棺の中のスノウ・ホワイト 作:ぜっけい
──4月の半ば、ほとんど夜になりかけた夕暮れに、少年が一人で歩いていた。
高校に進学したからと言って気は緩めるものではない、むしろ新しい環境への適応、新しいクラスメイトとの人間関係の構築に、新しい授業と難しい課題……やることは目白押しである。
それは、
事実として、持ち前の人当たりの良さと快活さでクラスではある程度の友人関係は構築できたし、今のところ授業で遅れを取る樣子もない。
「しっかし、参ったなぁ。朝練まで誘われるとは……それも俺の才ってわけか」
練習で疲労した肩を回しながら、銀我は独り言をする。
そう。悩みといえば、部活のことだ。
中学の間打ち込んできた野球を続けるか、それとも別の部活に入るか……これは銀我にとって大きな問題であった。
かつて、銀我にとって野球とは自分の全てだった。
数少ない家族の思い出……父親とのキャッチボールや、母さんが応援してくれた野球の試合、そして試合で大活躍して両親に褒められたこと。そういった家族の思い出の結晶が銀我にとっての野球だった。
しかし、小学校を卒業する頃に母親が死んでしまった。それをきっかけに家庭は崩壊した。母を失ったことで銀我の父は家庭ではなく仕事にばかり打ち込むようになった。そして銀我は誰もいない家に孤独を覚え、己もまた野球に打ち込み孤独を誤魔化した。大会で優勝すればきっと父親は自分を見てくれるだろうと。そんな期待を込めて。
けど、それは叶わなかった。大会で優勝しても、投手として大活躍しても……父は「そうか」の一言で済ませ仕事に向かった。
失望して、そして自分の努力に意味など無いことが分かった。
だから、迷っている。続けても意味のない野球にするか、それともまた別の努力をするか。
「……とりあえず、明日の朝練に参加してから考えるか」
とはいえ、野球は楽しい。好きではある。だから、今日もこんな遅くまで野球部の体験入部に参加していた。
私立
「……風?」
そんな銀我の迷いを知ってか知らずかビュウ、と一陣の風が頬を過ぎていく。夜が近いからか背筋がゾワリと震える。
風邪を引いたら大変だ、と思い銀我は足を早めようとした、その瞬間だった。
グシャんっ!!
「……え?」
──人が、堕ちてきた。
水風船が割れるような音、70キロ近い肉塊が堕ちてアスファルトが少しひび割れた。
……そう。道路の真ん中に、腕のない人間が、銀我の眼の前に堕ちてきた。
「は、え……なんで?」
母さん以来の死体に、銀我の脳髄に恐怖と困惑が満たされる。
周囲はせいぜい二階建て程度の民家しかない、家屋の屋根からにしては堕ちてきた場所は不自然であり、その上その死体は性別も分からないほどグシャグシャになっている。重力で潰れた死体はどくどくと周囲に血液を流し真っ赤に染めていく。
そして、銀我は気づく。気づいて、そして更に腹の奥が震えた。
「なんだよ、あの……肩」
かろうじて肩だったと判別できる箇所は、ロウソクのようにドロドロに溶けて……つまり、溶断されていた。人体ではありえない、崩れた断面図に銀我は数歩後ずさる。
「警察に、警察に連絡しねぇと……!」
懐からスマホを取り出し、震える指先で110を押そうとした瞬間。
「──誰だ?」
眼の前に、人がいた。潰れた屍の上に立ってこちらをじぃっと見る黒い影。
体格は自分と同じくらい。逆光のせいで顔や姿はあまり明瞭に見えなかったが、ひどく着膨れしたコートを着ている人物だ。
まるで、羽を畳んだ鳥のようだ、と銀我は思った。影で隠れてよく見えないハズの顔に、ギラギラとした猛禽類めいた鋭利な眼光が見えたのも、その理由だ。
何かが、おかしい。
気がつけば体は微塵も動かなくなっていた。あとひとつダイヤルボタンを押すだけで警察に通報できるのに、それさえできない。
ダラダラと冷や汗が背筋を、指先を伝ってアスファルトに落ちていく。まるで、火のついたロウソクから液化した蝋が溢れていくように、汗が流れて堕ちていく。
手から、堕ちていく。
──ぴちゃん
雫が弾けた。瞬間、眼の前の人物がぶわりと、コートを、翼を広げて屍からふわりと浮かぶ。
無数の人間の腕で出来た翼を、逆光に掲げて!
「──ひっ!」
ようやくアスファルトにへばりついていた足が動き出した。脱兎のように走りだした体は、しかしあまりにも遅すぎた。
「っクソ──!」
逃げられない。勘に任せ、咄嗟に銀我は身体を真横に弾くが間に合わなかった。
がしり、と万力のような力で右肩が掴まれた。
思わず振り返る、そして、後悔した。
怪人の顔は逆光でよく見えなかった、しかし、怪人の肩から生えたその翼はあまりにも異形であった。
──本当に、人の腕だったのだ。老若男女、およそ思いつく限りの腕一本一本が怪人の翼の羽となってざわざわと蠢き風を掴んで中空に浮かんでいたのだ。力強い男の腕は風切羽、尾翼は細くしなやかな女性の腕、隙間を埋めるように子供の腕が羽毛となって怪人の身体を流線型……鷹のように無駄のない形に整えている。
そう、鷹だ。怪人は鷹が小動物を狩るような体制で、肩の下……脇のあたりからやはり無数の腕が生えて猛禽類の足を構成し……そして、銀我の二の腕を掴んでいた。万力のような力、とは本当のことだった。爪、指、足それぞれが無数の腕を編むことで出来ているのだから真実として万人力、人一人を掴み、飛翔するのに苦労はない。
「う、わぁあああ!!?」
銀我の80キロ近い大柄な身体がふわりと中空に浮かぶ。鷹がウサギを捕まえるような、圧倒的な飛翔力と握力に銀我は驚く。
そして、絶望の瞬間はそこからだった。
「俺の、腕が!?」
──でろん、と腕が溶けた。
ちょうど怪人が掴んだ二の腕のあたりがでろりと溶融していた。火に炙られたロウソクが溶けるように、あっけなく。
銀我の体から、15年以上に渡って一緒にいた何よりも大事な右腕が痛みもなく、永遠に分離した。
「うわああああああああああッッッ!!!」
アスファルトに背中から墜落して打ち付けた痛みではなく、腕を喪失した恐怖で銀我は絶叫した。
絶望した、恐怖した、嫌悪した、およそあらゆる悍ましい感情が塊となって口から飛び出した。
当然だ。自分の腕がこうも容易く、痛みも抵抗もなく奪われる瞬間など、誰も経験したくなどない。
──銀我の体は恐怖のままアスファルトの上でのたうち回る。
ガチガチと奥歯が震える、冬でもないのに全身が凍えて苦しかった。
ただ、自分がたった今体験した恐怖に、上沢銀我は怖れていた。
銀我は無事な左手で肩を抑える。感触でわかった、肩の断面はまさしくあの墜落死体のように、ドロドロに溶けて歪な形になっている。
そして、それ以上に何も感じない事実で震えた。右肩の断面はなんの痛みも発さない、傷口が空気に触れればそれだけで激痛が走る、手で押さえつければ尚更。なのに、なにも痛まない、触れても抑えてもまるでゴムの塊を握るような感触しか帰ってこない。あの、練習での疲労感も、まったくない。
あるべきはずの鮮血もまるでなかった。自分が本当は蝋人形だったのかと、銀我は錯覚しかけてしまう。
なんとか、震えて歪んだ視界で周囲を見渡す。腕の怪人は直ぐ近くの電柱の上に止まっていた。
そして、
「…………!」
「うそ、だろ……!」
怪人は、奪った銀我の腕を自身の右肩に押し付けていた。溶けた蝋でモノを接着するように、数多の腕と同じように銀我の右腕もその中に加わっていく。
「か、返せ! それは、それは俺の腕だ!!」
バランスが大きく変わったせいで、銀我は何度も転ぶ。それでも、その光景だけは許せない、あらゆる恐怖を上書く怒りに突き動かされて、それを防ごうと怪人が止まる電柱を蹴りつけた。
「返せっ、返せっ、返せっ!! それは、俺の、俺の腕なんだッ!!! 野球をするにはぜってぇ必要なんだよォ!!!!」
蹴って、蹴って、何度も蹴って。腕を接着する邪魔をしようと、取り返そうと足掻く。
だが、無駄だった。
「…………愚カナコトヲ」
「て、めぇ……!!」
ふわりと電柱から飛び降りた怪人は羽の一つとなった銀我の右腕を見せびらかすように翼を広げ、銀我を嘲る。
「早ク逃ゲレバ、助カッタモノヲ。ヤハリ愚カ──」
「──あ」
怪人が翼を広げ、急速に接近して銀我の身体を掴む。
一瞬のことで、怒りで我を忘れた銀我に回避はできなかった。
無事な左腕と軽くなった右肩を掴まれて、銀我はもう逃げることはできなかった。
(あ──おれ、しぬんだ)
明確なイメージ。そう、ついさっきのあの墜落死体は、この怪人の犠牲者であったことに、今更になって銀我は気づいた。
そうだ。あの死体を見た瞬間に急いで逃げれば……あるいは、右腕を見捨てていれば。銀我は助かっていたかもしれない。
ふわりと身体が浮かぶ。ずぶり、と溶けかけた肩に怪人の爪が食い込む。肩を掴んで、じわりと溶けていく肩が命綱、それが溶断された瞬間、俺はあの墜落死体と同じになるんだと、銀我は気づく。
「──チクショウ」
腕をなくせば、真実自分は無能だ。
なんの取り柄もない存在を、どうして親父は見てくれる。
意味はない。こんな片腕になった自分に意味など、存在する価値などない。
──でも。
「死んで、たまるかよォ!!」
醜く、もがく。
なんとか生き延びようと、両腕が空になっても構わない。
生きたかった、病室で冷たくなった母さんの姿が蘇る。
ああはなりたくなかった。死んで、そして何も遺せず置き去りにされるモノ……死体になんて、まだなりたくなかった。
涙で滲む。ぼやけた視界に、絶望が映る。
半分まで溶断された左腕、もう終わる、救われない。いやだ、いやだ、いやだ──!!
腕の翼、指の羽先の隙間。そこから見える夕焼けは綺麗なのがムカついて、とっさに反対の夜闇の方に目を向け──銀我は驚いた。
「──……誰だ、あいつ」
そして、その反対。夜の闇に沈みかけた住宅地に、漆黒の少女が佇んでいた。
黒の瞳と銀の瞳、長い黒髪と黒いドレスはまさしく夜闇を連想させる。
その少女は落ち着いた様子で左手をこちらに──まっすぐに、怪人に向けていた。
あまりにも特異な存在に、銀我は瞬間恐怖も絶望も全てを忘れた。ただ、その少女を目に焼き付けるように中空から見下ろし……
「──鏡よ鏡、
──瞬間、
………
「う、あぁ……?」
銀我は目を覚ました。ブロック塀を背中に、いつの間にかすっかり暗くなった住宅地で、目を覚ました。背中がひりひりとして痛かったが、そんなことはどうでも良かった。
周囲を見渡す。腕の怪人はどこにもいなかった。散った
「うで、腕は!?」
咄嗟に右腕を見る。
腕は、あった。さっきまでの野球の練習に疲弊した右腕は確かに、あった。
銀我が握ろうと思えば握って、開こうと思えば開く。肩を回しても千切れることはないし、脇の下がピンと張る感覚も、全て真実だった。
だが、それが本当に自分のものなのか、銀我は確信できなかった。
銀我にとって、その腕は──ゴムでできた模型のように思えてしかたなかった。
その日、結局銀我はそのまま家に戻った。自分の体験した、あの腕の怪人のことは誰にも言わなかった。漆黒の少女のことも、誰にも。
言っても信じてもらえると思わなかったし、そもそも口にすること自体が恐ろしくてたまらなかった。
夢だと、少し野球をしすぎて変な白昼夢を見ていたんだ。銀我はそう思い込もうとした。
──そして、次の日。銀我は自覚した。
あの怪人が本物だということと、自分が本当は何を奪われていたのかを。