棺の中のスノウ・ホワイト 作:ぜっけい
気がつくと雨が降り始めていた。スマホで見るともう数分もすればもっと雨風は強くなるらしい。気が滅入る。
リビングの大きい窓は雨の降る街を一望できる。異端者と焚書官の話に夢中になっていたのか、時刻はもう18時を示していた。
「……あなたは、家の方は大丈夫なの?」
「親父は俺のことを気にしたりしねぇよ。中学んときから、俺を心配してくれたことはなかった」
「……そう。悪いわね」
会話が途切れた瞬間、ざぁああ、とリビングは雨音でいっぱいになる。
銀我はあまり家のことは気にしていなかった。中学のとき、野球の練習の後カラオケでオールしたときも親父はまったく心配せず、連絡すらしなかった。
ここ数年、銀我が父親と会話らしいやり取りをしたのは数回しかない。そのほとんどが学校の必要な書類を記入してくれと頼むときくらい。
そんな父がいるせいか、銀我は家を自分の帰る場所だと思えなくなっていた。だから、今夜は家に帰られなくともさして問題はないと思っていた。
しかし、この気まずさはどうにかできないか、と銀我はため息をつく。
女子にまったく免疫がない、というわけではないが、ついさっきまでほとんど他人だった女子の部屋にいるのは落ち着かない。
そんなことを考えていた瞬間だった。
びたん! ピシッ!
「うわ──っ」
窓に何かで殴られるような衝撃とひび割れる音に、銀我は顔を跳ね上げ窓を見て……息を呑んだ。
肌色の鳥──ちがう、手で作られた小さな鳥が窓にべったりとへばりついていた。
爪の眼球、細い骨を束ねたくちばし、指の羽に、小指の欠けた小さな……子どもの手のひらでできた足。悍ましい指細工としか表現できない小さな怪物が窓に突撃したのだ。
ずるり、と衝突して崩れた“鳥”はゆっくりと、窓を汚しながら滑り落ちていく。
窓を汚したのは血ではなかった。蝋のような半透明ののっぺりとした液体がひび割れた窓を汚していく。
見れば分かる、普通の存在ではない……銀我を襲った異端者の使い魔のようなものであるのはほとんど知らない銀我でも察せられた。
当然、襲撃は一羽だけではなかった。
雨雲の下には雨を弾きながら肌色の鳥の群れ……30羽以上いる……がこの部屋にめがけて飛行している。
一羽だけならともかく、あの群れ全てが窓に突撃されればたまらずこの部屋は大惨事になるだろう。
「これは、まさか!?」
「そうね。敵襲……異端者の指先よ」
そう言って真白はベッドから降りる。
表情は変わらない。けれど、左目の眼帯に手を伸ばすその姿には静謐に滾る戦意で満ちていた。
真白は左手に緋色の櫛を取り、右手で眼帯の留め具を外す。
瞬間、顕になった銀の瞳で手の鳥の群れを睨む。
──ぞわり、と眼窩の奥が疼いて、真白の脳に痛みが奔る。
途切れた視神経が蛆虫となって脳を犯すような、不気味な痒み。
未来を失った己は死者であると自認する真白は、五感のほとんどが鈍い。美しい風景も見ても色褪せたセピア色の写真のように感じ、ケーキを食べても粘土を食むように思えるし、チョコレートの甘い香りも分からない。痛みなんて、屍の身体はほとんど感じない。
けれど、この“痛み”だけは別だ。眼窩に指を突っ込まれ、視神経の残骸を引っ掻く想像し難い激痛だけは、この身になっても鮮明に真白の身体を凌辱する。
──だが、
それを、真白は無視する。正気を削るような激痛を呪文に──
「──鏡よ鏡、
少女が唱えるのは呪文、そして放たれるのは異端を砕く鏡の魔弾。
雨、雲、風、街、そして──“鳥”
全ての
ガシャアアンッ!!
大きな鏡がどこかで割れた──そのように、銀我は認識した。
そして、確かに砕けていた。雨の中群れとなって飛行していた“鳥”たちは割れたガラス片のように砕けて散った。
「今のは、おまえの力なのか……加賀美」
「そうよ。これがわたしの異端“鏡の射手”。世界の
頭痛を振り払うように身体を震わせ、真白は銀我に向き直る。
「……ここに籠もっていても埒が明かないわ。ここから出ましょう」
「待てよ、ここにいた方が安全じゃないのか?」
「そうでもないわ。だってほら、異端の指先はまだたくさん飛んでいるもの」
真白に指摘されて、銀我ははっと気づく。
向かいのマンションの手すりに、あの“鳥”たちが隙間なく並んでいることに。
「あれは異端の使い魔……その辺りの鳩やカラスの魂を己の異端で改造したものでしょうね。今は雨と風がひどくてあそこに留まっているけど、少しでも収まればまた突撃を再開するでしょうね。
……確かに、ここに籠城するのも一つの手ではあるわ。けど、」
「敵は倒せないってことか。……そして俺達が逃げれば」
「異端者は必ず食いついて来るわ。今ので指先だけでは無理だと相手は理解したはずよ。その指先も雨風で今は動けない。もし、わたしたちが今ここで部屋をでれば異端者は絶対に逃さないために指先じゃなくて自分自身で始末を付けようとするはずよ。──自意識過剰と余裕の無さは、異端者の常だもの」
「オーケー。一転攻勢に出るってわけか、そういうことなら了解だ」
「分かったのなら早く行くわよ。雨が強い今がチャンスだから」
真白は頷き、緋色の櫛をナイフのように握り──2人は共に部屋を後にした。
部屋から飛び出した2人を出迎えたのは数羽の肌色の“鳥”であった。
「やっぱりね。──砕けなさい!」
この敵襲は予測の内だ。風雨で“鳥”は動けないが、逆を言えば風雨をしのげる場所……つまり、屋内であれば“鳥”は使える。
真白は動揺することもなく冷徹に緋色の櫛で狙いを定め、銀の視線で“異端”を砕く。
“鳥”は断末魔を上げることもなく砂のように砕けて大気に溶けていく。じくり、と左目の奥が腐敗するような激痛──幻視痛──を真白は頭を振って振り払い無視し、左右に広がる廊下を見渡す。
空いた部分から雨が廊下を少し濡らし、強い風が真白の髪とロリータ服のフリルを揺らす。見渡す限り、敵影はない。廊下の隅から隅、外にだってあの腕の怪人……
真白のただでさえ白い顔は出逢ったときよりも白く……わずかに青ざめていることに銀我は気づいた。
「おまえは大丈夫なのか。顔色、悪くなってねぇか?」
「……平気。視線の魔弾を撃つための
「……辛くねぇのか、それ。俺だって怖いのに、おまえは怖くないのかよ」
思わず、銀我はそう聞いてしまう。こんなにも小さな少女が自分の身を守ってくれているという事実に、銀我は少なからず憤りを感じていた。それが、心配という形で表に出てしまった。見当違いな言葉だと、言ってから銀我は気付いて、しまったという顔をする。
真白は少し立ち止まって、銀我に振り返る。
「大丈夫よ。だって、わたしには未来がないのだから。それは、不変という意味よ」
ぞっとするほどの無表情。その顔は虚空に浮かぶ月のように美しく──そして欠落していた。
「どれだけ悲劇が襲ってきても、わたしの
静かな言葉。悲しみにも諦観にも見える表情で少女は言う。わたしは異常だから、だからこそあなたを救えると。
「……そうか。なら、改めて言う。加賀美、俺を助けてくれ」
そして。
「もしも、おまえが困ったときには俺が絶対に助けてやる。助けられっぱなしはダチにすることじゃないからな」
その言葉に、真白は少し目を見開いて、銀我の前で初めて驚く仕草をする。
「……ダチ、ね。友達……そんな言葉使う人、初めてみたわ」
──馬鹿な人、死者と生者は仲良くなんてなれないのに。
言葉の続きを言おうかどうか、真白は一瞬迷う。そして、
ブンッと、力強い腕を降る音が聞こえた。
その音に、
真白はわずかに視線を上げ──
銀我は手を伸ばし──
そして、どちらも間に合わなかった。真白の頭部に投球が突き刺さり、
──ぐしゃああっ
手のひら大のコンクリート片が真白の頭部を完膚なきまでに破壊する。
ぴちゃり、と銀我の頬に生ぬるい液体がかかる。銀我は遅れて、その液体が真白の血液であることに気づく。
どさり、と真白の小さな身体がマンションの廊下に力なく倒れ伏す。どくどく、と頭部から夥しい量の血液と、砕けたコンクリートと混ざって脳の中身と顔のパーツが廊下に散らばる。
血液に塗れたでろりと散らばる脳髄、あの美貌を形作っていた骨の欠片、小さな乳歯と、一つだけの眼球、そしてひび割れたガラス片……真白の義眼だ。
「……うそ、だろ」
文字通りのデッドボール。頭部を破壊したのは、時速150キロを超えるストレート。よく知った、自分の球だ。
それが、真白を殺した。真白は眼の前の死体になった。
ついさっき、今さっきまで会話をしていた相手の……死体で、それを作ったのは自分の球だった。
「う、うわああ」
人生で三度目の死体。二度あることは三度あるというが、その相手がまさか真白だとは銀我は想像もしなかった。
守るって、言ってくれたじゃないか。そう頭によぎるが言葉にはならなかった。
ただ、口から出るのは嗚咽にも似た悲鳴だけ。……母さんが死んだ日から何も変わっていない、無様な鳴き声。
いつのまにか右腕は伽藍洞になっていた。真白の瞳に写っていた本当のカタチ。
そうだ。誰も救えない能無しの腕なんて最初からなかったんだ、今や凶器に成り果てた自分の
くらり、と世界が歪む。怒りか、悲しみか、絶望か──いや、そんなことより。
「おまえっ、おまえのっ仕業か……籠目翼ァッ!!」
「正解っ! だけどテストの時間はもう終わりでさぁ……だから、君の点数はゼロ点!! 残ッ念ッでしたね」
クツクツと腹を抱えて嘲るメガネの少年。その手にはコンクリートを握った跡がくっきりと残っていた。そう、籠目翼が──異端者であったのだ。
銀我は敵を睨む。こんなにも、誰かを許せないと思ったことはなかった。
「……いつからいた」
「いや、“
「ちがうッ! そんな下らねぇコトは聞いちゃいねぇ!! おまえは、いつから、そこにいた!?」
「バッカだなァ、僕は“最初から”って言ったよ? ボルダリングの才能で雨樋を掴んで隠れれば、彼女の視線から逃れるくらいは容易いことよ。それに、気配を誤魔化すのは泥棒の才能があればできることさ。彼女の能力はストゥムパリデスを介して分かっていたからね。姿を隠せばあの悍ましい視線は躱せるってガキでも分かる。そして、答えが分かるのなら対策できる、テストじゃ常識だよ?」
「て、めぇ……!」
おどけて嘲り、殺人をテストと同列に語る籠目に銀我は唖然とした。
籠目が両腕を広げ、瞬間世界の空気が変わる。
「せっかくだし、答えは言えた上沢クンにだけ特別に見せてやるよ──僕ノ本当ノ姿ッテ奴ヲッッ!!!」
声音が溶解すると同時に、籠目の両肩から無数の腕が籠目の全身を掴んで包む。
溶解した蝋を型に流し込んで成形するように、籠目の姿は瞬く間に異形へ──
「ドウダイ、ボクノ姿ハッ! モウ、誰モ僕ニハ敵ワナイ! ダッテ、僕ハ誰ヨリモ優レテイルノダカラッ!」
悍ましい天使が笑う。届かない天に焦がれた翼を持つ
耳もとまで裂けた腕のくちばしから哄笑が漏れる。神経を逆撫でる不吉な鳴き声。
腕が才能なら、全身を腕としたこの異端者は、全能とでもいうのだろうか。
「……おまえさ、野球をして何を感じたんだ」
だから、聞いてみた。俺の才能をどう思っているのか。
「ナニヲ? 別ニ、何モ。君ノ腕ガアレバ活躍スルノハ難シクナイ、簡単ナコトダッタヨ。ムシロ、他ノ愚図ニ合ワセル方ガ苦労シタサ。──僕ナラ、二刀流ドコロカ九刀流モ容易ダネ」
「そうか。なら、おまえは何も野球を理解ちゃいねぇよ」
「……ハ、ナニヲ」
十分だった。こいつは、俺の腕も、誰の腕も力としか見ていない。
自分を襲った怪人を眼の前にして、銀我の胸に湧いてきたのは恐怖ではない。
重ねて言うが、真白を殺された絶望や悲しみでもない。
「野球ってのは自分だけじゃ成立しねぇスポーツなんだ。全能なら何でもできると思ったか? ちげぇんだよ、ただのキャッチボールも相手がいなけりゃできやしねぇ。
「ッ……馬鹿ガ、ナニヲ言ウカァアアアッッッ!!!」
あるのはただ、侮蔑の感情だけだった。そんな愚か者に腕を奪われ、あまつさえ穢された己自身への失望だけだった。
だから駆け出した。もうこいつにされるがままという自分が断じて許せなかった。左腕に引き絞り、拳を固めて振りかぶる。
「俺の眼の前から消えろッ、この鳥野郎が!!」
嘲るその横っ面めがけて銀我は拳を振るう。
たぶん、人生で一番力を込めた、それこそ殺すつもりで振りかぶった拳。
しかし、相手は異端者──非常識を牙とする怪人である。
「……何ガシタイノサ。無能ノクセニ」
籠目の人腕の羽が銀我の拳を容易く掴む。
そうなることは分かっていた。無駄なことも、敵うはずがないことも。
だが、
「チクショウ……ちくしょう、ぐわぁああ!!?」
悔しかった。拳がみるみる溶けていく。溶けた拳が、雑巾に吸われる水のように、籠目の羽へと変わっていく。
悍ましい感触。手のひらが蝋のように溶けても神経がまだつながっている。
銀我の残った才能……野球以外の運動神経や、あるいはネグレクトを受けても強く生きられる精神力……それら全てが奪われることを繋がったまま実感する。だが、それでも、ついさっきまでの奮起の心だけは残っていた。
「……そうかよ、カゴメ。おまえ、怖いんだな」
「ハハ、ナニヲ。負ケ惜シミカ?」
「おまえさ、才能がなくても立ち上がれる人間が怖いんだろ」
異端者が、籠目翼が動きを止める。
……銀我は、わかった。
どうして籠目が腕を奪った人間を墜落死させるのか。
それは、存在価値がないからだ。簒奪者である自分の、価値がなくなってしまうからだ。
当然だ。他人の才能を奪ってようやく翼を得られる異端者からしてみれば、翼がなくても立ち上がれる人間は恐怖の権化だ。
翼がなくても、大地を駆け抜けるダチョウのように、強い存在なんて認められないのだ。
だから、殺す。自分の翼でしかできない殺人方法で己を満たす。
……なんとまあ、
「……みみっちい殺人者だな、カゴメ」
「オマエ、オマエオマエオマエオマエ──お・ま・え~ッッッ僕を、見下すなァあああ!!」
一瞬、雨天に籠目翼の絶叫が響く。怒りに満ちた慟哭は、一転して明確な殺意に切り替わる。
がしり、と銀我の肩が掴まれる。あまりの握力にぎちぎちと骨と肉が異音を立てる。
グン、と銀我の身体が浮かぶ。籠目は銀我を今まさにその方法で──墜落しさせようと翼をはためかせる。
──なるほど。自意識過剰と余裕の無さ。真白の言っていた通り、こいつらは真実、心が壊れている。
目前に迫る死、銀我は不思議と落ち着いて──シン、と世界は静寂に静止した。
「そうね。彼らはいつだって、他人を怖れているのよ。それこそ己自身を怪物とさせるほどに」
「……ハァ?」
「だからわたしはこの言葉を贈るのよ。──“鏡よ鏡、
瞬間、銀我の肩の直ぐ側で、異端が砕けた。
籠目の腕から銀我はマンションの廊下へと堕ちる。強打する腰、昨日と似た痛みに顔をしかめる。
だが、そんなことはどうでもいい。それより、銀我はまっさきにその声の正体を確認する。
「真白……どうして」
「生きているわよ。だって、わたしには未来がないもの。それは、死ぬ、という終わりもないということよ」
そこにいるのは夜の少女。棺の中の白雪姫。
年は十歳ほど。幾重にも重ねられた黒と灰のフリルドレスが、たおやかな輪郭を描く。
腰まで届く黒髪は風で翼のよう舞い、透けるように白い肌は、雨で僅かに濡れている。
月の美貌は、今はもう欠けていなかった。煌々と、銀の瞳は異端という闇を砕いて照らす。
「嘘ダ、ウソダウソダウソダ、嘘ダァッ!!!」
マンションの廊下に大量の羽……腕を撒き散らしながら籠目が呻く。
呻いて、もがいて、千切れかけた翼を広げて真白へと突貫する。
──籠目翼という異端者は、崩壊を始めていた。
死、というどんな
その翼が絶対ではないことを、理解したから。
イカロスの翼──飛翔という空想画は、今より驕り高ぶった
「ナラ、ナラバモウ一度殺スッ! 殺シテ
「無駄ね。そんな終わりじゃ、白雪姫は目覚めない──砕け」
眼窩は弾倉、呪文は
飛ぶ鳥を射落とすのは当然のこと──!
「ウ、グ──うわぁあああああああ!!?」
「思い出しなさい。あなたはずっと、墜落していたことに」
ライフルに撃たれたかのように、籠目翼の異端の
ひらひらと数多の羽が、死に絶え穢された羽がマンションの廊下一面に舞い落ちる。
翼を喪った簒奪者はぐらり、と墜落を──マンションの下へ、雨と共に落下した。
あとに残ったのは溶け始め、消滅を始めた腕たち。
そして、片腕でなんとか身体を起こす少年と櫛を握ったまま外を睨む少女。
「……終わった、のか」
「いいえ、まだよ。腕は確かにほとんど抜け落ちた。だけど、まだ彼は生きている。あなたの腕がまだ取り返せていないわ」
「随分と生きぎたねぇな……クソ。いい加減返せよあの野郎…!」
「そういうわけ。あなたは少しそこで待っていて。今、トドメを刺しに行くから」
「嫌だね。俺もついてくよ。なにせ俺の腕の問題だからな」
「……そう。なら、好きにしなさい」
それだけ言って、真白は階段を降りていった。
銀我は何も言わず、痛む身体を引きずるように真白の後をついて行った。
雨水を踏む2人の足音だけが、雨天に残響する。