ある会場裏の搬入口は、薄い霧がかかって誘導灯が浮かび上がっていた。
聞こえてくるリハーサルの声が壁を震わせている。
天知は会場内のコンクリート床に響かせていた革靴の足音を止め、ひとりのトレーナーと向かい合っていた。
「条件はメールの通りです。迷う必要はないですよね」
天知の声は平坦で、淡々とした温度。
だが、その手に持つ封筒は重く膨れていた。
封筒を目にした女は目を見開き、天知をそっと窺った。
「本当に、こんな額……?」
「必要だと思ったから用意しただけです。
功績によっては、報酬を更に弾みますよ」
天知の立ち姿に一切の虚構はなく、整然と理屈を纏っている。
ステージでは照明の点灯テストに入り、極光が会場内の壁を染める。
天知の銀髪と長身は様々な光に染まり、端正な顔は照らされても眉ひとつ動かさない。
同じ光を反射する封筒を見つめ、女はふっと息を吐いた。
「……業界の噂より、本物はずっと怖いよ」
天知は肩をすくめもしなかった。
「まるで悪魔と契約するかのような面持ちをされていますが……私がプロデュースするアイドルのダンス指導を任せるなら、あなたしかいないと思っています。
元アプロズの、和泉野さん」
「……ええーっ!? なんでそのことを!?」
女は先ほどまでの固い表情がゆるみ、少し幼い印象を受ける挙動で驚きに染まっている。
渡された封筒を受け取ってしまった女を見た天知は薄い笑みを残して立ち去り、後には残された影だけが照明に長く引き伸ばされて揺れていた。
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ステージ裏の通路は、花の匂いと照明の熱が混ざり合い、少し甘い空気だった。
腰につけたワークポーチを落ち着きなくいじりながら、天知を見上げる。
「……あの、本当に、こんな金額いただけません。
相場で十分……」
「あなたの相場に合わせる気はありません」
天知は目の前に見下ろす女の白く細い指や腕の至る所にある小さな傷を眺めながら、改めて女と目を合わせる。
「礼堂さんの品質を買っています。遠慮は必要ありません」
女は困ったように眉を下げる。
通路のライトが頭上で明滅し、彼女の影が細く揺れた。
「でも……」
「では、金額に見合うと思う衣装を作ってくれませんか」
天知は小脇に抱えていた書類を持ち直す。女が過去に手がけたデザインの資料だった。
女は返す言葉を失ったように唇を結んだがその目は、誇らしさと責任の色に変わっていた。
「……全力で仕上げます。約束します」
天知は軽くうなずいただけで、再び歩き出す。
通路の奥から聞こえるアイドルたちの笑い声に、彼は一度も振り返らなかった。
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控室横の小さな打ち合わせスペース。
昼の光がカーテンの隙間からこぼれ、机の上に帯の模様を作っていた。
作曲家の女性は、コーヒーの湯気を見つめたまま、静かに口を開いた。
「……この金額を受け取る以上、中途半端な仕事はできませんね」
「ええ、承知しております」
天知は間を置かずに答えた。
「だからこそ、あなたにお願いしました」
女性は小さく笑った。
その笑みには、柔らかさの奥に研ぎ澄まされた職人気質が滲んでいる。
彼女はカップを置き、天知をまっすぐ見た。
「引き受けます。私の名前に恥じない曲にしますし、あなたのお金も無駄にはしません」
天知は深く頭を下げる。
「ありがとうございます。心強いです」
「すぐ取り掛かるから、発注書は郵送よろしくお願いします」
天知が頷くと、見計らったようにファンの入場開始を告げるざわめきが外から聞こえていた。
輝くステージとはまるで違う、無駄のない闘いの場の空気だった。
女性はその音を背中で感じながら、軽く会釈して立ち去る天知の芯が通ったような背中を眺めていた。
ふとその後ろ姿が立ち止まり、思い出したかのように口を開く。
「……バンドの楽曲はよく聴かせていただいていました。またアルバムを出されるのを楽しみにしています」
「……えっ」
女性はカップを危うく取り落としそうになった。
⸻
ステージ裏。
黒い鉄骨が何層にも重なり、ケーブルが蛇のように床を走る。
熱気と金属の匂いが満ちる中で、天知はタブレットを片手にスタッフへ鋭く指示を飛ばしていた。
「レーザーは後半に寄せろ。
前半は照明で十分──影をつくる場面が多い。
スモークはレベル3、焚き過ぎるな」
「了解しました! 天知さん!」
「あと天井のトラス、二十二秒目に昇降のピークが来る。
必ず合わせろ。ズレたら事故になる」
彼の姿は静かで落ち着いていたが、言葉の速度は一切の乱れがなかった。
スタッフたちは本能的に理解する。
この男に従えば間違いのない芸術を作り上げられると。
背後では、これからリハーサルに出る春たちが円陣を組んでいる声が微かに聞こえる。
天知はそちらを見ようともしない。
彼は舞台の裏側で、誰にも見せないままに戦い続けていた。
会議室にメンバー全員が揃うと、空気は一気に賑やかになった。
「天知さん! 当日はどのような作戦でございますのっ?」
ナターリャが嬉しそうに身を乗り出す。
「ライブ、すっごく楽しみっ!」
七海は体を揺らしながら元気いっぱい。
愛莉は隣で手をぱたぱた。
響季は背筋を伸ばして丁寧に頭を下げる。
天知は資料を広げながら淡々と話し始めた。
「初ライブですが、改めて会場規模をお伝えしておきます。
スクリーンに映し出される劇場ホールの写真。
ステージを囲む特大LEDパネル、上等な音響設備が整っている。
収容人数八百名。配信では数万人が視聴可能。
やはり大きい。ざわっと声が上がった。
「すごい……」「大きい……」とメンバーが口々に驚く中、天知は静かに続けた。
「あなたたちなら埋められると、私は確信しています」
その言い方は冷静で、でもどこか温かかった。
可能性を信じたのではなく、根拠があると言わんばかりの眼差し。
そして最後に、まっすぐこちらを見る。
「あなたたちの努力は、数字に変わります。
数字は、あなたたちを守る力になります。
だから私は、全力で結果を取りに行きます」
続けて説明する天知に、メンバー全員の胸がじんと熱くなった。
春は天知を見つめる。先日のあの声を思い出しながら。
──守るために、ここまで頑張ってくれる人なんだ。
ナターリャはうっとりした顔で手を握りしめた。
「ビジネスの鬼……冷徹なマネージャー……まるで深夜アニメのラスボスでございますわ……すてき……!」
七海は「こんな大きな会場用意してくれる天知さんってやっぱりすご~い!」と天知の腕に絡まろうとして、春に止められる。
愛莉は、むむんと気合を入れている。
響季は真剣に天知を見つめ感謝の気持ちで静かに頭を下げる。
春は、みんな揃って天知を支えようとしてるのを感じた。
そして──天知はその視線を一身に受けて、ふっと目をそらした。
「……会議は以上です」
照明が落とされたステージ裏は薄暗くて、空気がぴんっと張りつめていた。
客席のざわめきが、壁越しに波みたいに押し寄せてくる。
「……すごい、人の数……」
春がカーテンの隙間から覗くと、客席が既に埋まっていた。
愛莉は袖をひらひら揺らしながら「やーっ! みんな来てくれてる……!」
七海は緊張で髪をいじりながら「うわぁぁ……胸がドキドキしてる……あ、いつものじゃなくて緊張のドキドキだよっ!」と何やら1人で騒いでいる。
響季は深呼吸を繰り返し「……大丈夫、大丈夫……」と自分を落ち着かせている。
ナターリャは興奮で頬を赤くして「この光景、まさに"大きな第一歩”ですわ!!」
そこに、天知が現れた。
黒いスーツの胸元に小さくピンマイクが光っている。
表情は普段通り落ち着いている。
「みなさん」
柔らかい声だった。
「ここまで、本当によく頑張りました。
あとは、あなたたちが積み上げたものを見せるだけです」
七海が「あの……天知さんも緊張してるの?」と笑いながら聞く。
「……私は常に冷静ですよ」と言ったけれど、春がそっと歩み寄る。
「天知さん。
……ちゃんと見ててね。私たちの全部」
天知は春をひとりのアイドルとして見て、静かにうなずいた。
「ええ。あなたたちの輝きを証明してきてください」
その一言が、みんなの背中を押した。
────────────────
暗転。
客席のざわめきが高まる。
天知の手が、袖からゆっくりと上がる。
照明が一気にステージを照らして、前奏が鳴り響く。
「行こうっ!!」
春が先頭に駆け出す。
客席から歓声が爆発した。
音が体にぶつかってくるほどで、春は思わず涙がにじむ。
──こんなに……こんなに待っててくれたんだ……
五人は一斉にステージへ飛び出し、最初のポーズを決める。
客席のペンライトが揺れ、色とりどりの光が海のように広がる。
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アップテンポなデビュー曲。
春は全身でリズムを刻みながら歌う。
(楽しい……!
私、ちゃんとステージに帰ってきたんだ!!)
七海が横で笑顔を向けている。
愛莉が指ハートを飛ばしている。
ナターリャは優美な振りで魅せる。
響季の声が会場を震わせるほど響く。
五人でひとつの輝きになったみたいだった。
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春がマイクを握る。
「えっと……はじめまして!!
私たち──“ReLUCE”です!!」
客席がわっと沸く。
「会場、大きいって思ったよねみんな!? ね!? わたしも思った!!」
笑いが起きる。
「でもね……“埋まる”って、最初から信じてくれた人がいるんだ」
そう言って、自然と視線が袖に向く。
照明で見えないはずなのに、そこに確かに天知がいる。
「だから私、もっともっと頑張る。
見せたい景色が、まだまだあるから!」
その瞬間、袖で天知がピタリと動きを止めた。
表情は見えない。けれど、ほんの一瞬だけ、胸に手を置いた。
それは意図せず漏れた、小さな安堵の動作。
春は気づかないまま笑顔いっぱいで続けた。
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ラストはしっとりとしたバラード。
響季の声が光の糸みたいに会場を包み、
ナターリャのハーモニーがふわり重なる。
愛莉の優しい声、七海のまっすぐな歌い方、そして春の明るい響き。
全部が一つになって客席に飛んでいく。
(またステージに立ててよかった。天知さんがくれたチャンス、絶対に無駄にしない)
そう思うほど、胸が熱くなる。
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暗転と同時に観客が立ち上がって拍手の嵐。
メンバーは汗だくで、息が上がってて、でも笑ってた。
袖に戻ると、天知がそこに立っていた。
背筋を伸ばし、いつもの静かな目。
「……すばらしいライブでした。計算以上の成果です」
その言葉に、春の胸がじんわり暖かくなる。
七海が天知に駆け寄る。
「見てた!? ちゃんと踊れてた!?」
「はい。後ほどデータ分析もしますが、皆さん十分すぎるほどです」
愛莉は嬉しそうに「やーっ! 誉められちゃった……!」
ナターリャはうっとり「天知さん、まさにマネージャー様の鏡……!」
響季は深く頭を下げる。「本当に、ありがとうございました」
春は一歩前に出る。
「天知さん……私、ちゃんと届いた?」
天知はいつもより少しだけ優しい声で言った。
「……はい。十分に、届きました」
その返事を聞いた瞬間、春の心に花が咲いたように温かくなった。
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楽屋裏の小さな打ち上げスペース。
紙コップの炭酸がぱちぱち鳴ってて、まだステージの余熱が空気に残ってる。
春は椅子にぽすっと腰かけて、気が抜けたように笑った。
「……終わったぁ。生きて帰ってこれた……!」
「春ちゃん、おつかれ〜!!」
愛莉が勢いよく抱きついてくる。
「もう! ちゃんと歌えてたよ! 途中で泣きそうになったけど可愛かった!」
「泣いてないよ!」
春はむくれながらも、愛莉に抱きつき返す。
その横で、響季が柔らかな笑みで紙皿を配っていた。
「本当にお疲れさま、春。今日はよく頑張ったね。
お互いに緊張しているのが分かったから、見ていて胸が熱かったよ」
「響季ちゃんいつもやさしい……ありがとう……!」
愛莉がすかさず口を挟む。
「ねぇねぇ響季ちゃん、春ちゃんのMC可愛かったよね!」
「えっと……その、可愛かったよ。
少し言葉に詰まったところもあったけど、それも春らしくて、お客さんも好意的に見てくれたね」
「ほらぁ〜! やっぱ可愛いんだよ春は!」
「愛莉ちゃん!!」
そんなやりとりを、少し離れた場所で天知が黙って聞いていた。
腕を組んだまま、いつもの落ち着いた表情。
春に目が合うと、彼は足音を鳴らさずにさらりと立ち去った。
初ライブは無事に終わり、仲間たちの温かな賑やかさが、小さな部屋いっぱいに広がっていた。