棺の中のスノウ・ホワイト 作:ぜっけい
「……もう、朝か」
銀我はぐったりとした様子でスマホのアラームを止める。時刻は朝の5時、朝練に間に合うよういつもより早くアラームを設定した時刻。
大して寝てもいないのに、寝汗が酷かった。
少し眠るだけであの腕の怪人が自分に掴み掛かってくる悪夢を見て、銀我は何度も飛び起きた。
そのせいで、昨日の疲れはまったく回復していなかった。むしろ、心労と寝不足で体も心もボロボロだ。
けれど、あれはきっと悪夢なのだ。単なる悪夢なら……何を恐れる必要があるんだ。
「俺は、その程度の男じゃねぇだろ」
そう言葉を絞り出して、銀我は己の頬を叩く。
だめだ、弱気になりすぎている。そんな泣き言は、もっと前に捨てたのだから。
「──うしッ、いくかっ!」
銀我は朝食を食べてすぐに、野球部の朝練に参加するために家を飛び出した。
腕はある、ちゃんと自分の思い通りに動く。箸もきちんと使えたし、靴紐だって一瞬で結べた。だから、あれは単なる夢、これからの野球に対する迷いと不安が生み出した悪夢に過ぎない。
そう、思い込もうとした。あれは夢だったと、何も問題はないのだと。
空元気でも元気は元気なのだから。
──天気は曇り空、風も少し強い。天気予報によれば夜から大雨が降るらしい。
だが、その程度のことで朝練がなくなるわけではない。銀我がグラウンドについた頃にはもう既に先輩たちと数人の新入生が集まっていた。
先輩たちの声が響き、それに新入生たちが大きな声で応えている。
グラウンドには朝のひんやりとした空気と、湿った土の匂いがした。肌寒さは拭えないが、その程度のことで野球への熱意が萎えるほど球児はヤワじゃない。
「おう、銀我クン! よく朝練に来てくれた! おまえみたいな天才が入学してくれて俺達は嬉しいぜ!」
「ウッス! 今日もよろしくお願いしますッ!」
グラウンドに飛び込んだ銀我はいつもの調子で、普段の笑顔で先輩に挨拶する。
声は少し上擦っていたが、先輩は気づく様子もなく頑張れよ、と笑い返し銀我の背中を叩いて練習に戻っていった。
その何気ないやり取りだけで、銀我の心には熱情が戻ってきた。
「よし、じゃあウォーミングアップが終わったらキャッチボールだ。良い球期待してるぜ」
「わかりましたっ!」
銀我は体をほぐす。体を──腕を伸ばす。いつもの、脇のあたりがぐっと伸びる感覚、千切れていない、あんな、ロウソクが溶けたようなグロテスクな断面は見えない。
だから、何も問題はない。少しグローブをはめるのに、ちょっと手間取るだけで、どうしてこんなに不安になる?
ボールを握る。正面にはにこやかな笑顔を浮かべた褐色肌の先輩、いつも通り銀我はボールを軽く投げた。……はず、だった。
「──あ、」
れ?
ボールが手からスッポ抜けた。
威勢の良い音はしない、ただボールは無様にグラウンドに落ちて、足元でコロコロと転がるだけ。
この強い風のせいではない。それ以前の問題だ。
銀我はボールを投げた瞬間、手が、腕が、まるで自分のものではないような感覚に襲われたのだ。
銀我はもう一度投げようと構えてみる。が、やはり手も腕も力が入らない。いや、入れているつもりでも、投げようとした瞬間、どろり、と最初から腕など存在しなかったかのように腕の感覚が消失してしまう。
あの悪夢がフラッシュバックする。腕の怪人に、腕を奪われた、あの悪夢が──!
「──入り! おい新入り、大丈夫か!?」
「あ、えっ、いや……何でも、ないっすよ。今度はイケますからッ!」
先輩が心配した顔で問いかけてきた。
銀我は何でもないと証明するために全力でボールを投げようとして──
がしゃん、とボールがフェンスに激突した。先輩から大きく斜め上に外れた、試合だったら失笑ものの大暴投だった。風を言い訳にできないほどの、根本的にイカれた弾道。まるで、素人がメチャクチャに投げたかのような、そんな無様な姿。
「──大丈夫ですか?」
「え……ああ、き、君は」
「籠目翼です。同じ新入生の」
突然、隣から制服姿の少年に声をかけられた。籠目翼と名乗る少年は銀我より頭一つ分背は低く、メガネをかけており、如何にもガリ勉って感じの雰囲気の生徒だった。
少なくとも、野球部が練習するグラウンドより、塾とか図書館のほうがずっと似合う、そういう風貌の生徒だ。
「酷いフォームでしたね。肩と肘が盛大にずれていましたし、リリースも不自然に早かった。感覚が全然掴めていませんね」
翼は淡々とした声で言った。慰めも、揶揄もなく、ただ事実だけを述べる。
銀我自身も把握しきれていないフォームの異常を一目見るだけで把握していた。銀我は内心驚き、そしてぞっとした。
ほんの1,2球でこれだけ把握するなんて。しかも、スマホで撮影して投球フォームを吟味したわけでもなく。
……普通の学生が言えることではない。
「な、なんでそんな……」
「自分、調べることが好きなんですよ。前に野球について一通り調べたので、それくらい解ります。プロの動きと、理論の把握。それだけでだいたいの不自然は見抜けますよ。答えが分かっていればテストで100点は取れるのと同じです」
翼が穏やかに微笑む。だが、メガネの奥の目に、銀我は猛禽類めいた冷たい視線を覚えた。
──調べた? それだけで? 銀我の背筋が泡立つ。自分の心を鷲掴みにされているような錯覚を覚える。
「それに見たところ、随分疲れているようですね。目の隈が酷いですよ、昨晩よく眠れていなかったでしょう? 今日は早く練習を切り上げて休んだ方が良いですよ」
「なにっ、本当に不調なのか銀我クン!? それはいけない、運動部は体が資本だからなッ! 健康第一ッ! 彼の言う通り、今日は早く休みたまえッ」
日に焼けた肌を輝かせながら、先輩が俺の肩を叩く。先輩は本気で心配していることが伝わり、風と冷や汗で凍えた体がようやく動き出す。
「……うっす、了解しました。今日は、そうします。じゃあ……またな籠目」
肩を落として、銀我は教室に向かう。
一度振り返る。籠目は見事なフォームで、なかなかの球を投げてみせていた。
……今の俺よりずっと、凄いピッチャーだった。
歓声が上がるグラウンド。
もはや、銀我の居場所はそこにもなかった。
放課後、朝はまだ見えていた青空もとうとう見えなくなっていた。
「……帰るか」
すっかりガランドウになった教室の中で、銀我はぽつりと呟いて帰り支度を始める。
銀我はまさしく心ここにあらず、といった様子だった。
友人との会話も上の空、授業でもノートもとらずぼんやりと黒板を眺めていただけ。
数学の授業で先生に指名された時、隣の席の生徒から助け舟を出されなければ何も答えることはできなかった。
銀我は疲れていた。肉体的な疲労とか、絶望とか、恐怖とかそういうものではない。明確な死のイメージ──腕の怪人の姿がもうすぐ側にいるように思えてしかたなくて、銀我は疲労していた。
そう、それは病室で幾つもの管と繋がっていた母親の姿を見たときのような……生きているのは死神がたまたま見逃しているだけなのだろうと察せられる……そういう忌まわしい感覚と同じだった。
遠く、グラウンドから騒がしい声が聞こえた。こんな天気でも野球部は練習しているらしい。たぶん、雨が降る直前まで練習をしているのだろう。
目を閉じるだけで、先輩がボールをバットで打ち返す姿や、新入生たちがグラウンドを走る姿がイメージできる。自分だって、こんな心じゃなければ今すぐ参加していただろう。
だが、できなかった。朝練で、自分はもう全てを失ったのだと、銀我は自覚したからだ。
あの腕の怪人に、野球という自分の根幹を奪われたのだと、はっきりと。
ぽっきりと、銀我の心は折れていた。
──どうやら、自分にとって野球は想像以上に大きいものだったらしい。
と、銀我は気づく。野球ができなくなったのなら、文系の部活や他の運動部の体験入部に向かえばいいのに、それをする元気もやる気も湧いてこなかった。ただ、昇降口から家に帰ろうとして……
「……なんだ?」
校門の近くで騒がしくなっていた。
「ねぇ、あの子すっごくカワイイ!」
「ホントだ~。あのゴスロリどこのメーカーなんだろ。良いな~アタシもあんなの来てみたかったなぁ~」
「でもあの眼帯はなんだろ、眼ケガしてるのかな……」
「……ウソでしょ? そんなわけないじゃん」
「……なんだって?」
銀我は学校の女子グループが話している内容に仰天する。
眼帯は知らないが、ゴスロリと聞いて昨日の出来事が頭に過る。
空に連れ去られそうになったとき、眼下で見かけた少女の姿はまさしくそのような姿だったのだから。……左右に色の違う瞳も考慮すれば、眼帯も不思議ではない。
足早に校門を出て、驚く女子の横をすり抜け──そして、出逢った。
「……おまえは、誰だ」
銀我の声に反応して、学校前のガードレールに腰掛けた少女がこちらを見る。
──その少女はやはり“夜”だった。
年は10歳ほどで、服はゴシック・ロリータ。幾重にも重ねられたフリルとレースで彩られたロリータ服は優しく少女の輪郭を包み、腰まで届く黒髪は灰色のレースで結ばれている。
日に一度も触れたことがなさそうなほど白い肌も相まって、少女の美貌はまさしく月と見間違うほど可憐で美しかった。だが、その左目は黒い眼帯で隠されていた。
欠けた月のように、ぽっかりと。
「──やっぱり、ここの生徒だったのね。カミサワくん」
「俺のことを知っているのか?」
「そうね。あなたは少し、有名だから」
夜の少女は手元で黒いシックな傘を回しながら、そう答える。
銀我の胸にいくつもの疑問が湧き上がる。全て、昨日のことだ。怪人のこと、自分のこと、そして──
「おまえは、昨日あの場所にいたのか。おまえはいったい、何者なん──」
「少し、そのことは我慢して」
少女に詰め寄った銀我の口を、ガードレールから飛び降りた少女はその白いほっそりとした指先でちょんと抑える。ざわざわと周囲の生徒たちがざわつく。30センチ以上違う体格差故に、少女は腕を伸ばしたうえでつま先立ちまでしている。
親と子とほど離れた体格差に気づいて、銀我は途端に冷静になる。
「……そうだな、悪い。焦り過ぎた」
「しかたないわ。誰だって“
ただ、と少女は言葉を続ける。
「カミサワくん。少し、わたしに付き合って欲しいのよ」
「付き合う……何にだ」
銀我は聞き返す。少女は指を下ろして、答えを告げる。
「わたしと、
──報酬は、あなたの命と才能よ。
小さい、雪のように儚い言葉が銀我の耳にだけ届く。
一瞬、銀我の世界は静止した。まるで鏡の中に意識だけ取り残されたかのような錯覚。
けれど、どこか落ち着く瞬間だった。何が何なのかまったく分からないが、けれど眼の前の少女に銀我は驚いても恐怖はしなかった。
「一つだけ確認させてもらうぞ」
「何を?」
「昨日、俺を助けたのはおまえなのか?」
その問を聞いた瞬間、夜の少女はくすりと、小さく微笑む。
「ええ、そうよ。あのとき、わたしはわたしの
わたしは、それを仕事にしているから。
そう、小さな少女は自慢するわけでもなく、淡々と事実を告げた。
「そうか。ありがとよ」
「どういたしまして。それじゃあ、わたしについてきてくれるかしら?」
「いいぜ。それ以外、どうしようもなさそうだしな」
黒衣の少女は黒い傘をくるくる回しながら歩道を進んでいく。銀我はそこから少し離れた位置からゆっくりと歩いていく。歩幅が違いすぎて少し歩きにくかった。
……こうしてみると、少女はちょっと大人びた小学生かなにかしか思えなかった。少女の話や答えも嘘なのかと一瞬頭に過る。
が、銀我にとってあの昨日の悪夢……つまり、怪人や腕の異常につながる唯一の糸口を握るのはこの少女だけだった。
(まあ、とりあえず、ついて行ってから難しいことは考えるか)
そう銀我は結論づけ、夜の少女の案内に従った。
銀我は割と単純な男だった。