「うーん」
土偶とは象形だ。
「ようわからんな」
苦笑しながら、男……オガンは手に持った土偶を放り投げた。ガシャンという音と共に土偶が砕け散る音がする。
脳内で形作った“女”を造形し、それを形として残す。
それに一体何の意味がある? ただの土塊で女の体の柔らかさを表現できるか? 体の丸みを再現できるのか?
指の食い込み、髪の流れ、声色に首筋の匂い。
女を表すなら、五感全てで表現しなければならない。それを不出来な造形にまとめようなどとは、到底オガンには理解できない思考だった。
オガンは生まれつき、体が弱かった。
同じ年に生まれた子供が立って歩く年齢になっても、オガンは地面を芋虫のように這って移動することしかできなかった。
そして同年代が家事を手伝うような年齢になってから、ようやく自分の足で歩き始めた後も、右足と左足の前の出し方をいちいち意識しないと満足に歩けないくらい要領も悪かった。
普通の人間が普通に出来ることが、オガンにはとても困難なことだった。
そんなオガンは、早くのうちに両親から村の足手纏いとして見限られ、ろくに食べ物を与えられることもなかった。今の細身の体はそれが原因だ。
空腹と疲労の中、村からも世界からも見捨てられたオガンは、一人村の地面を這いずり回りながら自分をこの世の屑だと思うようになった。
実際、あのまま生きていればオガンは間違いなく屑のままだったし、誰の記憶にも残らない生涯を終えただろう。
そんなオガンに手を差し伸べた、一人の女がいた。
その女は村で一番器量が良く、美人で、優しく気が利く娘だった。オガンとは決して交わらない世界にいる、雲の上の天上人のような人間だった。
そんな彼女が何故、村の屑であるオガンに手を差し伸べたのか。今となっては理由もわからないが、今のオガンはそこに彼女なりの優しさと善意。そして人間らしい優越感などの感情があったのだろうと思っている。
娘は確かに美しかったが、それでも人間であった。言動の端々にはオガンを内心見下しているような節があったし、それを隠そうともしない傲慢さがあった。
それでも、当時のオガンにとってはその娘がこの世の光に見えた。
それから、娘を神聖なものとして崇めるようになるまで時間はかからなかった。
人生に目標ができたその瞬間から、緩慢で冗長だったオガンの時間は急速に加速していく。
地面を這って歩いていたのに、次の日には同年代の誰よりも早く走れるようになった。力は大人たちよりもずっと強く、体力も底なしとなった。
頭をずっと覆っていた靄のようなものが消え去り、頭脳が冴え渡るようになった。
娘のためと思えば、あらゆる艱難辛苦も乗り越えられた。その先にあるものを求められた。そしていつか、天上の頂にいる娘をこの腕で抱ける日を夢見たのだ。
──だが、娘には男がいた。
娘にはすでに将来の結婚を誓い合った相手がおり、その男はオガンが立って歩き始めるよりずっと前からオガンにとって光だった女に触れ、愛の言葉を囁かれ、深く愛し合っていたのだ。
それを知った時のオガンの失望は途方もないものだった。暗闇の中、ようやく見えた太陽に突き進み始めたと思ったらそれがまた目の前で闇に隠され、オガンは進むべき道を見失った。
だが、再びこの世を諦めたオガンに、今度は村の女たちが擦り寄ってきた。
オガンは知る由もないことであったが、娘のために身綺麗さを心掛け、さらに村の男たちとは一風違う厭世的な雰囲気を纏っていたオガンは裏で女にモテ始めていたのだ。
オガンは娘に感じたほどの魅力を擦り寄ってくる女たちには感じなかったが、手慰めに何人かの女を抱いた。
最初の頃はそれで満足できたし、楽しかった。しかし、すぐに似たような反応しか返さない女たちに飽きが来た。
オガンの体に細身ながらもしなやかな筋肉がつき、狩りを一人でこなせるようになってからもオガンは何人もの女を自分のものとして振る舞ったが、感動も優越感も何もなかった。
やがて、初恋の娘すら、元いた男を捨ててオガンのことを赤く染まった頬と潤んだ瞳で見るようになっても、何も感じないようになっていた。
オガンを見下すような言動をしていた娘が人が変わったようにオガンに媚びるように振る舞うのを、ただ苦笑しながら適当に遊んでやっただけだ。
その内、退屈で手狭になった村を出て、オガンはこの近辺で最も人やモノが集まると言われる高勾村に身を寄せた。
そこはまるで、オガンの内心を鏡写しのように表していた場所だった。
無碍にされる一方で、丁重に扱われているようにも思える女たち。そんな彼女たちを見下してつまらない自己陶酔に浸る男たち。
「素晴らしい場所だな」
まさに、ここは地上の楽園と呼ぶに相応しい。
弱肉強食こそ、オガンが見てきた世界の真理そのものだ。弱い人間は徹底的にむしり取られ、餌となり。強者をさらに強大に肥え太らせるための糧となる運命。
この世の最下層に住んでいたオガンだからこそ、高勾村を支配していた“スザン”と呼ばれる呪術師に迎合した。
「珍しい人間だな、貴様は」
オガンがスザンに共感したように、スザンもまたオガンを見そめた。ただの旅人であったオガンは、スザンの用心棒として登用されることになった。
「人は全て、目には見えない力を纏っておる。人だけでなく、生物。草花や虫も同じことよ。しかし、それをお前からは感じない」
「……それがねぇと何か困るのか?」
「夜な夜な現れる穢れどもに触れることはできん。しかし、おそらくは穢れもまた貴様の存在を認識できんだろう」
穢れ。
曰く、この世には人とも獣とも違う死者の怨霊から湧く化け物が居るのだと言う。
それは普通の人間では見ることも触れることもできないが、逆に穢れは人間を襲う。夜な夜な人気のいない場所に潜り込んでは人を殺して喰らうのだと言う。
その穢れを村から追い出すのが呪術師の役目であり、宿願なのだろ言う。オガンの村にも呪術師はいたが、人を騙すのが上手いだけのただのホラ吹きだと思っていた。あれでしっかり仕事はしていたらしい。
「まっ、俺には関係ねぇことだな」
穢れも呪術師も関係ない。
オガンは今まで虐げられてきた自分のため、好きに生きることにしたのだ。誰が誰を救おうが、あるいは虐げようが知ったことか。
すでにオガンにとっての人生の光は失われて久しい。あれほど焦がれた女という存在も、実際は大したことがないのだと理解してしまった。
故に──月読村と呼ばれる辺境の村に、言葉を失うほど美しい巫女がいると伝え聞いた時も、特にオガンの心は揺れなかった。
美しいからなんだと言うのか。オガンが初めて惚れた女はこの世の何よりも美しいと思ったが、あれ以上に美しいものにはついに出会うことはなかった。
その女も今では、どこにでもいるような普通の女になっているだろう。
この世界で唯一絶対不変なもの。それは暴力だ。
圧倒的な暴力を持つものが全てを支配する構造こそ、真に尊ぶべきもの。
故に──。
「うん?」
今は“山の翁”と呼ばれているスザンの部屋を出て、捕らえた月読村の女の様子でも見に行こうと歩き出し、外に出た……と同時に違和感。
「……なんだ」
今日はやけに村が静かだ。
いつもはオガンやスザンが姿を見せれば、村人たちは恐怖の表情と共に跪き、女を隠して許しを乞う。その姿が滑稽で、いつも楽しみだったのだが。
これでは興が削がれてしまう──。
と。
目の前を。
「はっ」
“白”が通った。
白い女だ。白く、細い女が……こちらには目もくれず、一直線に目の前を横切った。
あまりにも一瞬で、感慨など抱く暇もなく。
だが。その一瞬で……オガンの胸は、ある思いで満たされた。一瞬見えたその横顔に、まるで本能のようにこう思ったのだ。
「──綺麗だ」
それが、オガンと“熊の巫女”の最初の邂逅だった。