紀元前1168年頃のこと、後の時代の貴重な文献資料によれば、その日、流星が降ったとされる。
青い光を放つ、実に美しい一条の流星が墜ちたのは、大陸の内陸部にある名も無き小部族の集落、その近辺であった。
何が青く燃えていたのか、は定かならず。誰もそれを確認できた者はいなかったようだ。
星が墜ちた場所には大きな窪みが出来ていた。ある程度の深みを持つその場所は、数度の雨を経てより、清涼の水を湛える泉となった。泉の水は常に澄み渡り、他のどの水源よりも甘露であった。
星降りし夜のことである。一人の少女が夢を見た。彼女の名前はユミルと言い、穏やかで純朴な少女であった。
どうして彼女だったのか、それは誰にもわからなかった。だが、彼女は現に夢を見た。それは永い夢であった。
彼女はその日から、毎夜の如く夢を見た。夢の世界は眩しくも、儚く、素朴な世界観の中で生きてきた彼女にとって、余りにも刺激的だった。
夢を見ることが、彼女の日課になり、彼女だけに許された娯楽となった。いつしか、彼女にとって夜は恐ろしいものではなく、寧ろ一日の中で最も待ち望む時間になっていた。
彼女が夢を見続けているある日のこと、夢の中で一人の男と出会った。男は見たこともないほどに立派な体躯をしていて、何よりも美しかった。
ユミルは名乗った。それから彼女は彼に名前を聞いたが、彼は自分には名前がないと言う。どうして名前がないのか?と彼女が問えば、彼は自分の母親は口がきけないのだと教えてくれた。
ユミルは彼を不憫に思い、名前を付けてくれる人はいないのかと問うた。すると、彼は首を横に振り言う。
妻も、姉も、妹も、娘も、友も、誰も口がきけないのだ、と。
ユミルが彼女たちは言葉を知らないのかと問えば、彼は違うと言った。言葉を知らぬわけではないが、悪い人に舌を切られてしまったせいで、話すことが出来なくなったのだ、と。
それから、彼はこうも言った。
だから、自分が代わりに話すのだ、と。自分は彼女たちの舌の代わりなのだ、と。
ユミルは彼が自分の家族を深く愛しているのだと思い、彼に対してより強い好感を抱いた。
ユミルと彼はその日から、毎日のように夢の中で一緒になった。ユミルは彼の家族の事よりも、彼自身のことに興味があった。
ユミルは日頃無口な自分の振る舞いを忘れたように、夢の中、彼の前ではこの上なく饒舌だった。
ユミルは自分の事を話し、彼もまた家族と自分の話をした。
いつしか、ユミルは夢の中で暮らしているような、夢の中こそが本当に自分のいるべき世界だと想う様になっていった。
昼間、起きている間も、彼女は暇さえあれば夢の中のことを考えるようになっていた。彼女は、夢が醒めてしまうと、途端に彼の顔も何も思い出せなくなってしまうことを歯がゆく思っていた。
想いが募る。際限なく膨らんでいく気持ちに空恐ろしさを感じながら、彼女は変哲の無い日々に生きた。
夢の中の物語はあれからも続いていた。世界は目まぐるしく変わり、彼女が知らない世界の事を見せた。空を飛ぶものもあれば、馬よりも速いものもあった。世界が加速していく様に、ユミルは恐怖を覚えたが、彼女が怯えた様子を見せると、彼が自然と寄り添ってくれた。ユミルは彼との触れ合いに、他のものには代替しがたい喜びを見出していた。
夢を見始めてから一年がたつ頃のことだった。
その日の朝、ユミルは目覚めと共に焦燥に駆られた。夢を見なかったのだ。
それは次の日も、その次の日も同じだった。
夢が見れなくなってから、ユミルは不安に駆られた。彼に会えないことが例えようも無く苦しく、何とかしてこの苦しみから逃れたかった。
苦しみの中で、ユミルは最後に見た夢の内容を思い出していた。
最後に見た夢の中で、彼はユミルに別れを告げることはなかった。ただ、これから何かが始まることを告げていた。
ユミルはそのことを、新しい夢を見れるのだと解釈していたが、それが間違いであったことに狼狽していたのだ。
ユミルは彼の顔を思い出そうとしたが、どうしても思い出せなかった。ただ、ただ声だけが耳の奥で響いていた。
ユミルは深く息を吸うと、ゆっくりと吐き出した。そして、彼の声を信じることにした。
彼を信じ、ただ待つことに決めたのだ。
ユミルが待ち始めてから数日後のことだった、彼女は父親から集落に程近い場所にある泉から、作物を育てるための水を汲んでくるように言われたのだ。
彼女は器を携えて、泉に向かった。
泉の水は澄んでいた。ここまでの道のりは長くも無く短くも無く、とはいえ、この時のユミルは喉が渇いていた。
急速に渇きを訴える喉に従い、彼女は泉の淵に手をつき、跪き、気負いも無しに水面に顔を近づけた。
ぴたり、と彼女の動きが止まった。
水面に映る自分に見惚れたのだろうか?
否、水面の向こうに、思い出したくても思い出せない何かを見出したのだ。
水鏡の向こうに、その人の影を見つけた途端に、ユミルは陶然として水面を見つめた。
どれだけの間、そうしていただろう。彼の口元が動いた。
その動きは、僅かなものだったが、ユミルには、確かに名前を呼ばれているように思われたのである。
そして、ユミルは躊躇なく、その身を泉に躍らせた。
次にユミルが我に返ると、そこはまだ泉の淵であった。周囲を見渡せども、時間は僅かばかりも経っていないように思われた。
ユミルは思い出して、縋りつくように泉の淵に迫った。だが、水鏡に映るのは自分の顔ばかり。彼はどこにも居なかった。
彼女は落胆して、それから自分の喉が酷く渇いていることに気づいた。
そういえば、水を飲んでいなかった。
彼女はその思い付きのまま、再び泉の淵に跪き、両手で作った杯に、たっぷりと水を溜めた。
手の杯を水面から引き離した瞬間に、それは起こった。
ユミルの掬った水から、眩い光が、青い輝きが放たれたのである。
その輝きは神々しく、清清しく、この上なく美しかった。
辺りに拡散していた光は俄かにユミルの掌へと収斂していき、遂には目も開けられぬほどに眩いものになった。
ユミルは畏れを感じつつも、その水から発せられる薫香と、耐えがたい喉の渇き、そして輝きの美しさに目を焼かれて、掌中の水を溢すことは厭われた。
喉が渇いていた。酷く渇いていた。それは飢えにも勝り、彼女は恐る恐る、手の杯に口をつけた。
杯を傾けると、輝く泉の水が舌先に触れた。
蕩ける様な甘露が舌先からふわりと染みわたるや、多幸感が全身を貫いた。
水は光を携えて、玉のように一塊となってユミルの舌から喉を伝い、全身を駆け巡り、血と共に五臓六腑に溶け込んだ。
その味は血と混ざりあい、魂にまで刻まれた。
身体の奥深くで光が明滅し、計り知れない感動が沸き起こった。
ユミルは余りの出来事に呆然としていた。涙が頬を伝っていた。
涙を指先で掬うと、透明の滴は金砂のように眩い光を湛えており、それは呆けている間に、煮炊きの煙が天高く昇りほどけるように、軽やかに立ち消えてしまった。
また涙が伝った。そっと滴を掬い、之に目を凝らせば、今度こそ熱い涙の滴がついてきた。
とろりとしたそれは指先の熱を僅かに奪うと、後を追ってきた滴粒と合わさり、躊躇いもなく指の先から飛び降りた。
地の染みとなったそれを眼で追い、涙の顛末を見届けてから、ユミルはようやく我を取り戻した。
ふと周囲を見渡せば、日が傾いていた。ユミルは大急ぎで泉の水を器に掬うと、走って集落に帰った。
次の日から、この泉の水は急速に濁り、遂には枯れてしまったという。
ユミルが再び夢を見ることはなかったが、直に、彼女の世界は急速に動き出した。
ある日のこと、彼女の故郷が襲われた。
それは前触れも無く、唐突に始まり、唐突に終わった。
人が死に、家畜が死に、作物が死に、集落が死んだ。
ユミルの家族は皆殺され、彼女は奴隷として縄打たれた。
それらの出来事は全て、現実味の無いことだった。
暴力を振るわれたことも、酷い罵り言葉を掛けられたことも、ユミルには経験したことのない話だった。
実際に、この苛烈な扱いを受けてみて初めて、ユミルは強い恐怖と、同時に大きな喪失感を抱いた。
ぽっかりと空いた穴は、埋めることはできても、閉めて元通りにすることは叶わないだろう。それはわかりきっていたことだった。
ユミルは考えることが億劫になり、自然と無気力に色づいていく、そのように思われた。
エルディア人という好戦的な部族による侵略が、ユミルの村を焼き、家族を奪い、将来を閉ざした。
縄打たれたことは致命的な事に思われた。彼女は女になるよりも前に、母親になるよりも前に、彼女は奴隷となったのだから。
しかし、ある一つの出来事が、彼女の前途に微かながらも光を示した。
それは、彼女が奴隷となって間もない頃、舌を奪われた、正にその時の事だった。
エルディア人たちがどうして舌を奪ったのか。考えられるのは言霊と形容するべきか、言葉の持つ一種の呪術的な効力を恐れた結果なのかもしれない。彼らは掛け値なしの蛮族だったが、自分たちが与えた暴力が、誰にとっても苦痛であるという事は理解していた。
そして、復讐という行為は言葉が通じなくても共有されているということもまた、好戦的で諍いの絶えない部族であればこそ、他のどの部族よりも身に染みて理解していたのであろう。
結果、その原始的でスピリチュアルな動機に一元化されるかはさておき、何らかの必要性に駆られてユミルを含む奴隷たちの舌は切り取られたのである。
切り取られ、山と積まれた舌を見て、エルディア人たちは嘲笑をうかべていた。舌が無いので言葉が話せない奴隷たちは、舌を切り取られて血まみれの口をもどかしげに動かしていた。彼らは最早、話すことができない。彼らは鳴くばかり。
その姿を見て、エルディア人たちは口々に
大笑いするエルディア人たちの中から一人の戦士が進み出た。そのエルディア人は目聡くも、涙を流しながらも鳴き声を上げない少女に目を付けた。ユミルである。
エルディア人は面白いことを思いついたのか、卑しい笑みを浮かべながら言った。
「お前たちに舌を返してやる。自分の物を持って行け」
すると、並み居る奴隷たちが狼狽するばかりなのに対して、ユミルは迷いなく、一路、こぶりな、ピンク色の舌を拾うと、しっかりとした足取りで自分の元居た場所へと戻った。
エルディア人は、まるで頭よりも先に身体が動いたかのような、自然に過ぎる不自然なユミルの振る舞いを気味悪がった。
だが、言い出しっぺのエルディア人はこれを面白がり、ユミルの元まで大股で歩いていくと、その手から血だらけの舌を奪い、これに穴を開けて革紐を通すと、彼女の首からぶら下げた。
エルディア人は言った。
「見ろ、大した奴だ、こいつは舌ナシだ、これで一目で分かるだろう」
エルディア人たちは合点がいったのか、各々が捕まえた奴隷に駆け寄ると、同じように首から切り取られた舌をぶら下げた。
彼らは一目で奴隷だと分かるように、辱めることしか考えていなかったようである。
だが、結果としてこの采配は歴史を分けることになる。
首から舌を下げた一団が、縄打たれたままエルディア人の集落までの道のりを進んだ。
集落までの道程で、ユミル以外の全ての奴隷の舌は腐り、干からび、あっという間に朽ちてしまったが、ただユミルの舌だけは、青く、硬く、頑なに、輝きさえ宿して貴石の如く変質していた。ユミルはこの舌で出来た石を掌の中に握り込み、細心の注意を払いながら毎夜を過ごした。
果たして、ユミルの舌は奪われることなく、寧ろ不吉なものとして忌避されながら、無事にエルディア人の集落へと辿り着いたのだった。
エルディア人の集落に着いてから、ユミルは奴隷として酷使された。
彼女は言われるがままに働いた。辛くないことなどなかったが、彼女は絶望を覚えなかった。なぜならば、彼女の元に再び彼が現れたからだ。夢の続きが始まった。
彼女は集落に就いたその日の晩から、一日と欠かさずに夢を見続けた。
夢は一つ一つが独立しているのではなく、全ては繋がっていた。夢は長い長い記憶のように、彼女の知らないもの見たことのないものを見せたが、やはりそこには彼の姿があった。
夢の中で、彼とユミルの関係は、目に見えて一歩前進していた。
ユミルが彼と呼ぶそれは、時に彼女に手を引かれ、時に彼女の手を引いた。彼はユミルの隣にあり、夢の中でただ一つ、決して変わらぬものだった。
未だユミルは彼の名を知ることができていなかったが、それでもユミルは彼のことを何よりも、夢の中で目にする他の何よりも好んでいた。美しい景色も、見事な調も、便利な暮らしも、彼の前では全てが物足りなく思われた。
夢の内容は目まぐるしく変わったが、ユミルと彼の、夢の中での暮らしは変わらなかった。
狩り、育て、集め、ただ生きた。夢の中は余りにも自由だった。ユミルは彼さえいれば他の事はどうでもよいと考えるようになっていた。それが何より楽しく、幸せな事だった。
現実においても、その影響は顕著だった。
ユミルは奴隷として暮らしながら、奴隷として生きているわけではなかった、彼女は奴隷である前に、彼の母であり、彼の姉であり、彼の妻であった。と同時に、彼の娘であり、彼の妹であり、彼の友でもあったのだ。
ある日のこと、夜の闇を切り裂いて眩い光が流れた。流星だ。紅い光だった。光は輝く尾を引きながら、エルディア人の集落にほど近い森に堕ちた。
次の日、エルディア人の首長は奴隷たちを一か所に集めると、これに命じた。
「森に行き、何があったのか確かめて来い」と。
見張りの戦士に伴われて、奴隷たちは森へ向かった。その中にはユミルの姿もあった。
森は酷い有様だった。焼け焦げた臭いが充満していた。森の奥で紅い光が明滅していた。
それを見た奴隷たちは慄いて後ずさったが、槍を突きつけられて一人、また一人と紅い光の方へと向かって行った。
牛歩の歩みで近づいていくと、紅い光は炭化した巨木の根元にぽっかりと口を開けた
見張りの戦士は奴隷の中から一人を選ぶと、これを巨木の方に押しやった。奴隷は足を広げて踏ん張ったが、槍で小突かれて腰が砕けてしまった。それを見逃さずに、戦士は二人掛で奴隷を虚に突き落とした。
ぽっかりと空いた大穴に奴隷が落ちていった。
奴隷の悲鳴が響くが、それも直ぐに聞こえなくなった。
また一人、突き落とされた。また静かになった。
また一人、また一人と続き、遂にユミルの番がやってきた。
ユミルは不思議と恐ろしくなかった。怯えることもなく、ユミルは虚の前に立ち、その時を待った。
だが、ユミルの背中を押そうとやってきた戦士が何かに気がついた。戦士が言った。
「マラーノ、お前、何を持っている?」
戦士が目敏く見つけたのは、ユミルの胸元で輝く黒い石のようなものだった。
それはユミルの舌だったものだ。だが、もう既に、それが切り取られた舌であったことなど誰一人として覚えている者はいなかった。
それは、世に二つとない貴石のように思われた。高貴な青黒い輝きを放ちながら、ユミルの胸元で揺れていた。
それに価値を見出した戦士は、口元を歪めて宣った。
「お前はどうせ死ぬのだから、そんなものは置いていけ。お前のような奴隷には勿体無い。俺が貰ってやろう。さぁ、寄越せ」
戦士の臭い腕が無遠慮に伸びた。脂で汚れた指先が黒い石に触れる寸前で、ユミルは駆け出した。何かに突き動かされる様に、息をすることも忘れて走り出した。
それだけは受け入れられない。
身体が拒絶したのだ。
貧相な食事と劣悪な寝床に押し込められて暮らしていながら、一体どこにそんな活力があったと言うのか。ユミルは身体を浮かせるように疾駆した。
戦士は叫ぶ。
「あいつを
戦士の声を聞きつけて、弓持ちの戦士が矢をつがえ、ユミルに向けて引き絞った。
ユミルは振り返らなかった。
息をするのも忘れて駆けた。
巨木の根元の虚を見据えて。
戦士は目を眇め、その先にユミルの背中を捉えると、さしたる感慨もなく、矢を留めていた指先から力を抜いた。
解き放たれた矢は獰猛に、身をくねらせながら空を裂き、蛇が泳ぐように突き進んだ。
風を切る音が近づく。
ユミルにはなす術もなかった。
そして、矢は喰らいついたのだ。
血をたっぷり纏った矢尻が、ユミルの胸を貫いて、鈍く光る顔を覗かせていた。
ユミルの身体から力が抜け落ちていく。
嗚呼、膝が笑い、今にも屈しようとしていた。
それを見逃すはずも無く、戦士が叫んだ。
「いまだ、捕まえろ!」
不埒が駆ける。下品な足音が無情にも近づいてくる。
だが、ユミルの方が早かった。
何もかもが薄暗く、冷たく、静かに褪せていく中で、ユミルはその身を巨木の虚に投じた。
底から這い上がるように紅い光の筋が、幾つも伸びた。
恰もユミルに手を伸ばし、その身を受け止めるように。
底から昇る紅い光に受け止められながら、暗闇の中で、虚の淵の形に丸く縁取られた青空を見上げたユミルは、石を握る手から力を抜いた。
青天の睥睨さえ歯牙にもかけず、ユミルは夢の中の彼に憶いを致せば、五体は誰が為に裂け、華奢な身体は紅の澱みへと降る。
矢尻より注がれし碧血が胸元の舌に融けるや、黒石は、いよいよ激しく、蒼く燃え、馥郁を纏いながら一抱え程もする幼い化身へと変化を遂げた。
やがてユミルは底に辿り着き、紅い光の源に触れたのである。
次の日、ユミルはエルディア人の集落に戻った。ユミルが穴に落ちてから丸々一晩が経っていた。
ユミルが穴に落ちてから、紅い光は綺麗さっぱり消えてしまい、これを見た戦士たちは奴隷を連れて集落に帰っていたのだ。
ユミルは一人で虚のあった森からの帰還を果たしたのである。
なぜユミルが戻ったのかは誰にもわからなかったが、帰ってきたのをいいことに、戦士達はユミルが持つ黒石を彼女に求めた。
だが、ユミルは黒石を持っておらず、代わりに、その腕の中に赤子を抱いていた。
黒髪に青い瞳を持つ、自身には似ても似つかぬ赤子を抱いて、彼女は帰ってきたのである。
黒石を失くし、引き換えに海のものとも山のものとも知れぬ赤子を持ち帰ったユミルに対して、エルディア人たちは不愉快を覚えていた。
奴隷の分際で、何の役にも立たない赤子を持ち帰った彼女の振る舞いは、彼らにとっては傲慢そのものに映った。
傲慢には懲罰が必要である。そう言い出したのは、矢を射かけるように言った戦士だった。
戦士はユミルの腕から乱暴に赤子を奪い取ると、これを豚を飼っている柵の中に放り込んだ。
お包みもない裸の赤子が、頭から糞と泥の中に沈んだ。
「お前が拾ってきた赤子は豚の餌にする」
戦士は笑いながら言った。
戦士が言い終わる前に、ユミルは血相を変えて駆け出した。
そして、豚の柵を跨ぎ、その中に入ると、汚れることも厭わずに糞と泥の中から赤子を抱き上げた。
周囲から掛けられる罵声もどこ吹く風、ユミルの目には赤子しか映っていなかった。
「そういえば、お前は舌なしだったな」
緘黙を保つユミルに対して、別のエルディア人が言った。爆笑。しかし、ユミルの表情に変化は見られない。
ユミルは赤子を抱きしめて、怒りも悲しみも浮かべぬ無表情のまま、柵の外に出た。
それから、彼女は気負いのない足取りで水場に行くと、エルディア人の飲み水を使って赤子の汚れを落とし始めた。
「何をしている!それは俺達の飲み水だぞ!」
エルディア人達は呆気にとられたが、直様怒りを露わにした。
「自分の身分を弁えさせてやる!覚悟しろ!」
顔を紅潮させ、拳を振り上げた戦士が何事か詰問しながらユミルに迫る。
が、戦士の拳が振り抜かれることはなかった。
ユミルが一瞥すると、見上げるほど大きな、巨人が突如として現れたからだった。
太陽を隠してしまうほどの巨体に、戦士は顔色を失い、呆けて腰を抜かした。
それは他のエルディア人達も、奴隷達も同じだった。彼らは皆一様に恐れ慄き、中には祈り出す者も現れた。
彼らの劇的な反応にも関わらず、巨人…ユミルは一瞥の後、手元に意識を振り戻した。巨人の指先だと言うのに、彼女は器用に、実に巧みに赤子を洗ってやっていた。
汚れが落ちてすっかり綺麗になると、ユミルは元の人の大きさに戻り、今度は自分の身体を潔め、それから再び巨人になると、近くにあったエルディア人の家の屋根を、鍋の蓋を持ち上げるように軽々と引き剥がして、中から手頃な服を取り出した。
巨人になる時にも、人の姿に戻る時にも莫大な煙が発生した。再び煙が起こり、中から綺麗な服に着替えたユミルが現れた。
誰のことも見ていない。誰の声も聞いていない。
彼女の視線の先には赤子のみ。彼女の耳に届くのは喃語のみ。
ふと、視線を上げれば、エルディア人もその奴隷も、皆等しく跪き、震えながら平伏していた。
ユミルは首を傾げた。
彼女が疑問を拵えていると、誰もが平伏する中でただ一人、二本の足で立つ者がいた。
エルディア人の首長である。
首長は恐らくフリッツと言ったか。
フリッツは感心したように頷き、それからこう言った。
「我が奴隷ユミル。よく戻った。お前の力は素晴らしい」
「褒美に我の子種をくれてやる」
フリッツ王の声を聞いてか、顔を上げたユミルは何かに驚いたように瞬きをした。それから徐に服をたくし上げ、乳房を晒した。まだ稚い少女の乳房は、遠目に見てもわかるほどに張っていた。
フリッツは清々しいまでに堂々たる足取りで、ユミルの方へと歩を進めた。
フリッツが近づいて来る。
しかし、ユミルはそれどころではなかった。
彼女は初めての経験に狼狽しながらも、本能に導かれるまま、赤子の唇に乳首を差し出した。
すると、それまで糞と泥の中に投げ出されようと泣き声一つ上げなかった赤子が、初めて声を上げた。むずがるような、か細く、甘えた声だった。
ユミルは息を呑み、風に舞う羽毛を受け止めるような優しい手つきで、赤子の重たげな頭を支えて、そっと子の唇の隙間に乳首を滑り込ませた。
赤子が目を見開いた。味に驚いたらしい。短い手足をジタバタさせて、しきりに瞬きをした。慣れて来ると、歯の生えていない口を懸命に動かして乳を吸い始めた。
赤ん坊とは不思議なもので、母親の乳房を傷つけずに乳を吸う方法というものを、大抵は生まれながらにして体得しているのだった。この子もそうであるらしい。
赤子の頬は膨らんで、血の気が通って赤く火照っていた。目を輝かせて必死に乳を吸う姿を、ユミルはただただ見守っていた。彼女の顔は穏やかだった。凪の中にありながら、それ決して平静ではなく、寧ろ今にも決壊しそうな、満々たる無量の感動の上にあることは明らかであった。
ユミルは溢れる思いに任せて撫でてしまわないように、あくまでも赤子の食事の邪魔にならぬ程度、互いの温度が慎ましく交じり合うような距離感で、彼の頭を撫でた。
何度も。何度も撫でていた。
それから、どれだけの時間が流れただろう。
ほんの少しにも思われるし、とても長くも感じられた。
目の前には、フリッツが立っていた。不愉快を顔に貼り付けた、醜悪な面持ちをしていた。
それは人間と言うよりも豚に造形が似通っているように思われた。ふてぶてしく、だらしない、粗忽な素性が灰汁のように容貌に隠されることなく浮かんでいた。
ユミルは男と言うものは彼が美し過ぎるのであって、他と比べることは余りにも気の毒であることを理解していたが、どんなに言葉を尽くして擁護しようとも、これほど同じ生き物であることが許し難い生き物が存在していることに驚愕を禁じ得なかった。
彼と共に夢の中で体験した如何なる物と比べても、目の前の気色の悪い、得体の知れない、不道徳な、野蛮な、およそその生存が倫理に悖るような存在というものは、類を見ないものだった。
また、彼女はその腐臭にも似た穢らわしさに強い嫌悪を感じずにはいられず、思わず赤子の事を、彼奴の甚だ愚劣かつ卑猥な視線から遮り隠す為に抱き直した程である。
フリッツは言った。
「ここまでコケにされたのは初めてだ。お前には失望した」
そう言うと、フリッツは兵士に槍を構えさせた。
ユミルは赤子を撫でながら、また何かを思い出したように顔を上げた。
フリッツは見下げ果てた気配を満面に張り付かせて言った。
「どうした、気が変わったか?これが最後の機会だぞ」
ユミルの視線はフリッツの足元に向かっていた。フリッツは鼻を鳴らして言った。
「早くしろ、我を待たせるな」
ユミルは得心したように一つ頷くと、赤子を抱いたままフリッツの前まで進み出てその場に跪いた。
ユミルが跪いたのを認めてから、フリッツはため息を吐きながら言った。
「我が奴隷ユミルよ、お前の力に免じて無礼は許してやろう。だが、その赤子は捨てよ。代わりに、喜べ、お前には我の子を産ませてやる」
その声に対して、ユミルはまた一つ頷くと、意気込むように鼻息を吐き、跪いた姿勢でフリッツの足元に敷かれた立派な毛皮の上に赤子を横たえた。赤子はいつの間にか寝息を立てていた。頼りない呼吸の音が響く。ユミルはぴたりと動きを止めると、赤子の寝顔を飽きもせずに見つめた。
静寂。
そして、しじまを破る大音声が響いた。フリッツの声だった。
「いい加減にしろ!どこまで我を愚弄する!」
大気を震わせるような声が響いたが、ユミルは微動だにしなかった。
だが、
まるで石に亀裂が走ったように、赤子の顔が悩ましげに歪むと、次の瞬間には喉が裂けるほどの勢いで泣き出したのである。
ユミルは体を跳ね上げるように抱き上げると、赤子をあやしだした。
だが、泣き止まない。何をしても泣き止まない。どう足掻いても泣き止まなかった。
赤子が泣き出してからしばらくの時が経つが、いつまで経っても泣き止む気配がなかった。
その間にも、フリッツは何事かを捲し立てていたが、ユミルの耳には何一つ届いていないように思われた。
ユミルは凡ゆる手を尽くしたが、それでも赤子が泣き止まないのを理解すると、原因は他にあることに思い至った。
そして、今の今まで浮かべていた、穏やかであどけない表情を何処かへと追い遣ると、顔を上げ、何かを探すように周囲を見回した。
そうして『原因』を見つけたのである。
ユミルは赤子の頭を胸に抱き寄せると、浮かぶように立ち上がるや、蓋し自然な足取りで歩み寄り、一瞬、光と煙を纏ったかと思えば、小ぶりな巨人に変身し、すれ違いざま、軽妙極まる動作を以て、フリッツの頸を蹴り飛ばした。
重厚な、恰も象のような爪先が、低い風鳴りを率いながら、フリッツの顎先に吸い込まれた。
硬質で鋭利な足爪が刃の役割を担い、頸が刎ね飛ばされたのだ。
ポーンッ!と剽げた音がした。
フリッツの頸は高く高く弓形に跳び、柵の内側、糞と泥の中に落ちた。
豚がピギーッ!と鳴いて、押し合い圧し合い群がった。
フリッツの頸はあっという間に喰い尽くされた。
そこには何も無かったのだ。