「悪い子はお仕置き!」
小型の包丁を振り回す少女、といってもそれは見かけだけの小さな女性にすぎなかった。彼女は職場のホテルから出ることは少ないが、かといって全く外出しないわけではなかった。何か思いついたようにふらりと姿を消して、地獄を散歩しては好みの悪い男を探しているのだった。
それを気にも留めず飼い主の男は自室で紅茶を飲んでいた。異様に頑丈な彼女が傷ついて帰ることなど考えられなかったからだ。
「ねぇ、アラスター!ニフティの姿が見えないんだけど知らない?大丈夫かしら?」
ホテルオーナーがドアを開けると同時に不安な表情で叫んだ。
「大丈夫ですよ、チャーリー。そのうちひょっこり戻ってきますよ。」
「そう?・・・・それならいいけど。」
口元は笑って見せたが、やはり不安は拭えぬ表情のまま彼女はドアを閉めて去っていった。
「私のペットは自分の家を忘れたりしません。」
中途半端に減った紅茶を一口で飲み切ると、アラスターはベッドに入って目を閉じた。
ーカチャリー
残夜の冷たい空気が床を冷やす頃、静かにドアが開く音が聞こえた。物音を立てぬよう静かに歩く足音は天井を歩くネズミのように小さくて小刻みだ。空になったティーカップがソーサーから持ち上げられる音も聞こえる。睡眠を邪魔されたはずなのに、どうにもその音は不快に感じずむしろ心地よいとさえ感じた。夜まで仕事をしていた遠き日の誰かを思い出しそうになって、彼は眉間に皺を寄せてぐっと瞼を強く閉じた。
するとどこからか歌声のようなものが耳元で聞こえてきた。
♪Nen-nen korori yo, ne-korori yo,
bow-ya wa warui ko, nen-ne shina♪
奇妙な歌だった。聞いたことのない旋律、どこの言葉かもわからない。そもそもこれは意味のある言葉なのだろうか?しかしそれが「ララバイ」であることだけは感じ取れた。この不思議な歌を聞いているうちに、再び瞼が重くなり彼は一時の休息を得たのだった。
目が覚めたのは日が昇ってからのことだった。机の上のティーカップは綺麗な姿で棚に戻され、脱ぎ捨てた赤いジャケットはシワを伸ばしてハンガーに掛けてある。部屋の外では「キャハハ」という笑い声とナイフが床に突き刺さる音がする。彼女が帰ってきているのは確かだった。今日もいつもの日常だった。そのはずだった。
ジャケットを着て襟を正し胸を張った。また忙しい1日が始まる。
「おはよう!ボス!」
ドアを開けると廊下で虫を追いかけるニフティがこちらに気が付き満面の笑みを向けた。
「おはよう、マイ・ディア。」
彼もまた、挨拶を返した。ペットはきちんと家を覚えている。彼の中で何かが満たされてゆくのを感じる。
「昨晩はどちらへお出かけだったんですか?」
特に何の気も無しにそう聞いた。
「・・・探し物をしていたの。」
彼女は一寸考える素振りをして、大きな一つ目で空を見つめながらそう答えた。引っかかる言い方だった。いつもなら二つ返事でぶっきらぼうに答えるのに、今日はなにか「含み」があるように感じた。
「良かったら探し物をお手伝いしましょうか?」
アラスターは杖を両手で押さえたまま、頭を直角に曲げ彼女の顔を覗き込むように尋ねた。
「いらない。」
彼女はいつものぶっきらぼうな態度に戻ると、また包丁を握りなおして廊下を走り去ってしまった。
「そうですか!」
走っていく背中を少し眺めて、アラスターは影の中にトプンと沈んだ。
ホテルのバーカウンターではいつもの面々が談笑している。ホテルオーナーとその彼女、バーテンダー、そして宿泊客の男娼。
「チャーリー、昨日ニフティを心配していましたが無事に帰っているようですね。」
「えぇ!よかったわ。最近様子が少し変なの。」
「変ですか?」
全員の視線がチャーリーに向けられる。
「ニフティが変じゃないほうが変だろ。」
エンジェル・ダストが金歯を見せて冗談めかして言うと、ハスクは「ハハッ」と笑い同調して見せた。
「どう変なのよ、チャーリー。」
ヴァギーは彼女の肩に手をのせて優しく聞き直した。
「うーん、正気になってるというか・・・あ、違うの!ニフティが狂ってるって言いたいわけじゃないわ!じゃなくて、あの、その、・・・・ニフティは普通だけど、もっと普通というか・・あー!」
「落ち着いてチャーリー、大丈夫だから。とにかくニフティがいつもと様子が違うのね。」
自分の発言を訂正するたびに酷くなるチャーリーをヴァギーがなだめる。
「あぁ、そういえばニフティがこの前、妙な事聞いてきたな。この辺りに花はあるかとか。」
ハスクが思い出したように話だした。
「花?へぇ、ニフティも乙女だねぇ。僕も欲しいなぁ。」
エンジェルが目をキラキラさせてハスクの顔を覗き込んだ。ハスクは咳払いしてグラスを熱心に拭き取る素振りをしている。
しかし、その瞬間にアラスターの耳が少しだけ立ち上がったことは誰も気が付かなかった。
「まぁ!ニフティがお花を探してるなんて!!!きっと恋ね!」
チャーリーはエンジェルに負けないキラキラと輝いた目をして空を仰いだ。
ふたたびアラスターの耳がピンと立ち上がった。
「恋?あんま想像できないけどニフティも女の子だもんね。」
ヴァギーは腕組みして眉間に皺を寄せた。実際、ニフティが「普通に」恋愛をする様子はこの場の誰も想像できなかったし、したくもなかった。ハスクは花束の中に包丁を隠しいれる姿まで想像して考えるのをやめた。
「ふむ。まぁニフティも大人ですから他人がとやかく言うのは野暮でしょう。」
アラスターはさも「どうでもいい」といった表情でハスクの正面に座った。
「しかしこの辺りで花というと、店で買うかあるいは街外れまで足を伸ばさないといけませんね。」
「あぁ、俺もそう言ったんだが、次の瞬間には虫を追いかけてたぞあいつ。」
人の話も最後まで聞かねぇで、と文句を垂れながらハスクは心底煩わしそうに答えた。
(ニフティが花を贈りたい相手は一体誰なんでしょう?)、アラスターがそんなことをぼんやりと考えている間に、皆の話題はいつしか変わっていた。
最後にエンジェルが「あぁクソッ。仕事の連絡だ。いってくる。」とホテルを後にしたことを皮切りに、バーテンダーのハスクを残してなんとなくそれぞれ解散してしまった。
「アンタ、気になってんだろ。」
皆がいなくなったタイミングでハスクが口を開いた。
「何がです?」
アラスターは得意の笑みを崩さぬまま聞き返した。
「分かってるんだろ?ニフティのことだ。別に俺はどうでもいいが、なんだ、ペットの世話は飼い主の“責任”ってやつじゃないのか?」
ハスクの促すような言葉を聞いてアラスターはバツが悪そうに立ち上がった。
「そうですねハスク。それは私の仕事でした。」
「あいつの考えてる事は分からんが、多分今夜も南側の森に行くと思うぜ。この時期は花畑が咲いてるはずだから。」
「なるほど。頭に入れておきましょう。」
黒い影と共にアラスターがその場から消えると、ハスクは「やれやれ」と言わんばかりに頭を振って再びグラスを磨き始めた。
多くの罪人達が布団に入るころ、アラスターはホテルのバルコニーから出入り口を眺めていた。思った通り、一人のメイドがキョロキョロとその単眼であちこちを見回しながら出ていくのが見えた。かと思うと、凄まじい速さで南へ向かって走ってゆく。建物の角を縫うように、砂埃を立てながら、一目散に走ってゆく。
アラスターはすぐに彼女を追いかけようとした。しかし、その場に根が生えたように足が動かなかった。
「ペットは必ず帰ってきます。心配はいりません。」
自分が本当に心配しているのは、彼女が実際に「ホテルに帰ってくるかどうか」ではないことなど分かり切ったことだった。それでも、自分の目で確かめることはどこか憚られた。
自室に戻り、上着を脱ぎ棄て床に落とした。飲みかけのカップをテーブルに残し、彼は布団の中に入った。今日も夜更けになれば、また小さな物音が聞こえてくるだろう。アラスターは瞼を閉じた。
こういう夜は思い出したくない事ばかり考えてしまう。瞼の裏には昔の記憶がまるで壊れた映写機のようにパラパラと同じシーンを繰り返す。何度も寝ようと試みるがうまくいかない。彼は業を煮やして起き上がった。
1階に降りると薄ぐらいホテルのどこからか、聞き覚えのある歌が聞こえる。
♪Nen-nen korori yo, ne-korori yo,
bow-ya wa warui ko, nen-ne shina♪
アラスターの耳がピンと張って音の方を向いた。
バーカウンターで酒瓶を持ったまま寝落ちしているハスクの横で、機嫌の良さそうなニフティが歌っている。今度は床がトランポリンにでもなったかのように足が飛んだ。
「ニフティ。」
声を掛けられた相手は真っすぐに呼ばれた方を向いた。いつもの笑顔が一瞬曇るのを見逃さなかった。
「ボス。起きてたの?」
「ええ、ニフティ。あなたが遅いから心配したんですよ。」
「キャハハ!嘘!ボスはそんなことしない!」
「明日も仕事があるでしょう?もう寝る時間です。悪い子ですね。」
「お仕置きする?!」
首根っこを掴まれて宙に浮いたニフティが足をバタバタと揺らして喜んでみせた。
「はい。今日はお仕置きです。」
「本当!?」
ニフティの首根っこを掴んだまま自室に戻ったはいいものの、アラスターは困った。彼女に何をすれば「お仕置き」になるのかが、てんで分からない。ニフティはというと顔を赤らめてはしゃいでいる。その顔を見ると少し意地悪したい気持ちになった。
「ところで、さっきのヘンテコな歌はなんですか?」
「知らない!歌は覚えてるけどタイトルは知らないの。」
「そうですか。あなたに似て理解不能な歌です。」
「ボス、嫌い?」
「・・・。どうでしょう?」
嫌いかと聞かれるとやはり困った。
「小さい頃に聞いてたの。いっぱい東の、端っこにある小さな島の歌なんだって。」
「あなたは今も小さいですけどね。」
アラスターはベッドの上に彼女を降ろして隣に座った。
「それで、その小さな島の歌は皆に聞かせてるんですか?」
大きなくりくりとした目玉に顔を近づけてアラスターが尋ねた。
「なんでそんなこと聞くの?」
大きなくりくりとした目玉で彼女はアラスターを見つめ返した。さていよいよ困った。少し意地悪をするつもりが、どうしてこちらが詰められているのか。その答えを素直に言ってしまうのは憚られる。アラスターは一度天井を眺めて質問は無視することを決めた。
「最近、いつも出掛けてるみたいですがどこに行ってるんですか?」
「なんか今日のボス変だよ!」
「いいえ、変じゃありませーん。」
「お仕置きないなら、もう行くね。」
怪訝な顔でアラスターを一瞥したのち、ニフティはピョンと布団から飛び降りて部屋から出ようとした。
咄嗟に、アラスターの触手がニフティを捉えた。
「まだ話は終わってませんよ、ニフティ。」
「なに?やっぱ変だよ。離して。」
触手を引き寄せ、そのままニフティの唇に自らの唇を触れさせた。瞬間、「ものすごい不快感」というのが正直な感想だったが、それでもそうしなければならないと思ったのだ。
「アラスター?!どうしたの?」
「お仕置きは、外出禁止です。」
ニフティは目を大きく見開いたまま呆然として固まっている。アラスターは袖で唇を拭いながらニフティを抱き寄せて布団に入った。もう何も喋る気が起きなかったし、考える気すら起きなかった。もし考えてしまえば、自分の中にあるドロドロとしたこの感情に、チープな名前が付いてしまうような気がしたのだ。
今はただ、この小さな人がどこかに行かないよう必死に抱きしめておくことしか考えられなかった。