ミレニアム自治区を抜けてから、すでに数十分が経っていた。
線路沿いに延びる長い道を、車は言葉少なに走り続けている。
いつもは何台も車や戦車が通るであろうこの道も、今はこの車だけだった。
風を切る音と、遠くで鳴る金属音だけが耳に残る。
「連絡はできたかい?」
「ん。問題ない」
短く答えながら、シロコは画面を閉じる。
その時になって初めて、通知欄が異常な数で埋め尽くされていたことに気づいた。
何百件もの未読メッセージ。
そのほとんどが、アビドスの皆からのものだった。
心配する言葉。
無事かという問い。
そして、どこにいるのかという連絡。
シロコは一つ一つ目を通しながら、必要な情報だけを簡潔に返していく。
自分は無事だということ。
敵の正体がダークマターという生物であること。
皆にしてほしいこと。
そして、今自分がすべきこと。
幸い――
アビドス自治区には、今のところダークマターの襲来は確認されていない。
そう、
「アビドス自治区」には。
リオの読みは、どうやら当たっているようだった。
トリニティではすでにダークマターの襲撃が始まっている。
ナギサやミカはいないが、以前一度交戦した経験があるためか、何とか持ちこたえているようだった。
――だが、ゲヘナとの接点があまりない二人には、ゲヘナと直接連絡を取る術がなかった。
持っている連絡先を辿っても、反応はない。
呼び出し音すら鳴らず、未応答の表示だけが残る。
情報がない。
それが、何よりも不安だった。
混沌を地で行く自治区。
戦力だけを見れば申し分はないが、平時ですら統率が取れているとは言い難い。
もし本当にダークマターの襲撃を受けているのだとしたら――
被害が拡大していても、何ひとつ不思議ではなかった。
あの自治区全域がダークマターの手中に収まった場合、他の自治区に及ぶ影響は測れないだろう。
さらに問題なのは距離だ。
ミレニアムからゲヘナまでは決して近くはない。
今から全力で向かったとしても、間に合う保証はどこにもない。
シロコは、スマホを強く握りしめる。
ゲヘナ生で、確実に顔と名前が一致する人物。
その連絡先を持っている相手はヒナしかいなかった。
(……出ない)
発信音は短く途切れ、通話は成立しない。
ニュースでは、先生以外の生徒が行方不明になったという報道は出ていない。
だが、それが「無事」を意味するとは限らなかった。
(多分……先生と一緒に、シャーレにいた)
セイアの友人たちと同じように。あの日、あの場所に居合わせていたのだとすれば――
「……ん?」
そこで、シロコの中で小さな何かが引っかかった。
アビドス高校に傭兵を引き連れて攻め込んできた時。
そして、アビドス自治区でゲヘナの風紀委員と戦った時。
(あ……)
シロコは思い出したようにスマホを操作し、ブラウザを立ち上げる。
(名前は、確か……)
曖昧な記憶を手繰り寄せながら文字を打ち込み、検索ボタンを押す。
一瞬の読み込みの後、画面に表示された文字を見て、目を細めた。
(あった)
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窓のブラインドの隙間から差し込む光が、机の上に積まれた書類を照らしていた。
その一番上にあるのは、嫌になるほど現実的な文字。
「今月の家賃のお知らせ」
「はぁ……」
深いため息を吐いたのは、一人の少女。
(最近、本当に仕事の依頼が来ないわね……)
少し前までは、公園の草むしりだの、迷子の猫探しだの。
アウトローとは程遠い内容ではあったが、それでも細々と依頼は入っていた。
だが、それすら今はない。
ブラインドに指をかけ、外を見る。
先日まで積もっていた雪はすっかり溶け、窓の外には、何事もなかったかのような日常の風景が広がっていた。
――先生がいなくなった。
そのニュースを見た瞬間、ハルカはショックで倒れてしまった。
今はカヨコとムツキが隣の部屋で付き添っているが、まだ目は覚ましていない。
部屋の中に、重い沈黙が落ちる。
静かすぎる午後だった。
――その静寂を切り裂くように、甲高い音が鳴り響いた。
お気に入りの黒電話。
そのベルの音だった。
音が耳に届いた瞬間、その少女は椅子を蹴るように立ち上がり、
まるで半額になった総菜を取るような勢いで振り向いて受話器を掴み取る。
(やっと依頼が来たわー!!!!!)
「はい。便利屋68、陸八魔です」
いつもの決まり文句と共に、弾む声で受話器を耳に当てる。
『ん。繋がってよかった』
だが、返ってきたのは、どこか聞き覚えのある、落ち着いた声だった。
「あら?」
アルは一瞬だけ言葉を失い、首を傾げる。
「その声……確か、アビドスの?」
『ん。そう。砂狼シロコ』
思いがけない相手で、アルは思わず頭の上に「?」が浮かぶ。
「何かあったのかしら?依頼という事なら歓迎するけど…」
『ん。便利屋って、今どこにいる?』
突拍子もない質問に、肩透かしをくらったような気分になる。
「い、今? 今ならゲヘナにいるけど……」
『本当!?』
受話器越しに、耳が痛くなるほど大きな声が響いた。
思わず顔をしかめつつも、平静を装う。
「え、ええ……そうだけど……?」
『実は……』
シロコは、必要なことだけを簡潔に話し始めた。
だが、彼女の口から語られる内容は、どれも荒唐無稽なものばかりだった。
他の星から来た存在の話。
正体不明の生物が、先生をさらったという話。
まともに信じろと言われても、簡単には受け入れられない内容。
それでも、話の一つ一つが妙に噛み合っており、完全な嘘だと切り捨てることもできなかった。
『……ってことなの。』
正直驚きすぎて返す言葉が無かった。
『ゲヘナの校舎の様子って今わかる?空に黒い球体みたいなのって浮かんでない?』
「球体…?」
窓を開き外の様子を見る。
奮発して高層階に構えたおかげで遠目にゲヘナの校舎が見える。
だが、校舎はいつも通りというか特段変化は無いようだった。
「見た限りではいつもと変わらないけど…」
『ん。良かった。』
『でも、さっき伝えた奴らがいつ現れるかわからない。だからアル、ゲヘナ学園に行って、さっき話した事を伝えてくれないかな』
「ええっ!?」
アルは思わず声を荒げる。
「つ、伝えるって言ったって……私たち、学園に指名手配されてるのよ!?」
電話口の向こうで、シロコは一拍置いた。
『ん。でも、今頼めるのは便利屋しかいない。』
その一言が、胸に突き刺さる。
ぐさり、と。
冗談でも比喩でもなく、本当に何かが刺さった気がした。
――でも、無理なものは無理だ。
そもそも、相手からしてみれば自分たちの言葉なんて信用できるはずがない。
『このままじゃ、各校が孤立して敵の思うつぼ。先生を助けるどころじゃなくなる』
再び何かが刺さる。
アルの中で、理屈が感情を押し始める。
『先生を助けるために……力を貸して』
その瞬間だった。
アルの中で、何かが音を立てて折れた。
電話の音が鳴っている。
依頼だろうか。
……いや、どうせ大家からの家賃の催促か営業の電話だ。
たとえ依頼だったとしても、今は動く気になれない。
「ハルカちゃん……なかなか起きないねぇ……」
ベッドに横たわるハルカは、うなされるように小さく身じろぎするだけで、目を覚まさない。
普段なら、少し休めばすぐに立ち上がる子だ。
それが、今日はずっとこのまま。
傍らにいるムツキも、いつもの調子ではなく、どこか元気が抜け落ちているようだった。
ハルカの額に浮かんだ汗を、ハンカチでそっと拭った。
だが、すぐにまた汗が滲んでくる。
(……無理もないか)
自分だって、まだ心の整理はついていない。
ムツキもきっと同じだろう。
社長――アルは、いつも通りの調子で振る舞ってはいる。
けれど、ニュースを見た時のあの慌てぶり。
今の社長はきっと、平静を装っているだけだ。
静かな部屋の中で、時計の針の音だけがやけに大きく響いていた。
「ちょ……ちょっと、いいかしら……?」
規則正しく刻まれていた時計の音に割り込むように、ドアがゆっくりと開いた。
「社長?」
アルは眠っているハルカを起こさないよう、足音を殺して部屋に入ってくる。
「……実は、さっき電話があったのだけれど…」
そう前置きしてから、アルは、先ほどシロコから伝えられた内容を簡潔に話した。
正体不明の敵、各校で起きている異変、そして――先生のこと。
「へー…アビドスの子がねぇ…」
「……それ、本当の話?」
よく詐欺まがいの仕事に騙されることがあるので、カヨコは半分呆れたような感じで返す。
「…私も最初は信じられなかったのだけど…なんか妙に話が嚙み合ってるし…あの切羽詰まった様子、何か嘘は付いていないように感じたのよね……」
「「……」」
短い沈黙が、部屋に落ちる。
「……で?」
低く問いかけたのは、カヨコだった。
「私たちは、どうすればいーい?」
ムツキも続いて視線を向ける。
アルは一瞬だけ言葉に詰まり、視線を伏せたあと、ぽつりと口を開いた。
「できるだけ、ゲヘナの上層部に直接連絡を取りたいの。でも……」
言葉を選ぶように、一拍。
「マコトに連絡したところでで、まともに話が伝わるかどうか……」
相手からすれば、突拍子もない話だろう。
ダークマターだの、各校同時襲撃だの、それと先生の失踪の関係だの――
信じろという方が無理な話だ。
カヨコは黙ったままスマホを取り出す。
モモトークの一覧を、下へ、下へとスワイプしていく。
最後に表示された、いつ連絡を取ったのかも思い出せない名前。
その名前を見つめたまま、カヨコは大きくため息を吐いた。
(……まぁ…アレよりかはマシか…)
正直、気は進まない。
あの件以来、話すのは久々だ。
胸の奥に、嫌な予感がじわりと広がっていくのを感じながら、カヨコは指を画面の上に置いた。