棺の中のスノウ・ホワイト 作:ぜっけい
──ピーッ、とキッチンでヤカンが甲高い水蒸気の音を鳴らす。
それでも、誰もキッチンには行かなかった。僕も、そして眼の前の母さんも、行かない。
ぐしゃり、と紙が握りつぶされる。
おどおどと俯いた顔を上げる。そこには受験の結果を見て、ぐつぐつと怒りを煮えさせた母の姿だった。
「──どうして、落ちたの?」
口を開こうとして、閉ざす。
なにか言い返しても、どうせ言い訳をしないとか、口答えをするなとか、ヒステリックに叫んでもっと酷い言葉を言うんだ。
「……ごめん、なさい」
だから、結局そう言う。ごめんなさいって、出来なくてごめんなさいって、そんなありきたりな言葉を繰り返す。
「前にもそういったけど、結局なにも変わってないじゃない。なに? どうして? どうして落ちてんのよ。あんたの夢は、その手に掴むって言ったんでしょ? なのに落ちるなんて……フザケてるでしょ。真面目に勉強しないで、滑り止めなんて”甘え”をしたから落ちたんでしょ!!」
「ご、ごめんなさい」
「何!!? 聞こえないんだけど!!!?」
「ごめんなさい、ごめんなさいッ、母さんごめんなさいッ!」
「ごめんなさいで済むと思ってんの!? あっきれた、本当にアンタは馬鹿!! いい大学に行って、立派な公務員になるって昔っから言ってたじゃない!!? なのに、どうしてできないの? ねぇ、どうして才能はあるのに、できないの!!?」
パシン、と右頬に鋭い痛みが走る。フローリングに倒れて、ようやく母に打たれたことを理解する。幾度目かの暴力、それでもこの痛みには慣れない、これまでも、今でも嘘だと否定したい突き刺さる痛み。
……才能? そんなの、はじめっからなかったのに、どうしてそんなことが言えるの。
僕は、もう、分かっている。自分に、勉強の才能なんてないことを。
小学校の頃はともかく、私立の中学校に進学してから100点なんて一度も取れていない。
母さんがつきっきりで勉強を教えても、背中に棒で何度も叩いても、ちっとも遊ばなくっても、外でみんなが走るのを横目にずっと勉強して、勉強して、勉強して、それでも、それでもそんなものなんだ。
「立ちなさいよ」
「う、うぅ……」
「立てよッ!!!!」
「うぐぅ!?」
踏みつける。脇腹に母さんの足が突き刺さって、息が止まる。
一度、二度、三度と繰り返す。
「立てっ、立てっ、立てよッッッ!!!」
腹の中身がひっくり返るような激しい痛み、このまま自分はぺしゃんこになって潰れてしまうのかと錯覚してしまう。
……まるで、トラックに轢かれて潰れて死んだ、あの小鳥のように。
思い出す。学校の駐車場で潰れた小鳥の姿を、実感する。せんべいみたいにペラペラのそれを小鳥と気づけたのはきっと僕だけだ。よく、よく目を凝らしてようやく嘴と足の位置がわかる、キュビズムめいた平たい亡骸。巣から落ちた末に、誰にも気づかれずに、手を差し伸ばされることもなく死んだ鳥。
今の自分は、それと同じだった。
「──ああ、そっか。やっぱり、殴ってもわかんないんだ。なら、もう一度だけ教えてあげる」
そう言って、踏みつけが突然止まる。
母さんはそのままキッチンに向かう。キッチンに、もうずっと沸騰しているヤカンのある、キッチンに。
「あ、う……あぁっ」
全身に恐怖が奔る。どうか外れて欲しい嫌な予感が頭に過ぎる。
ピーッと喧しいヤカンの音が停止した。
そして、カチャリとコンロから離れる音がして、僕の呼吸は恐怖に凍りついて停止する。
キッチンから、母さんが戻って来る。
「これ、わかる?」
「あ、ああ……」
母さんが歩いて、揺れたヤカンから熱湯が溢れて、
じゅうっ!
と、フローリングの上で音を立てて湯気を広げる。
ヤカンだった。今の今まで沸騰し続けて、煮えたぎった熱湯で満ちたヤカンを、母さんが持って僕に近づいてくる。
嫌な予感が現実になる、逃げようとする。腹の痛みを抑えて、必死に、必死に、巣から落ちてヘビから逃げる小鳥のように這って逃げようとして、
どじゅうッ!!
「あ、がああああッ!!!」
「あーあ、逃げるんだ」
熱い、痛いッ! 背中にべったりと張り付くような痛み、それはヤカンから放られた熱湯がぶち撒けられて出来た重度の火傷の痛みだった。
「せっかく教えてあげてるのに、逃げるんだぁ。そっかぁ。やっぱり、学校でも、家でも、そうして勉強から逃げているからそんな結果なんだ。しょうがない、今からいっぱい教えてあげるわ。だって、わかんないんだもんね? どうして自分がこうなるのか、今からたっぷり教えてあげるから」
──二度と、私を失望させないで。
「が、ああああああああああッッッ!!!」
ばしゃん、と動けない僕に熱湯が再びぶち撒けられる。背中から腰まで、皮膚と筋肉が針に変わったかのような鋭利な痛みのせいで息が乱れる。
わずかでも身動げば、水ぶくれとシャツが擦れて更に痛みが襲い来る。まるで、衣服がカミソリに変わったみたいで、涙が出てくる。
ああ──どうして? どうして、わからない?
僕はもう飛べないのに。僕の翼は小さくて、他のみんなみたいに高くまで飛べないのに、どうして母さんは僕にそんな期待を
その小さな羽も、今まさにもがれているのに、母さんはどうしてそれに気づかない?
絶望した。視界全てが真っ赤に染まる。怒りとか、悲しみとかじゃないもっと“終わって”いる感情……絶望に心が満ちる。
「──そ、ん……なに」
「なに? 聞こえないよ、感謝の言葉は?」
能面みたいな笑顔を浮かべている母さんを見上げる。
「そんなに、僕に勉強しろって言うなら」
「はぁ、また口答え? あんたはいっつもそうよね」
ごぷり、と胸の奥で何かが溶けて、溢れる音がした。
それが絶望ってことを、母さんは知らなくて、僕は知っている。
「……母さんは、勉強できるのかよ」
「揚げ足とればいいって思ってるの!? 私は、私がした苦しい想いをあんたに味あわせたくなくてッ」
「……知って、るよ。それはさ……母さんが、一番最初に教えてくれたことだよ」
ガァンッ!!
「──っうああああああッッ!!」
灼熱のヤカンで殴打される。その綺麗な手で、母さんは逆上のままに僕を殴る。
熱く、アイロンと同じように熱されたブリキのヤカンが僕の背中を焼いて叩く。
激痛。水ぶくれが潰れて痛みが走る。熱い一撃は背中の皮膚をデロリと破く。
顕になった神経がシャツに触れてズキズキとした痛みを訴える。傷口をヤスリでぞりぞりと削るような痛みにのたうち回る。
「だまれ」
「はぁ……っ」
「それで? 口答えすればあなたの点数は上がるの? 上がらないわよね、ずぅっとずぅっとあんたバカのまんま。そんなことする暇があんならさっさと机に行って、勉強しなさいよ。そう、天才から程遠いのよ。あんたはホントは天才なのに……どうして、あんたは地べたに這いつくばっているのよ?」
本当に理解できない、といった声音で僕に問いかけながら、母さんは殴打で変形したヤカンを放り捨てる。がらんっと、フローリングにヤカンが跳ねる音が響く。
母さんは呆れた様子で、今までの激情が一瞬で冷めたようだ。
母さんは痛みに倒れ伏した僕を、パールピンクのビジネスネイルで主張が少なくともよく手入れされた綺麗な手で、助け起こす。いつもと同じように、”優しい教育熱心な母”という仮面を被り、多少冷めたといえど、熱湯に濡れた僕を助け起こす。
「……頑張りなさいよ。次は、大学よ。理想の大学に受かったら、ちゃぁんと愛してあげるから」
──だから、もっと、勉強なさい?
抱きしめながら、耳元で囁かれる。
……頑張る? もう、翼は焼けて溶けたのに?
もう、どうやって飛べば良いのか分からないのに。
でも、そうだ、頑張らなくちゃ。
「……うん。がんばる、よ」
いつもと同じ
僕に
分からない、分からないなんてダメだ。思いつかなくちゃ、あのイジワルな最後の問題を解くように。でも、それを解けた試しはない、だから分からない、それはダメだダメ、絶対にダメ。愛されないなんて堪えられない。だから、頑張らなくちゃ……どうやって? 思いつかないと、考えないと、見つけないと、参考書を開いて隅から隅マデ解いて、説いて、問いて、トイテッ!! それでも答えを見ツケられナカッタじゃないか。難しい問題はキマって答えが載っていない、参考書なンて何度読んでも問イテも参考になんてナラなかった。ドウすればいい!!? どうヤッタらぼくはアイされる?
僕の背中に翼はもう、亡い。今まさに、熱湯に焼けただれて溶け潰えた。
でろり、どろり、背中の火傷が、潰れてべろんと裏返った水ぶくれが溶けていく。
そう。そうだ、無いのなら、足せば良い。0に1を足せば1にナルように。
1に1をタセば2になる、重ねテいケば100になる、万ニなる、全に──ナル。
──火傷で痛む身体を引きずって、籠目翼はまた、今日もまた勉強机に向き合った。
──翌日、受験も概ね終わり、卒業式が目前に迫る3月の日。
受験でピリピリとした空気がいくらかほどかれ、クラスには活発な雰囲気が蘇り始めていた。
卒業式があるからだろう。3年C組のみんなは皆との別れの気配を感じてせめて最後の日々を良いものにしようと無意識に……あるいは、委員長やリーダー格あたりは意識して……ある種活発的になっていた。
それは、春の訪れで冬眠から目覚める動物にも似ていると、籠目翼はなんとなく思った。
「んじゃあ、卒業式のあとみんなで宴会なー! 場所は焼き肉のキングホムラだぞ!」
「おっし! じゃあ食べ終わったらカラオケにも行こうぜ」
「いいねいいね!」
クラスの中で一際中心的で、人気な男子が卒業式後の宴会を企画しているらしい。クラスの隅でいつも参考書と格闘している籠目にとって、ほとんど会話した覚えのない人物だ。
籠目は彼を下らない、と思う。そんなバカ騒ぎしたって何も手に入らないのに、と。
……同時に、羨ましいとも思う。
あんな風に馬鹿騒ぎしているくせに、彼は夢に向かって腕を伸ばせると、自由にその翼で羽ばたけることに。
「あ、そういえばおまえはどこの学校に進学すんだよ」
「そうそう、アタシもアスカくんの進学先知りたいな~。ずっとナイショにしてたでしょ?」
「ああ悪い、受かる自信がなくってさ……結果が出るまで内緒にしてたんだよ。でも、ちゃんと受かったからようやく言えるぜ」
受験が終われば、そんな話も出てくる。受かっても、落ちても、みんなどこかしらの学校に進学する。クラスの中心人物であればその進学先も広く知られていると籠目は思い込んでいたが、どうやらそうではないらしい。
彼は、気恥ずかしそうに鼻を擦りながら自分の夢を口にする。
掴んで握った、その夢への一歩を。
「──
……は?
籠目は自分の聞いたその学校の名前が聞き間違いだと思った。
けど、真実だったらしい。彼の周りにいるクラスメートたちが、すごいじゃん! とかスッゲー名門じゃねぇか! と褒め称えている姿から、それが察せられる。
咲高……正式名称は咲河大学附属高校。県内では一番の難関校と知られており、卒業生には官僚や高名な医師が多く在籍している名門校。
籠目はそれに受かるために中学……いや、小学校の頃から全ての時間を費やしてきた。
そして、落ちた。模試の段階でC判定を下され、そして案の定無様に落ちた。
籠目は墜落した。全てをそのために費やした籠目は何一つ掴めなかったのに。
彼が? 応援団長や運動部で勉強に全然使っていないようなアイツが?
理解できなかった。受け入れられなかった。読んでいた──ほとんど中身の分からない参考書をぐしゃり、と籠目は握りつぶす。
「けど、よく受かったなぁ。おまえずっとなんかしていてよく勉強する時間作れたなぁ」
「時間なんて授業で十分なんだよ。第一、授業で分かれば勉強なんて必要ねぇよ。あとは、細かい部分を詰めればだいたいなんとかなる。てか、勉強なんて後から幾らでも出来んだからさ、それより学校の間しか出来ないコトをやった方が賢いだろ」
「それはおまえが超人なだけだよバカヤロー!」
そう言って、彼らはまた他愛のない会話に戻る。彼が咲高に受かったことなんて大した話題でもない、と言うように。彼らの間でアスカという少年が天才ということは知れたことだったのか、あるいは──籠目翼だけが知らないのか。
鳥籠の中の鳥が空を知らないように、クラスの輪から外れた少年は──彼の大きな翼を知らなかった。
──ああ、そっか。
籠目は、漠然と、その事実に気づいた。そして、確信した。
才能には絶対的な格差があると。鳥籠の中で翼を毟り取られた鳥がいれば、大空を自由に飛ぶ鷹がいることを。
もう、ぼくに翼はない。そんなものはどこにもないって、分かっている。
けど、そこにある。今まさに自由に羽撃いている翼が!
クックック、と喉が鳴る。不気味な笑い声に、近くにいたクラスの女子が怯えた顔で振り向き離れる。
けど、そんなことはどうでも良かった。導き出せた、そして確信を持って提出できる答えに夢中だった。
わかった、分かった! ワカッタ!! 分カッタヨ母サン!! ヨウヤク確信デキタ!!!
僕ガ、自由ニ空を飛ブ方法ヲ!!!
ヤット、初メテ! 僕ハ自力デ難題ヲ解ケタヨ!!!
籠目は、籠目翼は生まれて始めて──誇らしい気持ちでいっぱいになった。
3日後、
──死体に、両腕はなかった。
かくして、異端は生まれた。
絶望より生まれた怪物は、惨劇を引き起こす。
その物語はイカロスの翼、その形は夜鷹の星。
他者を喰み、その