pixivにも同名のものを投稿しています。
「私と逃げませんか?」
ただ飛び出したかった。そこに逃げたいとか、死にたいとか、そんな意味はないのだと思う。
きっと、こんなアパートの小さい一部屋が自分の全てを決めつけているようで、悲しかったのだろうか。彼の疲れ切った顔を見て、恐ろしくなったのだろうか。期待するだけ無駄だ。何者かに成ろうと生きてきた訳じゃない。そう考える度に、頭を打ち付けたくなるような衝動に駆られた。
「...アオバ」
夜中に突然呼び出され、「逃げませんか?」とまで言われたにも拘わらず、優しい顔をしている。だから、彼の返答を待たずに、腕を引いて外へ出た。
「アオバ?」
心配そうな声で問いかけられる。こんな夜も夜に子供が外に出ようと言うのだから、今すぐにでも叱って止めるべきであるのに、言葉はそれだけだった。
「ごめんなさい」
そう言うと彼は少し頭を掻いて、困ったように笑った。
彷徨って辿り着いた夜の駅舎は暗く、けれども眩しかった。肌にへばりつくような暑さの中で彼と二人、ベンチに座る。駅の蛍光灯には虫が集まっていた。光の周りで絶えず円を描くようなそれが、今だけはどうも愛らしい。
「深夜でも電車が走ってるんだね」
「はい。この辺りは24時間ずっと走っていて」
「乗客も大して居ないのに、無駄だと思いますけど」
彼と関わってから朝を見るのが楽しくなった。夜が怖くなくなった。そして、自身の単純さに驚いた。なんて陳腐で、簡単な結果だろう。それをどうにか否定したくて明日を憎もうと思った。全てが矛盾だらけだ。けれど、失敗だった。どうやらとっくに私は彼に殺されてしまっていたようだ。死者は死者のまま。それが世界の絶対的なルール。差し詰め、それを受け入れることすら快感だったのだから、もうどうしようもない。
「どこか行きたいところはある?」
こんな状況すら受け入れてしまう優しさが怖かった。
なら、全てを利用してやろう。とことん優しさに付け入ってしまおう。悪いのは彼だから。
「じゃあ、電車に乗りたいです」
「...終点まで」
予想していなかった答えなのか、少し驚いた顔をして、また困ったように笑った。
ホームの天井の隙間から空が見える。曇り空。星も月も見えない。彼は何を思い、何を考えているのだろうか。常に微笑んでいて、一種の暴力に似た優しさを感じさせて。「先生だから」で全ての疑問を片付けてしまう。そんな仮面を引っ張って引き千切ってやりたい。叶わない素敵な欲望はどうも脳と体を溶かしていく。
「アオバ、仕事は好き?」
思考の中、突然呆けた声でそう訊かれるものだから、少し腹が立った。
「逆に好きに見えますか?」
「なんとなく」
「良かったですね」
それ以上特に会話が続くこともなく、彼は相変わらずの薄笑いを浮かべている。実は何も考えていないのだろうか。ならばどれほど素晴らしいことか。淡い、淡い考えは優雅に宙を舞って、無残に散っていった。
敷かれたレールは夜の闇に吸い込まれ、限りなく伸び続けている。遠くで踏切の単調な音が聞こえた。そして、耳をつんざくような音と共に電車がホームに入る。
「本当に来るんだ...」
「乗りましょうか」
中は思った通り伽藍堂で、どこか虚しささえも感じさせた。空いた一番端の席に座る。彼は少し間隔を空けて隣に座った。
「不思議な気分になるなぁ」
「誰も居ませんね」
無邪気な子供のように言うものだから、私も虚しい車内が少し楽しくなった。心底退屈そうなアナウンスと共にドアが閉じる。揺れて、横に吸い込まれる感覚。そして、外がゆっくりと流れていく。この瞬間が何よりも好きだった。
揺れを感じながら、外を眺める。車窓が流す映像はどこまでも美しかった。黒い空が都市とまばらな光を包んでいる。この中には誰かが生きていて、夢を見ていて、考えていて、眠れずに憂鬱でいるのかもしれない。空の下に生きた以上、何かを思わなければならないようで。なぜ神様はこんなにも理不尽なのだろうか。
「先生」
「はい!」
妙に快活な返事が可笑しかった。
「先生にも嫌いなものって、あるんですか」
ただ疑問に思った訳ではなかった。けれど、高まった気分と感情に口を任せる。
「書類仕事かなぁ」
「つまらないんですけど」
そう言うと、少し考えるような素振りを見せ、口を開いた。
「じゃあ、お酒」
「下戸でね。味は好きなんだけど」
「飲んだことあるんですね」
嫌味のような言葉を言ったけれど、気にしていないのか、ただ気づいていないのか、反応されることは無かった。それにしても、お酒。初めて聞く話だった。もしかすると初めて人に話した話題なのかもしれない。たったその程度のことで、私が価値を感じる理由になる。なった。なってしまった。
外を見て、雑談を繰り返して、外を見て。そうして引き延ばされた時間がどんどんと過ぎ去っていった。今になって、なぜか通過する駅の一つ一つが私を追う不吉な何かに思える。終点まであと少し。彼と話さなければ、それに追いつかれてしまう。根拠のない考えに脳が軋む音がする。でも、そう思って口を開く。
「どうして、付いてきたんですか」
「先生だから、ですか」
突拍子もない言葉。体だけが宙に浮いて、脳と齟齬が生じる。
「それもそうだけど」
「本当に、悲しそうな顔をしていたから」
「すごく心配になった」
体が重力を思い出す頃には既に答え終わった後で、訂正は無理みたいだ。彼は私自身の、私にも分からないことを知っているようだった。
「わざわざ言うことじゃなかったかな」
「ごめんね」
「いえ、ありがとう、ございます」
口から出る言葉は、よく分からないものばかりだった。
ふと気付けば終点を知らせるアナウンスが流れていた。相変わらず退屈そうなそれが、酷く恋しく感じられる。少しの眠気とそれを上から塗りつぶす何かが私を覆う。
「そろそろだね」
彼は不意に立ち上がると、立とうか、と言わんばかりに私を見た。とても、残酷だ。強張った体をなんとか立ち上がらせ、彼の隣に並ぶ。風景の流れが遅くなっていくのと同時に、時間の流れが早くなるのを感じた。
「随分と長い時間乗ったなぁ」
そんな言葉と同時に風景は映像から写真へと変わった。少ししてドアが開く。終点だ。結局は辿り着いてしまう。一生この時間が続けば良いのに、とありふれた言葉で祈ってみたが、奇跡は起こらない。神様も呆れているだろうか。彼が前へと足を踏み出す。ほんの、ほんの少し離れた背中を追いかけるように、急いで私も足を踏み出した。
電車から降りて、目の前に出口がある。終着駅だというのに、小さな駅だった。
「どうしようか」
改札を抜けると、決定権を私に委ねるように、そう問われる。
「少し、歩きませんか」
今はただ彼の隣に居る理由が欲しかった。理由が無いと隣に居てはいけない気がした。我儘に連れ出したくせに。
「右か、左、どっち行く?」
「じゃあ」
「右で」
特に理由は無かった。
すぐ傍には海が広がっていて、永遠と続くような堤防沿いの道を歩いた。水平線から覗く淡い光と、海と星空。全てがぐちゃぐちゃと混ざり合って、どうしようもなく綺麗だ。
「綺麗だなぁ」
「綺麗...ですね」
それがいけなかった。朝を知らせる淡い光が、綺麗だった。美しかった。心からそう思った。
「先生」
朝と夜が、空と海が美しく混じり合う、曖昧な時間。そんな時間だから、全ての輪郭を曖昧にしてしまった。きっとそうだ。
「私は」
「私は、ずっと朝が怖かったです」
「ずっと夜なら良いのに、明日目が覚めなければ良いのに」
「そう思っていました」
彼はずっと変わらない、優しい顔をしている。
「でも、先生のせいで、ぜんぶ変わりました」
「先生がわたしのかちをきめたんです」
「先生がわたしをころしたんです」
そう言うと、初めて、彼の顔に戸惑いが生まれた気がした。
「わたしは先生が好きです」
もう朝日は昇り始めていた。