていた。
その頭には、鹿のように枝分かれした角が生えていた。光の加減で赤黒く輝き、その異形さを際立たせる。
ふと、背後から何かが動いた。
見えたのは、黒緑色の触手。闇よりも濃いその色は、粘液をまといながら静かに、いやらしく、“生き物のように”蠢いていた。
しかし、その異様な姿すらも、この悪魔の一部――彼の「演出」のように思えてしまう。現実感が失われていく。
ここは教会だ。聖域だ。神の加護の場だ。
けれどその男が現れた瞬間から、全てが変わってしまった。
この空間は、神のものではなくなった。――悪魔の舞台になってしまったのだ。
神父は膝をつき、震える手で血に濡れた床を掴んだ。
ぬるりと滑る。それは乾く間もなく流れた、無数の命の温もりだった。
――遅かった。
すぐに来ていれば。
あの叫び声の中に、あの祈りの中に、あの目を見開いたまま絶命したシスターたちの命の中に、この悪魔が現れていれば――。
神父は拳を握り締め、うつむいたまま唇を噛みしめる。
「どうして……」
低く、絞り出すような声だった。
「どうして……もっと早く来てくれなかったんだ……!」
血の海の中に立つ悪魔は、その言葉を聞いても微笑みを崩さなかった。
むしろ、唇の端を少しだけ釣り上げて、肩をすくめる。ステッキを床にコツリと当てながら、あっけらかんと、まるで天気の話でもするかのような声で言った。
「今回の契約には、貴方を守ることしかありませんでしたので」
神父の背に、冷たいものが走った。
「なに……?」
「私、こう見えて契約には律儀なんですよ? お代は前払い。契約範囲も厳密に、きちんとね。――ほら、悪魔ですから、嘘をつくわけにはいきません」
その笑みは滑稽に見えて、ひどく冷たかった。
悪魔の声は愉快そうに響いていたが、そこには心からの共感も、悔いも、悲しみもなかった。ただ、“理解”がないだけの者”の口ぶりだった。
「貴方を守る――そう取り決めたのは、私をここに呼び寄せた契約者です。残念ながら、彼らは他の命までは賭けなかった。それだけのことです」
「ふざけるな……!」
神父が叫んだ。血に濡れた手を地面に叩きつける。
「ふざけるな……ふざけるなッッ!!」
怒りが、胸を焼いた。
あの子たちは、笑っていた。毎日を祈っていた。善くあろうとしていた。
それが、どうしてこんな結末になる。
それを前にして――この悪魔は、涼しい顔で言うのだ。「契約だから」と。
「だったら……!」
神父は呻いた。
「どうして、俺なんかを守る契約にした!? 俺じゃない、あの子たちを守ってくれれば……!」
彼の指を指す先にはまだ幼いシスター見習いたちが倒れている。
「俺なんかよりも、未来ある若人を……ッッ!」
悪魔は少しだけ、視線を伏せた。
そして、再び顔を上げ、笑った。
「それは、貴方が彼らにとって――最も守りたかった存在だったからじゃないですか?」
神父は言葉を失った。
「貴方が信じた信仰は、彼らが信じた神でもあった。そして、貴方が生きていれば、祈りは続く。教えは消えない。――それが、彼らの“選択”だったんです」
悪魔の声は、相変わらず狂気じみていた。
だがその中に、ほんのわずか――本当に、微かな、敬意のようなものが滲んでいたようにも思えた。
神父は沈黙した。
血の臭いが、教会の中を満たしていた。
美しかったはずの聖堂の柱も、ステンドグラスも、今はただ、命の最期を見届ける墓標のように沈黙していた。
悪魔は笑ったまま、一歩近づき、手を差し出した。
「さあ。立ってください、神父さま。貴方はまだ、生きているのだから」
悪魔はひときわ愉快そうに口角を釣り上げ、ぴたりと神父の前で足を止めた。
「呼ばれたからには、役目を果たします。これから、次の襲撃があるまで――私は、貴方を守りましょう」
神父はゆっくりと顔を上げた。
その顔は、人間のものだった。
だが、その眼差しは、どこか機械的な冷たさを帯びている。
深紅の神父服をまとい、金の縁取りが施された衣の裾が、吹き込む風に揺れていた。
白い指先には、黒ずんだ血が滲んでいる。
その掌で握り締められた十字架が、小さく軋む音を立てた。
「……本当に、守るつもりなのか」
低く、くぐもった声が静かな教会に響く。
その声音には、祈りでも赦しでもない――ひどく人間らしい、疲労と諦めの色が滲んでいた。
「すべてが、遅すぎる気もするが……」
男は立ち上がり、悪魔と正面から向き合った。
顔立ちは整っているが、頬はやや痩け、目の下には深い影が落ちている。
その瞳に宿るのは、信仰ではなく――決意と痛み。
「俺の名前は、ヴォックス。ここで信者を導いてきた……神父だ」
その言葉に、悪魔アラスターは、眉一つ動かさずに笑みを浮かべた。
まるで舞台の幕が上がったかのように、誇張された動作で一礼する。
「……ヴォックス神父。良い響きですねぇ」
「勝手に満足するな……」
ヴォックスは視線を落とした。
床には、無数の血の跡と、割れたステンドグラスの破片。
それらが蝋燭の灯に照らされ、赤黒い光を放っている。
彼の胸中で、信仰と罪悪感が入り混じり、痛みを訴えるように脈を打つ。
「守るというのなら、せめて、次は――」
「――ええ、次は、ですね」
アラスターは口の端を持ち上げた。
その笑みは、愉悦と嘲弄のあいだに揺れる不気味な曲線だった。
「ご安心を。今度は契約も、準備も、すべて整えましょう。私、こう見えて計画主義者なんですよ」
「信用できないな」
「当然です。でも大丈夫――私には、契約がありますから」
ヴォックスは皮肉げに息を吐いた。
その笑いには、もはや信仰者の穏やかさはなく、ひとりの“人間”の憔悴がにじんでいた。
高い天井を抜けて、夜風が割れた窓から吹き込む。
血と煙の匂いが混ざり、紙片が宙に舞った。
アラスターは動じることなく、杖の先を軽く鳴らす。
コツン――と響いたその音が、まるで祈りの終わりを告げる鐘のようだった。
「……お前のことは、なんて呼べばいいんだ?」
ヴォックスの問いに、悪魔はわずかに肩をすくめて答えた。
「私の名前はアラスター。以後お見知り置きを!」
その瞬間、血の匂いに包まれた教会に、奇妙な契約が静かに結ばれた。
神に仕える人間と、地に堕ちた悪魔――二つの異なる存在の間に、初めて“名前”という橋が架けられた。
崩れかけた礼拝堂の中で、二人はただ、無言で見つめ合っていた。
次の襲撃が訪れるその時まで――ほんの束の間の、血と静寂の夜だった。