数年前のある月。
神多品市の行方不明者数が『全国の行方不明者数』以上となった月があった。
理由はただ一つ。
神多品市は、未確認生命体が多数跋扈した都市だからである。
未確認生命体は時に人の命をゲームのように奪い、人間を家畜のように食らい、そして人の尊敬をゴミのようにして攫う。
人間の力では到底できない不可能犯罪が連日報道され、死者や行方不明者が毎週のように報道された地獄のような状況が続いた時もあった。
今となっては既に昔。
行方不明者数は減少。平穏が戻ったと安堵する人々も多い。
未確認生命体の脅威は、既に過去になった……
はずであった。
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夜の通りに、一台のパトカーが止まっている。
車内には警官が二人。
「行方不明者が最後に確認されたのはこの近辺ですね。被害者は付近に住む高校生で、家族に帰る連絡を入れている、と……家出の線はなさそうですね」
助手席で調査書を読み上げていく年若い女性警官。彼女からの報告を聞いて、顔を顰めうんざり、といった様子で運転席に座る壮年の男性警官がため息を吐いた。
「これで六人目か」
ここ数ヶ月、神多品市では行方不明者が増え続けている。
警察もパトロールの人員を増やす等で行方不明者の増加の抑制と捜索を行っているが、効果は芳しいとは言い難い。
「……やはり、聴き込んだところ被害者は気遣いが出来る優しい人間らしいです」
唯一の手掛かり。
それは、被害者が全員人格者であるという点。
人を助けることにためらいのない人間だけが行方不明になっている。
『被害者に共通点がある犯罪』。サスペンスのお話でしか見ないような、しかし現実として起こった事例を警察は知っている。
「……これって、『不可能犯罪』……なんでしょうか」
「『未確認』が出たか、ってか。……可能性としてはあるだろうな」
かつて発生した『一定の法則に則った殺人ゲーム』、『被害者が怪死した特殊殺人事件』等の不可能犯罪。これらは『未確認生命体』にが引き起こし、人間には実行出来ないことから『不可能犯罪』と呼ばれた。
超常的な力を持っての犯罪に対して、警察の力では解決できなかった事例も多く、未確認生命体を制止しようとしたり、警察官が標的になったことで犠牲となる人員が多く出たこともある。
ため息をつく男性警官に、女性警官が更なる疑問を問いかける。
「そうなれば……『G-ユニット』が動くってことでしょうか?」
「あり得るな」
頻発する未確認生命体や不可能犯罪に対して、警察は『G-ユニット』と呼ばれる組織を結成。
対未確認生命体用の特殊装備を開発・運用し、未確認の調査及び駆除を行う部隊である。つまりは未確認生命体が出没した場合出動する義務がある。
そう言った女性警官であったが、ふとある考えが思い当たって顔を青ざめさせる。
「それじゃあ……も、もしかして……パトロール中に『未確認』と会う可能性もあるってことですか!?」
驚き悲痛な声を挙げる同僚に、男性警官は意地の悪い表情を浮かべた。
「さあてな。ま。出てこなかったら、おめでとう、ってところだ」
そんなー!と情けない悲鳴をあげる女性警官のことを笑いながらも、男性警官がフォローを入れようとした時。
ぶすくれて車外に目を向けた女性警官がふと声を上げた。
「……子供?」
「どうした?」
男性警官からの問いかけに、一瞬思案しつつも返す。
「いえ、小さな子供が泣きながら路地の方に歩いていっているのが見えて……」
「……行方不明者と関係があるかもしれんか」
「はい。そうでなくても……今の時間帯的に子供が出歩いてるってちょっと不安です。私、ちょっと行ってきますね」
建物の隙間にある小さな路地。
人目の少ないそこで、小学生ほどの小さな男の子が泣きじゃくっている。
薄汚れた地面を気にすることもなく蹲る姿には、
「どうしたの?大丈夫?」
そこへ、女性警官がやってくる。
優しく微笑みを浮かべ、側に座り込む。
声をかけ側に座り込んだ警官に一瞬目を向け、しかしすぐにまた泣き出してしまう。
話しかけることすら難しい状況に悩む警官であったが、ふと思いついたように胸ポケットに手を入れて、あるものを取り出す。
手にしたのは、小さな飴玉。
「いったん落ち着いて、これ、食べよ?」
差し出された飴玉を受け取った男の子は、包装を開けて口元に飴玉を放り込む。
口内の飴をしばし転がした男の子は、少しして表情が和らぎ笑顔を浮かべだす。
「ありがとう、おまわりさん」
「ぜんぜん!それよりも、何かあったの?どうして一人で泣いてたのか、お姉さんに教えてくれないかな?」
「うん。それはね……」
内緒の話だよ、と言わんばかりに手を口元に持っていき、耳打ちしようとする少年。
女性警官はそれを微笑ましく思いながら、そっと頭を近づけた。
「『質がいい』のを確保するためさ」
「……え?」
先程の無邪気な様子とは違う、悪意に満ちた言葉を聞いた警官は、一瞬思考が止まったような感覚に陥った。
……だから、気付かなかった。
どこからか赤い帯のような物が自分の体に巻き付こうとしていることに。
少年が浮かべた悪意の籠った笑みを目にし、認識しきるか否かという時。
彼女の意識はそこで途絶えた。
「……無線も帰ってこない、と」
無線機から無言が返ってくることに、男性警官は顔を顰めた。
女性警官が少年を探しに行ってから、既に一時間が経過しようとしている。
少し抜けているところはあるが真面目な彼女が、仕事を放り捨てて消えてしまうなどは考え難い。それを男性警官は知っている。
「全くどういう手口なんだ?……マジに未確認案件なのかよ」
顰め面を浮かべる男性警官。
彼は気付かない。
パトカーの死角となる道を歩く一人の男の子のことを。
そのズボンのポケットに、赤い帯が乱雑に巻き付けられたアクリルスタンドのようなものが入っていることを。
……そこに写っているのは、自分の同僚によく似た人物であることを。
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「さて……どこから話したもんかのう」
廃工場での戦いから一夜が明けた結城家。
破壊されたのは健三の研究室である小屋のみで、住居の方には被害が出ていない。
食卓には敬助と遥香が、その反対に健三が座って向かい合っている。
「無理に話す必要ねえ……とはちょっと言えねえかな。俺はともかく、遥香まで巻き込まれちまったんだ。あいつらが何で俺達を襲ってきたのか、それをどうすりゃいいか考えねえといけねえしよ」
声を荒げてはいないものの、少し語気を強めて話す敬助。その様子を不安そうに遥香が見つめ、俯く。
敬助からの強い意思を受け取った健三は、目の前の茶を含んで口を湿らせ、一つの単語を挙げた。
「『ゴルゴム』という言葉に聞き覚えはあるか?」
挙げられた言葉に二人は全く聞き覚えはない。
「いや、さっぱり」
「私も……」
「そうか」
少しだけ考えてから、敬助が素直に答えを返し、それに習うように遥香が続く。
本当に何も知らない、といった様子の二人の答えを聞いて、一瞬の逡巡の後に健三は話し出す。
「……譲二のやつと杏里さんが亡くなってから一年後に、奴等はワシに接触してきた。我々の研究に協力してほしい、と」
「勿論金は困ってはいなかったから断ったが……連中は幾度となく儂のもとを訪れて協力を申し出てきた。……不気味に思った儂は、探偵を雇って、奴等について調べることにした」
「そして……ワシは……」
途中。ガタガタと身体を震えさせた健三に、慌てて敬助と遥香が駆け寄る。
「健三さん!?」
「爺さん!?大丈夫かよ!?」
「い、いや……大丈夫じゃ、なんともない」
手を振って二人を元の場所に返す。
震える手で茶を飲み干して、落ち着きを取り戻した健三が話を続ける。
「ワシは、奴等の目的を知った」
「目的?」
敬助の言葉に促されるように、その答えは出てきた。
「……今の人類を滅ぼして、新人類による世界を生み出すこと」
「……冗談、だよな?」
その言葉を冗談と捉えた敬助はひきつった笑みを浮かべ、笑い飛ばそうとした。
しかし健三の表情を見て、それが冗談でない、と分かると顔を凍り付かせる。
『今の人類を滅ぼし、新人類による世界を生み出す』。
フィクションの悪役が企むようなことを、現実にしようとしている。
妄言だ、考えすぎだと笑い飛ばすことも出来ただろう。しかし、健三の怯えた表情や、その深刻そうな声色には、虚偽や誇張など混じっていない。
「け、警察とかに相談すれば……」
「無駄じゃ。奴等の根は深い。Gユニット等の現場の人間は潔白じゃろうが、警察上層部に奴等のシンパが存在しておる。……それに、『人類を滅ぼそうをとしている組織がいる』などという妄言を誰が信じる?」
遥香の言葉も、疲れたような健三の言葉に否定され消える。
警察も完全に味方とは言えない。まさに創作や陰謀論でしかあり得ないような話。それを出来る組織が存在しているということに寒気が走る。
そんな中、敬助は覚悟したようにあるものを取り出す。
「……なら。また戦うしかないってことか」
取り出したのはトランスモバイル。
昨日敬助に戦う力を与えたそれを見つめれば、透明な液晶画面に敬助の顔が反射される。
「警察だって全員が全員悪人じゃないんだろ?なら、話わかる人に話つけて安全確保してもらって……それまでは俺がなんとかするさ」
まるでなんともないことのように話す敬助。その身体に走った僅かな震えを、遥香は見てしまった。
「敬助、お前が無理をする必要はない、今しばらく安全な場所に引っ越せばまだ……」
「ゴルゴムってのは結構ヤバい組織なんだろ?そいつら相手から逃げ切りって中々キツそうだし……逃げるだけでなんとかなるような相手とも思えねえ」
それによ、と続ける前に、敬助の脳裏に夢で見る光景が、異形の怪物のせいで家族を失った記憶が思い浮かぶ。
「……家族を失うような思いなんか二度としたくねえんだ」
誓うように呟いた直後。トランスモバイルの液晶に、顔が浮かび上がる。
顔の主、トラストの目が一瞬驚いた表情になった敬助の目と重なる。
『ほう……話は聞かせてもらった。俺様の力を借りたいと』
微妙に目を細める敬助のまさに目の前。
画面の中、トラストはニヤリ、と笑みを浮かべた。
『いいだろう!俺様の眼鏡に適うかどうか、お前のことをテストしてやろうじゃねえか!』
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「……なあ。トラスト」
『なんだね結城受講生!講義の際の質問は手を挙げてしなさい!』
表情を無にして、目の前の『それ』を眺めている敬助。
何故か講師のような口振りのトラスト。
彼等は今。
ある飲食店の前にやってきていた。
その飲食店の運営形態は喫茶空間。
メニューは普通の喫茶にあるようなものが多い。
ただ一つ、他の喫茶店にはない特徴があった。
それは、給仕がメイド服を着て配膳を行い可愛らしい仕草で顧客を楽しませるもの。
所謂『コンカフェ』というものである。
それを改めて目にした結城敬助は
「結城受講生、帰ります」
綺麗に180度方向転換し帰路へ着こうとした。
『なんで!?』
「なんで!?じゃねえよ!むしろ俺が聞きてえよ!」
驚き悲痛な音声が放たれたトランスモバイルを掴んで叫び返す。
端から見ると通話相手と大喧嘩している不良にしか見えない。おかげで周囲からの奇異と警戒と敬遠の複合された視線に曝された敬助は、身を縮こませてこっそりとその場から避難する羽目になった。
「……これのどこがテストなんだって?」
公園のベンチに座って、ようやく冷静に考えられる時間が出来た敬助は、これまでの記憶を思い返す。
トラストに『ライダーとして相応しいかテストをする』と言われ、画面に案内されるがままに向かった先が先のコンカフェである。
疑問三割非難七割の視線をトランスモバイルに向ければ、画面の顔が少し腹立たしいくらいの不敵な笑みを浮かべる。
『ああ。ライダーたるもの、いかなる場所でも気品を発揮し、どんな相手にも動揺しない強い心を持つ必要がある……それをあのメイド喫茶で確かめてやろうとしたのさ』
「言われるとなんか納得できるような出来ないような」
『だろ?今出力した案にしてはまあまあ説得力あるなろ?』
「本音は?」
『動けるようになったら行きたかったリストNo.1がメイド喫茶だったから最初に行こうかなって』
ゴミ箱にダンクしてやろうかこのポンコツ。
敬助の頭に一瞬浮かんだ考えを振り払い、ベンチに座り込み一息つく。
休みの昼間ということもあり、砂場や遊具で親子連れが遊んでいたりと平和な光景が目に映る。
『……なあ』
「なんだよ」
トラストの呼びかけに答え、トランスモバイルと向き合う。
『お前、なんでまた戦うなんて言い出した?』
「は?」
トラストからの問いに、怪訝な表情を浮かべながらも、食卓で放った言葉を繰り返す。
「いや、言っただろ?逃げるだけで何とかなると思えねえし、もし家族に何かあったらって……」
『お前は警察官でも軍人でもないだろ?』
「え、いや……まあそうだけどよ」
言葉に一瞬詰まってしまう。
先ほどまでメイド喫茶云々などとおちゃらけたことを言っていたかと思えば妙に鋭い指摘をしてくる。
トラストに対して少し訝むような気持ちになっている敬助に構わず、質問は続く。
『昨日の戦いはまあ悪くなかったけどよ、あれより強い奴等が出てきたらどうするんだ?それこそお前殺されてもおかしくねえぞ?家族よりも自分の身を……』
「いいや」
家族よりも自分の身を案じろ。
そう言われた時、敬助は思わず黙っていられなかった。
「また俺が何もしなかったせいで、家族を失うなんて耐えられない。それくらいなら、俺は……」
『……また?』
無意識だったのか、トラストからの呼びかけに敬助がハッとした表情を浮かべ、頭を振って気を取り直す。
本題に戻ろう、と明るい声でトラストへ改めて、戦うことへの答えを出そうとする。
「と、とにかく!戦うしかねえのなら、俺が戦うってこと!だからトラスト、これからは……」
『いやだ』
無慈悲。三文字で答えを切って捨ててられる。
あまりの無慈悲な即答に一瞬思考が止まった敬助が、すぐに慌て出す。
「ちょっ……なんでだよ!?」
『当たり前だろ!自分の身大事に出来ねえやつに戦わせるなんて出来るか!』
「俺より家族の方が大事だから戦うんだろ!?」
『だからそういうところだっての!勝手に一人で死なれたらソッチのほうが迷惑なんだってのがわかんねえのか!?』
「俺は死ぬつもりはねえ!」
思わず声を荒げてしまう。
ハッと我に返った敬助が慌てて周りに頭を下げて、座り込んだ。
「……どうすっかなぁ」
怒ってしまったのか、トラストが画面から消えたトランスモバイルの液晶画面をじっと見つめる。
トラストの言ったことも一理はあるのかもしれない。確かに、この街には仮面ライダー以外にも警察がいる。それに、行方不明になったらしいとはいえ『4号』もまだ生きているかもしれない。
敬助が戦う必要は全くないかもしれない。
ふう、と息を吐いた敬助がベンチから立ち上がろうとした刹那。
「……結城くん?」
聞き覚えのある声がかかる。
敬助が声の方へと顔を向ければ、そこには昨日会った少女の姿。
「氷月?」
「……また会うなんて、奇遇ね」
少女、理亜は無表情の口元に小さく微笑みを浮かべて敬助の元に歩み寄ってくる。
「昨日、大丈夫だった?」
「昨日?……あー、えーと……」
どう説明したものか。
正直に未確認生命体に襲われて、仮面ライダーに変身して撃退しました……なんて話せば奇異の目で見られるに違いない。
敬助は少し考え、適当に誤魔化すことに決める。
「き、昨日は色々やってたら怪我しちまってよ、気をつけたつもりなんだけどなぁ……」
「怪我?……少し見せてもらえる?」
理亜が心配そうに顔を近づけてくる。
道を歩けば男性が多く振り向くだろうその美貌。それが自分の間近にある、その事実に少しドギマギしながらも敬助はなんとか言葉を続ける。
「あ、ああほら!怪我って言っても大したもんじゃねえよ、すぐ手当てしたからもう全然大丈夫大丈夫!」
大袈裟な身振り手振りで無事をアピールすれば、納得したのか、理亜は少し不安そうにしながら離れる。
実際、昨日の怪我は表面を少し引っ掻かれただけというのもあって特に痛んだりもしない。変身中に負傷したりもなく普段通りの生活を送れるくらいには無事そのものである。
敬助の様子をじっと見ていた理亜であったが、本当に何事もなさそうな様子に安心した様子で息を吐き、ベンチの空きスペースに腰を下ろす。
「……最近は行方不明者も出てたりで物騒なのよ、気をつけなさい。……妹さんに心配ばかりかけちゃ駄目でしょう?」
「う……気をつけます」
母親や姉のような口調で諭され、思わず敬語になってしまう敬助を見て可笑しそうに理亜が笑う。
「お兄さんが無茶すると、妹さんとしては心配なのよ」
「くっ、そう言われちまうと弱い……」
顎に手を当てて悩む様子を見せる敬助だったが、ふとした疑問が頭に浮かび、それを何気なく理亜へと投げかけた。
「そういやさ、氷月って兄弟いたりすんのか?なんか今のも経験談みたいな感じの話するけどよ」
何気ない疑問を投げかけた途端、理亜の表情が固まり、曇り出す。
「……いたわ。昔はね」
「あ……わ、悪い!」
俯き表情を曇らせた理亜の姿を見て、敬助は慌ててフォローを入れる。
あまり聞くべきでない話題だったか、と反省しながら別の話題を切り出そうかと悩んでいた矢先。
跳ねる音と共に、ピンクのゴムボールがベンチ近くにやってくる。
何の気なしに敬助がそのボールを拾い上げたところで、
「すみませーん!ボールとってくださーい!」
と声がかかる。
声の方に顔を向ければ、小学生ほどの男の子が手を振っているのが見える。おそらくはボールの主だろう。
「おう、ちょっと待ってろ」
快い返事を返した敬助は手にしたボールに目を落とし、手渡しで渡そうと考える。
そしてボールを空に放りもて遊びながら子供の方へと歩いていた、その刹那。
「……ッ!ダメッ!」
「おあっ!?」
理亜の悲鳴のような声の直後、敬助の背中に強い衝撃が走る。押されるというより突き飛ばされるような感覚に、耐えきれず前のめりに倒れ込む。
手で受け身を取ったこともあって特に怪我などもなく身体の痛みも特に問題になりそうなほどでない。
「あ……」
「いてて……急になんだよいっ……たい……?」
うめき声と、何か硬いものが地面に落ちるような音。
音の主と衝撃の理由を突き止めようと敬助が振り向く。
振り向くと、誰もいない。
否。一つだけ『それ』はあった。
ギザギザとした透明な板の中に人物が写っていて、それを封じ込めるように赤い帯のようなものが巻き付いている。形状としてはアクリルスタンドに良く似ているが、いくつか奇妙な点がある。
赤い帯が人物を覆い隠してしまうほどに何重にも巻き付いていること。
そして。
写っているのは、苦悶の表情を浮かべた理亜であること。
ふと気になった敬助がベンチの方を見る。先ほどまでそこにいた彼女の姿はない。
どこかに去った様子も無い。
「……チッ。質がいいのが取れるところだったってのに邪魔しやがって」
呆然としていた敬助の耳にどすの利いた低い声が聞こえてくる。
それは、敬助にボールを要求していた少年が発したもの。
見た目にそぐわない低い声を発して、先ほどまで浮かべていた無邪気な笑みを捨て、その幼い顔つきを醜く怒りで歪めている。
異常な様子の少年に警戒心を強く抱きながら、敬助は立ち上がり、ゆっくりと後ずさる。
「お前……何者だ?」
「あ?」
「未確認か?それに……氷月になんかしやがったのか……!?」
いなくなった理亜に、理亜を閉じ込めたような悪趣味なアクリルスタンドのような何か。
その二つから導き出された答えを否定しようと叫んだ。
「答えろ……氷月に何しやがった!」
「ああ、そいつか?……ヒトプレスにしちまったよ。お前のせいでこんな質低いのが出来ちまったけどな」
鬱陶しそうな少年の答えに、敬助は歯噛みした。
……敬助の予想通り、あの少年のような何者かが、理亜をこの『ヒトプレス』と呼ばれる物に変えたのだ。
ヒトプレスがどんなものなのか、どういう性質なのかを敬助は知らない。
一つ言えるのは、この少年の皮をかぶった何者かが、理亜をヒトプレスに変えたということ。
ぎり、と歯ぎしりと共に少年を睨みつけようとした敬助。
その表情が驚愕に変わったのは、少年の腹部を見てからだ。
服を捲くりあげて露わになった腹部。そこには『口』がある。鋭利な牙が生え揃い、口腔にあたる部位には、ジンジャーブレッドマンを思わせる人形が収まっている。
「まあいい、お前も……」
少年が腹部の人形を引き抜けば、何かを貪り喰らうような音と共に、少年の姿は変貌する。
小さな体躯は成人男性よりも高いほどに、全身犬歯のような鋭い歯がまるでトゲのように全身を覆っている。
ウニのような異形の怪物の瞳が、敬助をぎょろりと睥睨する。
『ヒトプレスにしてやるからよ』
怪物、『グラニュート・バフ』は、腹の口から帯のような何かを伸ばす。
敬助にはそれが何か、理解してしまった。
あれは、『舌』だ。
(……あれはヤバい!)
ぞわ、と全身に走った寒気。咄嗟に身を投げ出し、転がって舌を避ける。
息つく暇もなく、のたうつような動きで飛んできた舌に背を向けて走り出す。
『……メンドクセ』
バフは落ちていた理亜のヒトプレスを拾い上げる。
苦悶の表情を浮かべた少女の姿が写ったそれを見て、しかしなんの感情を出すでもなく粗雑に懐にしまい込んだ。
『……質落ちると「アレ」が少なくなるってのに……あいつも併せて渡したら許してもらえっか?』