神父ヴォックスと悪魔アラスター   作:わら

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※原作よりも、ヴォックスがアラスターアンチではないです。


1, 作戦会議

 

 

 ぬるりと、何かが足元を掠めた。

 見下ろすと、そこには赤黒い液体があった。最初はただの水溜まりかと思った。だが違う。それは血だった。

 

 気づけば、地面一面がそれで覆われていた。床も壁も、どこを見ても血、血、血。

 どくん、と心臓の鼓動が聞こえたかと思えば、液体がじわじわと這い寄ってくる。いや、違う――これは、這い寄っているのではない。

 

 引きずり込まれているのだ。

 

 足が沈む。もがいても、動けない。

 冷たいのに、どこか生温かく、いやらしい粘り気が、靴の内側へと染みていく。ひざ、腰、胸、そして首へと、血の海がゆっくりと這い上がってくる。

 

「やめろ……やめろ……ッ」

 

 声は虚空に吸い込まれる。だれも助けてくれない。

 やがて視界の端で、見覚えのある顔が微笑んだ――いや、笑っていた。

 それが誰かを認識する前に、血が口の中にまで達し、世界が赤黒く塗りつぶされていく。

 

 そして――

 

「うわぁぁああ──!」

 

 男の叫び声が、重く湿った空気を揺らした。

 荒い息遣い。額を濡らす冷たい汗。胸を押さえ、ヴォックスは勢いよく身を起こす。

 

 心臓が、内側から何度も強く扉を叩くように脈打っていた。

 息を吸っても、肺の奥が焼けるように熱い。

 全身が、血のような恐怖にまだ濡れていた。

 

 だが──。

 

 あの血まみれの教会も、絶命したシスターたちの姿も、どこにもなかった。

 

 窓からは朝の光が差し込み、空気は清浄で、静かだった。

 天井に染みひとつない。床も赤黒く濡れていない。

 

「……は?」

 

 彼はしばらく、呆然と部屋を見回した。

 

 木造りの壁。剥げかけた机。椅子の上には、昨日と同じ、読みかけの福音書。

 部屋は穏やかで、静謐で、なにも変わっていなかった。

 

 ──そうか。

 あれは、夢だった。悪い夢だったのだ。

 

 自分にそう言い聞かせるように、神父はそっと額を撫でる。

 けれど指先には、かすかに鉄のような匂いが残っていた。

 

 

「おはようございますー、神父さま」

 

 どこか調子外れな、のんびりとした声が響く。

 

 神父は、反射的に跳ね起きて、その声の主を見た。

 

「……は?」

 

 

 

 ドタドタと階段を駆け降りる音が響く。

 

 そこには、整然とした教会のホール。血の跡ひとつなく、昨日の惨劇がまるで幻だったかのように清らかな朝が差し込んでいた。

 

 だが、それよりも──

 

「おい! アラスター!」

「いるんだろ! 出てこい!」

 

 ヴォックスは血相を変えて走り出す。

 昨日、確かに現れた悪魔──アラスターの姿を探して。

 

「はいはい、そんなに焦らずとも、私は逃げたりはしませんよ」

 

 声と同時に、祭壇の影からひょっこりと姿を現したのは、昨日と同じ、紅い目をした悪魔だった。

 

「おまえ……! あいつらはなんだ?!」

 

 ヴォックスが震える指先で示した先には、朗々と賛美歌を歌う聖歌隊、掃除をする助祭、祈りを捧げる修道士たちの姿があった。

 

 そのすべてが──昨日、目の前で無惨に殺された人間たちに、そっくりだった。

 

「私が作り出した分身というべきでしょうか?」

 

 アラスターは聖堂の中央でくるりと一回転しながら、まるで舞台俳優のように答えた。

 

「……はぁ?!」

 

 ヴォックスは額を押さえた。痛みはない。夢ではない。現実だ。

 

「今ここで、貴方以外全員殺されたと知られれば、私たちが不利になりますからね」

 

「そのため、カモフラージュとして、このように彼らを配置したのです」

 

 たしかに、目の前の教会は整然としていた。美しく、静謐で、穏やかで──まるで惨劇などなかったかのようだ。

 

 だが。

 

「それにも驚いたが……違う! 俺が驚いたのはお前の格好のことだ!!」

 

 ヴォックスが叫ぶように言った瞬間、アラスターは上品に両手を組み、微笑みを返した。

 

 彼の姿は──

 

 どう見ても、修道“女”だった。

 

 肩を覆う黒いヴェールに、細身の礼服。裾の長いスカートが、歩くたびにふわりと揺れ、レースの手袋がその細い指先を隠している。

 だが顔には、いつもの歪な笑み。そして背後には蠢く黒緑の触手が、まるで「正体は隠す気がない」とでも言うように、ゆらゆらと揺れていた。

 

「はい、私も貴方のそばで守るために、変装をしてみました。どうです? 似合いますか?」

 

 アラスターは軽く片足を上げて一礼した。

 

「そ、そうだな……」

 

 それがどう見ても女性用であることを、ヴォックスは言わないでおくことにした。

 

「なんですか、その反応は?」

 

 アラスターは不思議そうに小首を傾げ、くすくすと笑った。

 ヴォックスは咳払いをして、視線を逸らす。

 

 ──これが現実だというなら、まだ悪夢の途中なのかもしれない。

 

「まぁ、いいでしょう」

 

 アラスターはため息をつきながら、椅子に優雅に腰を下ろすと、指先で空中に模様を描くようにして言葉を紡ぎ出した。

 

「まずは、貴方の敵から考えていきましょう」

 

 朝の光が差し込む静かな礼拝堂。信徒の姿こそ幻影だが、その空気はどこか緊張感に満ちていた。

 

「昨夜、貴方は何故襲われたのか。心当たりはありますか?」

 

 ヴォックスは、しばらく黙ってから鼻で笑った。

 

「ない」

 

 即答だった。

 

「そうでしょうね」

 

 アラスターは微笑みながら、形の良い顎に指を添える。

 

「では、言い方を変えます。貴方に何かつっかかってきたり、文句を言った人はいましたか?」

 

「……それも、ない」

 

「……」

 

 しばしの沈黙。アラスターはステンドグラスに映る光を眺めながら、小さく肩をすくめた。

 

「まず、貴方は何者かに狙われているということを、自覚した方がよろしいと思います」

 

「はぁ……?」

 

 ヴォックスの声には、苛立ちがにじんでいた。

 

「俺は善人だ。偉大なる神父だぞ。一体誰が俺を狙うというんだ」

 

「ですが、貴方は昨日、殺されかけました。私がいなければ、今ここにはいなかった」

「くれぐれもそのことをお忘れなく~」

 

「……」

 

 口を閉ざすヴォックスの前で、アラスターはにっこりと笑った。

 

「貴方を守るのが、今の私の役目です。少し嫌ですが、契約を破れば、その反動が私に来ます。なら、守っていた方が、ずっと効率的でしょう」

 

「効率的……な」

 

「昨日のように、来た者を返り討ちにする。それが今の最良の手段です。貴方はいつも通り、教会の務めを。ですが――」

 

 アラスターの目が、わずかに鋭くなった。

 

「私から離れないでください。離れると守りづらいので」

 

 ヴォックスは目を逸らしながら、頭をかいた。

 

「まるで、俺が軟弱者みたいな扱いじゃないか……」

 

「実際そうでしょう?」

 

「……ッ」

 

 言い返したかったが、何もいえなかった。

 

 

 それから数日が過ぎた。

 

 アラスターは、礼拝の間も説教の最中も、常にヴォックスの背後につき、笑顔を絶やさず監視していた。

 一方、ヴォックスはといえば、最初こそ警戒していたものの、日々が穏やかに過ぎるにつれて、徐々に気が緩み始めていた。

 

 誰も襲ってこない。血も流れない。

 信徒たちは――一部が幻影とはいえ――日々の祈りを捧げ、聖堂は静かで美しいままだ。

 

 そんなある日。アラスターとヴォックスは聖堂裏の小部屋で、ささやかな「作戦会議」を開いていた。

 

「なぁ、アラスター」

 

「なんでしょう?」

 

「……本当に、また襲撃なんてあるのか?」

 

 アラスターはステッキを回しながら、薄く笑った。

 

「貴方は“まだ起きていない”からといって、“起きない”と判断するんですね。楽観的で羨ましい限りです」

 

「いや、だって、何も起きてないんだぞ?」

 

「それは、私が貴方にべったり張りついていたからでしょう」

 

「そうだったのか……?」

 

「そうでなければ、あの日のようなことが再び起きていても、不思議はありません。……貴方、もう少し自覚なさって?」

 

 ヴォックスは眉をひそめた。

 

「だが、信徒たちには、まだ何も伝えていないぞ?」

 

「ええ、伝えなくてよろしいんです。彼らが“無事であること”を演じるのが、今の最も重要な任務なのですから」

 

「……ぬかりがないな」

 

「私を、誰だと思って?」

 

 その声に、ひときわ冷たい余韻が宿った。

 窓の外では、夕陽がゆっくりと沈みかけていた。

 静寂の中に、確かに何かが近づいているような、不穏な気配が、ほんのわずかに空気を揺らしていた。

 

 

◆◇◆◇

 

 

「全然来ないじゃないか!」

 

 教会の書庫に響き渡る怒号に、本棚の埃が微かに舞い上がった。ヴォックスは肩を怒らせ、派手に机の引き出しを閉じる。

 その背後で、アラスターは椅子に腰かけたまま、紅茶を優雅に啜っていた。

 

「おっかしいですねー?」

 

 かすかに笑い声を含ませながらも、アラスターの目は死角を見逃すまいと教会内部を鋭く見渡していた。

 

「おかしい? いや、異常だ! 一体何日たった? 俺はずっと、お前とギチギチの生活だぞ! 共同の寝室! 三度の食事! 風呂は譲り合い! トイレまで着いてきて……もう限界だ!」

 

 バン、と机に拳を叩きつけ、ヴォックスは宣言した。

 

「俺は業務に戻るぞ。神に仕える者として、己の役目を全うせねばならん」

 

 アラスターは静かに立ち上がり、片手を胸に当てて一礼した。

 

「では、貴方に……神の恵みがありますように」

 

「お前が言うと、祈りってより呪いに聞こえるんだよ」

 

 そのつぶやきを聞いて、アラスターの唇が微かに吊り上がった。

 

「それにしても、どうして私の時とそんなに態度が違うのですかー?」

 

「お前はな……」

 

 ヴォックスは振り返り、ぎらりとテレビ画面のような顔をアラスターに向けた。

 

「出会い方が最悪だったからだ。もっと、まともな対面だったら……俺はまだ“猫をかぶっていた”はずだぞ」

 

 アラスターは目を細め、愉快そうに首を傾げる。

 

「無惨に殺されていったシスターたちを嘆いて泣いていた貴方はどこに行ったのですかー?」

 

「あれは、外行きの顔だ」

 

 ヴォックスは淡々と言い切る。

 

「信者やシスター無くして、神父は務まらないからな。ああいう顔も、演目の一つというだけだ」

 

 当たり前だとでも言うように口にしてから、ふと気づいてアラスターの方を見た。

 

「……なんだその顔は」

 

 アラスターは、思わず漏れた「うわっ」という心の声を隠し損ねたような目をしていたが、すぐにいつもの飄々とした笑みに戻した。

 

「いえ、別に?」

 

 嘘くさいほど爽やかな笑顔に、ヴォックスは露骨に顔をしかめる。

 

「ですが、本当に残念ですね」

 

 アラスターは肩を竦めながらも、その紅い瞳にはどこか愉快そうな光が宿っていた。

 血の匂いに満ちた礼拝堂でさえ、彼にとってはただの舞台装置に過ぎないかのようだ。

 

「あの時の貴方、とっても素直で愛らしかったですよ?」

 

「うるせぇ!」

 

 ヴォックスは即座に怒鳴り返す。

 

「お前はもう少し、人間の距離感というものを学べ!」

 

 アラスターは堪えきれないといった様子で、カカカ、と高らかに笑った。

 礼拝堂に似つかわしくない、やけに響きの良い笑い声だった。

 

 ヴォックスは頭をかきながら、くるりと背を向ける。

 

 ぼやきながらも、ヴォックスの足取りにはさほど怒りはなかった。長引く緊張と、奇妙な日常に少しずつ馴染みつつある己を、どこかで認めてしまっていたからだ。

 

 扉を開けたその瞬間、礼拝堂から差し込む光が、ほんの僅かに穏やかに感じられたのは──たぶん、気のせいではなかった。

 

 

 

 

 その夜、教会の空気は妙に湿っていた。

 

 礼拝堂の奥、重厚な扉の先にある懺悔室では、ヴォックスが椅子に腰かけ、重たいため息をついていた。赤い神父服の袖を捲り、木の格子越しに見えない“誰か”を見据える。

 

「……では、告白をどうぞ」

 

 わずかに震える声が、格子の向こうから響いてきた。

 

「……私は……悪いことをしてしまいました」

 

 声の感じから男性。震えるほどのことなど、こっちが哀れに感じてくる。

 

「それはお気の毒に」

「貴女はいったい何をしたのですか?」

 

「それは……」

 

 一拍。

 

 そして──

 

「あなたのことを」

 

 

 

 

 

 

「一人で殺してしまうことだッ!」

「ヴォックス! 覚悟!」

 

 格子の向こうで怒鳴り声が弾けた。

 次の瞬間、乾いた金属音がカチリと跳ね上がる。

 

 ――やばい。

 

 そう思うより早く、狭い懺悔室の中を、白い閃光が裂いた。

 

「……ッ!」

 

 避けられない、と直感した。

 

 凄まじい銃声。

 耳の奥を殴られたような衝撃とともに、厚い木板が一瞬で砕け散る。

 ヴォックスが腰掛けていた椅子は、木片と共に後方へ吹き飛ばされた。

 

 だが――

 

 痛みは、ない。

 

「どういうことだ……」

 

 視界がぐるりと回る。

 背中から床に叩きつけられ、肺の空気が一気に押し出された。

 それでも、血の温度も、貫かれた感覚もどこにもなかった。

 

 代わりに、耳元で低い声が笑う。

 

「だから言ったでしょう?」

 

 ヴォックスのすぐ傍に、アラスターがしゃがみ込んでいた。

 紅い瞳が細められ、その口元にはいつもの薄い笑み。

 

「貴方は明確な殺意を持たれていると」

 

 砕けた木板の破片が、彼の肩口にぱらぱらと降りかかる。

 コートの端が焦げ、空気に焦げ臭さが満ちた。

 

「……馬鹿なんですか?」

 

 さらりと告げられた一言に、ヴォックスの思考が現実に引き戻される。

 

「ば、馬鹿とはなんだ!」

 

 怒鳴り返した瞬間、アラスターの声が鋭く変わった。

 

「伏せてください」

 

 アラスターの声とともに、彼の手がヴォックスの後頭部をぐっと押さえつける。

 床に顔を押しつけられた一瞬後、第二弾の銃声が響いた。

 

 弾丸が頭上をかすめる。

 石壁を抉る音と、砕けた石片が雨のように降り注ぎ、ヴォックスの頬に冷たく当たった。

 

 懺悔室の扉が、内側へと吹き飛ぶ。

 蝶番ごとちぎれた木の扉が回転しながら飛び、壁に激突して割れた。

 

 土埃と火薬の匂いの中、フードを深く被った影が姿を現す。

 長いコートの裾を翻し、銀色の銃口をまっすぐこちらに向けた。

 フードの奥、暗がりに光る目だけが、ぞっとするほど静かだ。

 

 しかし――その刹那。

 

 アラスターの影が、床から生き物のように跳ね上がった。

 闇そのものが意志を持って形を変えたかのように、細く長い影が疾風となって襲撃者へと走る。

 

「っ……!?」

 

 フードの男が反射的に引き金へ力を込めるより早く、影の一条が手首へ巻きついた。

 鋭い力でねじられた腕は銃口の向きを変えられ、三発目の弾丸は荒々しく天井へと撃ち込まれる。

 

 天井の装飾石とステンドグラスの破片が、光を散らしながら雨のように降り注いだ。

 男はその衝撃と痛みで体勢を崩し、片膝を床へつく。

 

 そして、気づけばそこに――アラスターが立っていた。

 まるで散歩の足を止めただけのような、気まぐれな優雅さ。

 血の匂いに満ちた礼拝堂でただ一人、余裕を崩さない立ち姿だった。

 

 ステッキの先端が、男の銃口を軽く押さえる。

 紅い瞳がわずかに細まり、にこりと笑う。

 

「教会での乱射は――マナー違反ですよ?」

 

 その言葉と同時に、ステッキが弧を描いた。

 空気を切る鋭い音、そして金属の硬い跳ね音。

 弾かれた銃は床を滑り、石畳に弾んで止まった。

 

「ぐえ……っ!」

 

 アラスターの蹴りが腹を貫き、襲撃者の身体は壁際まで吹き飛ばされる。

 背中が石壁に叩きつけられ、鈍い衝撃音が礼拝堂を震わせた。

 骨が砕けた嫌な音が、天井へと反響していく。

 

 アラスターは飛んだ返り血をひとつまみの埃のように指で払うと、

 床に倒れ込んだヴォックスへと目を向けた。

 

「さて――わかりましたか?」

 紅い瞳が、静かに告げる。

「相手は本気であなたを殺しにきています」

 

「……くそっ……」

 

 ヴォックスが歯を食いしばり、崩れた椅子の間から体を起こそうとした――そのとき。

 

「もらったァ!」

 

 背後から、ほとんど音にならない足音が迫る。

 まるで影が滑り込むような、存在の気配すら曖昧な動き。

 

 しまっ――!

 

 反応が遅れる。

 振り返る余裕など一瞬もない。

 

 だが、次の瞬間には。

 

「よそ見は良くないですよ」

 

 アラスターの声が鋭く響いた。

 ヴォックスの背後に伸びた影が、まるで刃のように躍り上がる。

 

 刺客の動きが止まった。

 影が腹部へ一直線に打ち込み、その身体を折り曲げる。

 

「っが……!」

 

 襲撃者は苦鳴を上げ、床へ叩きつけられた。

 石畳へ転がる音が、狭い懺悔室に反響する。

 

「す、すまない……」

 ヴォックスは荒い呼吸を整えながら、壁にもたれた。

 

「早く立ってください。死にたくなければ」

 

「……あ、ああ……」

 

 わずかに震える足で立ち上がる彼の耳に、静かな足音が近づいてくる。

 振り返れば、アラスターの影が薄く波打ち、まるでまだ獲物を探しているかのように蠢いていた。

 

 気づけば、襲撃者は二人とも床に転がっていた。

 片方は白目をむいたまま動かず、意識が完全に落ちている。

 もう一人は、うつ伏せになったまま、片腕を引きずりながら、血を床ににじませて逃れようと必死にもがいている。

 

 ――いつの間にだ?

 

 ヴォックスの背筋に冷たいものが走る。

 一人だったはずの襲撃者。

 だが、いつの間にか二人に増えていた。

 そして、その両方の意識がアラスターの手によって、あっという間に刈り取られていた。

 

 自分の目が追いついていなかったことに気づき、喉の奥がざらつく。

 

 アラスターは無言で一歩踏み出し、逃れようと這う男の足元へ、ステッキの先端を軽く――コツンと突き立てた。

 

 乾いたその小さな音は、礼拝堂の静寂の中で、なぜか鐘のように響いた。

 まるで――死刑宣告のように、冷たく。

 

「さて、これに話でも聞きますか」

 

 男は振り返り、苦悶にゆがんだ顔をアラスターに向けた。

 口元から血泡を吹きながら、うめくように言葉をこぼす。

 

「うぅ……っ」

 

「いやだ……俺はまだ……」

 

 震える手が床をかく。助けを乞うように、誰にともなく指を伸ばす。だが、力が入らない。指先が何度も空を切るだけだった。

 

 そのとき、男の体がびくりと跳ねた。

 胸元に走る、細く深い切創から、どくどくと血が流れ出す。苦しげに喉が鳴るたび、口から赤い泡がこぼれ、やがて彼は激しく咳き込んだ。

 

「が……ッ、ぁ、ぁぁ……ッ」

 

 その声はもう言葉になっていなかった。

 眼球がわずかに揺れ、瞳孔が光を失っていく。次第に痙攣が弱まり、最後には、まるで糸が切れたように体の力が抜け落ちた。

 

 アラスターは、それをただ静かに見つめていた。

 問いも、嘲りも、ひとつも口にしないまま。

 静寂が、再び場を満たす。

 

「い、一体何があったんだ。お前がやったのか?」

 

 ヴォックスがそう問いただすと、アラスターはちらりと目線だけを向け、薄く笑った。

 

「尋問しようとしたのに、殺す馬鹿がいますか? もう少し頭を使ってください、おバカさん」

 

 軽く、冷ややかに――まるで冗談のような口ぶりだったが、その声音には何の感情も乗っていなかった。

 

 アラスターはしゃがみこみ、そっと倒れた襲撃者の首元に手を伸ばす。指先が頸動脈に触れ、しばし静止。

 そして、何もなかったかのように手を引いた。

 

「……もう、目を覚ますことはないでしょう」

 

 静かな声が、礼拝堂の石壁に淡く反響する。

 その指先はどこまでも冷静で、どこまでも丁寧だった――まるで死にすら礼を尽くすかのように。

 

 アラスターの静かな声が礼拝堂の残響に溶けていく。彼の白い手が、倒れた男の首元からそっと離れた。

 その様子を見つめていたヴォックスは、奥歯をぎり、と噛みしめる。そこには、ほんのわずかな悔しさと、不気味な違和感があった。

 

 足元に転がる刺客の身体は、明らかにまだ温かい。ほんの数秒前まで、喉を鳴らして呻いていた。苦しみを訴えるように手足を痙攣させ、命乞いにも似た目を浮かべていたはずだった。

 

 だが今は、まるで糸がぷつりと切れた人形のように、何の反応もない。

 

「……さっきまで、生きてたのに。なんで……」

 

 ヴォックスが絞り出すように問いかけると、アラスターは立ち上がりながら、ひとつ肩をすくめて答えた。

 

 

「さっきまでは“動いていただけ”ですよ」

 

 アラスターは、まるで舞台裏の仕掛けを暴くように、淡々と続けた。

 

「正確には、命はあった。ですが、それは本人のものではなかった――魂ごと誰かに握られていたんです。自我は薄れ、意志は消え、ただ命令に従うだけの存在にされていた。自分が生きているかどうかすら、たぶんもう分かっていなかったでしょうね」

 

 ヴォックスが眉をひそめる。だが、アラスターは構わず言葉を重ねた。

 

 アラスターの目がかすかに光を宿す。無表情なようでいて、その奥には冷ややかな苛立ちがにじんでいた。

 彼は本気ではなかった。あの触手も、あの裂傷も、ただの威嚇。軽く痛ぶった後で、喋れるように、尋問できるようにと、わざと余力を残していたはずだった。

 

「……なのに、何故、死んでいる」

 

 アラスターの口元が、僅かに歪む。その笑みは、愉快そうで、どこか悔しげでもある。

 

「で、今回のようにヘマをすれば、“持ち主”が処分する。あの死に様は、魂を縛られた人間の末路ともいえますね」

 

 その声音に、哀れみも怒りもなかった。ただ、事実だけを拾い上げるような、冷静で無機質な調子だった。

 

 恐らく、薬物か術式的な支配か。

 

アラスターの言葉は、淡々としているのに、どこか背筋をぞわりと逆立てる冷たさを帯びていた。

 

「見えない鎖の繋がり……あるいは、“自壊”を命じられていた可能性もあります。下手に情報を渡さないために。そのような行動を取った瞬間に、処分されるよう仕組まれていた――そう考えると、実に用意のいい話でしょう?」

 

 軽く肩をすくめるその仕草すら、まるで舞台役者の演技のようだ。

 しかしその瞳は笑っていない。

 薄氷のような静けさの奥に、ぞっとするほどの冷徹さが潜んでいた。

 

「?」

 ヴォックスが首を傾げた。

 額に汗が滲み、理解できない状況への苛立ちが見て取れる。

 

 アラスターはわざとらしく息を吐き、ステッキを肩に担ぎ直した。

 

「これが魂を握られた者の末路だということですよ」

 

「何なんだ、それは。自分で自分を殺すって、そんなもん人間のやることじゃ……」

 

 ヴォックスの声には驚愕よりも、どこか“信じたくない”という怯えが滲んでいた。

 人間としての常識が、地獄の理不尽に追いつけず、震えている。

 

 アラスターは唇の端だけをゆっくりと持ち上げた。

 その笑みは、冗談めいていて、しかし確かに本気の匂いがする。

 

「だから、きっと“人間じゃない”のでしょうね」

 

 冗談混じりに言ったアラスターのステッキが、コツンと床を打つ。静かに、断罪の鐘のように。

 

 ヴォックスは視線を落とし、静かに息を吐いた。もう死んでいる、そう自分に言い聞かせるように。

 

 ヴォックスは息を呑んだ。

 今しがたまで足元で痙攣していた襲撃者は、もう動かない。

 

 ――魂を握られた者は、逃げられない。

 そんな冷たい事実だけが、静かな礼拝堂に重く残り続けた。

 

「……裏に埋めときなさい」

 

 静かに、だが確かに響くアラスターの声。

 それは誰に向けたとも分からない独白のように思えたが――次の瞬間、空気が微かに震えた。

 

 ゴォウ……。

 

 懺悔室の奥、使われていない暖炉の煤けた口の奥で、ぼんやりと紅紫色の火が灯る。くすぶるような風が吹いたかと思えば、ぼふっと乾いた音とともに、煙の渦から小柄な影が跳ね出た。

 

「はぁい!」

 

 くるくると宙で一回転し、ピタリと床に着地した。

 

 現れたのは、赤いワンピースに白いフリルのエプロンを身にまとった、小柄な少女――だが、その容姿は明らかに常識から外れていた。

 

 ワンピースには古びたシミや煤汚れが点々と付着し、まるで戦場帰りのメイド服のよう。髪はピンクがかった鮮やかな赤で、あちこち跳ね、カールし、意図も秩序も感じられない。

 そして何より目を引いたのは、顔の中心に一つだけ輝く巨大な眼球だった。虹彩はぐるりとねじれたように湾曲し、見る者に奇妙な浮遊感と不安を与える。

 

 彼女はすぐさま倒れた刺客の遺体に目を留めると、わずかに首を傾げた。

 

「あらあらまぁまぁ、今日のお片付けはお早いこと!」

 

 鼻歌まじりに遺体へと駆け寄る。手慣れた動きでその四肢を折りたたみ、ずるずると引きずるのではなく、まるで大事な荷物でも扱うかのように背負い上げる。

 

 その小さな背からは、乾いた土と枯葉、そしてほんの少しだけ血の鉄臭さが混じった匂いが漂った。

 

「えーっと、こっちこっち。前もこんな風に血まみれだったし……あ、でも今回はまだ頭がくっついてるから楽ちーん!」

 

 嬉々として足を進めるニフティーは、礼拝堂の隅にある石壁の裂け目へと、軽やかに歩いていく。まるでそこが当然の出入り口であるかのように。

 

 ヴォックスは、反射的に一歩後ずさる。

 

「な……っ、何だ、あれは……?」

 

 横に立つアラスターが口元だけで笑い、そっと呟いた。

 

「彼女はニフティー。うちの掃除係です。前回、血まみれの教会を後始末してくれたのも彼女ですよ。働き者で、とても几帳面です」

 

「……悪魔が……片付けを?」

 

 血と埃の匂いが満ちた懺悔室に、静かな命令の余韻だけが残った。

 そして、その中心でアラスターはステッキを軽く床につき、まるで礼拝の締めくくりのように、目を細めて呟いた。

 

「さあ、次は――誰が来るのか、楽しみですね」

 

 

 

 

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