支配のデンジ 作:実験者
町中の歩道を、早川アキとマキマが並んで歩いていた。
夕方の風が少し冷たい。アキは黒いコートを羽織り、髪を後ろで束ねている。マキマはいつものシンプルな服で、足取りは静かだ。アキが低い声で言った。
「監視するため一緒に住むことになった。逃げたら殺すから覚えとけ」
マキマは横顔のまま、小さく頷く。それから口を開く。
「デンジさんは良い人なの?」
アキは一瞬足を止め、マキマを見た。目が冷たい。「そう思うならデンジさんは諦めろ」
マキマはそれ以上何も言わなかった。ただ、少し唇を噛んだ。
──デンジは公務室の椅子に座り、ぼんやりと天井を見上げていた。頭の中に、あの工場の朝の記憶がよみがえる。血まみれの床でマキマを抱きしめた感触。彼女に服を貸し、ご飯をやり、仕事まで与えた。あのとき、自分は確かに彼女を抱きしめた。
(良い人かも……)
そう思った瞬間、自分でも笑いたくなった。
早川アキの家。
早川アキは台所で皿を洗っていた。スポンジを握る手は止まらず、皿がカチャカチャと音を立てる。シンクの向こう、リビングの隅。マキマはソファに小さく縮こまって座っている。膝を抱え、視線を床に落としたまま。まるで置物のように動かない。アキは指先で皿の縁をなぞりながら、ちらりとマキマを見る。
(……何だ、あの座り方)
まるで初めて人間の家に連れてこられた野良犬みたいだ。怯えているのか、それとも警戒しているのか。どちらにしても、殺すと言った相手がこんなに小さく見えるのは計算外だった。水が冷たい。アキは蛇口を少し強くひねる。
監視対象だ。チェンソーマンの悪魔と契約した人間。危険人物。逃げたら殺す。そう口にしたのは自分だ。
アキの指が一瞬止まる。皿に残った油が泡とともに流れ落ちる。監視対象なのに、放っておけない。それは単なる同情じゃない。もっと厄介な感情だ。
自分は公安のデビルハンターだ。感情で動く仕事じゃない。でも、この女の壊れかけの人形みたいに、そこにいるだけで空気を重くする。
触れたら壊れてしまいそうで、でも触れないとそのまま消えてしまいそうで。
殺すと言った手前、優しくするわけにもいかない。だから、こうして台所に立って、皿を洗うしかない。アキはふっと息を吐いた。ため息が白く立ち上る。
(なんでこんなに気になる)
公安のルールか?
デンジの選択か?
それとも、目の前にいる、この壊れそうな女か?水が止まる。
静寂が部屋を満たす。
マキマはまだ、膝を抱えたまま動かない。
アキは濡れた手をタオルで拭いながら、もう一度だけ彼女を見た。
(厄介な女だ)
殺すって言ったくせに、こんな気持ちになるなんて。
公安のデビルハンター公務室。
デンジが椅子にふんぞり返って笑う。
「マキマちゃんにはバディを組んでもらうから。よろしく」
マキマは静かに答えた。
「わかりました」
ドアが勢いよく開いた。
「儂の名はパワー!! バティとやらはうぬか!?」
角の生えた赤い髪の女が飛び込んできた。マキマは瞬きもせず見上げる。
「名前がパワー? 魔人がデビルハンターして良いんだ。よろしくお願いします」
デンジが肩をすくめる。
「魔人は悪魔と同じ駆除対象なんだけどよ、パワーは理性が高いから実験的に早パイの部隊に入れてんの」
パワーは胸を張り、得意げに鼻を鳴らした。デンジは続けた。
「警察に職務質問されたら手帳を見せれば嫌な顔して帰っていくぜ。前も言ったけど、特異退魔4課は実験的な部隊だから、結果が出ないと死ぬぜ」
ビルの屋上。夕陽が赤く染まる。マキマとパワーが並んで歩いている。風が強い。突然、パワーが振り向いてマキマの腹を殴った。鈍い音が響く。
「人間、儂に早く殺させろ!! 儂は血に餓えてるぞ!!」
マキマは腹を押さえ、息を詰まらせながらも無言でパワーを見上げる。
「……」
不満そうに眉を寄せるマキマ。パワーは鼻を鳴らした。
「血の匂いじゃ!!」
そして屋上の端に向かって走り出す。
パワーは屋上の端に向かって一気に加速した。コンクリートの表面を蹴るたびにビルの壁がビリビリと震え、風が唸る。
「どこ行くの」
マキマが小さく呟いたが、声はもう届かない。パワーの体が赤い残光を引いて、屋上の縁を越えた。
瞬間、空気が裂けた。
落下するパワーの周囲に血が渦を巻き、数十メートルもの巨大な血のハンマーが瞬時に凝縮される。赤黒い鉄塊のようなそれは、表面を無数の血管が這い、脈打っている。
重さが空気を歪ませ、落下速度がさらに増す。下にいたナマコの悪魔は、ビルの谷間に蠢く十メートルを超える粘液の塊だった。無数の眼球がびっしり生え、触手がうねうねと蠢いている。
パワーは笑った。牙が光る。
「死ねえええええええええええええ!!」
血のハンマーが振り下ろされる。空気が爆ぜた。衝撃波がビルの窓ガラスを一斉に粉砕し、近くの街路樹が根元から折れる。
地面が陥没する。
ナマコの悪魔は一瞬で潰された。
肉と体液が爆発的に四散し、ビルの壁を赤く塗り、道路を埋め尽くす。臓物の塊がトラックの屋根を直撃してへこませ、信号機が根元から曲がる。
血しぶきは霧となって数十メートル先まで届き、アスファルトがまるで生きているように赤く脈打った。パワーは着地と同時に片膝をつき、血のハンマーを地面に突き立てる。衝撃で周囲の車が跳ね上がり、警報が一斉に鳴り響く。
立ち上がると、血まみれの顔で高らかに笑った。
「どうじゃー!! これが私の力じゃあ!! ぎゃはははははははははは!!」笑い声がビル群を震わせ、血の雨が降り注いだ。
マキマは屋上の縁から身を乗り出し、眼下の惨状を見下ろして、ただ呆然と立ち尽くしていた。
数分後、公安のデビルハンター公務室。部屋はすでに散らかっていた。床には書類が散乱し、壁には血のハンマーの衝撃で割れた窓ガラスから風が吹き込んでいる。デンジは椅子にどっかりと腰掛け、両手で頭を抱えていた。
金髪が指の間から乱れ、ため息が重い。
「はぁ……民間が狙ってた悪魔を公安が狩るのは業務妨害だからなぁ。パワーはもっと頭使えよ……。マキマちゃんもさ、彼女をちょっと制御しないとなー」
マキマは部屋の隅、壁に背中をつけて立っていた。服にはまだ血の飛沫が残り、髪も少し乱れている。それでも表情は変わらず静かだ。
「私も?」
声は小さく、驚いたような響きがあった。デンジは椅子から体を起こし、片手を振って説明する。
「ああ、パワーは魔人になる前は血の悪魔だったから、血を扱うのは天才的になんだよ。でもよ、すぐ興奮するし、頭に血が上りすぎて周りが見えなくなっちまう。デビルハンターには向いてなかったかもしんねぇなぁ〜」
その瞬間、パワーの顔がびくっと引き攣った。
赤い瞳が細まり、牙がむき出しになる。ゆっくりとマキマを指さす。
「こいつが殺せって言ったんじゃ」
部屋の空気が一瞬凍った。マキマは瞬きを一つだけして、静かに首を横に振る。
「え? 私言ってないですけど」
声は平坦で、驚きよりも呆れに近い。続けて小さく息を吐く。
「よくそんなウソを言えるね」
パワーは一歩前に出て、指を突きつけたまま叫ぶ。
「嘘じゃない! この人間が嘘をついている!」
マキマはデンジの方を向き、淡々と告げる。
「デンジさん、この悪魔嘘ついてます」
パワーはさらに声を張り上げた。
「違う! こいつが嘘を言ってるんじゃ! 悪魔は嘘をつけない!」
マキマは初めて小さく笑った。口元だけがわずかに上がる。
「そんな設定はないよ。貴方が証拠」
次の瞬間、二人が同時に爆発した。パワーが「うるせいうるさい!!」と叫びながら机を蹴り上げ、マキマが「証拠も出せないのに」と冷たく言い返しながら受け止める。
机がひっくり返り、書類が雪のように舞い上がる。パワーが血の塊を生成して壁に叩きつけると、ドンッと鈍い音がして壁に赤い染みが広がる。
マキマはそれを避けながら、倒れた棚から落ちてきたファイルをパワーの頭にぶつける。
「うるさいうるさいうるさい!!」
「静かにしようよ」
部屋はたちまち戦場と化した紙が舞い、椅子が転がり、血とインクが床に混じる。デンジは最初は呆然と見ていたが、だんだん顔が青ざめていく。そして限界がきた。デンジが立ち上がり、両手を大きく広げて――パンッ!!ものすごい音がして、二人が同時に動きを止めた。
「静かに」
デンジの声は低く、でもはっきりと部屋に響いた。
金色の目が鋭く光る。
「どっちが足を引っ張ったかはどうでも良い。俺は別に犯人探ししたいわけじゃねえ」
ゆっくりと息を吐いて、二人を見回す。
「俺は二人の活躍みてぇんだよ。だから見せろ。できるよなぁ?」
部屋が静まり返る。血と紙と壊れた家具の中で、二人だけが息を荒げて立っている。パワーはしばらくデンジを睨んでいたが、ふっと鼻を鳴らして胸を張った。
「で、できる」
マキマも静かに頷く。血のついた手をそっと下ろしながら、小さく息をついた。
「……はい」
デンジは再び椅子に座り直し、疲れたように笑った。
「よし。じゃあ次はちゃんと連携しろよ。俺、期待してんだからな」
部屋の中はめちゃくちゃだった。でも、なぜかその空気だけは、少しだけ前より軽くなっていた。