翌日。
久々に、自分のトレーナー室へ戻ってきた。
扉を開けると、静かで澄んだ空気がふわりと広がる。
(こんなに広かったっけ……)
そう思ってしまうほど、この部屋を“使って”いなかった。
今までは選抜レース前に資料をまとめる程度で、
ここはただ“あるだけ”の場所だった。
だが今日は違う。
(やっと……ここを、トレーナーとして使えるんだ)
デスクに座ると椅子がわずかにきしむ。
その音すら、心地よく思えた。
担当になってくれると答えてくれたマンハッタンカフェは今授業中。
午後の授業が終わったら、この部屋に来てくれる。
契約書は机に置いた。
必要書類も揃えた。
あとは――
「……準備しないとね」
部屋の隅へ歩き、ポットに水を入れる。
スイッチを押すと、じわりと静かな沸騰音が広がった。
その間に、豆を挽く。
ガリ……ガリ……と、低く落ち着く音。
マンハッタンカフェが好きだと言っていた“香り”を重視し、
今日は少し深めの焙煎を選んだ。
甘い香りは、
彼女の静かな雰囲気にきっと合う。
お湯が沸く“カタカタ”という音がした、その時。
コン、コン。
控えめなノック。
「すみません……」
小さな声。
(来た)
「どうぞ」
扉がゆっくり開く。
マンハッタンカフェは小さく会釈し、室内に入ってきた。
その瞬間、彼女の鼻先がふわりと動く。
「……あ」
「どうしたの?」
尋ねると、前髪の奥から黄金色の瞳がちらりとこちらを見た。
「……コーヒーの、香りがしたので」
頬がほんのりと赤く染まる。
「すぐ淹れるよ。座って」
促すと、彼女は素直に椅子に腰を下ろした。
制服の裾がふわりと揺れ、お友達の影も足元で静かに揺れる。
湯を細く注ぐと、粉がふくらみ、
部屋に甘い香りが満ちた。
「……とても、いい匂いです……」
カフェの耳がぴょこんと動き、
その様子が思わず笑みを誘う。
コーヒーを淹れながら、
デスクに置いた契約書を指で示した。
「説明は……いいよね。
これから、僕と君が正式に担当契約をするということ」
そして、ゆっくり続ける。
「昨日は“はい”と言ってくれたけど……
辞めるなら、そこにサインをしなくてもいいよ。
君が本当にやりたいと思ったらでいい」
カフェの指先が、少し震えた。
影がふわりと揺れ、
背中を押すように見える。
マンハッタンカフェは一度深く息を吸い、
前髪の隙間から真っ直ぐこちらを見た。
「……私は、辞めません。
あなたと……進みたいです」
その一言は、驚くほど静かで、
胸にまっすぐ届いた。
迷いのない手つきで、カフェはサインをする。
「……かけました」
署名の紙を見つめるカフェの瞳が、ほんの少し揺れた。
僕は淹れ終わったコーヒーをカップに注ぎ、
湯気の立つそれを両手で持って彼女のもとへ歩く。
「うん、確認したよ。ありがとう。
そして――これ、どうぞ」
目の前にカップを置く。
香りがゆっくりとカフェの頬へ届き、
彼女は小さな声で呟く。
「……おいしいです。
香りも良くて……そして、とても飲みやすい」
それから、ふう、と一つ息を吐く。
(よかった、口に合ったみたいだ)
安心したところで、カフェが尋ねてくる。
「あの……トレーナーさん。これは、ご自身で?」
「うん。趣味でね。
これはグァテマラ産の豆をシティローストしたものなんだ。
香りもコクも――」
ふと言葉が止まり、
しまった、と心の中で思う。
(語りすぎた……?)
そっとカフェを見ると――
彼女は顎に手を添え、
香りを確かめるように目を細めていた。
「……なるほど。
だから甘みもあって……香りもコクもちょうど良く」
その呟きは、
ただの感想ではなかった。
彼女は本当にコーヒーが好きなのだと、
その一言でわかった。
そして、前髪から覗く瞳でそっとこちらを見る。
「トレーナーさんの淹れるコーヒー……
とても、好きです」
その言葉に、
珈琲の湯気よりも温かいものが胸に広がった。