支配のデンジ   作:実験者

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三話:血の悪魔

 

 町中の歩道を、早川アキとマキマが並んで歩いていた。

 夕方の風が少し冷たい。アキは黒いコートを羽織り、髪を後ろで束ねている。マキマはいつものシンプルな服で、足取りは静かだ。アキが低い声で言った。

 

「監視するため一緒に住むことになった。逃げたら殺すから覚えとけ」

 

 マキマは横顔のまま、小さく頷く。それから口を開く。

 

「デンジさんは良い人なの?」

 

 アキは一瞬足を止め、マキマを見た。目が冷たい。「そう思うならデンジさんは諦めろ」

 

 マキマはそれ以上何も言わなかった。ただ、少し唇を噛んだ。

 ──デンジは公務室の椅子に座り、ぼんやりと天井を見上げていた。頭の中に、あの工場の朝の記憶がよみがえる。血まみれの床でマキマを抱きしめた感触。彼女に服を貸し、ご飯をやり、仕事まで与えた。あのとき、自分は確かに彼女を抱きしめた。

 

(良い人かも……)

 

 そう思った瞬間、自分でも笑いたくなった。

 早川アキの家。

 早川アキは台所で皿を洗っていた。スポンジを握る手は止まらず、皿がカチャカチャと音を立てる。シンクの向こう、リビングの隅。マキマはソファに小さく縮こまって座っている。膝を抱え、視線を床に落としたまま。まるで置物のように動かない。アキは指先で皿の縁をなぞりながら、ちらりとマキマを見る。

 

(……何だ、あの座り方)

 

 まるで初めて人間の家に連れてこられた野良犬みたいだ。怯えているのか、それとも警戒しているのか。どちらにしても、殺すと言った相手がこんなに小さく見えるのは計算外だった。水が冷たい。アキは蛇口を少し強くひねる。

 

 監視対象だ。チェンソーマンの悪魔と契約した人間。危険人物。逃げたら殺す。そう口にしたのは自分だ。

 アキの指が一瞬止まる。皿に残った油が泡とともに流れ落ちる。監視対象なのに、放っておけない。それは単なる同情じゃない。もっと厄介な感情だ。

 

 自分は公安のデビルハンターだ。感情で動く仕事じゃない。でも、この女の壊れかけの人形みたいに、そこにいるだけで空気を重くする。

 

 触れたら壊れてしまいそうで、でも触れないとそのまま消えてしまいそうで。

 殺すと言った手前、優しくするわけにもいかない。だから、こうして台所に立って、皿を洗うしかない。アキはふっと息を吐いた。ため息が白く立ち上る。

 

(なんでこんなに気になる)

 

 公安のルールか?

 デンジの選択か?

 それとも、目の前にいる、この壊れそうな女か?水が止まる。

 静寂が部屋を満たす。

 マキマはまだ、膝を抱えたまま動かない。

 アキは濡れた手をタオルで拭いながら、もう一度だけ彼女を見た。

 

(厄介な女だ)

 

 殺すって言ったくせに、こんな気持ちになるなんて。

 

 公安のデビルハンター公務室。

 デンジが椅子にふんぞり返って笑う。

 

「マキマちゃんにはバディを組んでもらうから。よろしく」

 

 マキマは静かに答えた。

 

「わかりました」

 

 ドアが勢いよく開いた。

 

「儂の名はパワー!! バティとやらはうぬか!?」

 

 角の生えた赤い髪の女が飛び込んできた。マキマは瞬きもせず見上げる。

 

「名前がパワー? 魔人がデビルハンターして良いんだ。よろしくお願いします」

 

 デンジが肩をすくめる。

 

「魔人は悪魔と同じ駆除対象なんだけどよ、パワーは理性が高いから実験的に早パイの部隊に入れてんの」

 

 パワーは胸を張り、得意げに鼻を鳴らした。デンジは続けた。

 

「警察に職務質問されたら手帳を見せれば嫌な顔して帰っていくぜ。前も言ったけど、特異退魔4課は実験的な部隊だから、結果が出ないと死ぬぜ」

 

 ビルの屋上。夕陽が赤く染まる。マキマとパワーが並んで歩いている。風が強い。突然、パワーが振り向いてマキマの腹を殴った。鈍い音が響く。

 

「人間、儂に早く殺させろ!! 儂は血に餓えてるぞ!!」

 

 マキマは腹を押さえ、息を詰まらせながらも無言でパワーを見上げる。

 

「……」

 

 不満そうに眉を寄せるマキマ。パワーは鼻を鳴らした。

 

「血の匂いじゃ!!」

 

 そして屋上の端に向かって走り出す。

 パワーは屋上の端に向かって一気に加速した。コンクリートの表面を蹴るたびにビルの壁がビリビリと震え、風が唸る。

 

「どこ行くの」

 

 マキマが小さく呟いたが、声はもう届かない。パワーの体が赤い残光を引いて、屋上の縁を越えた。

 瞬間、空気が裂けた。

 落下するパワーの周囲に血が渦を巻き、数十メートルもの巨大な血のハンマーが瞬時に凝縮される。赤黒い鉄塊のようなそれは、表面を無数の血管が這い、脈打っている。

 

 重さが空気を歪ませ、落下速度がさらに増す。下にいたナマコの悪魔は、ビルの谷間に蠢く十メートルを超える粘液の塊だった。無数の眼球がびっしり生え、触手がうねうねと蠢いている。

 

 パワーは笑った。牙が光る。

 

「死ねえええええええええええええ!!」

 

 血のハンマーが振り下ろされる。空気が爆ぜた。衝撃波がビルの窓ガラスを一斉に粉砕し、近くの街路樹が根元から折れる。

 地面が陥没する。

 ナマコの悪魔は一瞬で潰された。

 肉と体液が爆発的に四散し、ビルの壁を赤く塗り、道路を埋め尽くす。臓物の塊がトラックの屋根を直撃してへこませ、信号機が根元から曲がる。

 

 血しぶきは霧となって数十メートル先まで届き、アスファルトがまるで生きているように赤く脈打った。パワーは着地と同時に片膝をつき、血のハンマーを地面に突き立てる。衝撃で周囲の車が跳ね上がり、警報が一斉に鳴り響く。

 

 立ち上がると、血まみれの顔で高らかに笑った。

 

 「どうじゃー!! これが私の力じゃあ!! ぎゃはははははははははは!!」笑い声がビル群を震わせ、血の雨が降り注いだ。

 

 マキマは屋上の縁から身を乗り出し、眼下の惨状を見下ろして、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 数分後、公安のデビルハンター公務室。部屋はすでに散らかっていた。床には書類が散乱し、壁には血のハンマーの衝撃で割れた窓ガラスから風が吹き込んでいる。デンジは椅子にどっかりと腰掛け、両手で頭を抱えていた。

 

 金髪が指の間から乱れ、ため息が重い。

 

「はぁ……民間が狙ってた悪魔を公安が狩るのは業務妨害だからなぁ。パワーはもっと頭使えよ……。マキマちゃんもさ、彼女をちょっと制御しないとなー」

 

 マキマは部屋の隅、壁に背中をつけて立っていた。服にはまだ血の飛沫が残り、髪も少し乱れている。それでも表情は変わらず静かだ。

 

「私も?」

 

 声は小さく、驚いたような響きがあった。デンジは椅子から体を起こし、片手を振って説明する。

 

「ああ、パワーは魔人になる前は血の悪魔だったから、血を扱うのは天才的になんだよ。でもよ、すぐ興奮するし、頭に血が上りすぎて周りが見えなくなっちまう。デビルハンターには向いてなかったかもしんねぇなぁ〜」

 

 その瞬間、パワーの顔がびくっと引き攣った。

 赤い瞳が細まり、牙がむき出しになる。ゆっくりとマキマを指さす。

 

「こいつが殺せって言ったんじゃ」

 

 部屋の空気が一瞬凍った。マキマは瞬きを一つだけして、静かに首を横に振る。

 

「え? 私言ってないですけど」

 

 声は平坦で、驚きよりも呆れに近い。続けて小さく息を吐く。

 

「よくそんなウソを言えるね」

 

 パワーは一歩前に出て、指を突きつけたまま叫ぶ。

 

「嘘じゃない! この人間が嘘をついている!」

 

 マキマはデンジの方を向き、淡々と告げる。

 

 「デンジさん、この悪魔嘘ついてます」

 

 パワーはさらに声を張り上げた。

 

「違う! こいつが嘘を言ってるんじゃ! 悪魔は嘘をつけない!」

 

 マキマは初めて小さく笑った。口元だけがわずかに上がる。

 

「そんな設定はないよ。貴方が証拠」

 

 次の瞬間、二人が同時に爆発した。パワーが「うるせいうるさい!!」と叫びながら机を蹴り上げ、マキマが「証拠も出せないのに」と冷たく言い返しながら受け止める。

 

 机がひっくり返り、書類が雪のように舞い上がる。パワーが血の塊を生成して壁に叩きつけると、ドンッと鈍い音がして壁に赤い染みが広がる。

 マキマはそれを避けながら、倒れた棚から落ちてきたファイルをパワーの頭にぶつける。

 

「うるさいうるさいうるさい!!」

「静かにしようよ」

 

 部屋はたちまち戦場と化した紙が舞い、椅子が転がり、血とインクが床に混じる。デンジは最初は呆然と見ていたが、だんだん顔が青ざめていく。そして限界がきた。デンジが立ち上がり、両手を大きく広げて――パンッ!!ものすごい音がして、二人が同時に動きを止めた。

 

「静かに」

 

 デンジの声は低く、でもはっきりと部屋に響いた。

 金色の目が鋭く光る。

 

「どっちが足を引っ張ったかはどうでも良い。俺は別に犯人探ししたいわけじゃねえ」

 

 ゆっくりと息を吐いて、二人を見回す。

 

 「俺は二人の活躍みてぇんだよ。だから見せろ。できるよなぁ?」

 

 部屋が静まり返る。血と紙と壊れた家具の中で、二人だけが息を荒げて立っている。パワーはしばらくデンジを睨んでいたが、ふっと鼻を鳴らして胸を張った。

 

「で、できる」

 

 マキマも静かに頷く。血のついた手をそっと下ろしながら、小さく息をついた。

 

「……はい」

 

 デンジは再び椅子に座り直し、疲れたように笑った。

 

「よし。じゃあ次はちゃんと連携しろよ。俺、期待してんだからな」

 

 部屋の中はめちゃくちゃだった。でも、なぜかその空気だけは、少しだけ前より軽くなっていた。

 

 

 

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