支配のデンジ 作:実験者
自動販売機の前に立ち、マキマは缶ジュースを両手で包むように持ち、ゆっくりと口をつけた。冷たい炭酸が喉を通るたび、彼女の瞳が細まる。
「ジュースを飲めるなんて、私にとっては夢みたいなことなんだよね」
缶を見つめながら呟く。指先がアルミの冷たさを確かめるように撫でた。
「だけどこのまま失敗を続けたら、ジュース飲めなくなるどころの話ではなくなる。だからパワーちゃん、協力しよう?」
少し離れたベンチで、パワーは膝の上で野良猫を撫でていた。長い爪が毛並みを傷つけないよう、気を使っているのが見て取れる。
「儂が仲良くなれるのは猫だけじゃ。人間は嫌いじゃ。人間が儂に何かしたからではない。悪魔の本能みたいなもので嫌いなんじゃ。そして悪魔も嫌いじゃ。儂のニャーコを奪ったからの」
マキマはわずかに目を細め、興味深そうにパワーの横顔を見つめた。パワーの話は続く。
「ニャーコを取り戻す前に、儂はデンジに捕まってしもうた。殺されてるかもしれんが、諦めきれん。儂はニャーコを悪魔から取り返せるなら、人間の味方でも何でもしてやる」
猫を撫でる手が一瞬止まり、パワーは遠くを見るような目をした。
「猫ごときだと、うぬには分からない感情かも知れんがな」「猫……猫」
マキマは少し首を傾げて考え込む仕草を見せ、やがて白々しく微笑んだ。
「でも、犬ならわかるかも」
パワーの眉がピクリと動いた。複雑な表情を浮かべ、彼女は提案する。
「ニャーコを悪魔から取り戻せられたら、協力すると言ったらどうする?」
マキマはにこりと笑った。
「悪魔がさ」
「おお」
「猫を攫うなんて」
「おお!」
「そんな事デビルハンターとして許せない」
「おお!!」
翌朝、公安のフロアで外出許可証を受け取ったパワーは、珍しく素直に喜びを隠せなかった。
「一人では外出できないんだね」
「おお、ずっとここの中で退屈しとった」
電車の中、パワーは窓に額をつけるようにして外を眺めている。マキマは隣で静かに座っていた。
「ニャーコを攫った悪魔の居場所はわかっておるんじゃ、問題はうぬしか戦えんことじゃ」
「どうして?」
「儂の姿をみられたらニャーコを盾にされてしまうからのう。そうなったら詰みじゃ」
マキマは小さく頷いた。
「なるほど。私もポチタという悪魔を飼ってたの。いなくなったけど、胸の中にいる」
「それはポチタが死んだってことじゃろ。人間らしい感傷じゃな」
「酷いね、パワーちゃん」
電車が終点に着き、二人は閑散とした住宅街を歩いていく。やがて道は舗装も途切れ、雑草が生い茂る空き地にぽつんと古びた一軒家が残っていた。
「…………」
マキマが足を止めた。電車の中で言っていた言葉と矛盾している。本来ならパワーは姿を隠さなければならないはずなのに、こうして堂々と歩いている。
(つまり罠。グル。生贄と引き換えにニャーコを解放する約束。そういう魂胆)
背後からパワーの声がした。
「なんじゃ、怖気づいたのか?」
マキマはゆっくりと振り返り、静かに微笑んだ。
「いや、先手必勝かなって」
次の瞬間、彼女は胸のスターターロープを強く引き抜いた。赤黒い火花が散り、頭部からチェンソーが飛び出す。腕と顔が変形し、悪魔の姿へと変貌する。
「公安特異4課、交戦開始」
マキマは走った。脚のチェンソーが地面を削り、火花を撒き散らす。ローラーのように回転する刃が大地を噛み、彼女の体を矢のように射出した。
三秒。
それだけで朽ちた家の正面壁は粉々に弾けた。室内は暗く、血の臭いと獣の熱気が押し寄せる。悪魔の気配が一匹だけ、背筋を刺す。
マキマの瞳が細まる。
(一撃で終わらせる)
逆さに吊られた巨大なコウモリが、音もなく翼を開いた。
瞬間、鋭い爪が空を裂く。遅い。マキマの右腕チェンソーが閃光のように走り、悪魔の左腕を根元から千切った。
血の雨が降り注ぐ中、左腕の刃が跳ね上がり、右目を抉り、眼球を宙に弾く。
「ギィイイイイッ!!」
悲鳴が耳を劈く。床に転がる籠。中には震える猫。マキマはそれを掴み、壁を蹴って外へ飛び出す。全身のバネを利かせ、全力で投擲。
「パワーちゃん、受け取って!」
籠が弧を描いて飛ぶ。その背後――死角から、残った爪が閃いた。ズブッ。腹を裂く衝撃。内臓が熱を帯び、血が喉を逆流する。視界が赤く歪み、膝が折れそうになる。だが、マキマは笑った。
次の瞬間、右腕のチェンソーが逆噴射のように唸りを上げ、悪魔の胴に深く食い込んだ。刃が回転し、肉を、骨を、臓器を同時に引き裂く。
カウンター。血しぶきが顔を打つ。
「ギャアアアアアア!!」
コウモリ悪魔は絶叫し、天井を突き破って空へ逃げた。マキマは即座に左腕を振り上げる。チェーンが蛇のように射出され、先端の刃が悪魔の右足首を貫く。ガキン。強く引く。
体が宙に浮き、チェンソーの回転を推進力に変えて追撃。
空は血と羽根と肉片で霞む。空中での死闘。チェーンを巻きつけ、振り子のように加速。次の瞬間には悪魔の背に着地し、頭部のチェンソーを首筋に突き立てる。
刃が骨を削り、脊髄を断ち切ろうとする。悪魔は狂ったように暴れ、残った翼でマキマを振り払おうとする。
爪が肩を裂き、血が噴き出す。痛みなど、もう感じない。マキマはさらにチェーンを巻きつけ、悪魔の体を固定。両腕のチェンソーを同時に回転させ、胴体を横一文字に裂いた。
内臓が宙に舞い、血が雨のように降る。力尽きたコウモリ悪魔は翼を失い、絶叫と共に墜落を始めた。マキマはチェーンを最後まで巻きつけたまま、共に落ちていく。地面が迫る。
風が咆哮する。血と肉片が渦を巻き、二つの影は激突の一秒前、マキマの瞳だけが、冷たく、静かに燃えていた。
墜落地点は繁華街の中心だった。
ビルの谷間、交差点のど真ん中にコウモリ悪魔の巨体が叩きつけられ、アスファルトが波打つ。周囲は悲鳴とクラクションの嵐。逃げ惑う人波の中、血まみれのチェンソーマンが立ち上がる。コウモリ悪魔は片翼を引きずりながら、這い上がった。
純粋なフィジカルは圧倒的だ。人間から恐れられるほどに肥大した肉体は、チェンソーマンの刃すら弾く硬度を誇る。
「人間に、これが切れるか!!」
悪魔が咆哮し、近くに停まっていたワゴン車を片手で掴み上げる。窓から悲鳴が漏れる。運転手一家が中にいる。マキマは跳んだ。両腕で車を受け止め、地面に叩きつける前に衝撃を殺す。
金属が軋み、タイヤが破裂する。
「体に見合わぬ怪力。その力で何で人間助ける!?」
「無関係な人の命は知らない」
マキマは答えると同時に、受け止めた車をそのまま振りかぶり、悪魔の顔面へ全力で投擲した。ドガアアアアン!! 衝撃と同時にガソリンが引火。
爆発が悪魔の頭部を包み、黒煙が立ち昇る。運転手一家は転がる車から這い出し、間一髪で生還した。コウモリ悪魔は怒りで震え、胸を異様に膨らませる。肺が風船の如く膨張し、空気を貪るように吸い込む。マキマはそれを見逃さない。
即座に右腕からチェーンを射出、近くのビルにアンカーを打ち込み、体を横に滑らせる。次の瞬間、衝撃波を伴った空気の弾丸が放たれた。
ビル群が紙のように捻れ、ガラスが粉々に砕け散る。爆風がマキマの髪を逆立て、制服を引き裂く。煙が晴れる。コウモリ悪魔は半身を焼かれながらも、まだ立っていた。
「終わり」
マキマは低く呟き、滑るように突進する。四肢のチェンソーが唸りを上げ、悪魔の皮膚を撫でるように裂いていく。
腕が、翼が、胴が、首が、刃が通るたびに血と肉片が噴き出し、地面を赤く染める。一方的な蹂躙だった。「ふぅ」マキマが息を吐いた瞬間、
背後からぬめりとした気配が迫る。振り返ると、そこにいたのはヒルの悪魔だった。人の髪を無数に生やした、ぬらぬらと蠢く異形。
「コウモリ死んじゃったのね。一緒に人間を全滅させる夢を語ったのに。殺したのはあなた?」
「はい、その通りです。」
「良い顔ね、そういう女は嫌いじゃないわ。見逃してあげましょう」
「ありがとう」
マキマは微笑み、同時に右手のチェンソーをヒルの胴に突き刺した。ズブッ。
「お前っ!!」
「うん、勝てる気がしない」
「お前たちのようなちっぽけな人間と私たちは違うの!! 無謀だけど大きい夢を持っている!! それを貴方は!!」
ヒルの体が爆発的に膨張し、無数の口が開く。
マキマは吹き飛ばされ、ビルの壁に激突した。
変身が強制解除される。エネルギー切れ。胸のスターターロープを引いても、変化したのは右手だけ。
(これは、少し……)
全身ボロボロ、血塗れのマキマは、それでも立ち上がる。
「夢バトルをしましょう。平凡に、平和に、安心して暮らせるデンジさんと一緒に過ごす。私が勝ったら、貴方達の夢はそれ以下です」
激しい戦闘が続く。しかし、右手一本では歯が立たない。ヒルの体液が皮膚を溶かし、髪が絡みつき、動きを封じる。
マキマは膝をつく。
その時、「コン」低い、静かな声。
巨大なキツネの悪魔が現れ、一瞬でヒルの悪魔を喰らい尽くした。振り向くと、そこには見知らぬ男が立っている。
公安特異4課の制服。背後にキツネを従え、静かに立っていたのは早川アキだった。マキマの意識はそこで途切れた。
………病院のベッドで目を開ける。
隣では早川アキがリンゴを剥いている。皮が途切れず、綺麗な螺旋を描いている。自炊しかしてこなかった男の手つきだ。
「悪魔は常に人の死を望む。血の魔人に殺されそうになったな?」
「いいえ」
「悪魔に肩入れしているな」
「いいえ」
アキは無表情で続ける。
「俺が詳しく報告すれば、お前たちは処分される。だけど、一つの条件を飲めばそれをしないでやる」
「なんですか?」
「俺の言うことは素直に聞くこと」
「わかりました」
「お前はバカで子供で道徳がない。俺はお前より先輩だし、社会正義もあるつもりだ。俺の言うことを聞いていれば、お前は今の生活を守れるぜ」
冷たい言葉。けれど、マキマが何よりも望む「デンジとの平凡な日常」を知った上での、早川アキなりの優しさだった。
「どうだ」
「よろしくお願いします」
アキは小さく息を吐く。
「私は小さな存在です。ですが本気で生きてます。期待していてください」
「……わかった」
アキは立ち上がり、静かに病室を出ていった。残されたマキマは、包帯だらけの手でシーツを握りしめる。痛みと疲労の中で、確かに胸に灯るものがあった。
守りたい日常。
守ってくれる人。
まだ、終わらせない。
早川アキは、見た目も口調も冷たく、どこか近寄りがたい雰囲気を漂わせている。背が高く、黒髪を後ろに撫でつけた整った顔立ち。常に少し疲れたような目をしており、口元には薄い不機嫌が張りついている。
制服のネクタイはきちんと結ばれ、煙草の匂いが染みついている。一見すると「堅物で融通の利かない先輩」という印象を強く与える男だ。だが、その本質はまったく違う。
彼は「優しさ」を殺すほどに抱え込んでいる。幼い頃に家族を悪魔に殺された。
両親と、もっとも大切だった弟を一瞬で失った。
その日から彼の人生は「悪魔を殺すこと」だけに収束し、感情を削ぎ落としながら生きてきた。だからこそ、笑うことも泣くことも下手で、他人に優しくする術を知らない。
優しさを素直に表現すれば、それは「甘さ」になり、誰かが死ぬ。
そう信じている。だから彼は冷たくなる。
怒鳴る。
殴る。
距離を取る。マキマを裏路地で殴り倒したのも、パワーを監視対象として冷遇するのも、
すべて「死なせたくないから」だ。マキマに対しても同じだった。口では「うるさい」「邪魔だ」「チンピラ」と罵りながら、裏ではマキマがまともな食事を取り、風呂に入り、人間らしい生活を送れるよう、誰よりも気を配っている。
それを決して口にしない。
感謝されたいとも思っていない。ただ、失いたくないだけだ。彼にとって「守る」という行為は、自分の心を殺してまで優先しなければならない義務であり、呪いでもある。
マキマに対して「俺の言うことを聞いていれば、お前は今の生活を守れるぜ」と言ったとき、あれは脅しではなかった。
あれは、彼にできる最大限の「優しさ」の形だった。
「俺はお前みたいなバカを、死なせたくない」それを「社会正義がある」とか「先輩だから」と言い換えて、決して本心をさらけに出さない。だからこそ、マキマは理解した。
この人はデンジと同じ匂いがする。
言葉や態度は正反対でも、根っこにあるものは同じだ。「誰かを失いたくない」という、どうしようもなく人間くさい、痛々しいまでの願い。
早川アキは、自分の優しさを隠すために冷たくなる男。
自分の弱さを殺すために強がる男。
そして、それでも誰かを守ろうと、命を削ってでも立ち続ける男。彼は決してヒーローではない。
ただの、傷だらけの人間だ。だからこそ、マキマにとって、彼は「信じてもいい人」の一人になった。
たとえその優しさが、棘だらけの刃のように痛くても。