二人が体育館へ向かって廊下を歩いていると、
静まり返った校舎には不釣り合いなほど――
体育館の方から柔らかな灯りと、規則的な物音が聞こえてきた。
「……どなたか、いらっしゃるのでしょうか?」
ミネが足を止め、そっと体育館の中に視線を向ける。
中を覗いたミネは、ほんのわずかに目を見開いた。
そこでは――
体操服姿のハスミの姿があった。
トレーニングをし終わったようで、タオルで額を拭っているところだった。
そのタイミングで、ハスミはこちらに気づく。
「あら、ミネ団長。お疲れ様です。」
静かな声が体育館に響く。
そしてすぐ、ミネの横に立つ小柄な影――ナイトへ視線を向けた。
「……と、そちらの方は?」
ほんのわずかに眉を下げ、警戒ではなく“状況把握”のための目つきになる。
ハスミらしい落ち着いた反応だった。
「お疲れ様です、ハスミさん。こちらの方はナイトさんといいます。実は...」
ミネはハスミに事情を話し始めた。
説明の途中で少し「え?」となったが案外スルスルと話は進んだ。
「……と、いうわけなんです。」
「なるほど。状況は把握しました。」
ハスミはタオルでもう一度額を拭う。
「私の方もちょうど区切りがついたところです。好きに使っていただいて構いませんよ。」
「感謝する、ハスミ殿。」
ナイトは深く礼をすると、ゆっくりと体育館の中央へ歩み出た。
マントを軽く払って姿勢を整えると、鞘に手を添える。
「まずは……」
カシャン、と金属音を響かせ、剣を抜き放つ。
剣が引き抜かれていくほど、刀身が眩い金色の光を帯び体育館の壁が淡く照らされていく。
「ナイトさん、こちらをお使いください。」
ミネは体育館の倉庫から古びた射撃練習用の的を引っ張り出し、ナイトの前に置いた。
「ミネ殿、感謝する。……よし。」
ナイトは剣を軽く構え、そのまま一度静かに振り下ろした。
――だが、一振りを終えたその直後、表情が一瞬で歪む。
「……っ!?」
まるで何かが体内に押し寄せてくるような、強烈な違和感。
意識が揺らぎ、ナイトの身体が前へ崩れ落ちる。
それを見てミネがすぐに駆け寄り、ナイトの体を支えて抱き起こす。
「大丈夫ですか!? やはり傷がまだ!?」
「いや……身体に問題は無い。だが……」
呼吸を整えようとしながら、ナイトは眉をしかめた。
「……何かが、私の中に流れ込んでくるような感覚が……」
「何かが……流れ込んで…くる……?」
ミネは思わず息を呑む。
ハスミも、普段ほとんど崩さない表情をわずかに曇らせた。
「ああ……この剣から、何かが……私の中に……」
呼吸を荒げながらも、ナイトはふらつく足で立ち上がる。
そして迷いなく、再び剣を構えた。
「い、行けません! 傷が本当に治ったのかも分からない状態で……!」
ミネが思わず声を上げる。
だが――
「すまない。……だが、思い出せそうなのだ。大切な……何かを……!」
その目に宿る強い決意。
仮面から覗くその目は、先生の目にそっくりだった。
覚悟を決めた目に。
いつもなら怪我人を絶対に止める彼女自身の判断が揺らいでいるのを自覚した。
ミネは、思わず息を呑む。
ナイトはゆっくりと息を吸い、体勢を整える。
そして――
「はぁッ!」
剣が金色の軌跡を描く。
その瞬間、再びナイトの体へ強烈な“何か”が流れ込む。
「ぐっ……!」
膝がわずかに折れかけるが、今度は倒れない。
「まだだ……まだ……!」
再び、振り下ろす。
二度、三度、四度――
剣を振る度に、金色の光が強まり、
同時にナイトの体へと正体不明の“力”が流れ込んでくる。
その光景は、まるで欠け落ちた記憶の破片を、力ずくでかき集めているかのようだった。
「ミネ団長! 止めなくても良いのですか!?」
激しい光と衝撃の音に気づいたハスミが、ミネのもとへ駆け寄る。
いつものミネを知る彼女からすれば、倒れかけているナイトを救護しない理由が理解できなかった。
ミネは唇をかすかに震わせ、しかし視線だけはナイトから外さず答えた。
「……本来なら、すぐにでも止めるべきです。ですが……私にも説明できません…。
"止めたらいけない"と、身体が言っているような感覚なのです…。」
その言葉は震えていたが、
その瞳はただまっすぐにナイトを見つめていた。
ハスミは困惑しながらも、ミネの異様な“確信”に言葉を失う。
――そして数分が経った。
素振りを終えた瞬間、ナイトの身体から力が抜け、膝(?)をついて崩れ落ちる。
「ナイトさん!!」
心配をするミネをナイトは手をこちらに向け静止を促した。
「はぁ…はぁ…。ミネ殿……。なんとなくだが……自分のことがわかってきた気がする……」
荒い呼吸の合間に、絞り出すような声。
その時――
ナイトの背中のマントが、
まるで生き物のようにうねり、形を変え始めた。
「……ッ!?」
次の瞬間には、背中からは黒い翼が左右に広がっていた。
それは、ナギサやミネ、ハスミのような羽根とも異なる――
まるでゲヘナの風紀委員長のような、悪魔を思わせる翼だった。
ナイト自身もそれを見つめ、呟く。
「これも……確か、私の力だった気がする……」
そして翼を広げた瞬間、ナイトの身体がふわりと浮かび――
刹那、体育館を風が切り裂いた。
「は、速い……!」
ミネもハスミも、その動きを目で追うだけで精一杯だった。
(この速度……この軌道……!)
急旋回を挟み、ナイトは一直線に射撃用の的へ突き進む。
青色の閃光が走り――
ナイトが着地した時には、標的は細かく切り刻まれ静かに床へ崩れ落ちていた。
次の瞬間――
剣を握る手から、温かい何かが脳内へ流れ込んだ。
「……ッ、は……ッ!」
翼をたたみながら、ナイトは胸を押さえる。
数多の影。
誰かの笑い声。
黒い霧のような何か。
そして手を差し伸べてくれる仲間達。
(……これは……)
それらは確かに自分の記憶のはずだった。
だが、どれも輪郭がぼやけたまま掴めない。
苦しさではない。
むしろ胸の奥がじんわりと温まるような、懐かしい感覚だった。
記憶にかかっていた霧が、ほんの一瞬だけ晴れかけ――
すぐまた厚く覆い隠してしまう。
ナイトは静かに息を吐いた。
「……少しだけ……近づいた気がするな……」
自分が何者で、何を失い、何を取り戻すべきなのか。
その答えは――
まだ霧の向こうだった。
金色の余韻だけが空気に残り、体育館は再び静けさを取り戻す。
途端に、翼がマントの形に戻り、ナイトの身体がふらりと揺れた。
「危ない!」
ミネが駆け寄り、倒れ込むのをギリギリで支える。
「……ま、まだ……あと少し……!」
ナイトは弱々しくも前に出ようとする。
しかしミネは首を横に振った。
その目は、治療者としての強い意志を宿している。
「流石に、これ以上は看過できません。この状態で続けるのは危険です。……今日のところはお休みください。」
抵抗するようにナイトは肩を揺らすが、足はすでに力が入らず、言葉に反して身体は明らかに限界だった。
ミネはそのままナイトの体を抱え上げる。
その体は傷はないが先程のようにぐったりしていた。
「ハスミさん、申し訳ありません。私たちはこれで失礼します。」
「は、はい……お気をつけて……」
ハスミは、体育館に残された金色の余韻と、切り裂かれた標的を呆然と見つめる。
今見た光景が現実かどうかすら、すぐには判断できなかった。
ナイトとミネの背中は、雨音を遠くに聞きながら静かに体育館を後にした。
その頃、本校舎では……。
(さて、後片付けも終わりましたし……。一度、体育館の様子を見に行きましょうか。)
お茶会の片付けを終えたナギサは、静かな廊下を体育館に向け歩き始めた。
その足取りはいつも通り落ち着いていて、特に急ぐ様子もない。
しかしその背後では――
“黒い霧”が、床を這うようにしてゆっくりと距離を詰めていた。